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ハニーチャーチ夫人
あれから
彼女の話は奇想天外でした。8歳の少女が生み出したものとは思えない作話のディテールです。まさか本当に別の人間として生きたのではないかと疑うくらいには、よく出来たものでした。
後に調べてみたのですが、彼女が口にした『Nihon(ニホン)』なる土地は、極東の『Japan』のことを言っているようでした。ロシアを破った強国であることは知っていますが、
一応は、彼女のように奇妙な体験を持って生まれた者が他にもいるのではないかと考え、さまざま資料を漁ってみたのですが、残念ながらそのような事案は見当たりませんでした。妄想と断定して
一つ、興味深い話があります。東洋哲学や
生前の行いによって、その後の運命は変わります。『生前の行い』のことを
例えばユークレースが生前の業を背負い、今の生きづらさを感じているなら、それはひどくスピリチュアルであり、ナンセンスです。世の
ハニーチャーチ夫人。ユークレースの話が真実だったとしましょう(本当に、本当に恐ろしい仮定の話です)。たとえそうであっても、ユークレースは
そして、必ず、命を
夫人の手腕が問われます。
従って、彼女は入院させません。長い時間をかけて
ここ
最後に、私はいつでも
本書の内容が、いささかなりともご安心につながれば幸いに存じます。
敬具
聖メアリー総合病院 精神科主任医 ジョージ・ウィリアム・ウォーターハウス
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診察室にユークが現れてから半年後に父は死んだ。原因はハッキリしない。禁酒会のアン
上記の文は、遺品を整理した時に見つけたレターブックに記録されていた。見ての通り、そこにはユークには婚約者がいた旨が
情けないが、心臓が張り裂ける思いがした。しばらくの間、食事も喉を通らなかった。
かつて、ユークと2人で修道院に忍び込んだことがある。彼女は『ロミオとジュリエット』を読んだと微笑んで、それらしい小部屋で結婚式の真似事に付き合わされた。
『あなたはロミオ、わたしはジュリエット。神父さまは、まあ、いなくてもいいわ。今日はわたしたちだけで十分。このシーンはね、描かれていない部分なの。だからわたし達で作るのよ。
無邪気だった。もちろん、ごっこ遊びだ。ユークも俺も本気じゃない。
だけれど、あの部屋の情景は今でも覚えている。
とかく俺はユークの何もかもが分からなくなった。彼女の存在は嘘の上に成り立つものだったのだろうか。俺は
あれからユークには会わなかった。彼女はタウンハウスから出てこなかったし、俺もそこを避けて生活をした。
父への憧れは失せてしまった。唐突に死んでしまったことも、
この心情の変化については、自分なりの答えを見つけた。恐らくきっかけは、父がユークを精神病だと診断したことだった。あの日を境に、憧れはゆるりと失せたものと思う。父の診断が誤りだとは思わない。ユークは間違いなく狂っていたし、手の
ユークの面影は俺を離れなかった。
パブリックスクールは16歳で卒業した。母を心配させまいと勉強していたから、その年には大学に入れた。周囲の勧めがあって医学部を選んだが、父と同じ精神科医になる気はなく、外科医を目指した。
そこからは自堕落な生活に甘んじた。
どれだけ荒れた生活を送ろうとも、ユークの面影は消えなかった。
その
だが俺の場合はそうではない。それは『嵐が丘』さながら
いずれはヒースクリフのように破滅の道を歩み出すに違いないと、自らの人生を諦めていた。報われない恋が恨みへと変わり、身勝手な復讐心でも
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19歳の夏、ドイツがベルギーに攻め込んだ。バルカン半島で問題があってから事態が厄介な方向に転がり始めている気はしていたが、個人的にはやや唐突な印象を受けた。曲がりなりにも医学部に在籍しているだけにドイツ医学を身近に感じていたこともあって、不意打ちを喰らった気分になっただけかも知れなかった。
初めの内はそういうこともあるだろうと半ば無関心だったが、今にこの街にも
空に
黒々とした大量の落下物、真っ赤に燃える街。
怪物のような黒煙に土煙。
轟音、熱風に舞う
かつてナポレオンの作ったような地獄が、この街にも押し寄せるのかも知れない。
その時、ユークの住む、あの美しいタウンハウスはどうなるのだろうか。街が火の海になったらば、ユークは逃げることができるのだろうか?
──亜麻色の髪を
下らない喧嘩に明け暮れてまともに授業も受けていなかった俺は、既に大学での居場所を失っていた。医者になることにも
志願したことに反応を示してくれたのは警察官と母親くらいのもので、前者はもう俺に振り回されずに済むと喜んでくれ、後者は悲しむと同時に応援もしてくれた。家を出る前の日の晩に、子供の頃に俺が好きだったプディングを母が焼いてくれた。もう
訓練キャンプでは、戦争など半年も経たずに終わるといった根拠のない楽観論が広まっていた。多くの兵がクリスマスの過ごし方を具体的に考えていたが、結果として実にめでたいその日は
来る日も来る日も穴を掘った。手のマメを潰した。掘って、掘りまくり、また手のマメを潰した。土の壁を築いた。砂の袋を積んだ。
「次の休暇で故郷に帰る。結婚をしようと思うんだ。待たせてるヤツがいるのさ」
「こんな穴ぽこの中じゃあ、いつ死神に肩を叩かれるか分かったもんじゃねえ。それにアイツも単に俺を待つよか、万が一を考えて遺族年金を貰えるようにしておいた方がいい」
遺族年金という単語が、俺だけがいない世界を生々しく意識させた。
「お前にはそういう女はいないのか?」
ユークのことを思った。
「とっくに失恋したさ」
「忘れらんねえって顔だな」
めざとい奴だった。
「お前も帰ったら会ってみろよ。案外、お前の無事を祈ってるかも知れねぇぜ」
次の日、
戦いが激しさを増すにつれて、子供の頃を思い出すのが増えた。理由はわからない。これが幼児返りというやつなのだろうか。いや、単に一番幸せだった時期を思い出しているだけかも知れない。
日が暮れるまで近所の子供達で集まって遊んだ。煙突の煙で薄汚れた空の下──、フープ転がし、ビー玉あそび、凧揚げにトランプ、小部屋での結婚式、兵隊ごっこ──。
夢が現実か。泥と白煙の中を駆け回っていたつもりだったが、徐々に銃声や将校の叫びが遠ざかって、いつのまにか公園にいた。足の裏に柔らかな芝の感触があった。光と緑が
遠くに聞こえる街の
木陰に隠れていたユークが突然現れて、ブリキの銃を俺に向けた。そしていたずらな顔で「バン!」と引き金を引いた時、俺の目の前で
目覚めた時には左腕がなく、左目も見えなかった。
・神智学
テオソフィー。怪しいオカルト系学問。科学が発展し、機械化が進むにつれて霊的なエッセンスにも関心が集まった。東洋哲学と西洋のオカルトが融合したような思想が骨子となっている。
・レターブック
自身が送った手紙の内容を書き残しておくための本