黒衣の怪人が現れた瞬間、玄関付近の空気が一変する。ざわめきが一気に膨れ上がり、生徒たちの声が重なった。後ずさる者、立ち尽くす者、状況を理解できずに周囲を見回す者。設置されているカメラの死角ではない。この距離、この位置なら確実に記録されているはずだった。
それでもここまで来ているという事実が、別の不安を呼び起こす。侵入経路も、学院の構造も、すでに把握されている。
次の瞬間、怪人が動いた。
踏み込みと同時に床が鳴る。無駄のない重心移動から、一気に加速。紫電が走り、軌跡だけがわずかに残る。その進路はまっすぐ、サイフウのいる位置へと伸びていた。
「不審者で私を挟むなっ……!」
苛立ちを含んだ声が漏れる。前後から迫られる形。逃げ場は限られている。
だが、走り寄ってくるその気配の中に、妙な違和感があった。
狂気じみた圧は確かにある。存在そのものが空気を歪めている。それなのに、焦点が合っていない。視線という概念が曖昧で、狙われている感覚が薄い。
こちらを見ていない。
そう感じた瞬間、怪人はサイフウの目前に達し、そのまま跳躍した。
黒い影が頭上を越える。
時間が引き延ばされたように、動きがゆっくりと見えた。サイフウは反射的に見上げる。仮面がすぐそこにある。だが表情も、視線も、何も読み取れない。ただ滑らかな面が光を受けているだけだった。
そのまま怪人は背後へと抜ける。着地の音は軽く、次の動作へと繋がっていく。
(中等部の生徒、なわけこれが?)
疑問が浮かぶ。噂にある存在と重なるが、感覚が追いつかない。年齢の認識と、目の前の現実が噛み合わない。
怪人の周囲にまとわりつく魔力が、空気を押し広げるように滲んでいた。濃く、重く、制御されているはずなのに外へ漏れ出ている。それは子供が扱うものとしては明らかに異質だった。胸の奥に残る圧迫感が、それを否定する。
「カライジ、回れ右……っ」
押し出すような声だった。サイフウの視線はすでに後方へ固定されている。空気の流れが変わる。さっきまでのざわめきとは別の、重く沈む圧。
ブーストアックスを握るカライジは、最初に出現した怪人へ意識を集中させていた。だがその声を聞いた瞬間、反射で振り向く。
「!? かかか、怪人!?」
視界に飛び込んできた黒に、思考が一瞬遅れる。慌てて斧を顔の前へ引き上げ、防御姿勢を取る。刃先がわずかに震え、ブースト機構の余熱がじり、と音を立てる。
しかし、来るはずの衝撃は来ない。
黒衣の怪人は、カライジを見ていなかった。
その仮面はさらに奥、もう一体の怪人へと向けられている。紫電が細く走り、空気がひび割れるように揺れる。
「この世には、得体のしれない者が多すぎる」
機械的に変調された声が、廊下の壁に反射して重く響く。次の瞬間、踏み込み。床がわずかに沈み、視界から黒が消える。
拳が、叩き込まれていた。
反応の余地すらない。ボロ布の怪人の身体が弾けるように浮き、一直線に吹き飛ぶ。鈍い衝突音が空気を震わせ、廊下の奥へと叩きつけられた。
そのまま倉庫前に積まれていたダンボールの山へ突っ込む。白い箱が連鎖的に潰れ、破れ、緩衝材が舞い上がる。紙片や資材が散らばり、棚が揺れて別の箱も崩れ落ちた。乾いた破裂音と崩壊音が、廊下に重なって響く。
「ちょ、ちょっと! 機材入ってるやつ!!」
「いやそれ弁償コースでしょ!? やばくない!?」
「人より先に備品心配してる自分が怖いんだけど!」
混乱した声が飛び交う。その中で、ダンボールの山の奥から低いうめき声が漏れる。
崩れた箱の隙間で、ボロ布の怪人がわずかに身をよじっていた。完全には沈んでいない。衝撃は確実に通っているが、それでもまだ動ける。
「仮面を剥がさせてもらう」
低く落ちた声とともに、黒衣の怪人はダンボールの山へと歩みを進める。紫電がわずかに揺れ、床に影が伸びる。その足取りには迷いがない。
カライジは、その背を見て悟っていた。噂や断片的な情報ではない。目の前にいるこれこそが、この数年、学院やこの国で確認され続けてきた本物だと。
理解した上で、それでも体は動いた。
ブーストアックスを握り直し、踏み込む。軸をぶらさず、一気に振り抜く。
「……っぐ!」
だが刃は届かない。
黒衣の怪人は振り返りもせず、伸ばした手で斧の刃を掴んだ。ゴツゴツとした鉄のような手甲が、刃先を噛み止める。火花が散り、金属が軋む音が耳に刺さる。それでも一切、揺るがない。
「安心しろ。見た目以上に無害だ」
抑揚の薄い声が返る。その言葉は、目の前の惨状とあまりにもかけ離れていた。
「……避難しろ!」
カライジは叫ぶ。だがその声は、背後のサイフウへではない。視線は廊下の奥、吹き飛ばされたボロ布の怪人へと向けられている。
ダンボールの山の中で、かすかに動く影。
「……? 関与してるのか……? ……だが事情聴取よりも、本体を押さえる方が先だ……!」
黒衣の怪人は短く思考を巡らせると、掴んでいた斧にわずかに力を込める。
次の瞬間、押し返された。
重さごと押し戻され、カライジの体が後方へと弾かれる。踏ん張りきれず、バランスを崩し、そのまま尻もちをつく。鈍い衝撃が床から伝わり、息が一瞬詰まる。
黒衣の怪人はすでに視線を外していた。標的を定め、動く。
一歩、踏み出す。
そのまま加速する。紫電が尾を引き、空気を裂く音だけが残る。廊下を真っ直ぐに駆け抜けていく。規律も制止も関係ない。一直線に、ただ目的だけを追って。