1.供物たち
田中との接触、その2日後となる土曜日。
「ふあああ~よーこ。おはよー」
「おはよう。和代」
朝っぱらから私と洋子は、秋月からの呼び出しを受けていた。
秋月が待ち合わせに指定した場所、それは彼女の住むアパートの部屋だった。
そのアパート、センプ・ルインズは、どうやらだいぶ古びて...いや趣があるようで、壁のひび割れとツタがよく目立った。
秋月の部屋の前、インターホンを押す。
すると、玄関ドアのぎぎぎっ、という異音とともに秋月が現れた。
その彼女を見て、思わずぎょっとした。
今、その頭には、包帯がぐるぐる巻きになっていた。おまけに、右手にはメンコみたいに分厚い絆創膏が貼ってある。
その異様な変化に驚く間もなかった。
「ごめんなさい!」
秋月はドアを開けてすぐ、挨拶もなしにいきなり謝っていたからだ。
「一昨日、あたし大神に酷いこと言ったでしょ。そのこと、まだ謝ってなかったから」
困惑する洋子に、秋月はそうあわてて付け足して、話し続ける。
「あのとき、大神の言ってたこと、正しかった。でも、あたしは、弱さに責任転嫁して、酷いこと言っちゃったと思う。だから、それで、本当にごめんなさい」
最後のほうは、そんな消え入りそうな声で言いきると、秋月は深く頭を下げた。
ちらと洋子を見た。洋子も、私の方を見ていて、ちょうど目が合った。
風が吹いて、近くに植えてあるケヤキの、葉っぱが擦れる音がよく聞こえた。
「えっと...秋月さん、あの、まず頭を上げてほしいな」
ようやく洋子は目線を秋月に戻して、そう声を掛けた。
「ともかく、わたし、心配だったの」
頭を上げた秋月に今度は洋子が話し始めた。
「一昨日の秋月さん、このままじゃ、どこか消えてしまいそうだったから。だから、何があったかよく分からないけど、今こうして目の前にいて、本当に良かったよ」
洋子は安堵したように、口元をほころばせた。
「それにわたしも、あのときは自分の感情を押し付けちゃっただけだから。だから、こっちこそ謝らなくちゃいけないぐらいで」
どうやら洋子側も、あの言い合いに思うところはあったらしい。 一転して、真剣なときに見せる仏頂顔になって、
「ごめんなさい。あの時掛けた言葉は、全部、自分勝手なものだったと思う、だから、気にしないで欲しいな」
今度は洋子が秋月に対して頭を下げた。
「いや、謝るのはやっぱりあたしの方だよ」
それに対して秋月は、どうやら納得してないみたいだ。
でもまあ、このままじゃ、傷の舐めあいのような謝罪合戦は長くなりそうだ。
区切りをつけるように思い切りため息をついてやった。
「あー。まあまあ、謝るのはそこらへんにしといて」
「でも、それじゃ」
「まあともかく、お互いの謝罪に対して、お互いが許してるんだし。それが分かれば十分でしょ」
私は、間髪入れずに話を強引に続けた。
「それに秋月に聞きたいことはたくさんあるし」
そう私は、さっきからずっと気になっていた。一体、秋月がこれほどのけがをするなんて、何が起きたのか?
この疑問を、一昨日のように、なあなあにする気はもうなかった。
「一昨日、私達と別れた後、何があったの? その傷は?」
私は、次々に沸き上がった疑問を秋月へとぶつけた。
「えっと、この傷は昨日、田中とやり合ったときにできたやつで」
「それで、肝心の田中は?」
ここで、秋月ははっと虚をつかれたような表情になった。
「田中は、殺されてたんだ」
「殺された?」
殺された。あの、不死身の肉体を持っていた田中ですら、誰かに殺された。
その事実が少し遅れて、ようやく頭の中に入ってくると、この初夏の熱さに似合わない、ヒヤリとした緊張が肌を撫でまわした。
「まあ、ちょっといきなりすぎたよね。そうだ、一昨日から何が起きたか、ちゃんと順番に話すよ」
そこから秋月は、一昨日から昨日まで、田中と何があったのか、その一部始終を話し始めた。
私達は6月特有のじめりとした暑さと、アパートに吹く風の涼しさが混じる中、熱心にそれに耳を傾けていた。
そして、田中の顛末、溺死体として見つかったことを最後に、その秋月の話は終わった。
そうすると、費やしていた集中力が一気にほどけて、肩の力が一気に抜けた。
悪魔? メフィスト? 秘狂クラブ?
なんだそりゃ。秋月の話は正直言えば、とんでもなさすぎて、いまいち現実味を帯びなかった。いや、今、私は世間でいうところのサイキッカーになったのだから、こんな自分が言うには説得力ないかもしれないけど。
「ひとつ質問、いいかな?」
そんな私の混乱にも関わらず、洋子は意外と元気だ。さっそく、持ち前の好奇心で、秋月へと疑問を投げかけていた。
「その、見つかった田中さんの遺体には、文章が刻まれてたんだよね? 秋月さんはこの内容に心当たりあるの?」
"悪魔より告げる 我ら 狼 鷹 啄木鳥 を狩りこれを同志へと捧げよう"
秋月の話に出てきた田中の溺死体、その背に刻まれた血文字。
たぶん暗号か、何かのメッセージらしい。が、正直私にはその意味はちんぷんかんぷんだった。
「ふふん。心当たりならあるよ。この暗号、もうあたしは読み解いたからね!」
待ってましたとばかりに秋月は言った。
「それなら、すごいよ秋月さん」
「へへへ、どうしてもってなら、説明しようかな」
どうしても、とは誰も言ってないのに、秋月はにたにたして、その血文字の解説をし始めた。
「まず、この血文字の最初の部分、悪魔ってのは、おそらく田中の言っていたクラブのリーダーメフィストのことを指してるんだよ。メフィストっていうのは...」
「ファウスト伝説に出てくる悪魔、メフィストフェレスのことでしょ」
私は、秋月の高慢なしぐさが鼻についたので、つい張り合って補足してやった。
「なあんだ、知ってたのかあ」
メフィストフェレス。それは、昔実在した学者ファウスト博士が退屈を紛らわせるために呼んだ悪魔の名前とされている。
「だったら、メフィストっていうのは、坂田さんを日陰者にさせた悪魔、伏見さんが言ってた悪魔と同一人物なのかな?」
「秘狂クラブから抜け出してきた田中も日陰者だったし、その可能性は高いね。もしかしたら、メンバー全員日陰者かも」
洋子の意見に対して、そう秋月は推測した。だとしたら、秘狂クラブ。とんでもないやつらかも。
「血文字の話に戻るけど、悪魔のところがメフィストを指すなら、我らに対応するのは、秘狂クラブのメンバー達だと考えられるよね。そして、その次の部分。この動物たちが何を指してるかなんだけど...」
秋月はここでタメをつくった。
「せっかくだし、ここでシンキングターイム。この3匹の動物は何を指してるでしょうか!?」
「へ?」
「制限時間は2分。よーいスタート!」
いつの間にかタイマーをセットしたらしい。ぴっ、という音とともに、なぜか、いきなりクイズが始まった。
秋月め、答えが分かってるからって随分調子に乗っているらしい。
きっと秋月は、私と洋子が頭を悩ました末、答えが出ないのを見たうえで、自慢したいからこんなクイズなんかやったに違いない。
それならば、よし、答えてやろうじゃない。
さっそく頭をひねって考えてみた、が。
...
むう。ダメだ。全然、わからない!
