結婚式というものは、もっと静かで、もっと厳かで、もっと背筋を伸ばして迎えるものだと思っていた。
少なくとも、彩葉はそう思っていた。
「彩葉ぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!綺麗!世界一!宇宙一!月一!」
「月一って何」
「月で一番ってこと!」
「比較対象が妙に具体的なんだけど」
控室の前で、かぐやはもう泣いていた。
まだ式は始まっていない。親族紹介も、新婦入場も、誓いの言葉も、何も始まっていない。それなのに、純白のドレスを着た彩葉を見た瞬間、かぐやは両手で顔を覆って泣き始めた。
ヤチヨがその隣でハンカチを差し出しながら、困ったように笑っている。
「かぐや、泣くの早いよ。まだ本番じゃないからね」
「だってぇ、彩葉が綺麗なんだもん!朔夜に取られちゃう!」
「いや、かぐやも同じ家に帰るじゃん」
「それはそう!」
立ち直るのも早かった。
彩葉は呆れながら、鏡の中の自分を見る。
白いドレス。控えめなレース。首元には、朔夜が昔くれた青いネックレス。
派手すぎないものを選んだはずなのに、鏡に映る自分は、どこか自分ではないみたいだった。
今日、自分は結婚する。
神代朔夜と。
幼馴染で、隣にいるのが当たり前で、当たり前すぎて何度も見失いかけた人と。
そしてこれは、ただ二人だけの結婚式ではない。
かぐやもいる。
ヤチヨもいる。
便宜上は、彩葉の結婚式。
けれど本当は、四人が家族になるための日だった。
「彩葉」
ヤチヨが、そっと彩葉の肩に手を置いた。
「大丈夫?」
「……うん。大丈夫」
「本当?」
「ちょっとだけ、緊張してる」
「そっか」
ヤチヨは、歌う前みたいに優しく笑った。
「じゃあ、それは大事にしよう。今日の緊張は、きっと一生ものだから」
彩葉は、小さく息を吐いた。
「ヤチヨって、たまにほんとずるいこと言うよね」
「ふふ。褒め言葉として受け取っておくね」
「褒めてる」
かぐやが横から、彩葉の手をぎゅっと握った。
「彩葉。ハッピーエンドだよ」
「……まだ途中でしょ」
「じゃあ、超ハッピー途中経過!」
「何それ」
笑ってしまった。
それだけで、胸の奥に固まっていたものが少しだけほどける。
扉の向こうでは、誰かが慌ただしく走る音がした。
今日という日は、どうやら静かには終わってくれなさそうだった。
□
朔夜は、控室へ続く廊下で深呼吸をしていた。
スーツは、どうにも慣れない。
配信で何万人に見られても、ライブ会場のど真ん中に放り込まれても、月の長老と話しても、ここまで心臓が暴れたことはなかった気がする。
「顔、固い」
「うおっ」
背後から声をかけられて振り向くと、綾紬が立っていた。
いつも通り、表情は大きく変わらない。ただ今日の服装は式に合わせたもので、普段より少し大人びて見えた。
「綾紬か。びっくりした」
「新郎がその顔で入場したら、彩葉が笑う」
「それはそれで緊張ほぐれるからありかも」
「なし」
「厳しい~」
綾紬は朔夜の隣に並び、壁に背を預けた。
しばらく、二人とも何も言わなかった。
廊下には控えめな花の香りが漂っている。遠くから、スタッフの声と来賓のざわめきが聞こえた。
「彩葉、綺麗だったよ」
綾紬がぽつりと言った。
「見たのか?」
「少しだけ」
「そっか」
「泣きそうになった」
「綾紬が?」
「悪い?」
「いや、全然」
朔夜は少し笑った。
それから、ずっと胸の中に置いていたことを思い出す。
言わなくてもいいことだった。
けれど、今日だからこそ、言っておいた方がいい気がした。
「……綾紬さ」
「うん」
「彩葉のこと、好きだったろ」
綾紬の表情は、ほとんど変わらなかった。
ただ、ほんの少しだけ目が細くなった。
「気づいてたんだ」
「まあ、なんとなく」
「いつから」
「かなり前から」
「最悪」
「……ごめん」
「謝るところじゃない」
綾紬は天井を見上げた。
淡々とした声だった。
けれど、その横顔は少しだけ痛そうに見えた。
「彩葉は、眩しかった」
「うん」
「何でもできるところじゃなくて。何でもできるふりして、でもたまに苦しそうなところが」
朔夜は黙って聞いた。
「助けたいと思った。でも、彩葉が一番最初に見るのは、いつも朔夜だった」
「……」
「それが嫌だったこともある」
綾紬は、正直に言った。
「でも、彩葉が朔夜を見る時の顔を見たら、勝てないって分かった」
「そんな顔してたか?」
「してた。朔夜は鈍い」
「それ、最近色んな人に言われる」
「事実だから」
容赦がなかった。
