Yachiyo Infinity~ヤチヨと巡る無限バッドエンド~ 作:グランドマスター・リア
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シトシトと、雨が降っている。
それはまるで、世界そのものが絶え間なく泣いているみたい。
都心部を飲み込む曇天は厚く黒く、大粒の雨は容赦なく私の服を濡らし、肌を打ち付ける。
寒い。寒い。
ここは電子で構成された仮想世界のはずなのに、私の体温はみるみるうちに奪われ、震えは大きくなるばかり。
それでも私は、じっと雲に包まれた空を見ていた。
――あの雲の向こうには、晴れた空があるのかな。
答えは否。
雲の向こうにあるのは、決して開かぬ天蓋だ。
どこまでも自由に見える。たったそれだけの
そこに囚われたら最後、空の向こうに行く術も再び本当の自由を手にすることも叶わない。
私がこの――”無限にループするバッドエンドの世界”に囚われてから、どれだけの時間が経っただろうか。
心の大事な部分が死ぬのを、何度経験しただろうか。
頭の中には、大切な人の笑顔と、それが消えゆく瞬間が何度もリフレインする。
もう疲れた。もうたくさんだ。
そう思えど、私の足は意思に関係なく前に進み続ける。
絶望は深まるばかりで、そういう時の逃げ先は大抵過去と相場が決まっている。
少しだけ、始まりの話をしよう。
Yachiyo Infinity
――Storyが開始されました。
物語の開始を知らせたのは、機械のアナウンスみたいな無機質な声だった。真っ暗だった視界に光が広がる。
輪郭を持ち、色が鮮明になり、実像が反映される。建物、人、木々や風、それらが完璧に出来上がるまでおよそ五秒だ。
「……なに?」
試しに近くのガードレールに触れれば感触がある。
見渡すと、世界は出来上がった状態で停止していた。
人も、動物も、風に至るまでなにもかも、時間が止まったみたいに世界の動きがストップしている。
――セーブ機能解禁。
次に流れたのは、そんな文言。
目の前に現れたのは【auto save save1 save2 save3】といった、まるでゲームみたいな表示。
「セーブ?えっと、これでいいのかな」
おずおずといった所作で【save1】に触れると、その下に〈201X / 01 / 01 / 12:00〉と書き込まれた。
瞬間、表示は消失。
世界が動き出す。
行き交う人々は、時折私に目を向け、風は頬を撫でる。両手を見下ろせば、そこには生物としての実体が確かにそこにあった。
あまりにリアル。
一目では仮想だと見分けがつかないほどのハイクオリティ。それでも、ここは確かに仮想世界だ。
「凄い再現度……こんなにも綺麗な仮想世界。現代の技術水準じゃ、作れるはずないのに……どういうこと?」
本物みたいに、綺麗な世界。
現代の技術では到底作り出せないはずの異世界が、そこには広がっている。
有り得ない事象は、されどこの目に映る景色が証明している。夢の類いでもない。
しかし、なぜこんなことになっているのか、それだけは思い出せない。確か私は、さっきまでいつも通り彩葉とかぐやと三人で、朝食を食べていたんだ。
それから、ツクヨミへ行って――
「っ――!」
唐突に、頭に衝撃。
物理的なものじゃない。
それは、外部から情報が叩き込まれた際に生じるものだ。
「これ……私の記憶?違う。だったら情報?まるで注釈みたいな……」
けれど、その時私の記憶領域に解放された情報が、この世界のこと、そして私がなぜここに居るのか、その全てを証明する。
◇~◇
1.これは彩葉たちを守るため、ツクヨミを守るために必要なことである。
2.人格保護のために記憶の重要部にはロックをかける。
3.その世界には無数のバッドエンドと、一つのハッピーエンドが存在する。ハッピーエンドに辿り着くことでのみ、脱出が可能。
4.セーブとロードが可能。
5.