努力空しく、ぴぴぴ、とタイマーの電子音がタイムアップを告げた。
「分かった?」
ふふん、と鼻を鳴らして秋月は見下ろすように私と洋子を見た。
「分からん。降参だー」
悔しいがさっぱりだった。私は両手を上げて、お手上げするしかない。
「あの、分かったかもしれない」
一方、洋子はどうやらあてがあるらしい。
「えっと、たぶん狼がわたし、鷹が和代、啄木鳥が秋月さん、のことだよね?」
秋月が、拗ねて口をすぼめた。どうやら正解らしい。
「どういうこと。洋子?」
「つまるとこ言葉遊びなんじゃないかな。ここに書かれている動物は、わたしたちの名前の発音に近いものが、それぞれ選ばれているんだよ。まず、狼(おおかみ)はわたしの名前、大神(おおがみ)から。鷹は、沼田和代のぬま[たか]ずよの部分、啄木鳥は、秋月希依のあ[きづき]希依の部分から、それぞれ取られてるんじゃないかな」
「ちえっ。せっかくあたしが説明しようと思ったのに」
秋月は、種明かしを洋子がしてしまったことが不満げだった。
「えっと、ごめん」
そうなると、洋子は申し訳なさそうに、縮こまってしまった。
秋月ってほんと、こういうところが大人げない。もっと洋子も言ってやればいいのに。
まあ、それにしても...私達を動物にあてはめるとは、ずいぶんふざけたメッセージだ。
ここではっと気がついた。
じゃあ私達が動物ってことは....つまり...
「この文章って、狩るってまさか」
「分かった? この血文字は、メフィスト率いる秘狂クラブが、あたし達を動物に見立てて狩ろうとしている、つまるところ、宣戦布告ってワケ」
そう、 私達はいつの間にか、狩りの対象になってしまったらしい。その事実に冷や汗が出始めた。
「じゃあなんで、その、秘狂クラブは、私達にこんなメッセージ残したのかな」
「奴にとっては、遊びのつもりなんだよ。だって、奴らの活動指針は狂気なんだ。きっと、あたし達のことも新しいおもちゃ程度にしか思っていないはずだよ。そいつら3人、これからきっと、いや確実にあたしたちに襲いかかってくる」
「じゃあどうすればいいんだ」
私は額に手を当てて、そう投げやりに聞くしかなかった。
特異科があんまり頼れないのは、一昨日の事件で知ることができた。それなら誰が私たちを守ってくれる?
「そこであたしから一つ提案がある」
秋月は息をすう、と吸い込むといきなり、
「あたしたちに足りないものはなんだ! 大神!」
大声で、いきなり洋子に話を振った。豹変したその様は、体育会系の熱血教師みたいだ。
「ええっと、知識?」
「違う! 沼田!」
え、わ、私? えーと、えーと。
「か、かわいさ?」
「違う! 強さだ!」
なぜか、秋月は拳を握りしめると、突き上げて、熱くそう宣言した。
「そう強さなんだ!」
「はあ」
言葉の意味をいまいち咀嚼していない私たちに、秋月は急にすん、とした。
「まあ、熱血っぽい前置きはここらへんにして、つまるところ、提案っていうのは、特訓しようってことだよ」
「と、特訓」
「どれくらい能力を使えるか、そしてどうやって能力を使うか、それを試すべき、鍛えるべき。考えてみればこれもちょうどいい機会かもしれないし」
秋月は腕を組んで、一人でうんうんと頷いて、
「ということで、一時間後各自、体操服を着て、ここに集合! あっ水筒、お昼ご飯も忘れずにね」
一方的に通告してきた。
かくして、私達の特訓の日々は始まりを告げた。
2.血の集会
街の中心、ビル群の隙間、そこに3つの人陰があった。
建物同士のわずかな狭間から差し込む月の光によって、黒い陰たちはぼんやりと浮かび上がっている。
「たまには、外でやる集会もいいもんじゃねえか。なあメフィスト」
「ああ」
メフィストと呼ばれた陰は、捨てられていたドラム缶に座っていた。それに声を掛けた陰は、ビルに背中をあずけていた。そして、もう一つの陰は持ち込んだ折り畳みの椅子に座っていた。
そう今彼らは、ばらばらに、それでいて思い思いの場所に陣取って、リラックスしていた。
ただ、もし彼ら以外の人間が、ここにいたのなら、こんな風に落ち着いてなんていられなかったはずだ。
3つの人陰、その中心にある、目を背けたくなるような物体がその答えだった。
その物体の、全身に空いた刺し傷から、未だ赤黒い液体が流れ落ちている。
そう、それは、まだ少しだけ暖かい...若い女性の死体だった。
傷だらけのその死体、見開かれたままの目は、今も自分の状況が信じられていないかのように凍り付いている。
「派手にやりすぎたな、まったく。この汚れ、クリーニングに出せないぞ」
折り畳み椅子に座っていた一人は、死体と自分のシャツを見比べながら悪態をついていた。どうやら潔癖らしく、折り畳みの椅子なんか持ってきたのは、薄汚いビルの汚れを気にしているかららしい。
「リースって真面目すぎよ。こんなの大したことないのに」
ビルに背中を預けていた陰、マノンはにやりとそれを嘲った。
「いいかね。このスーツは非常に繊細なものなんだ。君のようなペーペーが手に入れられるような品じゃない。お前たちの着ているような適当な服と一緒にしないでくれたまえ」
その椅子に座っている陰はリースと言うらしい。どうやら彼は、その些細な喧嘩を買ったようだった。
「そんなに汚れるのが嫌だったら、グリーンハウスを使えば良かったじゃない」
「あれは使うと少し疲れる。それに刺す感触が手元に伝わらないじゃないか」
「はあ、バカね。じゃあそのおしゃれなスーツじゃなくてジャージでも着れば良かったのよ」
「ジャージ! 馬鹿はそっちだ。そんな安っぽい服着れるかね。第一服というものは生活をだね...」
そこからは、リースの独壇場となった。ファッションに対する独自の持論を、マノンへと浴びせかかったのだ。
そうすると、マノンはうんざりしたようにリースから目をそらして、メフィストの方を見た。マノンは何かに気づいたようだ。背を預けていたビルから離れると、メフィストの方へと近づいた。
「ほら。頬に血付いてるわよ」
マノンは、座っているメフィストの目線より少し下にかがんで、左手に持っていたハンカチで彼の頬の血をぬぐった。
「ありがと。それ今作った奴?」
「そうよ」
「前より作るの上手くなってるぜ。特に絹のきめ細かさがダンチだ」
「えへへ。ありがと」
そうにこりとマノンは笑うと、急に真面目な顔になって、
「でもいいのメフィスト? 今回は、計画性なく殺したのよ。きっと足が付くわ」
「いいんだ。伏見銑十郎が死んだ記念だ。派手にやったほうがいい」
「ふうん。まあ、それもそうね。暗いことばかり考えても仕方ないもの」
マノンは、上目づかいでうっとりとメフィストを見つめた。
「マノン! 私の話を聞いていないじゃないか!」
リースはそこでようやくマノンが話を聞いていなかったことに気づいたらしい。椅子から離れ、ずかずかとマノンへと近づいてきた。
「いいかね、今日こそファッションの神髄とやらを貴様に...」
ずるっ
「おおっ!」
なんとリースは、途中にあった死体を踏んで、バランスを崩した。
見事、すっころんだ!
