冴えない少年少女が輝かしく変身してゆく物語は不変だ。シンデレラ、みにくいアヒルの子、美女と野獣。特に労働者
今の自分は本来の自分ではない、もっと自分は輝けるはずだ。
誰の心にも眠るであろう満たされない想いを、変身のドラマは代弁してくれる。この先どれだけ世界が発展しようともそうした物語は生まれるだろうし、人々を楽しませることだろう。不変だ。どこまでも不変だ。
俺とユークも変わってしまった。2人の関係は変身のドラマになり
「ご両親が亡くなってから
「特にはありませんが、
機械に囲まれた部屋で、ユークは言った。一切の表情はなかった。淡白だった。瞳には感情が宿らず、言葉には色もない。何を考えているのか読めない。まるで本人までもが機械になったかのような気さえした。
良い意味でも悪い意味でも落ち着きのない、底抜けに明るかった彼女ではない。大人になって落ち着きを手に入れたとか、教養を身につけてレディに変身したとか、そういう次元の話ではない。
彼女は確かにユークに違いない。どうしようもない懐かしさが胸を締め付けている、これがユークであることの
──君は本当にユークなのだろうか。それとも俺がそう思おうとしているだけだろうか。
秒ごとに膨らむ違和感、恐怖心、疑念。これらがわずか前の確信さえ裏返そうとしている。
彼女に飲まれないように、こちらも淡々と話そう。
「看護婦も心配しているよ。決して好奇心からではなく、あなたを案じて、噂をしている人もいる」
「ありがとう存じます」
「病院に顔見知りはいるのか? 例えば相談のしやすい、気心の知れた看護婦とか……」
「みなさま優しく接して下さいますが、わたしはこの通りの無愛想なので、付き合いは浅くて御座います」
(あるいは両親を亡くしたことで精神に負荷がかかり、再発したのか──)
事件や事故をきっかけに、妄想や幻聴等の症状が
注意をして見極める必要があるだろう。
「形式的な質問だ。深い意味はないから、素直に答えてほしい」
「はい」
「ここ最近、何か変わりはないか?」
「ありません」
「大きな音が気になるとか、部屋に差し込む光が眩しいとか、ガス
「ありません」
「食事の時間を忘れることは?」
「いいえ」
「本は読めているだろうか。目が滑って同じ行を繰り返す、集中できず物語が頭に入ってこない、読んだ内容を忘れる、頭の中で誰かの話し声が邪魔をする、音楽が鳴り止まない──。最近、そうした経験は?」
「ありません」
もう少し踏み入ってみよう。一思いに、勢いよく、崖から湖面に飛び込むようにして。
「かつて君には
核心に触れた。自分でも肩に力が入っているのが分かった。
沈黙が続く。ユークが俺を見つめて、5秒、6秒と経ち、ゆっくりと口を開いた。
「──
肯定した。では、ユークの中には、10年経った今でも『Mizuki(ミズキ)』なる奇妙な名前の人物が住み着いている……?
「それは
「いいえ。8歳の頃に前世の記憶が
両親の死とは関係なく、ユークは
しかし、分裂病の患者が嘘と真実を冷静に使い分けることが可能だとは思えない。メタ認知は
分からない。俺の知識や経験が、彼女の症状に追いついてない。精神医学については多少理解しているつもりではあったが、所詮は父に憧れた時期に身につけた生半可な知識、応用が利かない。
(後にユークと出会うことが分かっていれば、もっと真面目に勉強をしたが……)
恵まれた環境にいながら、
後悔に視線を落とした時だった。彼女のデイドレスの
赤黒い。血溜まりのような色をしている。
──なんだ、この痣は。
目が離せなかった。妙な感覚だった。
釘付けになるのとは、少し違った。例えるなら、小さな子供に
「失礼」
対面に座る彼女の手首に触れ、そっと袖を
それは痣というよりは
傷の境界は
──黒い影。
その傷は俺の記憶に触れて、10年前の診察室を呼び起こした。
部屋の真ん中で、幼いユークがぽつりと座っている。
空っぽの目をして、乾いた唇を力なく動かして、
彼女には、
『あの日、わたしの友達は何を見たんですか? なぜわたしの家族は死んだのですか? ──わたしは何に殺されたのですか?』
そして俺は、あの時、心の中で、実に馬鹿げた、子供じみた答えを思い浮かべた。
(
前世などあり得ない。亡霊などあり得ない。ユークは狂ったんだ。認めなければならないんだ。そうして頭を振った。
「仮に──」
だが、歳を重ねたことの余裕が、俺に
「──仮に前世の記憶があるとして、この傷は君の前世に由来するものか?」
何を聞いているのだろう。すぐに質問を撤回をしようとしたが、ユークは俺の目をひたと見て、
「そのように存じます」
父がハニーチャーチ夫人に送った手紙の内容までもがフラッシュバックした。東洋哲学や
「それは、いわゆる、業と呼ばれる概念によって傷つけられたものか……?」
「ただしくは『
聞いたことのない単語が返ってきて、別次元に足を踏み入れたことを自覚した。
「
スピリチュアルだ。馬鹿げている。
「まさか、ご両親を亡くしたことも
「そうではないことを願うばかりです」
「随分と含みのある言い方をする」
「──わたしが観測できた亡霊は全て狩りまして御座います」
亡霊を、狩る……?