◇~◇
与えられた注釈は、ここで終わり。
それ以前は、いつも通り彩葉とかぐやと三人で朝食を食べた時の記憶で止まっている。
注釈にもあった通り、記憶がロックされているのだ。
人格保護という部分が妙に物騒だけど、それなら私が持ちうる情報の中にこの事態を解明するのに有力な手掛かりはないってことだ。
「そっか……この世界、作ったのは私だ。多分……」
僅かな要素を束ねて、なんとかそれだけ断定する。
明らかな異常事態。
本来なら何がなんでも外へ出る方法を探すところだけど、胸のうちに在るのは、破滅的なまでの勇気と、使命感。
何があろうと、私はこの現実と見紛う世界――名付けるなら〈ヤチヨワールド〉をクリアしなければならない。
そうしないと、ダメなんだ。
無数のバッドエンドの中に存在する。
ハッピーエンドを越えて、私はその先に辿り着かなければならない。
そうしないと、彩葉たちも、ツクヨミも、なにもかも失うことになる。
それだけは、確信をもって言える。
この時点で、私には不明だとかなんだとか関係ない。。
「行かなきゃ」
そう、ここを
ハッピーエンドを掴むこと。
それがこの世界において、ヤチヨがしなければならないことで、この
■
お天道様は真上。
つまりは正午の時刻ということ。
一旦落ち着いて状況を整理したかったのもあり、近場のカフェのテラス席に陣取る。
そこから見る町並みは、本当に現実のものであるかのようにリアルだ。
初期データに与えられたのは十万とスマホ1台。
それらを駆使してひとまず私はいつもの和装からカジュアルな服に着替え、今こうして一息ついていた。
「初期リスは京都。所持金は十万で、さっき二万使ったから残り八万。目的は不明……か」
判明しているのは、無数のバッドエンドが存在し、その中に一つのハッピーエンドがあることだけ。
なにをすれば前者へ行き、なにをすれば後者へ行けるのか、それすらも分かっていない。
これでは、そもそも何を目的に動けばいいのかすら分からない。
「一先ず生きる事を最優先に考えないと……この世界、普通にお腹は減るし、お金はちゃんと稼がないと住む場所どころか、最悪餓死しかねないんだよね」
私自身が死んでバッドエンドとかシャレにならない。
目下、稼ぎ口を見つけるのは急務とされる。
見た感じ、仕事を探すセオリーも現実と同じように思う。戸籍云々は私にとっては些事だ。ウミウシの姿でマンションの部屋を借りた実績ありです。
ゲームの進行に関しては一旦忘れよう。
ADVゲームの中には、様々な条件でルートが開始するものがある。
この世界も同じとは限らないけど、例えば時間経過でフラグが立つ可能性だってゼロじゃない。
「バッドエンドとか云々は気になるけど……まあ、なにかあってもセーブ&ロードでやり直せるみたいだし、まずは情報収集と把握から」
先立つものがなければ始まらない。
この世界にヒロインが居るのなら尚更、現れるまでにその辺をどうにかしないと、ここぞって時にウミウシ状態になっては困る。
「衣食住、そっからだ。やるぞ、私」
案外前向きに、この世界と向き合おうと、この時の私は思っていた。
そう――
■
戸籍や、その他の情報が無くても部屋を借りる方法は八千年のうちに経験済みだ。
ウミウシの状態でしかなかった私に出来たことが、今の私に出来ない道理はない。お金を稼ぐのだって、必要分だけでいいならそう難しいことじゃない。
何事もそう。
恐ろしいほど平穏で、やっている間はうまくいっているように思う。
生活が軌道に乗ると心身の余裕もできて、この世界について考え出す。分からないままにせず、ネットとか様々なところから情報を集める。
今はそれで十分だと、根拠のない楽観を許し、何もかもまだ問題ないとそう錯覚していたんだ。
破滅の足音は、悠長に手をこまねいている私のすぐ背後まで迫っていたというのに……
――ゲーム開始から一か月経過。
私は借りたマンションの部屋でサーバーの運営やその他IT系の仕事を並行しながら、日々を過ごしていた。
やはり予想していた通り、この世界はセーブ機能以外の
現実と見紛うほどの再現度で、そこには社会も、人間も、何もかもがある。そんな場所で長く過ごしていると、まるでこっちが現実みたいに思えてしまう。
その思考をすぐに切って捨てられるのは、彩葉とかぐやが居ないからだ。
あの二人が居ない世界は、私の居るべきところじゃない。
――とはいえ。
こんなもの『もと光る竹』の超技術があってもそう簡単には作れない。
ただ一つ『セーブ&ロード』というプレイヤーに与えられた特権は、現実で使えたら破格の能力だ。どんな大きな失敗でも、巻き戻して取り返せる。
その上で一番大事なロード機能は、試した結果ちゃんと正常に動作した。
間違いないなく一日前の、セーブした時点に戻れたし、違う行動をすればそれに伴った結果へと変化する。
ただし、