「あたあっ!」
リースは、ごきり、と背をしたたかに地面に打ち付けた。
「ひゃははははは」
マノンはそれに大笑いだ。おかしくておかしくて仕方ないらしい。
「畜生め! こうなったら決闘だ。今まで舐められていた辛酸、今日こそ晴らしてやる」
一方、リースは肩を震わせ、今にもマノンへと掴みかかりそうになっていた。
「まあまあリース落ち着けって。マノンも、悪気はないはずだ」
バンディがリースの目の前で、手を前に突き出す動作で止めようとした。
「あら、バンディ。私の方は受けて立つつもりだけど。どっちが上か分からせるには、ちょうどいい機会じゃない」
「お前のその腐った性根、指導して叩き直してやろう」
バンディのフォローの甲斐なく、マノン、リースは両者睨み合い、衝突が起こりそうになったそのとき、
ぱんっ
破裂音が響いた。メフィストが手を叩いたのだ。
「まあ、今日はそこら辺にしとけ。いずれ対決の機会は作っておくから」
そうすると、両者はすんと、我に返ったようだった。
「それで、いいね」
メフィストはさらに念を押すように言うと、
「だ、そうだ」
「覚えてなさい」
ようやく両者は睨み合っていた目線をぷいとそらした。
「よし、じゃあ区切りもいいし、定例集会を始めよう」
その彼の号令によって、血まみれの奇妙な集会はビルの狭間で始まった。
「今回の議題は二つ。まず一つ目、新しい課題の通達だ。今回の課題は、伏見銑十郎の死もある。この街でより、実践的なものを行いたい」
「実践的? 何するのよ」
マノンはわくわくしているようで、思わず顔を前に出した。
「今回の課題、それはずばり、ハンティングだ。獲物は、この3人」
メフィストは携帯を取り出し、その画像を皆へと見せた。
それには、3人の女子高生が並んで歩いているのが映し出されていた。
「この子たちって前メフィストが言ってた、要注意人物じゃない」
「ああ、そうだ。大神洋子、沼田和代、そして秋月希依。この3人は、伏見銑十郎と同じようにこの街の秩序を守る側の人間、つまるところ俺たちの敵だ。だから今回は、こいつらを賞金首にして、殺してしまおうというわけだ」
「賞金首というからには、何か、狩ったときの報酬はあるのかね」
リースが興味津々という風に聞いた。
「ああ、今回のは、俺の自腹で出す。ちょうどいい報酬、この前手に入れた大金があるんだ。そうだな、それを一人狩るごとに...」
そうしてメフィストは、右手で一本指を立てた。
「これだけの報酬をやろう」
「1万か! 何に使おう」
「リース。さすがに1万じゃないぞ。100万だ」
「100万!」
リースは顎が外れるかという勢いで口を開けた。
「なんだ。お金かあ。興味なくしちゃうなあ」
それに対して、マノンはがっかりとした顔をしている。
「マノン。お前...100万だぞ。この価値が分からんのか。お前はまだ働いたことがないから分からないかもしれないが...」
「別に、お金なんて私のマスターピースでつくれるもん。そんな紙切れごときにどれだけの価値があるのよ」
「でもお前のマスターピース、まだまだ発展途上だろ? きっと偽札だってばれちまうぜ」
バンディが、小笑いで指摘した。
「うるさいわね! それに、最近は一円玉だったら、頑張れば完璧に作れるのよ」
「一円玉って、1万作るまでどれくらいかけるつもりだよ」
マノンはそれに何も言えなくなってしまったようだ。八つ当たりのようにして、リースに冷ややかな目を向けてから、ぷいとメフィストへと向き直った。
「で、もし二人以上で殺した時は賞金はどうするのよ。そんときは山分け?」
「いや今回、共闘はなしだ。一人で獲物を狩ってもらう。それが今回俺たちに課すハンデだ...そう狩人は一人でいい。まとめてかかったら、あいつらに勝ち目はないだろうしな。そりゃ面白くないだろ」
そう言うと、メフィスト以外の全員は当たり前だとでもいうように深くうなずいた。
「あと、もう一つのハンデとして、獲物には事前に、俺たちの狩りの対象であることをそれとなく伝えておいた。だから、それなりには獲物の方も準備してくるはずだ」
「なるほど。やりごたえがあるわね」
「まあ、ハンティングについて、これで説明は以上だ。異論は?」
メフィストは二つの陰を見回した。特になさそうだ。
「特にないね。じゃあ、本日、この時をもって、ハンティングを開始する。思う存分狩ってくれ」
「了解! じゃあさ、さっそく私から殺しちゃっていいかしら?」
「好きにしてくれ。まあ、ひとつめの議題の通達は以上だ。それで、もう一つの議題、こっちの方が重要なんだが...」
3.必殺技
私達は、秋月のアパートを離れ、今、町はずれの山の中にいた。
正確には、山の中腹にある、木々に囲まれた原っぱに。そこは、中心に大きなブナの木が植えられているだけの、酷く殺風景な場所だった。
「ここがあたしたちの特訓場。さ、すぐ特訓始めちゃおう」
そうして私たちが最初に始めたのは...
「そこ、動かない!」
秋月の持った木の棒、正確には警策というらしいが、それが後ろから、私の肩をぱんっと打ち付けた。
「あたっ!」
私と洋子は、後ろの秋月におびえながら、背をぴんと伸ばしてあぐらで座っていた。
そう、最初の特訓、それはなんと座禅だった。
秋月曰く、
「まず、能力を鍛えるには、精神力を鍛えることが大事なんだよ。能力は精神に付随する。つまり、その大本の精神力を鍛えることで、能力もおのずと鍛えあがる! ...らしい。まあこれはじいさんの受け売りだけど」
まあ、伏見さんが言うぐらいだから効果はあるのだろうが...この姿勢で長時間はだいぶきつい。
「あっまた動いたでしょ!」
「あたっ!」
そんなこんなで、右肩をとても痛めた座禅が終わると、次の特訓に移った。
「そして、次に体力! 健全な肉体に、健全な精神はやどる! ということで走り込みじゃい!」
その秋月の宣言とともに、原っぱを離れ、私達は、山道を走ることになった。
走るのは、苦手で嫌いだ。
案の定、3キロぐらい走った頃だろうか、もう私の息は荒くなっていた。
「はあ、はあ」
そんな私に比べ、前を走る秋月は、ぜんぜん余裕そうだ。ちらと、洋子の方を見る。
「ふう、ふう、ふう」
私と同じか、それ以上に息が上がっている。
この調子じゃ、私より先にダウンするはず。そうすれば、少なくとも私の面目は保たれるはずだ。
「よーこ、大丈夫?」
私は、心配そうにして洋子の横を走りつつ、声を掛けた。
「ぜんぜん、だいじょおぶ」
「休んだら?」
私の黒い願望が芽を出し始めた。休んじゃいなよ。そしたら、私も休めるし。
「やすまない」
洋子は傍目から見ても、限界そうで、走るフォームもがたがたに崩れている。それでも、走るのを止めない。
「でも、よーこもう限界そうだよ。無理しなくても...」
「むりしなきゃ。わたしは、のうりょくが、とりえがないもの。やすんだら、きっとあしでまといになる」
洋子はふにゃふにゃの声でそう言った。
休んでくれたら、こっちも楽できたのに。
そんな期待と裏腹に洋子は、がむしゃらに進んでいった。
仕方ない。まだ走るしかなさそうだ。
そうして、しばらく経つと、
「はあ、はあ、はあ」
私と秋月の差は、今や明確に開いていた。
それだけじゃない、洋子との差も開こうとしていた。
「はあ、はあ、はあ、はあ」
畜生。秋月はともかく、洋子に負けてたまるか...