何を言っているか理解できない。
「全ては
確かに、父は手紙の中で読書を勧めた。
「わたしは
ユークは淡々と続けた。
「わたしと共に『
唇だけが動いていた。
「そして、いつか、白高の禁忌はわたしを殺しに来るものと確信しております」
「正気か」
「いいえ、正気ではありません。いじわるな野うさぎが子供を
唐突に、室内が光に満たされた。連続した青白い光だった。稲妻が空を割ったのだろう、耳を
ユークの背後、無線受信機に影が生まれた。色濃く黒い、粘つくような影だった。連続する雷光の間にも影は残り、妙だが、光と影の境界は
──そして超常を見た。
影にように見えたそれは影ではなかった。影よりも色濃い、小さな、黒々とした染みが重なり合って、それらは人影を真似ながら
今、何を見たのだろうか。ただの残像だったとは思えない。冷ややかであり、
「──この屋敷は、明日には引き払います」
「え?」
「予定は早まってしまったのですが、婚約者の
※※※
ユークレース・ハニーチャーチはここから北に離れた湖水地方の田園地帯へと旅立った。彼女が
デヴァルー家は征服戦争で活躍したとされる名家だ。ユーク
俺はユークが狂ったのを目撃し、恐怖し、薄情にも自ら距離を取った。だがその婚約者はそうしなかった。きっと、彼という存在が病に苦しむユークを支えていたに違いない。結ばれるべくして結ばれる相手に違いなかった。
彼女は結婚をする。俺には彼女に関わる資格がない。
だが、それでも自分の気持ちには
この苦しみはユークを見捨てたことの罰なのだと思う。
会って、もっとユークを知りたい。
普段は何をして過ごし、何を食べ、何を読み、何を思っているのか。
そして、あの機械だらけの部屋はなんのために存在するのか。何を目的に集めたものなのか。
『亡霊を狩る』とは、何を意味するのか。
この世のものとは思えない、壮絶な程に美しい彼女──、そして稲妻に
仮に、もし、ユークの
「──
深刻な顔でカルテを見つめる俺を心配してか、看護婦が声をかけてくれた。
「いや。気は確かだった」
カルテを手渡す。もうこの病院には来ないだろうし、俺が彼女に会う理由もないから、記録室に閉まっておけば良いだろう。
「でも、この子、妙なところがあるのよね」
「妙なところ? まさか、亡霊の話か?」
看護婦は眉根をよせた。
「ぼ、亡霊? いえ、たまにご都合が付かない時があるのか、病院にお越しになることもあったのですけど……。他の患者さんが口を揃えて言うんですよ。『あのお嬢さんは病院に入れるな』って」
「初耳だな。何故?」
「──精神病じゃないから、ですって」
皮肉なことに医師や看護婦よりも、精神病患者の方が、狂気のありなしを言い当てられるものだった。
※※※
あの日、彼女は玄関先まで送ってくれた。雨は降り続いていて、土と
ユークは
『
なんと答えるべきか迷った。
彼女は結婚を控えていて、そして俺のこともとうに忘れているものと思う。だから正体を明かしたとて彼女は何も思うことはないし、奇跡的に覚えていたとしても少しばかり懐かしい気がするだけで、それ以上はないだろう。
何かを期待して彼女に会った訳ではない。ただ、この『期待はしない』という考え自体が、
もしかしたら、俺を俺と気づいてくれるかも知れない。
根治しているなら、かつてのように笑いかけてくれるかも知れない。
10年間、ずっと俺を待ってくれていたかも知れない──。
人は可能性に
『名前は……、ヒースクリフ。ヒースクリフだ』
『嵐が丘』のヒースクリフは、恋仲のキャスリンが社会的地位と貴族文化への憧れを優先させてリントン家に
作中の彼のように、嫉妬と愛憎に
名乗ると、彼女は控えめに頷くような仕草をした。
そして、ゆっくりと顔を上げた。一度も感情を
そして彼女は何も言わずにゆっくりと扉を閉める。
小さく、唇が動いた。
『わたしはまだ、ジュリエットでいるつもりです』
閉ざされた扉を再び開ける勇気は、俺にはなかった。
・ピグマリオン
ミュージカル『マイフェアレディ』の原作として知られるジョージ・バーナード・ショーの戯曲
・メタ認知
自分を客観視して調整する能力