彩葉に男の幼馴染がいたっていいじゃない   作:ザワザワする人

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愛する全てへカーテンコールを

彩葉の母と二人で話した日のことを、朔夜は長い間、誰にも言わなかった。

 

京都の家の奥にある、小さな和室だった。

 

障子の向こうでは蝉が鳴いていた。遠くの道を車が通る音も、庭の葉が揺れる音も、妙にはっきり聞こえた。

 

彩葉の母は、向かいに座った朔夜を静かに見ていた。

 

「神代さん」

 

「はい」

 

「あなたは、最後に一人になるかもしれへんことを、分かってはりますか」

 

その言葉の意味を、朔夜はすぐに理解した。

 

彩葉は普通の人間だ。

 

かぐやとヤチヨの義体も、人と一緒に生きるために作った身体だった。人と同じように年を取り、人と同じように老い、人と同じようにいつか終わる。

 

けれど、朔夜だけは違う。

 

月の民として生まれ、地球で育ち、長い因果の中に置かれた朔夜だけは、最後まで残る。

 

「彩葉は、あなたのことを選びました。あの子は一度決めたら、簡単には曲げへん子やから」

 

母の声は穏やかだった。

 

けれど、逃がさない声でもあった。

 

「けど、選ばれたあなたは、いつか見送る側になる。それでも、あの子と生きるって言えるん?」

 

朔夜は、すぐには答えられなかった。

 

覚悟ならある。

 

そう言えたら格好よかった。

 

けれどそんな簡単な言葉で、彩葉の人生を預かることはできない気がした。

 

朔夜は少しだけ目を伏せた。

 

「……怖いです」

 

彩葉の母は、何も言わなかった。

 

「彩葉がいなくなる日も、かぐやがいなくなる日も、ヤチヨがいなくなる日も。想像しただけで、正直怖いです。たぶん俺は、情けないくらい泣くと思います」

 

「……」

 

「でも、それが怖いから一緒にいないって選択は、もっと嫌です」

 

朔夜は顔を上げた。

 

「最後に一人になることより、最初から一緒にいなかったことの方が、俺には怖いです」

 

母は、長く黙っていた。

 

その沈黙の中で、朔夜は自分の言葉が綺麗でも正しくもないことを知っていた。

 

けれど、嘘ではなかった。

 

「……それなら、覚えといてください」

 

母は静かに言った。

 

「あの子を見送る日が来ても、あの子と生きたことを、後悔せんといて」

 

「はい」

 

「後悔されるんが、いちばん寂しいやろうから」

 

その時の約束を。

 

朔夜は、一度も忘れなかった。

 

 

 

 

□

 

 

 

 

時間は、思っていたより穏やかに流れた。

 

結婚式の後、四人の生活は大きく変わったようで、あまり変わらなかった。

 

朝は誰かが寝坊した。

 

かぐやが朝からやたら気合いを入れて味噌汁を作り、朔夜がその横で卵焼きを焼いた。

 

彩葉は食卓につくなり、「二人とも朝から本気出しすぎ」と呆れた。

 

ヤチヨはそれを聞いて、湯気の向こうで楽しそうに笑った。

 

「でも、美味しいからいいんじゃない?」

 

「それはそうなんだけど」

 

「彩葉、文句言いながら二杯目いってる」

 

「かぐや、そういうの言わない」

 

「ふふん。今日の味噌汁、彩葉好みにしたからね」

 

「……それは、まあ、分かるけど」

 

彩葉は少しだけ悔しそうにしながら、椀を両手で包んだ。

 

食事を作るのは、いつの間にか朔夜とかぐやの役目になっていた。

 

朔夜は昔から料理が得意だった。手際もよく、冷蔵庫の余りものからそれらしいものを作るのも上手かった。

 

かぐやは、最初こそ食べる専門だった。

 

けれど、朔夜の横で見て、真似して、失敗して、また真似しているうちに、いつの間にか家の味を覚えた。

 

彩葉はたまに手伝おうとして、だいたい三分で台所から追い出された。

 

「私、そんなに下手?」

 

「下手じゃないけど、彩葉は料理中も効率を求めすぎる」

 

「料理にも効率は大事でしょ」

 

「大事だけど、炒め物に人生計画みたいな顔しないで」

 

「どういう意味?」

 

かぐやが笑い、ヤチヨが歌うように相槌を打ち、朔夜がフライパンを振る。

 

そんな朝が、何度もあった。

 

何度もあったから、その一つ一つが特別だとは、その時は気づかなかった。

 