私だって、私だって。できるはずなんだ。
そう自分を鼓舞している一方で、怠惰な悪魔の囁きとやらも聞こえてきた。
もうやめなよ。べつにいいじゃん。
畜生。そんなのに負けてたまるか。
その想いは体には伝わらないみたいで、足元はへろへろ、息はさらに上がっていく。
前との距離は遠くなるばかりだ。
ちくしょう。なんで、私は。
気力がそがれる。それにつれ、悪魔の囁きも強くなっていった。
そうだ、やすもう。やすんでしまおう。いいじゃないか。
そしてついに...悪魔のささやきは私の足を止めた。
「ちょっとタンマ。やすませて...」
私は前の二人に、そんなみっともない声を掛けていた。その心の屈服宣言は前の、真剣に走っているふたりには届かなかったらしい。
私は、ふたりに気づかれず、置いていかれた。
それにちょっとだけ、ほっとしながら、近くの木に体をもたれかけさせる。
そして、ふたりがさっきまで走っていた残像を追い回すように、山道をぼんやりと眺めた。
「はあ、私ってほんとに」
情けない奴だ。
その屈辱的なランニングが終わると、時刻は正午を少しすぎたあたりになった。
秋月持参のレジャーシートの上で、私達は昼食を取り始めた。
「これ、あたしが作ったんだよ」
さっそく秋月は、自慢げに自分の弁当を見せてきた。
その弁当の第一印象を包み隠さず言うとするなら、白と茶、だ。
まず弁当の、左半分はごはんが広がっていて、右半分には、残り物の豚肉ピーマン炒めと、ミートボールが、ぎっちりとつまっていた。
秋月らしい、なんとも豪快な弁当だ。
「へえー自炊かあ。すごいじゃん」
「でしょでしょ」
お褒めの言葉を頂くと、無邪気に秋月は喜んだ。
そうすると、秋月は弁当を比べたくなったらしい。今度は洋子の弁当をのぞいていた。
「おおーおっしゃれ~。作ったのお母さん?」
「うん。今日、外で食べるって言ったら急いで作ってくれて」
洋子の弁当、それは私には、ちとまぶしすぎる代物だ。
まず、弁当の一番広い四角の中に、三角形の可愛らしいサンドイッチが2組、すっぽりと入っていた。そして、その左側の小さな四角たちの中には、レタス、トマトの野菜群と、卵焼きと黒豆が入っているおかずのコーナーに分かれている。そしておまけのように隅ッコに、キャンディーのように個包装されたチーズふたつが入ってた。
そう、いつも横から見ている、親から無償の愛を注がれている人の弁当だ。
それがうらやましくないと言えば、きっと嘘になるな、なんて考えていると、二人の視線を感じた。
どうやら、秋月の弁当、洋子の弁当ときて、今二人の注目は私の弁当、ではない昼食に集まっているようだ。
私のなんて、別に見てもなんともならないのに。
そう、私の昼食は、サランラップに包まれた不格好なふたつのおにぎりだけだ。追加で余計な情報を加えるなら、ひとつは具なしだ。
「おお沼田のは、その、なんかワイルドな感じだ」
そんな風に気を遣わんでもよろしい。貧乏だからさ。こっちは。
そんな言葉をかろうじで心にとどめておいて、
「まあ、ありがとう」
秋月にそう謝辞を言うのが精いっぱいだった。
これ以上の昼食談義はもうごめんだ。私は別の話へと、切り替えることにした。
「そんなことより、午後からは、さすがに能力を使った特訓を始めるよね」
そう秋月に聞いてみた。
「ちっちっち」
秋月はわざとらしく人差し指を振った。
「今日のところは、水餅の気になるところを検証しなきゃ」
「検証?」
「まず鍛える前に、水餅で何ができるか、何ができないかを見極めたほうがいいでしょ」
水餅。私から出すことができる透明な粘体。私の思念によって、動かしたり、物体に吸着したりできる。日陰者としての私の能力。
午後からは、秋月の言った通り、水餅の検証が始まった。
その検証で、水餅について理解したこと、それは3つある。
まず、ひとつ、水餅を出せば、出すほど体力を消費すること。
そして、ふたつ、私が水餅を現時点でどれだけ出せるかということも。
「最初に、水餅がどれだけ出せるのか、正確に測ってみよう」
秋月はどこからか、ドでかい重量計と、バケツを持ってきた。
そのまま、彼女は重量計にバケツを置いた。
「はい、どうぞ」
「へ? ああ...なるほど」
いきなりのことで、最初、秋月に何を促されたのか分からなかったが、どうやら、水餅を重量計の上にあるバケツに出すことで測ろうとしているらしい。
それを理解すると、さっそくバケツの上に自分の右手をかざして、水餅を入れていった。
どぼどぼ、という音とともに、右手から出る水餅はどんどん、バケツへと溜まっていく。
しばらくすると、バケツの中身は満タンになった。そうすると、秋月が重量計の数値を記録し、その後、洋子がその重そうなバケツを持って、中身の水餅をどばっと、そこらに捨てる。
水餅を入れる、測る、捨てる、それの繰り返しを続けていくことで、私の最終的な限界を重量で確かめる、それがこの検証の目的だった。
この計測作業を進めていくと、ついに出した水餅の量は自身の体重を超えた。
水餅。こんなものが私の中にそれだけ入っているという事実はなんとも不思議だった。 いや正確には私の周りの現実をゆがめて出しているのだけども。それでも、不思議なものは不思議だ。
そんなことを頭に浮かべつつ、ひたすら水餅を出していくと、重量が計50 kgを超えたあたりで、
「あれ?」
自分の体に異変が生じ始めた。だんだん、体にだるさがたまっていくような、今見ている光景がまるで絵のように見える遠い感覚。そう、だんだんと水餅を使った代償としての疲労がたまりはじめていたのだ。
その少しずつ蓄積する疲労が牙をむいたのは、丁度、バケツは12杯目、重量が70kg を超えた辺りだった。
「ありゃ」
突然、体がくらっとしたかと思うと、そのままバランスを崩し、私は尻もちをついていた。
「大丈夫?」
洋子が私に駆けよって、手を差し出してくれた。
「ああうん。大丈夫、大丈夫」
そう言って、私は自力で立とうとしたのだが、
「あれっ」
足に踏ん張りがきかず、また尻もちをついてしまった。
「よーし。そこまで。記録は70.65 kg」
秋月の声で、計測は終了した。疲労と開放感で私は、思い切り草原に寝転んでやった。
「これが限界かあ」
「まあ、まだもうちょいいけると思うけど、これ以上は危ないからね。でも、これで分かったでしょ。いざって時に水餅不用意に使えば、後々、自分の首を絞めることになっちゃうってことがさ」
「眠い...」
秋月の声も、もう遠くから聞こえてくる。このまま、夏のぽかぽか日差しに照らされながら、午後の昼寝としゃれこんでもいいだろう。
あれ、待てよ。
急に頭の冷静な部分から意見が沸き出した。
「ねえ秋月」
「何でしょ」
「出せる限界を知りたいなら、ランニングで体力使う前の方が、良かったんじゃないかな」
「確かにそうだ。っておーい寝るなー!」
みっつ、水餅は自分の中へと戻すことができる。
限界を測るために使っていた重量計を片付けているとき、捨ててあった粘体になんの気なしに触れてみた。 すると突然、頭の中にぱっ、と水餅を吸い上げるイメージが頭に浮かんだ。
その直感に従って、水餅に自分の中へと戻るよう命令すると、
「おおっ」
ずずずっ、と水餅が右手から自分の体へと戻っていった。
そうして吸い上げた分、私の中に水餅がストックとして溜まっていくことを、感覚で理解した。
つまり、一度出した水餅は再利用することができるらしい。
そんなこんなありつつ、一日目の検証は終わった。
そして、特訓二日目からは、いよいよ水餅を鍛えるための本格的なトレーニングが始動した。
それは、基礎から応用まで幅広く、とにかく手当たり次第なんでもやった。
水餅をひたすら限界まで絞り出す特訓。水餅を一気に体から放出する特訓、水餅をなるべく素早く動かす特訓、エトセトラエトセトラ。
特にこの中でも、面倒くさかったのは、水餅の操作特訓だった。
この特訓では、まず水餅の小さな塊を二つ出して、それらを別々に、しかも同時に動かすことを目指した。
これが、とても難しい。そう、例えるならピアノを左右の手で別々に動かす難しさ、的な。
どうしても、ふたつの水餅を同時に動かそうとすると、同じ方向に動いてしまう。
それでもコツコツやっていくと、徐々にだけど、上達していき。
そして、
「やった!」
何とか、修行3日目の夕日、ようやく二つの水餅を別々に動かすことに成功した。
「まあ、めっちゃへろへろだけど」
水餅の特訓。それは、大抵秋月から言われて嫌々やっていたものがほとんどだったけれど、例外で極めて個人的に、それも熱を入れてやっていた特訓があった。
それは...新必殺技の開発だ。
せっかくこんな超能力なんてものが備わったんだし、一つぐらいカッコいい決め技が欲かった、という思いもあるけど、まるっきり浮かれきっていたわけでもない。
ちゃんと、必殺技を作る合理的な理由もあった。
それは水餅の弱点、遠距離攻撃ができないことを補う必要性だ。
水餅は私の体から出す性質上、とっさに遠距離への対応ができないのだ。
そこで、その弱点を解決するため、私が思いついたのは、水餅を飛ばす、というアイデアだった。
最初の事件、坂田相手に水餅を使ったとき、それは全身から飛散した。
あの時は、無意識でだったけれど、これを意識的にできれば、実践で使える技になる、はず。
技のイメージは、水流カッターのように、とても小さく細い穴から水を勢いよく射出する感じで。
そのイメージを頭の中に反復させながら、自分の右腕を、水餅を射出する砲身に見立てて、その場でつきだしてみる。
これは、秋月の雷起こしみたいに、手から射出することができるかもしれないと思ったからだ。
そうやって特訓の休憩時間中、右腕を突き出しながら、
「はああ」「ふうおお」
なんて、勢いある掛け声を続けてると、
「何やってるの?」
それを見て、さっそく秋月が興味津々で声を掛けてきた。
「必殺技の開発!」
「それもいいけど、休むときは休みなよー」
秋月は呆れたような返答を返した。
どうやら、ふざけてるように見えたらしい。
まあいい。それなら必ず、ものにしてやる。
そうして日々は過ぎていき、特訓から4日目、土曜からやっていた特訓は火曜日になっていた。
その、夕暮れ。だらけた空気が漂うこの時間帯。
いつものように右腕を突き出す。
狙いは、特訓場の原っぱ中心にある、ブナの木だ。
片付けを始めている秋月を横目に、必殺技の練習にいそしんでいたそのとき、
いける。
突如として確信が沸いた。
「はあああああ!」
声にも今まで以上に力がこもる。
いける。いける。いける!
