これも嘘。
定期検診の日は、いつも少しだけ憂鬱だ。
あの無機質な医療区画の冷たい空気と消毒液の匂いは、二年経っても慣れるものではない。首のソケットに太いケーブルを繋がれて検査台に寝かされている間、俺は天井のシミを数えながら、早く終わらないかなと内心でぼやく。
(……あのシミ、前回来た時よりちょっと広がってないか? 天井にもメンテナンスが必要なんじゃないか、この医療区画)
しょうもないことを考えている間に、検査は終了した。
担当の軍医、ヘンドリクスという名の初老の男が、モニターに表示されたデータを見つめている。白衣の下に軍服を着込んだ、無愛想だが腕は確かな医者だ。以前、定期検診でS105の隣に座っていた頃から、この男には何度か診てもらっている。
S105がいなくなった後も、検診のたびに顔を合わせるうちに、少しだけ言葉を交わすようになった。生体ユニットに対して事務的でありながらも、どこか人間扱いしてくれる数少ない軍人の一人だ。
「……U222」
ヘンドリクスが、モニターから視線を外さないまま、低い声で呼んだ。
「はい」
「正直に聞く。最近、手足の感覚が一時的に消失する症状はあるか」
(……バレてんのかな)
俺は一瞬だけ考え、それから正直に頷いた。この男の前で嘘をついても仕方がない。データに全部出ているだろうから。
「……はい。右手の指先を中心に。数秒で戻りますが、頻度は増えています」
ヘンドリクスはペンを手に取り、何かをメモした。それからモニターの数値を指差しながら、淡々と告げた。
「神経伝達系統の劣化が、前回の検診時から有意に進行している。現時点で稼働に支障はないが、このペースで出撃を続ければ、そう遠くない将来に限界を迎えるだろう」
「……どのくらいですか」
「断定はできない。だが、楽観的に見ても半年。年単位の余裕はない」
「……」
知っていた、予測出来ていた現実だ。でも、数字として突きつけられると、さすがに少しだけ胃の奥がきゅっと縮む感覚があったけれど、それだけだ。パニックにもならないし、涙も出ない。
(……まぁ、そんなもんだろうな)
俺は内心で頷いた。体感的にも、そろそろだなという実感はあった。指先の痺れ、視界の明滅、一瞬の意識の途切れ。それらが日を追うごとに頻度を増している以上、覚悟しておくべき数字としては妥当だ。
俺はケーブルを外してもらいながら、検査台の上で足をぶらぶらさせた。
「……ヘンドリクス先生」
「先生はやめろ。軍医だ」
「ヘンドリクス軍医。一つ、お願いがあるのですが」
俺は、声を落とした。周囲に他のスタッフがいないことを確認してから、慎重に言葉を選ぶ。
「……この検診結果を、わたしの管理官には、まだ伝えないでいただけますか」
ヘンドリクスの眉が微かに動いた。
「管理官への報告は規定の義務だ」
「わかっています。でも、今すぐ稼働停止になるレベルではないんですよね?」
「……現時点では、出撃可能域に収まっている。だが」
「なら、もう少しだけ。……あの人を、余計な心配で潰したくないんです」
ヘンドリクスは、しばらくの間、俺を無言で見つめていた。その目には、軍医としての職業的な冷静さと、それとは別の何かが混在しているように見えた。
「……検診で、危険域まで進行が確認された場合は報告する。それが俺の妥協点だ」
「ありがとうございます」
「礼は不要だ。俺は、データに基づいて判断しているだけだ」
そう言いながらも、ヘンドリクスは俺に背を向ける前に、小さく付け加えた。
「……何か、やり残したことがあるなら、早めにしておけ」
─────
医療区画を出て、居住区画へと続く長い廊下を歩く。
白い壁、規則正しい照明、すれ違う軍人たちの足音。二年前に初めてこの通路を歩いた時は、ただ退屈で真っ白な世界だと思っていた。今は、この通路の先にヴィルが待つ部屋がある。それだけで、同じ白い壁がまるで違って見える。
(……年単位の余裕はない、か)
ヘンドリクスの言葉を反芻する。
