彩葉の脳破壊前にお茶を濁していきましょう。
今は昔、地球から遠く離れた月という星に、小さな姫がいました。
その御方は大層、可愛らしく、月の民からも可愛がられました。
その笑顔に皆が惹かれ、その活気あふれる様子に月の民も元気をもらっていました。
ですが、やがてそんな姫も育ち続け、いつの間にか仕事をする年齢にまで至りました。
傍から見れば幼子でも、姫は仕事へと一生懸命励む。
姫もそのつもりでした。
ですが、仕事は姫の想像を遥かに超えて退屈なものでした。
姫は、仕事場から抜け出す事が増えました。
時には障子を突き破り、時には畳の下に穴を作り、時には変装をしたりもしました。
それに困った偉い人々が、とある策を練りました。
監視役を付ける事にしたのです。
月人の中から最も仕事ができ、最も面倒見の良い者を選び、その者を監視役にする事にしました。
「お初にお目にかかります、姫」
「よろしく~!!」
恭しく頭を下げたその者は、姫に笑顔で迎えられました。
「姫!逃げてはいけません!仕事が終わっていません!!」
「い~や!一緒に遊ぼ~」
姫は自分の仕事を、ずっと一人で行ってきました。
隣に、誰もいなかったのです。
姫は、ずっと、寂しかっただけなのです。
「……仕方ありません。少しだけ、ですよ」
監視役は深いため息をつきながらも、姫の差し出した手を取った。
その日から、姫は仕事場を抜け出すたびに、監視役も一緒に連れ回しました。
庭を駆け回り、池の魚に餌をやり、月の兎を追いかける。
監視役は最初こそ困り果てていたが、やがて姫の笑顔を見るたび、叱る言葉も少なくなっていった。
「姫、本日はどこへ行かれるおつもりで?」
「んー……秘密!」
そう言って駆け出す姫を、監視役は慌てて追いかける。
月の民は、そんな二人を見て笑った。
姫は変わらず元気で、以前よりもさらに楽しそうだったからだ。
お偉い方々も、姫の仕事は全て終わっている為、何も言えませんでした。
そして監視役もまた、以前より柔らかな表情を見せるようになっていた。
けれど、楽しい時間ばかりは続かない。
ある日、姫はふと尋ねた。
「ねぇ、どうしていつも一緒にいてくれるの?」
監視役は少しだけ目を丸くし、それから静かに答えた。
「それが私の役目ですから」
「役目じゃなかったら?」
その問いに、監視役は言葉を失った。
姫はじっと、その答えを待っている。
やがて、監視役は小さく微笑んだ。
「……それでも、私は姫の傍にいますとも」
その答えを聞いた姫は、満面の笑みを浮かべた。
「そっか!じゃあ、ずっと一緒だね!」
その言葉に、監視役は何も返せなかった。
ただ、少しだけ耳を赤くして、静かに頷いた。
それからというもの、姫は以前にも増して仕事を頑張るようになった。
早く終わらせれば、その後に監視役と過ごせるからだ。
監視役もまた、姫の隣で支え続けた。
仕事を手伝い、時に叱り、時に褒める。
二人はいつしか、監視役と姫以上の、かけがえのない存在になっていた。
月の夜。見上げると幾千もの星々が、二人を歓迎しました。
姫は縁側に座り、隣の監視役へと寄りかかる。
「ねぇ」
「なんでしょう」
「わたし、あなたが来てくれて、本当に良かった」
監視役は一瞬だけ目を伏せ、そして優しく笑った。
「私もですよ、姫」
月は静かに輝いていた。
姫の笑顔もまた、それに負けないほど明るく、美しかったという。
□
さて、ここで一つ困ったことがありました。
姫は姫、監視役は監視役。
月の民はそう呼んでいましたが、当の二人はそれでは少し味気ないと思っていたのです。
「ねぇ」
ある日のこと、姫は書物を閉じ、監視役へと顔を向けました。
「なんでしょう」
「あなた、名前はあるの?」
監視役は、一瞬だけ目を瞬かせました。
「姫も知っているでしょう?私達に名などありません」
「私は運良く、姫の監視役に選ばれただけに過ぎない存在ですから」
「じゃあ、わたしがつける!」
なんとも姫らしい提案でした。
監視役が止める間もなく、姫は腕を組み、うーんとうなり始めます。
夜空を見上げ、庭を見下ろし、監視役の顔をじっと見つめる。
やがて、姫はぱっと表情を明るくしました。
「さくや!」
「……さくや、ですか」
「うん!月の夜って感じで、あなたにぴったり!」
監視役――もとい、さくやは、その名を口の中で静かに転がしました。
不思議と、悪い気はしませんでした。
「では、ありがたく頂戴いたします」
「やった!」
姫は満足げに胸を張りました。
けれど、すぐに首を傾げます。
「……あれ?」
「どうされました?」
「わたしのこと、みんな姫って呼ぶよね」
確かに、その通りでした。
月の姫である以上、それは当然のこと。
しかし姫は、どこか不満そうに唇を尖らせます。
「さくやだけは、特別な名前で呼んでほしいな~」
その言葉に、さくやは目を細めました。
「でしたら、姫もお名前を考えてみては?」
「え、いいの!?」
「もちろんです」
姫はしばらく考え込みました。
夜空を仰ぎ、星を見つめ、そして自分の胸に手を当てる。
「……かぐや」
「かぐや、ですか」
「うん!なんだか、しっくりくる!」
それはまるで、ずっと前からそう呼ばれていたかのように自然な響きでした。
かぐや姫は、満面の笑みを浮かべます。
「じゃあ、呼んでみて!」
「……かぐや様」
「様はいらない!」
なかなか難しい注文です。
朔夜は少しだけ考え、それから柔らかく微笑みました。
「一度だけですよ……」
「かぐや」