 

 

□

 

 

 

ツクヨミでは、月と地球の交流が少しずつ進んでいった。

 

最初は小さな合同授業だった。

 

月の子供たちが地球の海を仮想体験し、地球の子供たちが月のドーム都市を歩く。互いの文化を紹介し合い、料理を作り、歌を歌い、時々とんでもない誤解をして笑い合った。

 

かぐやは月側の子供たちに、地球の料理の素晴らしさを語り続けた。

 

ヤチヨは歌で人を集めた。

 

彩葉は制度を作った。

 

朔夜は、その全部が壊れないように土台を整えた。

 

月と地球は、まだ現実では遠かった。

 

けれどツクヨミの中では、もう隣同士になり始めていた。

 

そして家には、子供が生まれた。

 

最初に泣いたのは、かぐやだった。

 

「ちっちゃい!人間、ちっちゃい!」

 

「かぐやも電柱から出てきた時はちっちゃかったけどな」

 

「それはそう!」

 

彩葉は疲れ切った顔で、それでも幸せそうに笑っていた。

 

ヤチヨは小さな命を覗き込み、声を震わせながら子守歌を歌った。

 

朔夜は、その光景を見ていた。

 

彩葉がいて。

 

かぐやがいて。

 

ヤチヨがいて。

 

自分たちの子供がいる。

 

それだけで、世界は少しうるさくて、少し眩しくて、どうしようもなく温かかった。

 

 

 

□

 

 

 

子供たちは育った。

 

家は、いつの間にか騒がしくなった。

 

かぐやが真剣な顔で子供たちに「ハッピーエンドの作り方講座」を開き、彩葉が横から「宿題を先に終わらせること」と現実的な補足を入れる。

 

ヤチヨは子供たちに歌を教えた。

 

朔夜とかぐやは料理を教えた。

 

子供が作った失敗したオムライスが食卓に並び、朔夜が綺麗に焼けたパンケーキが取り合いになり、月と地球の交流会議の資料の端に子供の落書きが紛れた。

 

年月は、そういう小さな出来事に姿を変えて積み重なった。

 

子供たちが巣立った。

 

孫が生まれた。

 

曾孫まで生まれた。

 

朔夜は、自分が「おじいちゃん」と呼ばれることに最後まで慣れなかった。

 

「おじいちゃん、若くない?」

 

「気のせいだ」

 

「でも、おばあちゃんたちより全然若く見えるよ」

 

「気のせいだ」

 

そう誤魔化す朔夜の横で、彩葉が湯呑みを持ちながら笑っていた。

 

「気のせいで押し切るには、そろそろ無理あるよ」

 

「じゃあ何て言えばいいんだよ」

 

「月の人だからです、でいいんじゃない?」

 

「雑」

 

「事実でしょ」

 

彩葉の髪には、白いものが増えていた。

 

顔にも皺が増えた。

 

昔みたいに、何でも完璧にこなすことは少なくなった。歩く速度も遅くなり、眼鏡を探している時間も増えた。

 

それでも、朔夜には一番綺麗に見えた。

 

若い頃よりもずっと。

 

たくさん笑って、たくさん泣いて、たくさん怒って、たくさん選んできたからだと、朔夜は思った。

 

 

 

□

 

 

 

後に、朔夜はその日のことを記録に残した。

 

誰かに読ませるためではなかった。

 

ただ、忘れないためだった。

 

忘れるはずがないと分かっていて、それでも、文字にしておかなければ崩れてしまいそうだったから。

 

古い端末の中に、短いファイルが残っている。

 

題名は、ただ一言。

 

 

 

『彩葉』

 

 

□

 

 

 

【記録】

 

春の終わり。

 

庭の青葉が、朝の光を含み始めていた。

 

天気は晴れ。

 

風は弱い。

 

窓を開けると、小鳥の声がした。

 

名前は分からない。

 

彩葉なら、たぶん調べてから教えてくれたと思う。

 

彩葉は、最後まで彩葉だった。

 

かぐやが泣いていた。

 

本人は泣いていないと言い張っていたけれど、どう見ても泣いていた。

 

彩葉はそれを見て、少しだけ笑った。

 

「泣くの早い」

 

声は小さかった。

 

でも、ちゃんと彩葉の声だった。

 

ヤチヨがハンカチを渡した。

 

かぐやは受け取ったのに、それで自分の涙を拭かずに、彩葉の手を包んでいた。

 

子供たちが来た。

 

孫たちも来た。

 

曾孫たちも、よく分からないまま部屋の隅で大人しくしていた。

 