けれど、その声にはもう棘がない。
綾紬はゆっくりと息を吐いた。
「悔しかった。でも、安心もした。朔夜なら、彩葉を一人にはしないと思ったから」
「……するわけないだろ」
「知ってる」
綾紬は、初めて少しだけ笑った。
すぐに消えそうな、小さな笑みだった。
「だから、今日はちゃんと祝う」
「ありがとな」
「でも、泣かせたら怒る」
「朝日さんにも昔、似たようなこと言われた」
「じゃあ、私も追加で」
「俺の周り、彩葉ガチ勢多くない?」
「当然」
綾紬は壁から背を離した。
そして、通り過ぎる直前に一度だけ立ち止まる。
「神代」
「ん?」
「彩葉をよろしく」
ありふれた言葉だった。
でも、綾紬が言うと少し違って聞こえた。
それでも朔夜は。
「断る」
それに違和感を抱いた。
「は、はぁ!?」
「あのな、綾紬。バカかお前」
「な、なにが!!私だって………!」
「彩葉がお前に何を想ってるのかは知らない。人の心なんて当人にしか分からないしな」
「………」
「勝手に離れようとすんなよ。それは彩葉にとっちゃ迷惑だ」
「…ごめん」
「分かればいい。俺も言い過ぎた」
「神代は………」
「なんだ?」
「彩葉のどこを好きになったの?」
唐突の質問に、俺の頭はぐるぐる回った。
どこなのだろう。
いつからだろう。
考えても、考えても、考えても。
答えは一つしか出なかった。
「全部かな」
「…そっか」
綾紬はそれだけ聞くと、背を向けて歩いていった。
その足取りは、来た時より少しだけ軽く見えた。
□
式は、驚くほどあっという間に進んだ。
扉が開く。
白い光の中から、彩葉が歩いてくる。
その瞬間、朔夜は本当に呼吸を忘れた。
綺麗だと思った。
可愛いとも思った。
でも、それ以上に。
ああ、この人と生きてきたんだと思った。
子供の頃から。
バイト先で。学校で。ツクヨミで。月明かりの下で。
何度もすれ違って、何度も隣に戻って、ようやくここまで来た。
彩葉が隣に立つ。
目が合う。
「泣きそう?」
小声で聞かれた。
「そっちこそ」
「私は泣かないし」
「嘘つけ」
「うるさい」
そう言いながら、彩葉の目元は少し赤かった。
誓いの言葉は、たぶん綺麗に言えたと思う。
途中でかぐやがすすり泣く声が大きすぎて、参列者の何人かが笑った。
ヤチヨは讃美歌の代わりに、二人のために短い歌を歌った。
その声が式場に満ちた時、彩葉はとうとう少しだけ泣いた。
朔夜は、それを見ないふりをしなかった。
ちゃんと見て、指先でそっと拭った。
彩葉は恥ずかしそうに睨んできたけれど、その手を払うことはなかった。
□
披露宴は、だいぶ賑やかだった。
かぐやが勝手に余興を増やそうとしてスタッフに止められ、ヤチヨが歌うだけで会場の空気がライブ会場になり、彩葉の母が控えめな京都弁で「ほんま、賑やかなことやね」と呟いた。
その声が少しだけ嬉しそうだったことに、朔夜は気づかなかった。
朔夜は、来賓席を回りながら挨拶と礼を繰り返していた。
慣れない。
非常に慣れない。
料理を作る方が百倍楽だし、配信でコメントの奔流を捌く方がまだ気楽だった。
そんな朔夜の前に、乃依がグラスを片手に現れた。
「新郎さん、お疲れ」
「乃依。来てくれてありがとな」
「当たり前でしょ。さっくーの結婚式なんだから」
乃依は笑った。
いつも通りの笑顔だった。
朔夜には、そう見えたのだろう。
「彩葉さん、綺麗だね」
「だろ」
「即答じゃん」
「そりゃ即答するだろ。今日の彩葉見て黙ってる方がおかしい」
「ほんと、そういうところだよね」
「何が?」
「何でもない」
乃依は肩をすくめた。
言葉にするならば、朔夜にとって乃依は親友だったのだろう。
ゲームでも、配信でも、何でもない雑談でも、何度も助けられた。
踏み込みすぎず、離れすぎず、けれど本当に必要な時には自然に隣にいてくれる。
だから今日ここにいてくれることが、普通に嬉しかった。
「乃依にも、そのうち良い人できるんじゃないか?」
朔夜が何の気なしに言うと、乃依は一瞬だけ黙った。
ほんの一瞬。
朔夜は、その間の意味までは分からなかった。
「……ほんと、そういうところだよ」
「だから何が?」
「いい。分かんなくて」
「え、怒ってる?」
「怒ってない」
「ほんとに?」
「怒ってないってば」
乃依は笑った。
少しだけ困ったように見えたが、朔夜には理由が分からない。
「朔夜」
「ん?」
「幸せになりなよ」
「なるよ」
「彩葉だけじゃなくて、かぐやちゃんも、ヤチヨも、ちゃんと皆で」
「ああ」
「一人で背負いすぎないこと。何かあったら、相談のったげる」
