カルテに記された内容は以下の通りだった。
名前はユークレース・ハニーチャーチ。主治医はマルコム・ウィテカー医師。病名は
最後の
最新のユークの様子は、以下のようにメモされている。
──読書をして日々を過ごし、
まさか、信じられない。あのユークが、完治した?
本当に完治したのであれば胸を
診察室での彼女の姿はこの目に焼き付いて離れない。空っぽの瞳を
当時俺は子供だったが、あのような患者は今までも何度か見たことがあった。そうした患者は、やがて現実と幻想のあわいは崩れ去り、ただ横たわりながら糞尿を垂れ流すだけの廃人となるものだった。たとえ地獄が閉門しようとも死体が
「ユークは本当に完治したのか……?」
翌日、詳しい話を聞こうと主治医のウィテカー氏を探したが、看護婦の話によれば老齢にも関わらず一年ほど前に志願、西部前線へと行ったらしい。ならば彼に手紙を書こうとも思ったものの、所属部隊が分からないので諦めた。
後任の主治医は特に決まっていないようだった。
──どうするべきだろうか。
やはり俺にはユークが完治したとは思えない。ならば彼女の病状を確かめるために、一度病院に
そして看護婦たちの噂が本当ならば、ユークは両親を失った。孤独になる。仮に完治したとて、環境の変化によって病を再発させる可能性もあり
さんざん悩んだ
悩んでいる間、彼女が俺を覚えていないことの恐怖に耐えられるかとか、覚えていたとしても彼女を突き放した俺を恨んでいるんじゃないかとか、ユークに会わないための理由を作ることに
そもそも、俺は変わり果てた。仮に彼女の頭の中に俺という存在が形を残していようとも、今のこの姿を見て、俺を俺と結びつけられるとは到底思えない。
10年前よりも背はぐんと伸びた。
総合的に見れば、まるで
恐れる必要はない。正々堂々、素知らぬ顔で会いに行けばよい。もう俺は俺ではない。おせっかいな軍医として、元患者の様子を見に行くだけだ。
そうして一度
「
「電話に出たのか?」
目を丸くした俺を不思議に思ったのか、看護婦は小首を傾げて、
「ええ、ご本人かと……」
「何か変わった様子は?」
「いえ、特には。普通にお答えいただきましたが……」
やはりカルテに記されていた通り、完治しているのだろうか──。
※※※
その日、明け方から降り始めた冷たい雨は、昼前には
彼女の住むタウンハウスはハーレー通りの南側に面し、理由はわからないが『サリンジャー・ハウス』という敵国風の名前で呼ばれていた。大貴族の所有する屋敷とまではいかないまでも、
数段の階段を登り、玄関脇の真鍮のタブを押してベルを鳴らす。家の奥でチン、と音が響いた。
やはり誰も現れず、決して
「……不用心だな」
薄暗いエントランスホールが眼前に広がる。香のかおりがしていた。教会で嗅ぐような香だった。
天井を見上げるとガス灯ではなさそうなシャンデリアがあって、一応は電気が通っているように思えた。灯りはつけないのだろうか。これではまるで廃墟だ。
「どなたか」
声は寂しく響いた。
まさか、屋敷に使用人がいない? いや、そんなわけがない。いくら戦時下とはいえ、この規模のタウンハウスを切り盛りするには使用人は必要不可欠だろう。
10年前にいた使用人達は何処に行ったのだろうか。
続けて2度3度と声をあげてみたが誰も出て来る様子がないので、良くないと思いながらもホールの中ほどまで歩いてみた。
中東趣味の入った美しい
壁に飾られているのは、きっとハニーチャーチ家と
要所に珍しい異国の植栽が置かれている。
花瓶はあるが花は飾られていない。中を覗けば乾いていた。使っていないらしい。
中央階段を見上げる。赤の絨毯は薄暗い中でも
流石に居心地が悪くなってきたので日を改めようかと考えた時、どこかから、ほんの僅かに、ジー……と音が鳴っていることに気がついた。屋敷で聞くような音では無いが、でも、聞いたことのある電子音だった。
どこから鳴っているのだろう。耳を澄ませると、黒っぽい扉の向こうから聞こえているらしかった。ホールの間取りから考えて、応接間だと思う。
扉をそっと開いて、
その部屋には大小様々な機械が所狭しと置かれていた。壁一面にはパネルが張ってある。それぞれにダイヤルが付いていて、プラグがあちらこちらに伸びているから、これは
机の上に置かれているのはロール紙がセットされた大きな機械だった。タイプライターのようなハンマーがついていて……、まさか、
他には、保険屋か会計士でも住み込んでいるのか手回し式の計算機があって、その近くには幾つものガラスを並べた巨大蓄電池……。ちくいち機械の名称を挙げていったらキリがなく、とにかくマシンが部屋でひしめき合っていた。
(なんだ、この部屋は)
機械の砦に誘われるようにして、半ば無意識のうちに足を踏み入れた。まるで異世界に入り込んだようだった。
ほとんどが軍用の機械かと思ったが、部屋の中に入ってみればそうでもないらしいことが分かった。
古典的な
大きさも用途もバラバラだ。なぜ屋敷に、しかも応接間に、これだけの機械があるのだろうか。
(異様だ。全てハニーチャーチ氏のコレクションか……?)
ジーと音がしているのは、部屋に入ってすぐの場所に置いてあった身の
「──お出迎えも出来ずに申し訳ございません」
背後から声が聞こえた。
「普段は誰も来ることがないので物置にしております。ご不便おかけしますが
部屋の入り口に立っていたのは、黒いデイ・ドレスを着た女性だった。
間違いない。ユークレース・ハニーチャーチだ。
肌が
確信に至った理由は特にない。
目の前の女性は俺の知るユークの姿ではなく、かつての彼女がそのまま成長したとは思えない姿形をしている。
でも、彼女はユークに間違いないと思った。
愛おしい既視感があった。
とにかく身体中に電撃が走った気がした。
明るく輝いていた
宝石のような
ユークはじっと俺の体を見つめて、言った。
「このようなお姿でも、お働きになるのですね」
左袖がぶらりと垂れ下がっているのに気がついたのだろう。
「国が
10年ぶりの会話だった。
「ご両親を亡くしたこと、心から気の毒に思う。簡単な診察だから、気楽に構えていただいて結構。お時間も取らせない」
「ありがとう存じます」
ユークの表情は変わらない。心が揺れ動く様子も見られない。その青い
俺のことは覚えていないようだった。
・ロイヤル・コペンハーゲン
食器のメーカー。