彩葉は一人ずつ名前を呼んだ。

 

間違えなかった。

 

最後まで、誰も置いていかなかった。

 

孫には頭を撫でた。

 

曾孫には、ご飯はちゃんと食べること、と言った。

 

最後まで、言うことが彩葉らしかった。

 

ヤチヨには、あとよろしく、と言った。

 

ヤチヨは、任せて、と答えた。

 

声が少し震えていた。

 

彩葉は気づいていたと思う。

 

でも、何も言わなかった。

 

かぐやが、何か作ると言った。

 

彩葉が、食べられるかな、と言った。

 

かぐやは、食べられるものを作る、と答えた。

 

かぐやは料理が上手くなった。

 

昔、俺が作ったパンケーキで目を輝かせていた子が、今では家の台所を守っている。

 

その日、かぐやが作ったのは卵のお粥だった。

 

出汁の匂いがした。

 

やわらかくて、喉に優しくて、彩葉の好きな味だった。

 

彩葉は三口だけ食べた。

 

それから、かぐやに言った。

 

「美味しい」

 

かぐやは、今度こそ本当に泣いた。

 

俺は、何も言えなかった。

 

彩葉が俺を呼んだ。

 

「朔夜」

 

返事をした。

 

手を握った。

 

昔よりずっと細くなった手だった。

 

でも、握り返す力はあった。

 

彩葉は言った。

 

「私、ちゃんと選べたよね」

 

頷いた。

 

でも、彩葉に少し睨まれた。

 

「そこは、ちゃんと言葉で言ってよ」

 

最後まで彩葉だった。

 

俺は、こう答えた。

 

「選べてた。ずっと、彩葉は彩葉の人生を選んでた」

 

彩葉は笑った。

 

安心したように。

 

少しだけ、子供みたいに。

 

「そっか。なら、満足」

 

それから、こう言った。

 

「大好きだよ、朔夜」

 

彩葉は息を引き取った。

 

眠るようだった、と書くのは簡単だ。

 

でも、簡単な言葉にしたくない。

 

彩葉は、最後まで生きていた。

 

ちゃんと選んで、ちゃんと見て、ちゃんと言葉を欲しがって、ちゃんと笑って。

 

それから、逝った。

 

手を離せなかった。

 

かぐやが、俺の肩に額を押しつけて泣いた。

 

ヤチヨが、彩葉の好きだった歌を小さく歌った。

 

子供たちも、孫たちも泣いていた。

 

部屋はたくさんの人で満ちていた。

 

なのに、隣だけが空いた。

 

京都の家で、彩葉のお母さんに言われたことを思い出した。

 

あの子と生きたことを、後悔せんといて。

 

後悔はしていない。

 

するはずがない。

 

ただ、寂しい。

 

こんなにも、寂しい。

 

 

 

□

 

 

 

彩葉がいなくなってから、家の音が変わった。

 

静かになった、とは少し違う。

 

かぐやは変わらず騒ぐ。

 

ヤチヨは変わらず歌う。

 

子供たちも孫たちも、折に家に来て顔を見せてくれる。

 

だから音がなくなったわけじゃない。

 

ただ、彩葉の音だけがなくなった。

 

朝、新聞を畳む音。

 

眼鏡を探して、見つけて、ため息をつく音。

 

朔夜が台所に立つと、後ろから「味見させて」と言ってくる声。

 

かぐやが作りすぎた時に、少し低くなる「かぐや」の声。

 

そういうものが、家の中からひとつずつ抜け落ちた。

 

最初の数日は、彩葉がまだ別の部屋にいる気がした。

 

仕事部屋か。

 

庭か。

 

台所か。

 

少し探してしまった。

 

探してから、いないことを思い出した。

 

その繰り返しだった。

 

 

 

□

 

 

 

かぐやは、よく台所に立った。

 

もともと料理は上手かった。

 

朔夜が教えたものもあるけれど、それ以上に、かぐやは食べる人の顔を見るのが上手かった。

 

彩葉が疲れている時は味を軽くした。

 

ヤチヨの喉が弱っている時は、刺激を減らした。

 

朔夜が何も食べたくない時は、何も言わずに小さなおにぎりを置いた。

 

それが少し悔しかった。

 

朔夜は料理が得意だったはずなのに。

 

いつの間にか、家の味はかぐやの手に移っていた。

 

彩葉の四十九日が終わった日。

 

かぐやは、パンケーキを焼いた。

 

昔、朔夜が初めてかぐやに作ったものより、ずっと綺麗だった。

 