そしてついに、
ぴゅっ
右腕の掌から、水餅は出た。
それは放物線を描き、目標のブナの木の手前、ぺちゃりと落ちた。
ほんのちょっと、だいぶしょぼいが出た。出せた。
思わず、右手をぎゅっと握った。
「やった。やったぞ!」
目標には当たらなかったけど、そんなことはどうでもよかった。
「おおー」
必殺技を出す瞬間を秋月は見ていたらしい。馬鹿にしているのか、感心しているのかよく分からないリアクションを見せた。
まあいい。やっとできた嬉しさのほうが今は強いので良しとしよう。
「どう。できたよ必殺技」
「良かったじゃん」
「そうだ、この必殺技、名前どうしようかな。ねえ秋月、何か名前のアイデアない?」
成功で高まったテンションのまま、私はそんなことを聞いていた。
「ええー」
秋月は、いかにもめんどくさい、という苦い顔をした。
が、一応は考えてはくれているようだ。彼女は、顎に手を当ててしばらく考えていたが、
「スペルマとかいいんじゃないの」
そう、投げやり気味で言った。
スペルマ。
四文字でまとまっていて、それでいて不思議な響きがある。
「スペルマねえ...うんいいじゃん! それにしよう!」
秋月は、それを聞くとなぜか意外そうな顔をして、下へと俯いた。気のせいか、その肩は小刻みに震えていた。
「どしたの? 秋月」
「い、いやなんでも。そ、それに例えば、こういう当て字は...ふっ..どうかな」
秋月はなぜか声を震えながら、どこからか拾った木の枝で、地面の土に文字を書き始めた。
精流魔
おおっ。横文字もいいけど、こうして漢字にするとさらにかっこいい。
しかし、当て字だとしたら流と魔は分かるが、精はどこから来てるんだろう?
まあいっか。かっこいいし。
「すごくかっこいいよ! もしかして、秋月って名づけの天才?」
「そ、そうかもね~」
秋月の声の震えはさらに悪くなっていた。
「よし。じゃあ必殺技の名前は精流魔(スペルマ)に決定! ありがとね。秋月」
「ど、どういたしまして」
なぜか秋月は私から顔を背けていて、さっきからしている肩揺れはさらに酷くなっていた。
さっきから秋月はどうしたんだろう。体調でも悪いのだろうか。
「何してるのー」
そこに、走り込みをしていた洋子が、山道から、こちらの原っぱへと帰ってきた。
「ねえねえ洋子。さっき出来たよ。前から練習してた新必殺技。ほら見て」
さっそく、さっきの要領で、右腕を構えて、同じようにぴゅっと水餅を飛ばした。
「すごいよ和代!」
それを見ると洋子は目を輝かせてほめてくれた。
「でしょでしょ。へへへ、それで名前も付けたんだ」
びしっと洋子に右腕を突き出して言って見せた。
「なづけて、新必殺技、精流魔!」
「え?」
「どう、かっこいいでしょ」
洋子はしばらく、ぽかんとしていたが、やがてその顔はみるみる、赤くなっていった。
「ねえ、和代」
「ん?」
「ええと、スペルマって確か...えっと、その...せ、んぐう! ん~」
秋月は素早く洋子の口をふさいだ!
「それじゃ、そろそろ帰る時間だし! 帰ろう帰ろう!」
4.双頭の狩人
必殺技が完成したその翌日。
授業が終わるといつものように、私達3人は特訓場目指して歩いていた。
放課後の、もはや習慣となってしまった特訓は今日で5日目だ。
その特訓場までの道中で、ふと前を歩いていた秋月に聞いてみた。
「そういえば、前から気になってたんだけどさ。ここの山って秋月の土地なの?」
そう、前から疑問だったのは、ここの特訓場のことだった。5日ここに通うと、だいぶこの土地の管理がしっかりしていることが分かってきたのだ。
まず、この土地全体が、緑の網フェンスで囲まれている。それに、入るときに通る山門にも、よく見れば、その門の間に、センサーが付いていた。
「うんあたしの土地。いや、じいさんのだった土地なんだ」
秋月はどこか遠い目をして答えた。
「じいさん。遺書残しててさ、もし私が死んだら、すべての土地をあたしに譲ってやってくださいって。まあ、それでこんな贅沢な場所を使えるってワケ」
「じゃあ、監視カメラとかセンサーがついてるのも、伏見さんが?」
私の横にいた洋子が、周りを見渡して言った。
「よく気づいたね。そう、この土地一帯は監視システムが作動してるんだ。もし、私達以外の奴らが来たら、センサーと監視カメラが反応して、この携帯に伝えてくれるようになってる」
そうして、秋月は右手に持っている携帯を振って見せた。
ここ一帯が監視システムに囲まれているなら、もし敵が侵入しても動きが読める。少なくとも、不意打ちはできない。
この場所は、少なくとも警察に頼れない今なら、街中よりも安全な場所なのだ。
今になって振り返れば、そうやって私が安心をしょい込んでいる間にも、敵はきっと背後にいたはずだ。
そのことに、まだ、私達は気づいていなかった。
☆
その秋月の私有地、その山中に、侵入した者たちがいる。
学生服を着た2人組の少年たちだ。
「お前さー。あの刑事に絞られてよく懲りないよなー」
一方は、しかめっ面をしながら、その私有地との境界にある緑フェンスをよじ登っていた。
「へへへ、あんなことでぶうたれてる俺じゃない」
その柵の私有地側には、もう一人の、髪をスポーツ刈りにした長身の少年がいた。
しかめっ面をした方は町田、長身の方は新井田だった。
町田はようやく柵を超えると、地面に着くなり、
「とにかく、こんなところに斎藤はいないぜ」
すぐさまこう言った。
「お前が言うにはここらへんで斎藤が目撃されたんだろ」
「斎藤じゃない、それらしき学生がって話だ。それに信憑性も怪しいもんだぜ」
「まあ、そこは実際探してみなきゃ分からんだろ。ささ、いくぞ」
その町田の懐疑的な態度にも、新井田はさして気に留めていないようだ。
町田はここで大きなため息をつくと、
「お前もう斎藤探すの楽しくなってるだけだろ」
そう言って新井田を睨んだ。
「いいじゃねえか。楽しくても。それに、ホントの所、町田」
「何だよ」
「お前もちょっと楽しんでるだろ?」
町田の動きが、少しだけ止まった。
「そんなことないぜ」
どうやら、図星だったようだ。
「お前って意外と、分かりやすい奴だよなあ」
新井田はうんうん、と納得するように頷いた。
「ところで、お前部活の方はどうなったんだ。バスケ部って今日も活動日だろ?」
「それがな、クビになったんだ」
その少年2人とは別に、秘狂クラブの狩人は、今、特訓場へ向かう少女たちの後ろへとついていた。
「ふうん。あいつらが獲物か。張り合いないなあ。ねえ、そう思わない、バンディ?」
「さあね。ただ、こういうのは、実際に戦ってみなけりゃ分からないぜ」
「まあ私のマスターピース」
「俺のマジックサーカスに掛かれば」
「どんな相手でも私達にかかればお茶の子さいさいよ」
「そう、さいさいだ」
☆
私達は、そのまま山道を進んでいき、特訓場の原っぱに着いた。
「よーし。さっさと始めよう」
前を歩いていた秋月は、せっかちにそのまま、真ん中のブナの木まで、走り出していた。
「秋月ってほんとに元気だなあ。私に分けてほしいぐらいだよ」
「今の和代の言い方、なんだかお年寄りみたい」
洋子がおかしそうに言った。
「私ゃ秋月なんかに比べたら立派な年寄りみたいなもんですよーだ。走るのもダントツどべだしさ」
「でも和代、前よりもずっと速くかっ...あっ...」
突然、洋子の言葉が途切れた。
「洋子?」
嫌な予感がした。
それに押されるようにして、 視線を走っている秋月から、横にいる洋子に合わせると、
「洋子!」
私は驚愕の叫びをあげていた。
洋子は、苦悶の表情を浮かべて、両手で喉のあたりを抑えていたのだ。
「かっ...はっ....」
何か、何か分からないけど、とてもヤバい!
