研究発表を終えたサイフウは、その場で小さく息を吐く。背筋がすっと緩み、肩が落ちる。これまで張り詰めていた力がほどけたのが、見て取れた。表情自体は大きく変わらないが、指先のわずかな震えや、視線の揺れが、学生らしい緊張の名残を物語っている。額に浮いた汗を手の甲で拭い、そのまま一度だけ空を仰いだ。
その様子を、パソコンの前から見ていたカライジは、画面越しにじっと目を細める。
(あのプロフェッサーを感心させてたな。……サイフウ、君は雲の上の花だよ。だからこそ、俺は君に認められていたいし、側にいたいと思ってしまうよ)
キーに置かれていた手が止まる。映像の中で汗をぬぐうその一瞬を、逃さないように視線に焼き付ける。周囲の喧騒が戻りつつある中で、彼だけが静かに、その姿を見つめ続けていた。
『研究発表は以上となります。続いての発表時刻は……』
機械音声が淡々と流れ始めると、張り詰めていた空気がほどける。観客たちはぞろぞろと席を立ち、余韻を残したまま会場を後にしていく。中にはその場に残り、プロフェッサーモドムやゼマへ熱心に声をかける学者や企業関係者の姿もあった。名刺のやり取りや簡単な質疑が交わされ、場の熱は別の形で続いている。
その流れの外で、カライジは黙々と片付けを進めていた。機材を外し、配線をまとめ、台車へと積み上げていく。手際は良く、動きに無駄がない。
そこへララクが近づく。
「お手伝いに来てみたんだけど」
「っあ、ララク先生。だ~いじょうぶ、俺の役割なんで」
振り返りざまに軽く笑い、またすぐ手を動かす。
「でも君は、自分の発表もして一日稼働しすぎじゃないか?」
「学生で、学園祭ですから。きょうにかぎってサボってたら、学長に『はじけなさい』って言われちゃうよ」
「……今日が学生の本分、か」
ララクは小さく息をつく。その言葉を聞いたカライジは肩をすくめたまま、ちらりと視線を向ける。
「先生こそ、謳歌してますか? ……っと、ちょっとステイしてて」
そう言うと、台車の脇に置いていた鞄を開ける。中をごそごそと探り、大量の手のひらサイズの紙束を取り出した。色とりどりのチケットが重なり合い、淡く魔力の光を帯びているものまで混ざっている。
「俺のクラスはレストランやってるんだけど、サラダバイキングがなんとサービス。他のクラスからも、チケットかっぱらって……かき集めてきたから」
差し出された紙束には、妙に未来感のある内容が並んでいた。分子再構成で味を変化させるフレーバーキューブの無料体験、重力制御でふわりと浮かぶ軽食プレート、短時間だけ時間感覚を引き延ばすリラクゼーションルームの利用券、簡易ホログラムで理想の景色を再現する休憩スペース入場チケット。中には、味覚と嗅覚を同時に刺激する多層スープの試飲券など、どこか実験めいたサービスも含まれていた。
「学生の特権か。でも、ボクが譲り受けていいのか?」
「俺だけ使えきれないし、処理しちゃってくださいよ。ほらゼマ先生も、ご褒美欲しいと思うし。っあ、学院だから、アルコールはノー提供です」
「ありがとう。ゼマさんは、美味な食べ物なら酒がなくとも爆食すると思うよ」
ララクは少し危なっかしくその束を受け取る。思った以上の量に、指の間から滑りそうになるのを慌てて整える。紙の一部はほんのりと温かく、魔力で駆動する仕組みであることが伝わってくる。
「エンジョイしてください、フェスティバルなんでね」
軽く手を振るカライジに頷き返し、ララクはその場を離れる。手の中のチケットの重みと、そこに詰め込まれた学生たちの遊び心を感じながら、視線の先にいるゼマの元へと歩き出していった。
◇◇◇
サイフウの研究発表が終わってから、少し時間が経った頃。校舎の廊下を、カライジが台車を押して進んでいた。台車の上には機材がぎっちりと積まれ、落下防止のために耐久性の高い白いダンボールへ丁寧に収められている。角がぶつからないよう布も噛ませてあり、その手際の良さがうかがえた。
その少し前を、サイフウが歩いている。両手でノートパソコンを抱えているだけで、荷物はほとんどない。足取りは軽く、先ほどまでの緊張がゆっくりとほどけていく途中だった。
もともとこれは彼女の指示ではない。カライジの方から『一時的作業奴隷だと思ってくれて構わないから』と申し出て、ほとんどの運搬を引き受けている。研究期間中も同じだった。資材の運び込み、簡単な組み立て、実験の補助や記録の整理。目立たない部分を黙々と支え続けていたのがカライジだった。
(客観的な映りは良くないけれど、こいつのおかげで肩こりは最小限だ)
ノートパソコンの重みだけを感じながら、サイフウは内心でそうつぶやく。腕や背中に残る疲労はあるものの、機材一式を自分で担っていた場合を思えば比較にならない。想定していたよりも体は軽く、その差をはっきりと実感していた。
廊下の高い窓から、午後の光が斜めに差し込んでいた。白い床に長く伸びた影が揺れ、台車の車輪が転がるたびに、かすかな反響音が広がる。ここは倉庫や実験室が並ぶ区画で、人の気配は薄い。遠くで学生が走る足音が、断続的に聞こえるだけだった。この一帯には、サイフウとカライジの2人しかいない。
前を歩くサイフウが、ふと足を緩める。
「カライジ、どうして私に好意的なの。別に私、愛想良くないでしょ。自分のリソース使ってまで、手伝った理由は?」
問いはあっさりとしているが、背中越しに向けられている。振り返らないまま、言葉だけが後ろへ届く。
「……好意的、だから……」
カライジは彼女の顔を見ずに答える。台車の取っ手を握る手に、わずかに力がこもる。
「だからその訳を、聞いたんだけど」
間が空く。車輪の音が一瞬だけ強く響き、また静けさに戻る。
「勉強熱心、冒険者志望。開発者。ほら広範囲に学問を取り込むこの学校でさ、最終的な目標が一緒なのってレアリティ高いっていうか。それでいて、俺より覚悟決まっててさ。
発表の時にゼマ先生の事を称賛していたけど、サイフウだってモンスターに物怖じしていなかった。ずっと俺は君の後ろを辿っている気がする。だから、その、こうして前を向くと、自然とあこがれてしまう、とか、はは」
言葉を探しながらも、途切れずに続ける。台車を押しながら、カライジはサイフウの背中を見ていた。揺れる長い編み込みの髪が、光を受けて細く反射する。
サイフウは少しだけ首を傾ける。足は止めないまま、淡々と返す。
「理解できる感情説明、それ即興? だとしたら割とすごいんじゃない」
「じゃあ、割とすごいです」
即答だった。だが声にはわずかな硬さが混じっている。緊張を含みながらも、カライジは自分の言葉をそのまま受け止めた。
再び、廊下に静けさが戻る。差し込む光の中を、2人の影が並んで伸びていた。