火の入り方も、厚みも、香りも、悔しいくらい完璧だった。

 

「どう?」

 

かぐやが聞いた。

 

朔夜は一口食べた。

 

甘さは控えめだった。

 

彩葉の好きな味だった。

 

「……美味い」

 

「ほんとに?」

 

「ほんとに」

 

「彩葉の分もあるよ」

 

かぐやはそう言って、テーブルの端に一皿置いた。

 

誰も座らない席。

 

でも、空席とは思わなかった。

 

そこには彩葉がいた。

 

そう思えるくらい、自然に置かれた一皿だった。

 

ヤチヨが小さく笑っていた。

 

「彩葉がいたら、悔しがってるね」

 

「なんで?」

 

「美味しいから」

 

「ふふん。じゃあかぐやの勝ちだね」

 

かぐやは得意げに胸を張った。

 

そのあと、少しだけ泣いた。

 

朔夜も、少しだけ泣いた。

 

 

 

□

 

 

 

かぐやが、前よりも少し静かになった。

 

静かになったと書くと、たぶん本人は怒る。

 

かぐやは静かじゃない、と言うと思う。

 

実際、静かではない。

 

孫たちが来れば全力で遊んだ。

 

曾孫たちに月の話をせがまれれば、身振り手振りをつけて話す。

 

ツクヨミの交流区でも、月の子供たちに地球の料理を紹介している。

 

ある日も「たい焼きは魚じゃないのに魚の形をしているのが最高」と力説していた。

 

月側の子供たちは混乱していた。

 

地球側の子供たちは笑っていた。

 

良い交流だったと思う。

 

でも、彩葉がいた頃より、かぐやはよく庭を見るようになった。

 

月ではなく、庭を見る。

 

彩葉が植えた花を見る。

 

花の名前を、かぐやは全部覚えた。

 

昔なら、途中で飽きていたかもしれない。

 

今は、一つも間違えない。

 

ある日、かぐやが言った。

 

「朔夜」

 

「ん?」

 

「彩葉って、ちゃんといるね」

 

意味はすぐに分かった。

 

庭にも。

 

台所にも。

 

ツクヨミにも。

 

子供たちの言葉にも。

 

孫たちの笑い方にも。

 

彩葉はいる。

 

いなくなったのに、いる。

 

それが寂しくて、ありがたかった。

 

「いるな」

 

「うん。いてくれる」

 

かぐやはそう言って、笑った。

 

その日は、彩葉の好きだった卵焼きを作った。

 

甘すぎず、出汁がちゃんと効いていて、少しだけ焦げ目がついていた。

 

彩葉なら、たぶん言う。

 

悔しいけど、美味しい。

 

かぐやはそれを聞いたみたいに、少し得意げだった。

 

 

 

□

 

 

 

かぐやが眠る時間が増えた。

 

義体の検査結果は、分かっている。

 

人に合わせた身体。

 

人と同じように年を取り、人と同じように終わる身体。

 

そう設計したのは、朔夜たちだ。

 

かぐやも望んだ。

 

人と同じ食卓で、人と同じ時間を生きたいと言った。

 

分かっている。

 

分かっていた。

 

それでも、検査結果の数字を見るたびに、朔夜は何度も端末を閉じた。

 

ヤチヨには怒られた。

 

「朔夜。見ないふりは、かぐやが一番嫌がるよ」

 

「分かってる」

 

「分かってる顔じゃない」

 

「……分かってる」

 

ヤチヨは何も言わず、朔夜の隣に座った。

 

その手も、少し軽くなっていた。

 

かぐやは、自分の終わりが近いことに気づいていた。

 

気づいていて、いつも通りにしていた。

 

いつも通りに料理を作り、いつも通りに笑い、いつも通りに「ハッピーエンド」を口にした。

 

ある日の夕方。

 

かぐやが台所に立っていた。

 

危ないから休めと言うと、怒られた。

 

「朔夜はすぐそうやって、かぐやから楽しいことを取り上げようとする」

 

「楽しいことじゃなくて無理を止めてるんだよ」

 

「料理は楽しいことだもん!」

 

正論だった。

 

それに、かぐやの包丁を持つ手は、まだしっかりしていた。

 

その日、かぐやはシチューを作った。

 

野菜が小さく切ってあった。

 

ヤチヨが食べやすいように。

 

朔夜が何も言わなくても、そうしていた。

 

食卓には、四人分の皿が並んだ。

 

彩葉の分も。

 

「かぐや」

 