洋子は、苦痛に耐えかねたように、その場へと崩れ落ちた。
ヤバいヤバいヤバいヤバい!
どさっと洋子が倒れるその音が、さらに私の心拍数を早く、息を浅くする。
ここは、監視システムが働いているから安全なはずじゃ。いや、そんなことより、まずは。
私は、洋子の苦痛の原因を探るため、彼女が両手で抑えている首元を覗いた。
そこに現れた魔幻の光景、それに一瞬、思考が停止した。
洋子に苦痛をもたらした原因。そう、それは、今も彼女の首の前後をかっちりと挟み込んでいた。
それは、本来、首なんかにあるのは、絶対にあり得ない。それは、トラバサミだった!
そのトラバサミは、刃が平滑になっており、それ故に、今も洋子の首にある気道をしっかりと挟みこんでいた。
何がどうなってる!?
「洋子。しっかりして!」
困惑と恐怖が混じる中、 そのトラバサミを外そうと、首元へ手を伸ばしたとき、
「敵だ! 山道のほう見て!」
秋月のつんざく声が、鼓膜を震わした。それにつられて、一旦、山道に目線を向けた。
そこにいたのは...学生服を着た少年だった。そいつは、そばかすと、丸っこい鼻が特徴の3枚目な顔をしている。
そのいかにも愛嬌ある顔は、不気味なことに、今、私達に対して歪んだ笑みを向けていた。
そいつ、そのそばかす野郎は私達の敵だと、その表情で理解できた。
その、そばかす少年は、左腕の肘を曲げた。そして、その左掌を開いて上向きにする。すると、ぽっ、とその掌上に灰色の水晶玉ほどの球体が現れた。
それは、掌を起点にぷかぷかと浮いた。
このそばかす野郎はどうやら私達と同じ、日陰者らしい。
そう、思案していると、後ろにいた秋月から、怒号が飛んだ。
「何ぼさっとしてるの! とっととあいつをとっちめるよ!」
秋月はさっそく右手を構えて、雷起こしをチャージし始めた。がりがりした音があたりに響き渡る。
「でも、洋子が」
「それは、安全を確保してから! 今はこいつを倒すことに集中して!」
畜生。でも正論だ。
「水餅」
私は、水餅を右手から一気に放出させ、そばかす野郎へと向かわせた。
特訓の成果か、水餅は坂田に使ったときよりも素早いスピードで蠢く。
よし!
水餅はすぐさま、そばかす野郎の足を捉えた、そのとき。
そばかす野郎の左手にある灰色の球体が、ぐぐっと、5つに分裂した。
そうすると、その5つの小さな灰色球体は、液体のように、滑らかに揺れながら、ある形状へと変化していく。
その形状、それはサバイバルナイフだ。
その5つの灰色凶器が形作られると、灰色から徐々にそれ本来が持つ色を取り戻していった。
柄の部分は、つやのある黒へ、刃は輝きを増す鈍色へと。
そうして、5つの凶器は、そばかす野郎の左手数センチ上空で、完成した。
その瞬間、まるで思い出したかのようにサバイバルナイフたちは、重力の影響を受けて、そばかす野郎の左手へと落ちた。
その一連の変化、球体が変形してから、サバイバルナイフが完成するまで、それはわずか数秒間の出来事だった。
すごい。まるで昔見たアニメの魔法みたいだ。
私がそうやって間抜けに驚嘆していると、そばかす野郎は、さらに魔法の続きを上演してみせた。
まず、そばかす野郎はその5つのナイフを左手から右手へと、お手玉を渡すかのように投げた。
すると、ナイフらは右手に触れた瞬間、ぱっ、と手品のごとく消えた。
消えた? 消えた! ナイフは何処に?
その答えは後ろから聞こえてきた。
「ぎゃっあっ」
解答は、秋月の悲鳴だった。それと同時に、雷起こしの、あの耳障りな発動音が消えていた。
「秋月!」
私は、その悲鳴につられるように、後ろの秋月へと振り返った。
秋月、今、その左手で右手をかばうように抑えながら、苦痛に倒れぬよう、かろうじで、前のめりに立っていた。
そして、雷起こしを発動していたはずの秋月のその右手には、消えたはずのサバイバルナイフ5本が刺さっていた!
その右手の裂傷から、どくどくと血が垂れ、地面を汚し始めていた。
「ナ、ナイフが、空から降ってきた!」
秋月は目を見開いて、そう驚嘆の叫びをあげていた。
天から降ってきた? それも奴の能力? そんなことが。
その考えをまとめる暇なく、間髪入れず、
「ちべたっ」
べちゃりとした何かが、頭を、重く覆った。
頭から伝わる冷たい感触。
それは、なじみのある感覚だった。それも、ここ数日間は特に...