ふと、あの定期検診で隣に座っていたS105のことを思い出した。金髪の少女。「問題ありません」と淡々と言って、その数日後に焼き切れて消えた同僚。彼女は、自分の限界を知っていたのだろうか。知っていて、なお「問題ない」と言い切れたのだろうか。
(……今なら、ちょっとだけわかる気がするよ、S105)
問題がないんじゃない。問題があっても、やるべきことが変わらないだけだ。
怖くないと言えば嘘になる。でも、恐怖よりも先に、別の感情が胸を占めた。
(……時間がない、ってことは、やるべきことを早くやらなきゃいけないってことだ)
俺はあとわずかで死ぬ。それは確定した事実だ。
問題は、死んだ後のことだった。
俺が死んだら、ヴィルはどうなる。あの夜、暗い部屋で「お前がいなくなるのが怖い」と震えていたヴィル。あの人のことだ、俺が死んだら相当なダメージを受けるだろう。
あの時のヴィルの反応を思い出す。あれは他人の生体ユニットの死だったのに、あれほど動揺していた。俺が死んだら……想像したくもないが、たぶんヴィルは相当長い間、立ち直れない。
それが、嫌だった。
俺が死ぬのは仕方ない、受け入れている。でも、俺の死がヴィルを壊すのは、絶対に嫌だ……。
(……何か、方法はないかな。俺が死んでも、ヴィルの傍にいられる方法)
通路の窓から宇宙を見上げながら、ぼんやりと考える。
死んでも傍にいる方法? 幽霊にでもなるか? いや、この世界に幽霊の概念があるかどうかも怪しい。
転生? 一度目の転生がこの有様なのだから、二度目に期待するのはギャンブルが過ぎる。
じゃあ、何か別の形で「残る」方法は?
(…………残る?)
生体ユニットの脳は、一部が電脳化されている。電脳化された領域には、脳波データや意識パターン、記憶データが生体の脳と接続された連続性のあるデジタル情報として格納されている。
通常、生体ユニットが活動停止した場合、これらのデータは最低限の解析が行われた後に破棄される……。
……この身体が止まっても、俺の「何か」が残る方法。
ヴィルの側に、ずっといられる方法……。
足が止まった。
通路の真ん中で立ち尽くしたまま、俺は目を見開いて、自分の思いつきを反芻した。
問題は、誰に頼むかだが……。
(……よし)
俺は方向を変え、宿舎には戻らず、来た道を静かに歩き始めた。
─────
■■■■■
─────
宿舎に戻ると、ヴィルがソファで端末を操作していた。
「おかえり。検診の結果は?」
「異常なしです。相変わらず優秀な消耗品ですよ、わたし」
「……その言い方はやめろ」
ヴィルが眉間に皺を寄せる。恋人になってから、俺が自分を「消耗品」と呼ぶたびに、彼は必ずこうして不機嫌な顔をするようになった。
「すみません。……ただいま、ヴィル」
俺はヴィルの隣にぽすんと座り、彼の腕に頬を寄せた。彼の体温が、冷えた頬にじんわりと染み込んでくる。
「……なんだ、急に甘えて」
「別に。検診の後はいつも少し疲れるので」
「……そうか」
ヴィルは何も言わず、空いている方の手で俺の頭を撫でた。もう慣れた手つき。大きな掌がゆっくりと赤い髪の上を滑っていく。
(……あったかいなぁ。この体温に触れていられるだけで、全部どうでもよくなる)
目を閉じると、今日の検診で見た数値が脳裏をよぎる。半年から一年。冷たい数字だ。でも、今この瞬間、ヴィルの掌の温もりの前では、そんな数字は驚くほど軽く思えた。
(……大丈夫。今は、残された時間を、一秒も無駄にしないだけ……)
俺は彼の腕に身を預けたまま、今日の夕食のメニューを考え始めた。最近ヴィルがハマっているパスタのレシピがフードクッカーに追加されたらしい。
試してみるかと彼に提案したら、きっとあの真面目な顔で「味の保証はできないが」とか言いながら、嬉しそうにパネルを操作するのだろう。
そんな些細な日常の想像が、たまらなく幸せだった。
─────
夕食は、結局パスタになった。