「なに?」

 

「ありがとう」

 

「どういたしまして!」

 

かぐやは笑った。

 

本当に、よく笑ってくれた。

 

 

 

□

 

 

 

【記録・かぐや】

 

かぐやの最期の日。

 

天気は曇り。

 

月は見えなかった。

 

でも、かぐやは「まあ月は見飽きてるし」と言った。

 

かぐやらしい強がりだった。

 

子供たちが来た。

 

孫たちも来た。

 

曾孫たちも来た。

 

月側からも、ツクヨミ越しにたくさんの人が見に来ていた。

 

かぐやが繋いだ人たちだった。

 

月の子供たちが泣いていた。

 

地球の子供たちも泣いていた。

 

かぐやは画面越しに怒った。

 

「泣くなー!いや泣いてもいいけど、最後は笑って!」

 

無茶を言う。

 

でも、皆そうした。

 

泣きながら笑った。

 

かぐやは満足そうだった。

 

ベッドの横には、朝に作った小さなパンケーキが置いてあった。

 

かぐやが自分で作った。

 

最後に作るならこれがいい、と言った。

 

朔夜は止められなかった。

 

かぐやはそれを一口だけ食べた。

 

「うん。美味しい」

 

自画自賛だった。

 

でも、本当に美味しかった。

 

かぐやは朔夜を見た。

 

「朔夜」

 

「うん」

 

「かぐや、ちゃんとハッピーだった?」

 

「うん」

 

「ほんとに?」

 

「ほんとに」

 

「パンケーキくらい?」

 

「それ以上」

 

かぐやは笑った。

 

しわしわになった顔を、くしゃくしゃにして笑った。

 

「じゃあ、よし」

 

かぐやは、子供たちと孫たちを見た。

 

「朔夜を一人にしちゃだめだよ」

 

それから少し間を置いて、続けた。

 

「でも、縛っちゃだめだよ」

 

部屋が静かになった。

 

「朔夜はね、いっぱい残っちゃう人だから。だから、ちゃんと行きたいところに行かせてあげてね」

 

子供たちは泣きながら頷いた。

 

孫の一人が聞いた。

 

「おばあちゃん。朔(・)夜(・)お(・)じ(・)い(・)ち(・)ゃ(・)ん(・)、(・)月(・)に(・)帰(・)る(・)の(・)?(・)」

 

かぐやは朔夜を見た。

 

ずるい。

 

答えを、朔夜に渡さずに知っている顔だった。

 

「うん。たぶんね」

 

朔夜は否定できなかった。

 

かぐやは嬉しそうに笑った。

 

「じゃあ、朧によろしく言っといて。かぐや、いっぱい楽しかったって」

 

「自分で言いに……」

 

「それは、朔夜の役目」

 

そう言われたら、何も言えなかった。

 

かぐやは最後に、彩葉の名前を呼んだ。

 

それから、ヤチヨの名前を呼んだ。

 

朔夜の名前は、少しだけ遅れて呼んだ。

 

「朔夜」

 

「うん」

 

「バットエンドじゃなかったよね」

 

「ああ」

 

「超ハッピーエンドだった?」

 

朔夜は、かぐやの手を握った。

 

昔よりずっと小さく感じた。

 

でも、その手は間違いなく、朔夜を電柱の前からここまで連れてきた手だった。

 

「超ハッピーエンドだった」

 

「ふふ」

 

かぐやは、安心したように目を閉じた。

 

「なら、よし」

 

その夜、かぐやは逝った。

 

最後まで、ハッピーエンドの味がした。

 

記録終わり。

 

 

 

□

 

 

 

かぐやがいなくなってから、台所が広くなった。

 

広くなったわけがない。

 

物の配置も変わっていない。

 

鍋も、包丁も、調味料も、全部ある。

 

かぐやが書いたレシピメモも残っている。

 

なのに広い。

 

人が一人いないだけで、台所はこんなにも広くなるらしい。

 

ヤチヨは、かぐやのレシピを見ながらスープを作った。

 

朔夜は手伝おうとした。

 

でも、ヤチヨに止められた。

 

「今日は私が作るよ」

 

「大丈夫か?」

 

「大丈夫。かぐやの字は分かるから」

 

でも、ヤチヨは読めた。

 

当たり前のようでいて、少し不思議だった。

 

その日のスープは、少しだけ塩が足りなかった。

 

ヤチヨは一口飲んで、困ったように笑った。

 

「かぐやなら、ここで自信満々に『これが正解!』って言うね」

 

「言うな」

 