このゲームのセーブとロードは、過去のみ。
つまり、一度過去のデータをロードしてしまうと、未来でセーブしていたとしてもそのデータは使えなくなる。
過去と未来を行ったり来たりして、好き勝手することは出来ないということ。
この事から分かるのは、このセーブ機能はあくまで『やり直す』ためのものであり、プレイヤーが楽をするための物じゃない。
そして、もう一つ。
プレイヤーは京都から出ることが出来ない。
これに関しては割とすぐに確かめに行ったのだが、電車は県外へ行く物に乗ろうとすると勝手に乗る前に戻され、徒歩だとバリアのようなものに弾かれる。
明確にこの町の中が舞台であると、システムが言っている。
これを掴めたのは相当に大きい。選択肢が大幅に狭まるからだ。
そうして、ここまで色んな検証を終えて、私は部屋でチェアに腰掛けて唸っていた。
「うーん、一か月くらい経ったけど……バッドエンドになる気配も、ハッピーエンドが訪れる予兆も無い。やっぱプレイヤーが何かしらアクションを起こさないと、シナリオが動かない仕様なのかな」
私は最初、適当に過ごしながらも、そのうちゲーム内時間の経過でイベントが発生するのを期待していた。
しかしこれが、待てど暮らせどやってこない。
『ハッピーエンドを目指すゲーム』である以上、そこに繋がるシナリオがあるのは分かっている。
何らかの方法でルートに入る必要があるけども、それはプレイヤーが何かしらの行動を起こすことでのみ可能らしい。
「確かに、ADVなんかでも、サブストーリーばっかやってたらキャラルートには入れないし……ヤッチョって今そういう状態なのかな」
ここまで断定したなら、次はその方法。
なんだけど……
「……それだともう、手掛かりとかないんだけど……」
どうしろと言うのか。
まさか、ある日突然バッドエンドとか言い出したりはしないと信じたいが、本気でプレイヤーを鬱にさせるつもりなら、その程度のことは軽くぶっ込んでくるだろう。
一度目のバッドエンドを見ないと、ルートの入り方すら分からないVRADV。
なにそれ、ただのクソゲーじゃん。
開発者が本当にわたし自身なのか疑問に思えてきた。
記憶をロックした私自身が、こんな事をわざわざ書いたのは、私ですら酷い精神的ショックを受けるようなエンドが明確に存在するから。
「本当に大丈夫……なんだよね?」
一度考えると、そういう思考は止まらないものだ。
マイナスな方向にばかり引っ張られていく。
こんな事ではいけない。目を覚ませ月見ヤチヨ。そんなふうに 咤激励して、自らを鼓舞するために歌でも歌おうかと思っていた。
――まさにその時だった。
ゾッと背筋に悪寒を感じた。
心臓をそのまま鷲掴みにするみたいな、冷えた感触。
それが私のすっと背中を擦り、耳元で囁いた。
◇~◇
〈酒寄彩葉が死亡しました〉
◇~◇
急転直下の感覚が私を襲う。
「……………は?」
世界が止まる。
目の前には、セーブする時と同様の無機質なシステムメッセージが表示されている。
意味が分からない。何が起きた。これはなんだ。なんの冗談だ。
「え……なっ……ぇ」
なんの前兆もない、唐突なことだった。
理解が追いつかない。
だが、私の頭は思考よりも先に分かってしまう。そのメッセージは、冗談でもなんでもない事実である。
無機質で、人間味の欠片もない文章が、嘘やそれらの類いじゃないと暗に語る。
――死んだ?
――誰が?
◇~◇
〈ログ:自殺〉
◇~◇
思考が真っ黒になる。
目を見開いて、見つめて、何度瞬きをしても変わらない。
◇~◇
〈BADEND・・・〉
◆直前のセーブデータをロードします◆
◇~◇
私の戸惑いも、困惑も、なにもかも置いてけぼりにしてシステムはあらかじめプログラムされた処理を実行する。
世界が巻き戻る。
それはロードによる過去への逆行。
視界に映る景色が変わって、そこは自室のベッドの上だった。
見渡しても一見変わったところのない部屋。
しかし、ちょっと動かした家具の位置が戻っていたり、PC前のデバイスが減っていたり、それはまさしく一週間前、私がセーブした場所に違いなかった。
「なにが……………起こって………………」
理解が追い付かない。
あまりに衝撃的なできごとに、脳が正常な理解を拒否している。
それでも、静かな部屋の中では集中を散らしてくれる雑音もなく、私の月人然とした思考回路は正解を導きだす。
「っ……まさか……そういうこと?」
あってはならないことだ。
そんな残酷なことは、決して、許されちゃいけない。
――答え合わせだ。
【彩葉の死】【自殺と書かれたログ】【BADEND】【この世界のヒロイン】【バッドエンドを経て、初めてルートが分かる】これらの要素が掛け合わされ……
最後のピースがハマる。
【初期リスの京都】は【酒寄彩葉の故郷】であり、そこが舞台であるならば、絶対的にこのシナリオのヒロインは?
