京都の夏は、逃げ場がない。
駅を出た瞬間から、盆地に溜まった熱がじわりと肌にまとわりついて、日傘の影すら頼りなく思える。
石畳の道も、町家の格子も、涼しげな顔をしているくせに、ぜんぶ内側に熱を隠しているみたいだった。
彩葉は、いつもより少しだけ歩く速度が速かった。
それに気づかないふりをして、朔夜は手土産の紙袋を持ち直す。
中身は、朝から悩みに悩んで選んだ和菓子と、彩葉が昔ぽつりと漏らした、母の好きなお茶。高すぎても気を遣わせる。安すぎても失礼になる。そんなことを考えていたら、結局ほとんど眠れなかった。
かぐやはその隣で、完全に観光客の顔をしていた。
「すごい!京都って道まで雰囲気ある!あ、あれ食べたい!あっちの暖簾かわいい!でも今日は結婚のご挨拶だから我慢する!」
我慢と言いながら、視線は一秒ごとに左右へ跳ねる。
ヤチヨはそんなかぐやの襟元をそっと直しながら、楽しそうに笑っていた。
今日のヤチヨは、派手すぎない薄青のワンピースに、白いカーディガンを羽織っている。どこか月明かりみたいで、京都の古い町並みに妙に馴染んでいた。
「かぐや、今日はハッピーエンドのための大事なイベントだからね。寄り道は帰りにしよう」
「うん!今日は彩葉のお母さんに、かぐやたちはちゃんと家族ですって言う日!」
その言葉に、彩葉の肩がわずかに跳ねた。
家族。
その二文字は、彩葉にとってずっと簡単な言葉ではなかった。
望んで、近づいて、けれど近づきすぎるのが怖くて。誰かに選ばれたくて、それでも選ばれた後の責任に怯えて。そうやって何年も、朔夜の隣を当たり前みたいな顔で歩いてきた。
今日、その当たり前を、母に差し出しに行く。
路地の奥にある家は、思っていたより静かだった。
玄関先に置かれた小さな鉢植え。古いけれど手入れの行き届いたその家は、彩葉の母親らしいと思った。無駄がなく、隙がなく、乱れがない。
インターホンを押す前に、彩葉が深く息を吸った。
朔夜は、何も言わずにその手を取った。
指先は少し冷たかった。京都の暑さなんか嘘みたいに、緊張で冷えている。だから強く握りすぎないように、でも離れない程度に包む。
彩葉は一度だけこちらを見た。
その目が、昔みたいに「大丈夫?」と聞いている気がしたから、朔夜は言葉の代わりに小さく頷いた。
ピンポーン。
音が、家の奥へ吸い込まれていく。
しばらくして、引き戸が開いた。
彩葉の母は、昔見たよりもずっと細く、けれど眼差しだけは少しも弱っていなかった。
涼しげな薄鼠色の着物に、きっちり結われた髪。彩葉と似た輪郭。似た目元。けれど、その奥にあるものは、彩葉よりずっと固かった。
「よう来はったね。暑かったやろ」
短い一言だった。
歓迎でも拒絶でもない。ただ、玄関先に立つ四人を、きちんと家の中へ入れるための言葉。
彩葉が背筋を伸ばす。
「お母さん。今日は時間を作ってくれてありがとう」
「話は、中で聞かせてもらいます」
そうして通された客間は、畳の匂いがした。
床の間には季節の花が活けられている。机の上には冷たいお茶と、人数分の干菓子。すべてが整っていた。整いすぎていて、かぐやですら最初の一分は大人しかった。
四人が並んで座る。
彩葉の母は向かいに座り、まず彩葉を見た。
「それで。結婚の挨拶、いうことでええのね」
空気が、ぴんと張った。
彩葉の喉が小さく動く。返事をしようとして、けれど言葉が一拍遅れた。
朔夜は、その隙間に割り込まない。
これは彩葉の言葉でなければいけない。そう思ったからだ。
彩葉は膝の上で指を握り、それから顔を上げた。
「うん。私は、朔夜と結婚する。かぐやとヤチヨも一緒に、これからも家族として生きていく」
母の目が、朔夜へ移る。
「神代さん」
「はい」
「あなたは、そのことをどう考えてはるの」
試されている。
怒られているわけではない。責められているわけでもない。ただ、言葉の重さを測られている。
朔夜は、用意してきた挨拶文を頭の中で一度だけ思い出した。昨夜、何度も打っては消した文章。誠実で、礼儀正しくて、たぶん正解に近い言葉。
でも、それをそのまま言ったら、きっと彩葉の母には届かない。
だから朔夜は、整った言葉を紙みたいに捨てた。