「彩葉なら?」

 

「静かに塩を足す」

 

「ふふ。言うね」

 

ヤチヨは笑った。

 

その笑い方が、とても寂しかった。

 

 

 

□

 

 

 

【記録・ヤチヨ】

 

ヤチヨは、最後まで穏やかだった。

 

穏やかすぎて、時々腹が立った。

 

もっと怒ってもよかった。

 

怖いと言ってもよかった。

 

寂しいと言ってもよかった。

 

でもヤチヨは、よく笑った。

 

歌う声は細くなった。

 

長く歌うことはできなくなった。

 

それでも夕方になると、古いピアノの前に座った。

 

彩葉が作った曲。

 

かぐやが好きだった曲。

 

ヤチヨが何度も歌った曲。

 

朔夜が、何度も救われた曲。

 

声が途中で途切れる日もあった。

 

そのたびに、ヤチヨは少しだけ困った顔をした。

 

「ごめんね。最後まで歌えなかった」

 

「謝ることじゃない」

 

「でも、悔しいな」

 

「……うん」

 

「歌いたい歌が、まだいっぱいあるのにね」

 

その言葉を聞いた時、朔夜は端末を握りつぶしそうになった。

 

技術でどうにかできないか。

 

何度も考えた。

 

けれど、ヤチヨはそれを望まなかった。

 

「朔夜」

 

「ん?」

 

「私たちは、人と一緒に生きる身体を選んだんだよ」

 

「……」

 

「だから、終わり方も、人と一緒でいい」

 

正しい。

 

正しいけれど。

 

正しさが、こんなに嫌だったことはない。

 

ヤチヨは朔夜の手を握った。

 

「寂しい?」

 

「寂しい」

 

嘘はつかなかった。

 

「そっか」

 

ヤチヨは笑った。

 

「でも、寂しいって思えるくらい、いっぱい一緒にいたんだね」

 

ずるい。

 

本当にずるい。

 

そんなふうに言われたら、何も返せない。

 

ヤチヨの最後の日。

 

家には、また人が集まった。

 

子供たち。

 

孫たち。

 

曾孫たち。

 

ツクヨミ越しに、月と地球の人たちも来ていた。

 

彩葉が作った制度で。

 

かぐやが広げた交流で。

 

ヤチヨが歌で繋いだ人たちが。

 

ヤチヨを見送りに来ていた。

 

ヤチヨはそれを見て、少しだけ泣いた。

 

「すごいね」

 

「うん」

 

「寂しくて作った場所が、こんなに賑やかになったんだね」

 

「ヤチヨが歌ったからだよ」

 

「朔夜が作ったからだよ」

 

「彩葉が整えたからだ」

 

「かぐやが騒いだからだね」

 

ヤチヨは笑った。

 

朔夜も笑った。

 

泣きながらだったかもしれない。

 

ヤチヨは、最後に地球を見たいと言った。

 

月ではなく、地球を。

 

窓の外には、夕焼けがあった。

 

空は茜色だった。

 

ヤチヨはそれを見て、小さく言った。

 

「綺麗」

 

それから朔夜を見た。

 

「朔夜。月に帰ったら、ちゃんと空を見てね」

 

「月にいるのに?」

 

「うん。地球を見て」

 

ヤチヨは穏やかに笑った。

 

「そこに、私たちがいたんだって。ちゃんと思い出して」

 

朔夜は頷いた。

 

声は出なかった。

 

ヤチヨは最後に、彩葉の名前を呼んだ。

 

次に、かぐやの名前を呼んだ。

 

それから、朔夜の名前を呼んだ。

 

順番が、ヤチヨらしかった。

 

「朔夜」

 

「うん」

 

「ありがとう」

 

「それは、俺の台詞だろ」

 

「じゃあ、お互いさま」

 

ヤチヨは笑った。

 

本当に、最後まで優しい顔だった。

 

そして、目を閉じた。

 

歌が終わるみたいに。

 

でも、消えるのではなく。

 

余韻だけを残して。

 

ヤチヨは逝った。

 

 

 

 

□

 

 

 

家が静かになった。

 

今度こそ、静かになった。

 

彩葉の席。

 

かぐやの席。

 

ヤチヨの席。

 

三つの席が、ただそこにある。

 

片づけようと思えば、片づけられる。

 

でも、まだできない。

 

できないというより、したくない。

 

子供たちは来てくれる。

 

孫たちも来てくれる。

 

曾孫たちは、相変わらず遠慮なく朔夜の袖を引っ張る。

 