そして、バッドエンドの意味は?
「ウ゛ッ!」
私は口元を押さえて、蹲った。
理解したくない。
理解したくない。
理解したくない。
理解……する。
「あっ、あぁ……やっぱり、そうだ」
一つずつ事実を確認して、ゆっくりと絶望していく。
この時期の彩葉は、ちょうど兄が出て行ってから少し経った頃で、精神の安定を『月見ヤチヨ』の推し活と、相談アプリによって維持していた。
この世界に、月見ヤチヨは居ない。
当然だ。
私はここに居る。
更に、この世界は配信活動もしていない。
そうすると、この時期の彩葉はどうなるだろう。心の支えもなく、逃げ場もなく、上京を決意する為のきっかけすらない。
その末路は、深く考えなくても分かる。
その間、私はなにをしていた?
検証だの、生活の維持だの、悠長に構えて時が経つのを待っていた。その一分一秒の間にも、この世界に生きる彩葉は、苦しんでいたのかもしれないのに……
プレイヤーは、ゲームにおける主人公。
この世界の主人公は、私だ。
主人公はヒロインを救わなければならない。
それは前に進む事でしか出来ない。それらを放棄すれば、待っているのは救われない物語。
ハッキリと、事実が確定する。
これらは全て―――停滞を選んだ、私のせいだ。
「っ、うあああああああぁぁぁぁああああああ!!!!!!」
スマホを投げる。
ごすんと壁に当たって落ち、液晶にひびが入る。それはまるで、私の心の状態を表しているかのよう。
「私の……バカぁ!!!」
このバッドエンドの原因は、いわば”うっかり”だ。
私の浅慮と、愚かさの結果だ。
何もしなければ、良くも悪くもならないと思い込んで、一番大事なことを確認するのを忘れていた。
人は、一度大丈夫だと決め付ければ、疑うのはなかなか難しい。
だから、何事も安心しきるべきじゃない。
それなのに、私は思考を停止して”それでいい”と投げうった。
停滞を選んだ主人公を待つものなんて、相場が決まっている。
シナリオをハッピーエンドに導かなければならない主人公が、それを放棄することはすなわち、必然のバッドエンドを意味する。
世界は、停滞を選んだ愚者を許さない。手痛い仕置きを持って、私に今回の罰を与えた。
その罰は、私の心によく効いた。
例えゲームの中でも、本人じゃなくても、こんなにもリアルな世界で、彩葉が死んだという事実は、心に深い傷を刻むのに十分な残酷さを持っていた。
「私は、私はっ……何をしてた?なにを、してたの……」
吞気にのらりくらりと構えていた。
その間、確実にシナリオは進行していたのに、それを知らずにどうでもいい事にかまけて、最悪の失敗をおかした。
「全部、私のせいじゃん………」
馬鹿だ。
あり得ない。
最低の大馬鹿だ。
バッドエンドを踏まないようにと辿っていた道は、バッドエンドへ直行する最悪のルートだった。
そしてこの事から、この一週間時点ではもう一刻の猶予もない。
「こうしちゃいられない……」
私は支度する時間も惜しくて、最低限の貴重品だけ持って家を出た。
「早く、はやく彩葉に会わなきゃ!」
電車に乗って、所定の街へと向かう。
彩葉の実家の住所は知っている。場所に関しても、思念体だったころにウミウシの体で何度も行ったから、迷う事は無い。
――行ってどうする?