トマトベースのソースに合成肉のミートボールが入った、見た目も味もかなり本格的な一品。フードクッカーの性能に改めて感動しつつ、俺たちは向かい合って食事を進めた。
「……美味しいです、ヴィル。今回のは当たりでしたね」
「この間のは酷かったからな。これは悪くない」
彼の口元が微かに緩む。その表情を見るたびに、俺の胸の奥が温かくなる。こんな顔をするようになったんだな、この男も。出会った頃の、氷のような冷たさが嘘みたいだ。
あの時は「うわぁ、顔こわっ!」なんて、ビビり散らかしてたのに。
「……ヴィル」
「ん」
「もし、ずっと一緒にいられる方法があるとしたら……ヴィルは、どうしますか」
ヴィルの手が、一瞬だけフォークの上で止まった。
「……どういう意味だ」
「ただの、仮定の話です。もし、ずっと……本当にずっと、離れずにいられるとしたら。ヴィルは、嬉しいですか」
ヴィルは俺を見つめ、静かに答えた。
「当たり前だ。……なぜ、そんなことを聞く」
「別に。ただ……わたしも、ヴィルとずっと一緒にいたいなって、思っただけです」
ヴィルの黒い瞳が、ほんの一瞬だけ揺れた。それから、彼は不器用に手を伸ばし、テーブル越しに俺の手を握った。
「……俺もだ。お前と、ずっと一緒にいたい」
その声の真剣さが、胸に刺さった。
ヴィルは知らない。俺がもうすぐ壊れることも、その後の準備を済ませたことも。
彼にとって「ずっと」は、二人でこうして食卓を囲み続ける日々のことだ。
(……ごめんな、ヴィル。お前の思う「ずっと」とは、ちょっとだけ違うかもしれないけど。でも、俺なりの「ずっと」を、ちゃんと用意したから)
「……ヴィル。手、温かいですね」
「お前の手が冷たすぎるんだ。……手袋を支給品で申請しておくか?」
「いりません。ヴィルに握ってもらえばいいので」
「……お前な」
ヴィルが呆れたように息を吐いた。だが、手は離さなかった。
テーブルの上で繋がれた手。大きくて硬い掌と、小さくて冷たい指先。
この手を、俺はこれから先もずっと握っていたいと思う。形が変わっても、方法が変わっても。
……温かくて、硬くて、優しい指先……。この手の感触を、俺は一生忘れない。
「……パスタ、冷めちゃいますよ」
「お前が手を離さないからだろう」
「ヴィルも離してないです」
「……」
ヴィルが観念したように、手を離してフォークを取った。
(……あぁ、幸せだな)
この時間が永遠に続けばいいのに、とは思わない。永遠なんて夢物語だと、俺はもう知っている。
だから、残りの時間は、全部、ヴィルとの時間に使おう。全力で笑って、全力で支えて、全力で愛して……それで……。
(……ごめんな、ヴィル。内緒にしてることが増えてばっかりで……)
─────
就寝前のメンテナンスで、ヴィルの指先が俺のソケットを丁寧に拭き清めていく。いつもと同じ、優しくて正確な手つき。
「……異常なし」
「ありがとうございます、ヴィル」
振り返って、彼の頬にそっと唇を触れさせた。ヴィルの肩が微かに跳ねる。恋人になってからこういうことをする度、この男は未だに少しだけ動揺する。
本当に可愛い人だ……。
「……不意打ちは卑怯だろ」
「ふふっ……。おやすみなさい、ヴィル」
「……おやすみ」
ヴィルが部屋を出たのを確認して、ベッドに身を預けた。
常夜灯を落とした暗闇の中、天井を見上げるつもりで目を開いた……何も、見えなかった。ただ暗いだけだ。でも、この暗さが怖くないのは、隣の部屋にヴィルがいるからだ。
壁一枚向こうで、あの人が同じ夜の中で呼吸をしている。
……本当のことを言ってしまえば、死にたくなんて無い。ずっとずっと、ずぅっと……ヴィルと、一緒にいたい。
大丈夫、だなんて、大嘘だ。
それでも今は、大丈夫だって、嘘をつこう。
「ごめんね……。大好きだよ、ヴィル」
枕に顔を埋めながら、ただ小さく、そう呟いた。
【U222/ユニ】
実は転生してから一度も泣いていない。心の強い男の子。
【ヴィルヘルム・オルバース/ヴィル】
今でもたまにユニが死ぬ夢を見る。そこそこの頻度でちょっと泣いてる。