寂しくないわけじゃない。

 

でも、一人きりでもない。

 

それでも、夜になると分かる。

 

朔夜は、残った。

 

彩葉が言っていた。

 

ちゃんと言葉で言ってよ。

 

かぐやが言っていた。

 

バットエンドじゃなかったよね。

 

ヤチヨが言っていた。

 

地球を見て。

 

全部、覚えている。

 

忘れられるわけがない。

 

 

 

□

 

 

 

ヤチヨを見送った夜、朔夜は一人で研究室に入った。

 

そこは、若い頃に何度も徹夜した場所だった。

 

彩葉に怒られ、かぐやに寝ろと騒がれ、ヤチヨにコーヒーを取り上げられた場所。

 

机の上には、古い端末が一つ置かれている。

 

義体の調整用に作った、身体設定の管理端末。

 

画面には、現在の身体情報が表示されていた。

 

老化率。

筋力低下。

細胞劣化。

 

地球環境適応型の、限りなく人に近い身体。

 

若い頃の姿に戻ることは、技術的にはいつでもできた。

 

それでも、しなかった。

 

彩葉と並んで歩くため。

 

かぐやと同じ食卓で笑うため。

 

ヤチヨに、同じ時間を生きていると思ってもらうため。

 

けれど、もう三人はいない。

 

この老いは、思い出ではあっても、これから歩くための身体としては重すぎた。

 

「……ごめん」

 

誰に謝ったのか、朔夜自身にも分からなかった。

 

彩葉か。

 

かぐやか。

 

ヤチヨか。

 

それとも、共に老いた自分自身か。

 

端末が静かに起動する。

 

身体が、淡い光に包まれた。

 

皺が消えていく。

 

白髪が黒へ戻っていく。

 

曲がりかけていた背筋が伸び、重かった関節が軽くなる。

 

数分後、鏡の中に立っていたのは、若い頃の朔夜だった。

 

彩葉と出会い、かぐやを拾い、ヤチヨの歌に救われた頃の姿。

 

けれど、その目だけは若くなかった。

 

何十年も生き、愛し、見送り、残された者の目だった。

 

朔夜は鏡の中の自分を見て、小さく笑った。

 

「似合わねぇな」

 

その声は、昔と同じだった。

 

でも、そこに滲むものだけが違っていた。

 

 

 

□

 

 

 

葬儀が終わり、家の整理が終わり、季節が一つ過ぎた。

 

朔夜は、月へ帰る準備をした。

 

持っていくものは多くなかった。

 

彩葉の青いネックレス。

 

かぐやの金色のネックレス。

 

ヤチヨが最後まで使っていた小さなマイク。

 

家族写真が何枚か。

 

それから、古いレシピノート。

 

表紙には、彩葉の字でこう書いてあった。

 

パンケーキ。

ハッピーエンドの味。

 

 

出発の日、子供たちと孫たちが見送りに来た。

 

泣く者もいれば、笑って送り出そうとする者もいた。

 

曾孫の一人が、朔夜の袖をぎゅっと掴んだ。

 

「おじいちゃん、若くなったのにおじいちゃんなんだね」

 

「そりゃまあ、おじいちゃんだからな」

 

「変なの」

 

「俺もそう思う」

 

曾孫は不思議そうに朔夜を見上げる。

 

その目は、かつてのかぐやみたいに遠慮がなかった。

 

「月って遠い?」

 

「少し遠いな」

 

「帰ってくる?」

 

「うん。帰ってくるよ」

 

「ぜったい?」

 

朔夜はしゃがんで、その小さな指に小指を絡めた。

 

「指切りげんまんな」

 

曾孫は、意味も分からないまま嬉しそうに笑った。

 

かつて、かぐやと交わした約束の形。

 

彩葉が見て、少し妬いていた形。

 

ヤチヨがいつも優しく笑っていた形。

 

その小さな約束を胸に、朔夜は地球を発った。

 

青い星が遠ざかっていく。

 

そこには、彩葉がいた。

 

かぐやがいた。

 

ヤチヨがいた。

 

子供たちがいて、孫たちがいて、まだ名前も覚えきれないほどの未来が続いている。

 

朔夜だけが置いていくのではない。

 

朔夜もまた、置いていかれたものを抱えて進むのだ。

 

 

 

□

 

 

 

月のドーム都市は、朔夜が覚えているより少しだけ明るかった。

 

人々の声がある。

 

子供の笑い声がある。

 

遠くのカフェから、焼き菓子の甘い匂いまで流れてくる。

 

