「キミがどうして怪人の模倣なんか……」
ララクが言葉を詰め、踏み出そうとした刹那だった。背後の空気がわずかに削れる。風とも違う、意図を持った動きの気配。思考よりも先に体が反応し、振り向く。
黒衣の怪人が、後ろへ引く一歩を刻んでいた。
静かだが確実な後退。足裏が地面を離れる瞬間に、次の軌道まで決まっているような動き。逃げるための一歩でありながら、攻防の主導権を手放していない距離の取り方だった。
「ここまで来て、また逃亡か!」
声が鋭く飛ぶ。空気がぴんと張る。
「学生のたわむれに、真剣に反応してしまったようだ。これ以上とどまり続け、おまえというリスクと対面する気はない」
抑揚の薄い機械音声。それでも選ばれた言葉は明確で、迷いはない。判断が完了している声だった。
「雨音がないせいか。あなた、結構喋ってくれるんだな」
ララクは距離を詰めながら言う。だがその足運びは慎重だ。相手の間合いを崩さないように、同時に逃さないように。
黒衣の怪人はわずかに顔を向ける。
「二人言は久しいさ」
その返答と同時に、外套がふわりと持ち上がる。空気をはらみ、次の動作を隠すように広がる。直後、地面を蹴る音が遅れて届く。
一瞬で加速していた。
進行方向は迷いがない。倉庫や職員室の並ぶ校舎側へ一直線。直線的な動きだが、踏み込みごとに軌道が微調整され、最短距離を選び続けている。
玄関は使わない。
開いた窓。その枠へ吸い込まれるように身体を滑らせる。肩も腕もぶつけない。狭い開口部を、形を変えるように通過し、そのまま内部の暗がりへ消えていく。
「あなたが全て吐けば、ボクは真実に近づける。根拠は何もないけれど!」
ララクも即座に動く。間を置かない。地面を蹴り、同じ軌道へ身体を乗せる。視界が外光から陰へと切り替わる瞬間、瞳孔が一瞬で順応する。
窓枠を越え、廊下へ着地。足裏に伝わる硬質な感触。わずかな摩擦音だけが残る。
止まらない。
前方、わずかに揺れる黒衣の影。その残像を追いながら、ララクは走る。
頭の中では結論が出ていない。正体も、目的も、繋がりも断片のまま散らばっている。それでも思考は止まらず、可能性だけが増えていく。
分からない。だからこそ、距離を詰めるしかない。
視界の先、曲がり角の向こうへ消えかけた影に向けて、ララクはさらに踏み込んだ。
「颯の弓+【アイシクルアロー】!」
踏み込みと同時に、ララクの手元で骨組みが立ち上がる。空間に線が引かれ、それが瞬時に弓の形を取る。
これはスキル【ボウクリエイト】による効果だ。
握るより先に引ける軽さ。しなりは鋭く、解放が速い。走行中でも動作が噛み合うよう設計された代物・それが颯の弓だ。
指先に冷気が集まり、矢が生まれる。【アイシクルアロー】のスキル効果が発揮されている。
生成、番え、解放。動作が分離しない。脚は前へ運び続け、上半身だけが別の時間で動く。矢が連なり、間を詰めて前方へ押し出される。
直線だけではない。壁際を舐めるように滑る軌道、床すれすれから跳ね上がる角度。廊下そのものを使って射線が折れ、黒衣へ収束していく。
対する影も減速しない。
「弾数、増加を確認。処理は可能」
足運びが細かく刻まれる。靴底が床を擦る音が短く連なる。腕部が展開し、刃へ変形。振りは小さい。だが角度が正確だ。正面の矢を割り、側面から侵入するものを弾き、身体の傾きだけで致命の線を外す。
砕けた氷が飛び散る。
破片は勢いを失わず、壁へ打ち付けられ、床を跳ねる。踏み抜かれて粉砕され、さらに細かくなる。通過した軌跡に、白い欠片が連なっていく。
ララクは引き続ける。呼吸と同期させ、射出の間隔を詰める。だが指の感覚が削がれ、微細な遅れが生じる。
「速射性は高い。だが持続には限界がある」
黒衣の怪人は半歩だけ軌道を外す。密集していた射線の芯を抜け、数本が空振りする。背後で壁に突き刺さり、遅れて砕ける音が響く。
ララクは弓を持ったまま魔力を切り替える。
「指が足りない……追撃の【アイシクルランス】!」
前方の空気が引き寄せられるように冷え、太い氷塊が一瞬で槍の形を取る。走る勢いをそのまま乗せ、射出。廊下の空気が押し潰される。
黒衣の怪人が一歩踏み込む。
「高密度個体には、熱で対処する」
刃に熱が走る。赤く帯びた一撃が氷槍と衝突した瞬間、内側から崩れる。中心は蒸気へ変わり、周囲だけが弾け飛ぶ。
白い霧が走路を覆う。
焼かれなかった破片が壁や床へ叩きつけられ、乾いた音を残す。視界は荒れるが、足は緩まない。
霧の向こうで影が揺れる。
ララクはそれを見失わず、凍りついた指で弓を握り直す。次の一手を組み立てながら、さらに踏み込みを深くした。
狭い通路の中、削られた氷と熱の残滓が、二人の通過を遅れて語っていた。