「それはもちろん」
「ほんとかなぁ」
「信用ないな」
「あるよ。信用はしてる。でも心配もしてる」
乃依はグラスを軽く掲げた。
朔夜もそれに合わせる。
小さく、乾いた音が鳴った。
「おめでとう、朔夜」
「ありがとう、乃依」
「うん」
乃依はそれだけ言うと、少しだけ目を細めた。
「今日くらいは、世界で一番幸せな男みたいな顔してなよ」
「え、今してない?」
「してる。ちょっとむかつくくらい」
「むかつくのかよ」
「褒めてる」
「褒め言葉の癖が強い」
乃依は笑った。
ちゃんと笑っていた。
少なくとも、朔夜にはそう見えた。
□
乃依は、朔夜から少し離れたところで足を止めた。
会場では、誰かが笑っている。
かぐやの声がして、ヤチヨの歌声が少しだけ流れて、彩葉の友人たちが楽しそうに話していた。
朔夜は、もうこちらを見ていない。
乃依はそれを確認してから、小さく息を吐いた。
「……ほんと、幸せそ」
その声には、少しの呆れと、少しの懐かしさと、それ以上の祝福が混ざっていた。
朔夜のことが好きだった。
それはもう、否定しようのない事実だった。
彼が何気なく差し出す優しさに救われたこともある。隣で笑っているだけで、少しだけ特別になれた気がしたこともある。
彩葉の隣にいる朔夜を見て、胸の奥がちくりとしたことだって、一度や二度ではなかった。
でも、今は違う。
ただ、長い時間をかけて分かったのだ。
乃依にとって一番心地いい場所は、朔夜の恋人の席ではなく、親友の席だった。
ふざけて、からかって、困った時には呼び出されて、たまに呆れて、それでも最後には笑っていられる距離。
朔夜が何も気づかないまま「親友」と呼ぶその関係が、今の乃依にはちゃんと誇らしかった。
それでいい。
それがいい。
乃依はグラスの中身を一口だけ飲んだ。
少し甘かった。
思っていたより、ずっと美味しかった。
「幸せになりなよ、ほんとに」
今度の言葉は、届かなくてもよかった。
届かせる必要がなかった。
だってもう、乃依はちゃんと伝えたのだ。
おめでとう、と。幸せになりなよ、と。
親友として、胸を張って。
乃依は顔を上げる。
そして、もう一度笑って、皆のいる席へ戻っていった。
□
お色直しの後、彩葉は淡い青のドレスに着替えた。
白ではなく、青。
かぐや曰く「彩葉色」。
ヤチヨ曰く「朔夜が一番弱い色」。
朔夜は否定しようとしたが、実際に見た瞬間に言葉を失ったので、何も言えなかった。
「朔夜」
彩葉が近づいてくる。
「何か言うことは?」
「……綺麗です」
「敬語」
「綺麗だよ」
「よろしい」
満足そうに笑う彩葉が、あまりにも可愛かった。
かぐやが横から割り込んでくる。
「かぐやは?」
「可愛い」
「ヤチヨは?」
「綺麗」
「彩葉は?」
「世界一」
「よし!」
「何の確認?」
ヤチヨが笑い、彩葉が呆れ、かぐやが胸を張る。
その輪の中に、朔夜はいた。
式場のライトが、四人を柔らかく照らしている。
きっと、普通の結婚式ではない。
誰かに説明しようとすれば、少し難しい。
でも、ここにいる人たちは知っている。
彩葉がどれだけ頑張ってきたか。
朔夜がどれだけ隣にいようとしたか。
かぐやがどれだけハッピーエンドを信じたか。
ヤチヨがどれだけ長い時間、歌い続けてきたか。
だから、この日を祝福してくれている。
便宜上は、彩葉の結婚式。
けれど本当は、四人が家族になるための日。
朔夜は、隣にいる彩葉の手を取った。
彩葉は一瞬だけ驚いた顔をして、それから握り返してくる。
「なに?」
「いや」
「何か言いなよ」
「幸せだなって」
彩葉は、少しだけ目を見開いた。
それから、恥ずかしそうに視線を逸らす。
「……そういうの、急に言わないでよ」
「今日くらいいいだろ」
「まあ、今日くらいは」
かぐやが二人の間に飛び込んでくる。
「かぐやも幸せ!」
「はいはい」
「ヤチヨも!」
「もちろん」
ヤチヨが微笑みながら、四人の手にそっと自分の手を重ねた。
彩葉が笑う。
朔夜も笑う。
かぐやは泣きながら笑っていた。
遠くで、綾紬が静かに拍手をしていた。
乃依は友人たちの輪の中で、グラスを掲げていた。
写真は後に、四人の家のリビングに飾られることになる。
彩葉が少し照れていて。
朔夜が心底幸せそうで。
かぐやが泣き笑いで。
ヤチヨが全部を包むみたいに笑っている写真。
その日の光は、いつまでも色褪せなかった。
次回、覚悟の用意をしておいてください。
安心してください。バットエンドじゃありません。
前の紅葉さんと朔夜の会話内容も分かります。