その答え合わせをするために、再びそばかす野郎のほうへ視線を向けると、
「やっぱり!」
奴の足を掴んでいたはずの水餅は、一片足らず消えていた。
秋月のナイフと同じような方法でこちらに送られた、らしい。
そう理解することができても、疑問の熱は去らなかった。
そばかす野郎の能力、それは根本的におかしい。
なぜなら、あいつは、
「あいつは、明らかに二つ能力を持ってる!」
ナイフを作って見せた能力、そして今の瞬間移動の能力。一人が二つの能力を持つ、それはあり得ないはずだ。
私は、特訓の休憩中にしていた洋子と秋月の会話を思い出していた。
「ねえ秋月さん。和代の水餅もそうだけど、今まで出会った日陰者たちって、一つしか能力を持っていなかったよね。日陰者って二つ、能力を使えたりしないのかな?」
洋子の質問に対して、秋月は感心したようなそぶりで返した。
「基本的には一人で2つ以上能力は使えないよ。あくまで一人一能力。じいさんも言ってたでしょ。精神に付随している能力だって。だから、一つの精神、一つの意思に対して、能力もあくまで一つなの」
そう、そばかす野郎の能力はその原理から外れていた。
だが、敵はその混乱に答えを出すのを律儀には、待ってはくれなかった。
再び、そばかす野郎の左掌は開かれ、灰色の球体がうねりだし、それで今度は注射器を作った。
注射器は、ナイフ同じように、右手に渡されて、それは消えた、と同時に、ひゅっ、と黒い線が目の前をかすめた。
「痛っ」
ちくりとした痛みが右腕に奔った。
「なっ!」
あの注射器が、右腕の、二の腕あたりに刺さっていた。
そうか、さっき見えた黒い線は、あの注射器が落ちた残像なのか。
それにしても、さっきから翻弄されてばかりで、反撃の糸口すらつかめて、
あれっ
くらっと目の前が回って
私は、前方に崩れ落ちていた。
地面にぶつかる痛みすらも遠くなる感覚で、私は注射針の中身を悟っていた。
これは、睡眠薬だ。
頭が重くなる。くそっ。
すとんと、まるで落とし穴に墜ちていくように、私の意識が遠のいていった。
「ふう。苦戦するかと思ったけどそこまでだったなあ。歯ごたえないや」
そばかす野郎、そして彼女らの敵、その最初のセリフは拍子抜けを含んだ嘲りだった。
そいつは、呆れたため息のようなものをつくと、目の前の、地に伏せた二人を見ていた。
一人は、そのロングヘアを乱して倒れ、その首元に掛かる手も徐々に弱くなっている。
もう一人、ショートヘアの粘体使いは、眠りの世界へと手を伸ばそうとしていた。
そして、その先にいるまだ狩り切れていない最後の一人、セミロングの雷少女、秋月へと、今、彼は目線を移した。
その距離およそ10mといったところだろうか。
今、秋月は、その手に刺さっている5本のナイフを左手で抜こうとしていた。
それに対応するように、その彼が左掌を上に向けようとしたとき、
「やっと分かった」
秋月の自信を含んだ声に、その動作が止まった。
「分かった?」
その隙に秋月は、その右手のナイフを一本ずぽりと抜いていた。残り4本。
「あんたがなんで二つ能力使えるかってことだよ。まずあんたの能力、一つはその灰色の球体から、物体を生成する能力。そして、もう一つ右手に触れたものを瞬間移動させる能力」
そう話しながらも秋月はナイフを抜いていく、残り3本となった。
敵は分かっていた。秋月は会話で時間を稼いでナイフをすべて抜こうとしているのだ。それでも、その彼は余裕そうな表情を崩さず、むしろ興味津々と言った態度へと変わっていた。
「どうして、一人で二つの能力が使えるのか? でも、ようやく分かった。あんたには二つの人格があるんだ!」
びしっと、秋月は彼、いや彼らへと突きつけるように人差し指を指していた。
「それなら説明がつく。なんせ、精神に付随するのが日陰者の能力、そうでしょ? だったら、精神が二つあるなら、それぞれの精神に能力を持っている、そうなんじゃない」
そう言い切ると、秋月はにやりと、無理きり嗤った。
「正解だ。流石だな」
「流石ね。雷少女!」
彼、いや彼らは、その正体を見破った相手に賞賛の言葉を浴びせかかった。
「そう、俺たちの能力は二つ。俺の右手、瞬間移動のマジックサーカス」
「そして私の左手、万物創造のマスターピース」
そう彼ら人格を切り替えながら、交互に喋っていく。
「それにしてもよく見破ったな。秋月希依」
まず男の人格の方が喋った。
「あんたたちみたいな事例はじいさんところで一回見たことがある。あんたたちみたいな場合、表に出ている人格の能力が使えるんでしょ。だから、適材適所で人格を切り替えて使ってるんだ」
残り二本。
「まっ種明かしはここらへんにしておいて。どーしても分からないのは、侵入方法なんだ」
秋月は、きっ、と睨むように彼らを見据える。
「どうやって入ってきた?」
その疑問に今度は女の人格が嬉しそうに喋った。
「冥土の土産に、あなたに教えてあげる。あなたの土地、その監視システムは、携帯に直結してるものでしょ。だから、その携帯にUSBなんか差し込んで、ハッキングをかけてあげれば、簡単にシステムを乗っ取れるわ」
「はあ、あたしの管理不足かあ。参ったな」
秋月は目線を下に向けて、そうぽつりとつぶやいた。それでも、すぐ彼女は切り替えると、
「そうだあと最後にもう一つだけ。一応、確認するけど、あんたたちはメフィストの手下? それとも新手の能力者?」
そう確認をしつつ、右手のナイフを抜いた。
残り一本。
「もちろんメフィストの手下さ。そういえば名乗り忘れていたな。俺がバンディ」
「私がマノン」
「へえ、偽名かあ。かっこいいしあたしも今度名乗ってみようかなあ!」
今、秋月から最後のナイフが取り払われた。
「第二ラウンドといこうじゃない!」
秋月はナイフが取っ払われた右手を再び、構えた。そして左手を、左足のもものあたりに置いた。
ガリガリ、という菓子砕きの音が再びあたりに鳴り響いたのを合図に、彼の女性人格、マノンは左掌を開き、灰色の球体を出し始めた。
そうなると、互いの能力を使うための溜めの時間となった。
秋月はこの数秒、思考を最大限に働かせる。
あいつのマスターピースが物体を生成するのにかかる時間、さっきの二回、ナイフと注射針を見るに、だいたい3秒とみた。
あたしの雷起こしは発動まで3秒弱かかる。そうなれば、マノンの能力の方が早い。
でも、それは、あくまで物質を生成するまでの時間であって、攻撃までの時間じゃない。
そうあいつの攻撃は、単体で完結しない。マノンの生成物を、バンディのマジックサーカスで飛ばさなきゃ、こっちに攻撃できないのだ。
そこにタイムロスが生まれる。
つまり、そうなれば、こっちの雷起こしの方がギリギリ早く攻撃できる。
なら。雷起こしは解除しない。
秋月はそう判断して、来たる電撃の発動に、右手の力を込めた。
一方の彼、マノン、バンディはあくまで冷静だ。
そのまま、互いの能力発動開始から3秒経過した。
ここで、ようやくマノンはマスターピースの生成を終えた。
造られたのは、先端がとがった棒状の鉄。
と、ここでマノンは意外な行動を取った。
なんと、その鉄の棒をそのまま左手で受け止めることなく、その場に落としたのだ。
秋月は、そこで悟った。
あたしは、読み違えた!
「雷起こし!」
秋月の右手、そこからねじ曲がった閃光が放たれた。その電撃は、そのまま彼へと、
繋がらなかった。
その閃光は、彼に当たろうかとする寸前で、落とした鉄棒に、まるで吸われるようにして、不自然に軌道を逸れたのだ。
その電撃から彼を守った鉄の棒、その正体、それは避雷針だった。
避雷針。それは、建築物等に設置される雷を呼び寄せる棒状の導体。
マノンは避雷針を生成することで、秋月の放つ電撃をそれに肩代わりしてもらうことで身を守ったのだ。
そして、今や、それが彼らの前にある限り、秋月から電撃を食らわせることは、もはや不可能となっていた。
どうやらあいつは、あたしの能力を把握していたらしい。
秋月は、最初それに衝撃を受けたものの、長年の実践経験によって冷静さをすぐ取り戻した。
もし、次攻撃しようとしてもあたしの電撃は、避雷針にすべて吸われる。
マノンのマスターピース(万能の欠片)、どうやら名前に恥じないだけの対応力はあるらしい。
そう、ならば、対応される前に、ぶっとばす!
秋月はその思考から脱すると、目の前の敵、マノンへと再びピントを合わせた。
ここで、先に疑問を抱いたのは、今、表に出ている女性人格マノンだった。
状況的にはこちらがだいぶ有利になったはず。
それなのに、さきほどからある違和感がマノンを悩ますのだ。
何がまずいのかしら。もう勝ちは決まったも同然なのに。秋月の、主力、その電撃は封じたはず。
突然、マノンは天啓のごとく、その正体に気づいた。
よく聞けば、異音がする。
ヴヴヴヴヴヴヴヴヴヴと、低い、太古の洞窟の空洞音のような、うなりが。
それが、秋月の方からしている!
ここで、マノンは一つの事実に気づいた。まだ、秋月の能力は解除されていない!
ただ、気づいたのは一瞬遅かった。
「鯨息」
秋月は、ため息のような低い声でその電撃の名を呼んだ。
"鯨息"それは、秋月が使う、雷起こしより低威力かつ、精密な電撃の名だった。
その電撃は、今彼女の左手から放たれ、その左ももにある筋繊維を精密に刺激した。
人間の動作は、電気信号、つまり生体電流によって制御されている。
ならば、秋月の"鯨息"はある程度単純な命令なら、左手から直接その部位に伝えることができるのだ。
そして今、その電撃は、左足へと命令を下していた。
死ぬ気で思い切り蹴り上げろ! 、と。
ズバッ!