その一言に、姫の顔は満開の花のように輝きました。
「うん!」
「改めまして、よろしくお願いします」
「こちらこそ、よろしくね、さくや!」
二人は笑い合いました。
その日から、月の都では、姫はかぐや(様)、監視役はさくやと呼びあうようになりました。
もっとも、正式な場では相変わらず「姫」と「あなた」呼びでしたが。
二人きりの時だけは違います。
「さくやー!」
「また逃げるおつもりですか、かぐや様」
「違うよ!一緒にお散歩!」
「……それを世間では逃げると言うのです」
そんなやり取りが、月の都に今日も響きます。
名前とは不思議なもの。
ただの呼び名でありながら、二人の距離をぐっと縮めてくれるのですから。
こうして、かぐやとさくやは、互いにこれまで以上に特別な存在となりました。
月が輝く限り。
二人の物語も、きっと、ずっと続いていく筈でした。
□
ある日のこと。
かぐやは、縁側に座りながら、じっと夜空を見上げていました。
「ねぇ、さくや」
「なんでしょう」
「わたし、地球に行ってみたい」
その一言に、さくやの動きが止まりました。
「……地球、ですか」
「うん!あんなに綺麗なんだもん。きっと楽しいことがいっぱいあるよ!」
瞳を輝かせるかぐや。
ですが、さくやの表情は曇ります。
「なりません」
かぐやは、ぱちぱちと目を瞬かせます。
「えー!?なんで!?」
「危険だからです。月とは違い、何が起こるか分かりません」
「でも、行ってみたいの!」
「駄目です」
普段なら、少しくらい譲歩してくれるさくや。
けれど、この時ばかりは頑として首を縦に振りませんでした。
かぐやも、引き下がるような性格ではありません。
「さくやのけち!」
「けちで結構です」
「もう知らない!」
ぷいっと顔を背け、かぐやは走り去ってしまいました。
さくやは追いかけませんでした。
追いかければ、きっと余計に拗れてしまうと分かっていたからです。
それから数日。
二人の間には、ぎこちない空気が流れていました。
かぐやは必要最低限しか口を利かず、さくやもまた、無理に話しかけることはしません。
月の民は、二人の様子を見ておろおろするばかりでした。
偉い人達は別に仕事は順調なので、文句はありませんでした。
そして、さらに数日後。
縁側で一人、かぐやは夜空を見上げていました。
そこへ、さくやが静かに腰を下ろします。
先に口を開いたのは、さくやでした。
「……申し訳ありませんでした」
かぐやは驚いたように振り向きます。
「危険だと思ったのです。あなたに何かあれば、私は……」
言葉は最後まで続きませんでした。
ですが、その意味は十分に伝わりました。
かぐやは、しばらく黙っていましたが、やがて小さく笑いました。
「わたしも、ごめんね」
「さくやは、心配してくれたんだよね」
さくやは、静かに頷きます。
かぐやは、にっと笑いました。
その笑顔で、さくやは考えていた事を決断するに至りました。
さくやは、青く輝く地球を静かに見上げました。
かぐやもまた、同じ星を見つめています。
そのかぐやの横顔には、憧れと期待が溢れていました。
しばしの沈黙の後、さくやはゆっくりと口を開きます。
「……かぐや様」
「ん?」
「私が、先に地球へ参りましょう」
かぐやは、きょとんと目を瞬かせました。
「……え?」
「危険がないか、この目で確かめてまいります」
けれど、その決意は揺らぎませんでした。
かぐやは数回瞬きを繰り返し、ようやく意味を理解すると、途端に顔をしかめます。
「やだ」
さくやは思わず小さく笑います。
「理由を伺っても?」
「だって、さくやがいなくなっちゃうもん」
頬を膨らませ、かぐやはそっぽを向きます。
ほんの数日前まで、地球に行きたいと駄々をこねていたとは思えない反応でした。
「ほんのしばらくです」
「しばらくでもやだ」
「安全を確かめなければ、かぐや様をお連れすることはできません」
「むぅ……」
反論できず、かぐやは唸りました。
地球には行きたい。
でも、さくやと離れるのはもっと嫌。
その葛藤が、表情にありありと浮かんでいます。
さくやは、そんなかぐやを見て、優しく目を細めました。
「必ず連絡しますとも」
「絶対?」
「ええ、このブレスレットがある限りは」
「……すぐ?」
「できる限り早く」
「約束?」
さくやは、そっと小指を差し出しました。
「約束です」
かぐやは、その指をじっと見つめます。
しばらくして、おずおずと自分の小指を絡めました。
「……破ったら、月中追いかけ回すからね」
「それは恐ろしいですね」
「本気だよ?」
「ええ、存じております」
そう言って笑うさくやに、かぐやもつられて笑います。
けれど、その笑顔には少しだけ寂しさが混じっていました。
「いつ行くの?」
「準備が整い次第……ですかね」
「そっか……」
かぐやは地球を見上げ、それからさくやへと視線を移します。
「早く……ね」
ぽつりと零れたその言葉に、さくやは静かに頷きました。
「必ず」
その返事は、何よりも確かな約束でした。結局、叶う事はありませんでしたが。
かぐやはそっと、さくやの肩にもたれかかります。
さくやもまた、その温もりを大切そうに受け止めました。
青い地球は、まるで二人の未来を祝福するかのように、静かに輝いていたのでした。
まぁもうかぐやとも幼馴染みたいなもんです。
月の世界は本当は夏祭りのかぐやが言っていたように、クソつまんない世界なんですが……このお話には、ちゃんとそこがおかしい理由があります。次でちょっと話すのでお待ちくださ〜い。