昔、かぐやが退屈だと言って逃げ出した月は、もうどこにもなかった。

 

到着ゲートの先で、朧が待っていた。

 

神代朧。

 

月の代表として、そして朔夜の妹として。

 

朔夜を見るなり、彼女は息を呑む。

 

「……お兄様」

 

若い頃の姿に戻った朔夜を見ているのに、朧の声は震えていた。

 

その目だけが、何十年分も老いていたからだ。

 

彩葉を、かぐやを、ヤチヨを見送り、大切な人達を地球に残してきた人の目だった。

 

朧は一歩近づき、けれど途中で止まる。

 

「おかえりなさいませ、お兄様」

 

朔夜は少しだけ笑った。

 

「ただいま、朧」

 

その一言を言った瞬間、胸の奥で何かがほどけた。

 

地球に置いてきたものは多い。

 

彩葉の声も、かぐやの笑い声も、ヤチヨの歌も、もう隣にはない。

 

けれど、なくなったわけではなかった。

 

胸元には、青いネックレスと金色のネックレス。

 

鞄の中には、小さなマイクと古いレシピノート。

 

地球には、子供たちがいる。

 

孫たちがいる。

 

曾孫たちが、月を見上げている。

 

「寂しいですか」

 

朧が小さく聞いた。

 

朔夜は、展望窓の向こうを見た。

 

青い星が浮かんでいた。

 

あそこに、朔夜の

全てがある。

 

失ったものも。

 

残したものも。

 

愛したものも。

 

「寂しいよ」

 

嘘はつかなかった。

 

けれど、涙は落ちなかった。

 

「でも、俺は」

 

朔夜は続きを言わなかった。

 

朧は何も言わず、ただ隣に立った。

 

月と地球の間には、もう橋がある。

 

彩葉が制度を整え、かぐやが笑いを広げ、ヤチヨが歌で繋ぎ、朔夜がツクヨミに橋を架けた。

 

朔夜がこれからするのは、その橋を少しだけ丈夫にすることだ。

 

誰かが、会いたい人に会えるように。

 

遠く離れても、家族が家族でいられるように。

 

それから、いつか地球の子供たちがここへ来た時、笑って迎えられるように。

 

朔夜は胸元のネックレスに触れた。

 

「行こうか」

 

「はい、お兄様」

 

二人分の足音が、月の廊下に響いた。

 

青い地球は、静かにそこにあった。

 

朔夜は、帰ってきた。

 

 

 

□

 

 

 

幕は下りた。

 

けれど、終わりきれないものがある。

 

舞台の熱、残された光、役者がそこに立っていた気配。

 

手を伸ばせばもう届かないのに、確かに誰かの胸の奥だけはまだ温かい。

 

それを、カーテンコールと呼ぶのだろう。

 

終わりを拒むためではない。

 

終わったものを、確かに美しかったと認めるための拍手。

 

別れはある。沈黙もある。戻らない時間もある。

 

それでも、そのすべてに拍手を送れるなら。

 

これは、バットエンドではないのだろう。

 

幕は閉じても、カーテンコールはまだ鳴っている。

 

 

 

 

 

 






これを書きたかったが為にこのお話を書いたまであるほどです。
書く前からこの幕引きにする事は決めてました。

美しくもあり、儚くもあり、それでいて現実。
悔いのない生き方が出来るように、自分達は生きている。

そんな人生を、四人はきっと歩めたのだと思います。



ここでタイトルのお話をしましょうか。
「愛する全てへカーテンコールを」
カーテンコールとは、幕が下りた後に出演者が再登場して観客への感謝や挨拶を示す行為です。

この物語で幕を下ろしたのは、彩葉、かぐや、ヤチヨの人生でした。

誰かの人生は、幕が下りたら終わりです。

けれど、幕が下りた後にも、拍手は残ります。

その人がそこにいたこと。
その人が笑っていたこと。
その人が誰かを愛して、誰かに愛されたこと。

それらを忘れないために、人は何度でも心の中でカーテンコールを鳴らすのだと思います。

この物語は、永遠に一緒にいられる話ではありません。

むしろ、永遠には一緒にいられない話です。

だからこそ、一緒にいた時間が輝く。

だからこそ、残された者が前へ進む姿に意味がある。

だからこそ、これは悲しいだけの結末ではなく、胸を張って言える。

彩葉が選び、かぐやが笑い、ヤチヨが歌い、朔夜が見届けた。

朔夜が、自分が愛している全てへ贈る、終わる事のないカーテンコールです。

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