まさか乗り込むわけにもいかないし、どうするかのプランなんて何もなかった。
それでも、私が一秒じっとしている間にも、シナリオがバッドエンドへと向かっていると思うと、気が狂いそうだった。
最寄り駅につくと、私はまず彩葉の実家へ向かった。
外から様子だけ伺っても、収穫はない。
そもそも彩葉がどうして、どのように自殺したのか、その死因すらも分からないのだから、この時点で私がここに来たところで意味はないのだ。
――私は無力だ。
このセーブ時点で、すでにバッドエンドまで残り一週間。
一刻も早く、手を打たないとルートは変わらない。焦りは思考を鈍らせる。
やけになって、もうインターホンを押してしまおうとした所で、
「……なにしてんだろ。私」
やめた。
肩を落として、とぼとぼとその場を離れる。あてもなく歩いて、気が付けば目の前には公園があった。
「ここ、彩葉が幼い頃によく家族と遊びに来てた……」
入ると、夕暮れ時なのもあって、家へと帰っていく子供が多く、賑やかさはあと数分で失われるだろう事が見て取れた。
「どこかに彩葉が居るかも……」
無意味でも、探してしまう。
その動作すら滑稽であることを、自覚していながら。
「………いや、そんなわけないか」
けれど、そう都合よく物事が進むのなら、あんなバッドエンドを迎えることはなかった。
相変わらずな格好の自分に嫌悪感を抱きながら、また別の場所へと行こうと踵を返す。
「彩葉……何処に居るの?」
特に意識したわけじゃない。ただ、名残惜しさを断ち切るため、無意識に公園を見回した。
その時だった。
視線がある一点を捉える。
ベンチに座った少女。黒い髪の少女。見慣れた顔をした、背格好をした、私が探し求めたこの世界のヒロイン。
「嘘……あそこに、居るのって……」
黄昏の公園で、夜の闇はまだ落ちない。
そんな中だからこそ、その
「彩葉!」
私が知っている彼女よりも少しだけ背の小さい、酒寄彩葉。
それでも、彼女だった。私が見間違うわけがない。
気が付けば走り出していた。
普段なら、そんな迂闊なことはしなかった。もっと慎重に行動した。でも、今の私にそんな事を考えている暇はない。
近づくにつれて、踏み出す足はペースを落とす。彼女を怖がらせないためだ。
「………?」
足音に気付いたのか、彩葉がこちらを見る。
ようやっと目が合うと、私は息をのむ。
彼女の瞳は元来の綺麗さを覆い隠すみたいに、黒く濁って、疲れ切っていた。この世の全てに絶望して、行く宛も、帰る場所もない人のそれ。
私は伸ばす手も、かける言葉も持ち合わせていなかった。
だって、そんな彩葉を見たのは初めてだったから。
「……なんですか?人のことじろじろと……」
ずっとそうして彼女を見ていたら、結局最初に口を開いたのは彩葉の方だった。
「あっ…ごめん。ちょっと……こんな時間に一人でベンチに座ってるから、大丈夫かなって……」
慌てて、体調不良を心配した善人の風を装った。
「あぁ、そういう……別に、体調が悪いとかじゃないので……心配しなくていいです」
言って、彩葉は再び俯いた。
こんなんじゃダメだ。ちょっとずつ積み重ねる段階はもう過ぎている。一刻の猶予もないことを自覚しろ。
「?……ちょっと、なにやってるんですか?」
意を決して、彼女の隣に座る。
浮かべるのは、飄々とした、ヤチヨ然とした微笑みだ。
「いやぁ、お姉さんもちょっと休憩したいなって思って……それに、やっぱりほっとけないよ。特に、あなたみたいな人の事は……」
”月見ヤチヨ”を意識して、彼女らしい姿で彩葉と接する。
人の事を言える程、私の心だって大丈夫じゃないけど、その仄暗い部分を全部隠して接っする。
「私みたいなって、具体的にはどんな?」
訝るように、それでも彩葉は、見ず知らずの私との会話に応じてくれた。
「体じゃなくて、心の方に不調を抱えた人」
そんな彼女に、私はわたしの持てる限りの言葉を尽くすしかない。
まだ間に合う。まだこのルートはバッドエンドまで行ったわけじゃない。それなら取り返しがつく。ここから巻き返すんだ。
「少なくとも、私にはあなたがとても大きな悩みを抱えているように見えるよ」
彼女の心に土足で踏み込むような行為だと分かっていても、なりふり構っていたら進めないんだ。危険でも、一か八かで壊すしかない。
「……余計なお世話です。私、もう行きますから」
吐き捨てて、彩葉は立ち上がった。
そのまま振り返らず、去っていく。
「――待って!」
呼び止めても、彼女は足を止めない。
「明日も、私はここに居るよ!」
その背中に告げる。