「俺は、彩葉さんを幸せにします、って言い切るのは少し違うと思っています。もちろん、泣かせたくないし、苦しませたくないです。でも俺一人が彩葉を幸せにするんじゃなくて、彩葉が自分で選ぶ幸せの隣に、俺がずっといたいです」
彩葉が隣で息を止める気配がした。
「彩葉は、昔から何でもできました。俺よりずっと前を歩いてるように見えて、でも本当は、ずっと一人で踏ん張ってた。俺はそれに気づくのが遅かった。だからこれからは、追いかけるだけでも、守るだけでもなくて、一緒に歩きたいです」
母は表情を変えない。
けれど、その視線は逸らされなかった。
「彩葉が俺を選んでくれたなら、その選択を後悔させないように生きます。間違えることもあると思います。情けないところも多いです。でも、逃げません。彩葉からも、この家族からも」
言い終えた瞬間、かぐやが隣でぷるぷる震えていた。
泣いているのかと思ったら、我慢していたらしい。
「かぐやも言う!」
「かぐや、今は」
「言う!」
彩葉が止めるより早く、かぐやは畳に両手をついて、勢いよく頭を下げた。
「彩葉のお母さん!かぐやは、彩葉と朔夜とヤチヨと一緒にいると、毎日がハッピーエンドみたいになります!でもハッピーエンドって、勝手に降ってくるんじゃなくて、みんなで作るものだって知りました!」
母の眉が、ほんの少しだけ動いた。
「かぐやは、彩葉にいっぱい助けてもらいました。怒られたし、呆れられたし、たまに怖かったけど、彩葉はいつもちゃんと見てくれました。だから今度は、かぐやも彩葉のこと見る! 彩葉が一人で我慢しようとしたら、すぐ見つける!それで、パンケーキ食べさせる!」
「最後で急に雑」
思わず朔夜が小さく漏らすと、かぐやが真剣な顔で振り向く。
「雑じゃないよ!パンケーキは幸せの味でしょ!」
その言葉に、ヤチヨがふふっと笑った。
彩葉の母は、そんな三人をしばらく眺めていた。厳しい目ではある。けれど、完全に拒絶する人間の目ではなかった。
ヤチヨが、静かに口を開く。
「私からも、少しだけ。彩葉は、とても優しい子です。優しいから、自分の苦しさを後回しにしてしまう。正しいことを選ぼうとして、自分の欲しいものをなかったことにしようとする。でも、今の彩葉ちゃんは、ちゃんと欲しいものを欲しいと言えるようになりました」
ヤチヨの声は、歌っていないのに音楽みたいだった。
「それは、弱くなったんじゃありません。たぶん、強くなったんです。誰かと生きる強さを、彩葉は選んだんだと思います」
母はそこで初めて、お茶に手を伸ばした。
氷が、からんと小さく鳴る。
「……あなたたちは、ずいぶん賑やかなんやね」
「はい!毎日うるさいです!」
「かぐや、そこは否定して」
「でも本当だし!」
彩葉が額に手を当てる。朔夜は苦笑し、ヤチヨは楽しそうに目を細めた。
その光景を見て、母は長い息を吐いた。
「彩葉」
「……うん」
「私はな、彩葉には後悔せん道を歩いてほしかったんよ。失敗せんように、遠回りせんように、正しいものを選べるように。そう思って言うてきたことが、あなたを苦しめてたんやったら……私も、間違うてたんやろね」
彩葉の目が揺れた。
母の声は、柔らかくはない。謝罪にしては硬い。けれど、そこには確かに母親の不器用さがあった。
「ただ、すぐに全部わかったとは言われへん。あなたたちの関係も、暮らし方も、私にはまだ分からへんことが多い。せやから、今日ここで手放しに祝福します、とは言えません」
畳の上に、沈黙が落ちる。
けれどそれは、拒絶の沈黙ではなかった。
「でも、反対はしません」
彩葉が、はっと顔を上げる。
「あなたが自分で選んだんやったら、その先を見ます。……神代さん」
「はい」
「彩葉を幸せにする、やなくて、一緒に幸せになる。そう言わはりましたね」
「はい」
「なら、その言葉を忘れんといて。彩葉は、完璧な子やありません。強い子でもありません。強いふりが上手いだけです」
彩葉が何か言い返そうとして、結局できずに俯いた。
母は続ける。
「気づいてあげてください。けど、甘やかしすぎんといて。支えることと、代わりに背負うことは違います」
朔夜は深く頭を下げた。
「はい。覚えておきます」
「かぐやさん、ヤチヨさん」
「はい!」
「はい」
「彩葉は、人に頼るのが下手です。あなたたちが賑やかにしてくれるなら、この子も少しは息がしやすいんやと思います。……どうぞ、よろしくお願いします」
かぐやの顔が、一瞬で花火みたいに明るくなった。
「任せて!彩葉がしょんぼりしてたら、かぐやが全力でぎゅーってする!」
「それは時と場合を選んでね」
「えー!」
彩葉の声は呆れていたけれど、目元は少し赤かった。
母はそれを見て、ほんのわずかに表情を緩めた。
それは笑顔と呼ぶには小さすぎる変化だった。でも彩葉は気づいたらしく、唇を噛んでいる。
朔夜は、握っていた手に力を込めた。
今度は彩葉も、ちゃんと握り返してきた。
□
話が一段落したあと、彩葉の母は湯呑みを置いた。
「……神代さん。少しだけ、二人で話せますか」
その一言に、彩葉が顔を上げた。
「お母さん」
「大丈夫。叱るためやない」
母はそう言ったあと、朔夜をまっすぐ見た。
「ほんの少し、聞いておきたいことがあるだけや」
朔夜は一度、彩葉を見た。
不安そうな目だった。
けれど、止める目ではなかった。
「分かりました」
朔夜が頷くと、かぐやがすぐに立ち上がりかけた。
「かぐやも聞く!」
「かぐやは座ってて」
「なんで!」
「二人で話す言うてはるでしょ」
彩葉に袖を掴まれて、かぐやは不満そうに頬を膨らませた。ヤチヨがその肩にそっと手を置き、静かに首を振る。
「かぐや。待つのも、大事な家族の役目だよ」
「むぅ……じゃあ待つ。でも長かったら迎えに行く」
「それはたぶん待ててない」
そんなやり取りを背に、朔夜は母について客間を出た。
廊下は、客間より少しだけ涼しかった。
□
その先で、何を話したのか。
彩葉にも、かぐやにも、ヤチヨにも、まだ分からなかった。
ただ、戻ってきた
彩葉が問いかける前に、朔夜はいつもの調子で手土産の紙袋を持ち直した。
「えっと……お茶、淹れ直しましょうか。俺、台所借りてもいいですか」
彩葉の母は、少しだけ間を置いてから言った。
「今日は、お客さんでいてええよ」
それから、ほんのわずかに唇を緩める。
「……次に来はる時は、台所を使うてもらっても構いませんけど」
朔夜は一瞬、意味が分からず瞬きをした。
彩葉が隣で小さく笑う。
「お母さん、それ、料理作ってって意味だよ」
「そこまでは言うてません」
「言ってるじゃん」
母は否定しなかった。
かぐやがその場で跳ねた。
「パンケーキ! 京都の家でパンケーキ作ろ!」
「いや、さすがにご挨拶の次にパンケーキはどうなんだ」
「ハッピーエンドの味だから大丈夫!」
ヤチヨが朔夜の紙袋をそっと持ち直しながら、穏やかに笑った。
「じゃあ次は、お茶に合うパンケーキを研究しないとね」
彩葉は、涙を誤魔化すみたいに少しだけ顔を背けた。
けれどその横顔は、来る前よりずっと軽かった。
帰り際、玄関で靴を履いていると、彩葉の母が彩葉を呼んだ。
「彩葉」
「……なに」
「また、顔を見せに来なね」
それだけだった。
けれど彩葉は、その言葉を受け取るのに少し時間がかかった。
「……うん。また来る」
「神代さんたちも」
「はい!」
「ありがとうございます」
「こちらこそ」
かぐやとヤチヨがそれぞれ返事をする中、朔夜だけは少し遅れて頭を下げた。
「また、来ます」
母は小さく頷いた。
外に出ると、京都の夕方はまだ暑かった。
それでも、来た時より息がしやすい。
格子戸が閉まる音を背に、四人は並んで歩き出す。かぐやが先頭で次の甘味処を探し、ヤチヨがそれをたしなめ、彩葉が呆れながら笑って、朔夜はその全部を見ながら思った。
たぶん、これで全部が解決したわけじゃない。
母親との距離も、これからの生活も、結婚という言葉の重さも。何ひとつ、簡単なものではない。
それでも。
彩葉の手が、当たり前みたいに朔夜の手を探してきた。
だから朔夜も、当たり前みたいに握り返す。
その先で、かぐやが振り返って叫んだ。
「ねぇ!このあと四人で甘いもの食べよ!結婚のご挨拶成功記念!」
彩葉は少しだけ考えるふりをしてから、仕方なさそうに笑った。
「……今日くらいは、いいんじゃない」
ヤチヨが嬉しそうに手を叩く。
「じゃあ決まりだね」
京都の空に、夕焼けが滲んでいた。
月が昇るにはまだ早い。
けれど四人の影は、もう同じ方向へ伸びていた。
お母さんと朔夜が話した内容は次の次のお話で分かります。
次は結婚式で~す。