すぐに信頼してもらえるとは思っていない。彩葉はとても優しい女の子だけれど、同時に警戒心が強くシャイな一面もある。
話してもらうには、無視されても話しかけ続けるくらいの根気が必要だ。
そんな私の言葉を気にかける様子すらなく去っていく彩葉を、その日は見送った。
それから、私は毎日同じ時間に、同じ場所へ行った。
なんと、そこには彩葉がちゃんと居たのだ。
二日目は、それこそ私が一方的に話すだけで、会話らしい会話はなかった。
三日目は、相槌を打ってくれた。
四日目は、言葉でリアクションを返してくれた。
それでも私は落胆することも、悲しむこともなく、独り善がりに彩葉を気にかけた。諦めることは、彼女のバッドエンドを受け入れることに他ならない。
そうして五日目、ようやく彼女は自分のことを話してくれた。
兄が家を出て行って、母親と家で二人きりで、何をしても、どう頑張っても厳しい言葉を投げかけられ、認めてもらえないことの苦しさ。
豹変した家庭環境に身を置くことの辛さ。
どうすればいいのか分からない。そう語る彩葉に私は、いつか相談アプリで返したのと同様の助言を与えた。
それで彼女が上京を決めれば、ひとまずバッドエンドは回避できる。
六日目。
その日は、来るのが遅かった。
「……もう、ここには来ません」
開口一番、彩葉はそう言った。
その言葉を、私は上京を決めたからだと、希望的観測をした。
「どうしてか、訊いてもいい?」
あくまでそれまでの態度を崩さずに、問うと彩葉はそれまでで一番柔らかな、それでいて諦めたような表情をして返答した。
「単純な話です。もう物理的にここへは来れなくなるから……相談に乗ってくれたお姉さんが、ずっとここで待ち続けるのも忍びないので、最後にそれだけ言いに来たんです」
やっぱりそうだ。
物理的、ということは地元を離れることと思っていいはずだ。見落としはない。ただその諦めたような表情は、家に見切りをつけたとか、そういう意味だと思いたい。
「そう、なんだ。寂しくなっちゃうなぁ……お姉さん、これでもあなたと話す時間を楽しみにしてたから……」
私にとって、ありうべからざるひと時だった。
東京に来る前の彩葉と、肉体を持って関わり、話す時間というのは以前の私がどれだけ頑張ろうと得られなかった。
「どこに行っちゃうのかは分からないけど、連絡先だけでも交換しようよ!勿論、あなたが良かったらだけど、どれだけ離れてても私は……また会いたい」
恐らく、まだハッピーエンドではないはずだ。
むしろ、ここからが正念場と言ってもいい。彼女との繋がりを持つことは、これからのシナリオに関わるために必須事項の――
「ああいや、来れなくなるってそういう意味じゃなくて……」
――え?
彩葉は側頭部をかきながら、バツの悪そうな顔で言った。
「もう、私自身が居なくなるって言うか……」
決定的に、あってはいけない事を告げる彩葉。
私はその意味を即座に理解して、ばっと立ち上がって彼女に詰め寄った。
「そ、それって……ダメだよ!絶対にダメ!」
両肩を掴んで、彼女が選ぼうとしている最悪の未来を否定する。なんで、どこで間違えた?
確実に、彼女は私に心を開いてくれていたし、話だってしてくれていた。言葉を聞いて、それはちゃんと届いていたはずだ。
それなのに、どうして……
「ダメとかじゃないですよ。もう決めたことです。そもそも、会って一週間ていどしか経ってないお姉さんには関係ないですよね?」
「関係なくないよ!そりゃ、時間は……まだ少ししか積み重ねてない。だけど、私は本当にキミのことが――」
「そうは言っても……」
まくしたてる私に、彩葉は冷たく、けれど優しく言い放った。
「私達、まだお互いの名前も知らないじゃないですか」
ぐっと、言葉が詰まった。
それは私と彼女の間にある深き溝を突きつけるかのような言葉だった。これが、私とあなたの距離だと、まるで、好感度が足りなくてノーマルエンドに行っちゃった時みたいな、言い様のない悲しみが私の胸を満たした。
「……さようなら。私も、あなたとの時間は楽しかったです」
そんな彼女を引き留める言葉も、力も、私にはない。
無理やり止めたって、結局彼女と私の関係が壊れて戻らなくなって、同じ事が起きるだけ。
「最期に、良い思い出をくれてありがとうございました」
その背中が消えて、私は何時間も誰も居ない公園で立ち尽くした。
けれど、その時間も再び訪れる最悪のメッセージによって終わる事になる。
◇~◇
〈酒寄彩葉が死亡しました〉
◇~◇
私は、壊れたように泣き叫んだ。