その命令通り、秋月の左足は、人力を超えた物凄い勢いで蹴り上げられた。
それは、秋月の体を、放物線状に飛ばすには十分の威力だった。
そのまま、ミサイルのごとく、敵へと向かった。
「なっ」
マノンの目が完全に見開かれる前に、物理的にぐっと歪んだ。
「があっ」
秋月の体重に重力が加算された、その右拳は、今、マノンの右頬を直撃した。
その重撃に押されて、マノンは、その場から吹っ飛ばされた。
一方、秋月は、その勢いを制御できぬまま、その着弾地点に落ち、ずざざ、と地面に引きずられ、ようやく止まった。
そのまま、両者倒れた状態となった。
相打ち、ではない。まだ、勝負に決着はついていないのだ。
ただ、今、マノン、バンディの方は、殴られた衝撃でしばらく立てそうになかった。
秋月の方は、"鯨息"による副作用、直接筋繊維を刺激するために起こる足へのひきつれにより、立つことができなかった。
この膠着状態は、しばらく続いた。
その間、原っぱを、そこらを飛ぶ鳥の鳴き声や、草木が風でざわめく音がその場を包みこむ。
その牧歌的な空気を切り裂くように、先に動いたのは、
「どうした。マノン、バンディ」
秋月だった。
彼女は、うつ伏せの状態から、なんとか上半身をあげ、ようやく座した態勢へと移行したのだ。
そして、再び彼に対して、右腕を突き出した。
雷起こしのチャージ音、菓子砕きの響きは空気をぶると震わせ始めた。
さきほどマノンが作った避雷針は、すでに後方、今度は、電撃をかわされることはないのだ。
この事実に、マノン、バンディの焦燥は加速した。
急いで、体制を立て直そうと、なんとか上半身をあげる。それでもそのわずかな時間では、秋月と同じ座した態勢へと移るのが精いっぱいだ。
「ひいっ」
ここにきて、そばかすの彼から恐怖の悲鳴が漏れた。
「まっ待ってくれ!」
バンディは、慌てて右手を突き出した。
ただ、ここまで来ては、もうその懇願は秋月に聞き入れられなかった。
「雷起こし!」
ぱりっ
秋月から再びねじ曲がった閃光が放たれた。その電撃は、両者の右手同士を結んだ。
「があっ」
彼の体は、右手から走った電撃に震えていた。今度は見事、彼に電撃は命中したのだ。
そのとき、奇妙なことが起こった。
彼のうめきとほぼ同時に、
「ぎゃっ」
なぜか秋月の方も悲鳴を上げたのだ。
彼女の体も、電撃を食らったかのごとく震えていた。
そうして、両者、座した体制から、その場にどっと、倒れた。
再び、膠着状態が続いた。その間、両者、ピクリとも動かなかった。
が、ようやく、一方が目覚めたようだ。よろよろと、不格好に、立ち上がったのは、
「危なかったぜ...」
「まったくね」
今度は、マノン、バンディの方だった。
そう彼らは、確かに秋月からの電撃を食らったはずだった。
ただ、その電撃の大半を、バンディが、右手のマジックサーカスで秋月へと移動させていたのだ。
そのおかげで彼らは、事なきを得ていた。
「正直。マジでビビったよ秋月希依」
バンディは、気絶している秋月を見下ろした。
「でも立っているのは俺たちだ」
確かめるように、バンディは右拳を握る。
「俺たちの勝ちだ!」
バンディが割れんばかりの声で快哉を叫んだ。
そのとき。
「それは、どうかな...」
弱々しいが確かに、声が後ろから聞こえた。
馬鹿な、そいつはもう倒したはずだ。
バンディはぎょっとして、振り返る。
「まさか、そんな...」
そこに、ふらつきながらも立っていたのは、
「あんたの失敗は...」
眠らせたはずの沼田和代だった。
「なぜ起き上がれるんだ!」
その驚愕の声に、私は思わず半笑いで、種明かしをしてやった。
「あんたの失敗は...注射針なんかで私を無力化しようとしたってこと。ほら、注射針って、針穴を通り抜けて、そこから液体を入れるわけでしょ。だから、私の水餅でその穴を閉じれば、ほら、この通り」
今、私が立っていることを見せつけるように胸にどんどん手を当ててやった。
「ぴんぴんしてるってわけよ」
そう、それは意識を失う一寸前、最後の判断だった。
そのおかげで、薬は完全には体に入りきらず、こうやって起きてくることができた、ってわけだ。
ただ、それでもまだ、体は重い。
でも、戦える。
いや、洋子のためにも戦わなくちゃならないんだ。
そう奮起させ、眠い頭を無理やり稼働させる。
状況は今や、圧倒的不利だ。秋月がいないし、私のコンディションも万全じゃない。
それでも、明確に有利な面もある。それは、さっきよりもそばかす野郎との距離が近いことだった。
まさか、私が立ち上がるなんて思ってもみなかったのだろう、そばかす野郎との距離は約5m程だ。
この射程なら、必殺技が使える。
そう、思考を廻らせているうちにも、目の前のそばかす野郎は、さっそく左掌を上に向け、灰色の球体からまた何かを生成しようとしていた。
今だ!
私は、一息すうと、右腕をさっ、とそばかす野郎に向けた。
その少しの動作に敵は勘づいたようだ。そばかす野郎の表情が変わる。
だけど、遅い!
私は渾身の必殺技を放った。
「精流魔(スペルマ)!」
その水餅弾は、ぴゅっと右掌から、そばかす野郎の顔面目掛けて飛んだ。
当たる! この距離じゃ避けられない!
そう、確かに当たった。
「惜しかったな」
そばかす野郎の右手に。
とっさの、左手のマスターピースを解除して、右手のマジックサーカスを使うという、その判断がマノン、バンディを助けた。
今、バンディが翳した右手に、水餅は捉えられ、次の瞬間それは消えた。
そう、小手先の必殺技、精流魔(スペルマ)は止められた。
バンディの表情は、その必殺技を止めた喜びで、微笑をたたえようとした、
「な、なんだ」
が、突然、バンディの笑顔は違和感にゆがんだ。
その口元から今喉へと、小さな水のようなものがつるりと入ったからだった。
「があっ」
それは、水餅だった。
饅頭ほどの大きさしかもたない小さな水餅。
私はその小さな水餅をそばかす野郎の喉奥へと入れると、奴の気道を防ぐように動かした。
「が、がああっぐあ」
そばかす野郎は崩れ落ち、喉元を抑えながら地面をのたうち回り始めた。
そう、私の必殺技は確かに防がれた。
でも、それはあくまでもブラフで、狙いは本命を当てるためだ。
そばかす野郎との会話中、なんとかばれないように、ほんの小さな水餅を、私から出して、奴に向かわせた。
さすがに小さくて気づかなかったはずだ。
そして、何とか、それをそばかす野郎の襟元まで忍ばせるのには成功した。
ただ、そばかす野郎には、右手の瞬間移動能力があった。
どうしても、口元に入る瞬間に対応されてしまうはずだ。
そこで、私は精流魔を放った。私の愛しい必殺技は、襟元の小さな水餅を、口へ入れるのに決定的な隙を作ってくれた。
そして、今、その作戦は見事に成功し、そばかす野郎を地に伏せさせてやった。
「くっ......かはっ....」
最初の方こそ、そばかす野郎は抵抗したものの、その力も弱くなっていき、そしてついに動かなくなった。
そばかすの彼を無力化する以上、気絶させるしかなかったのだけれども。
「これ、死んでないよね?」
5.私たちは何処へだって
男の"俺"と、女の"私"
物心ついたときから、俺達は二人で一つだった。
だけど、"俺"に比べて"私"の方の人格は、あまり表に出てこようとしなかった。
"俺"の親が"私"の方を病気だと信じていたこともあるし、医者の方もそう信じていたこと。
そして何よりも世間の態度が、"私"の方を引っ込み思案にさせた。
世間の野郎とやらは、"私"のことを知ると、気持ち悪いと拒絶するか、冗談か何かと笑いものにするかだったからだ。
なので、"私"の方は、女だと見破られないように、ボロが出ないように、密やかに出るしかなかった。
そう、"私"の方だって、クソったれの世間や、自分を取り巻く世界に興味があって、ちゃんとそれと関わりたいと思っていたはずなんだ。
"俺"は、そんな世間、そんな世界が許せなかった。そして、何よりどうにもできない"俺"自身に。
それは忘れもしない去年の6月10日。
放課後、俺達は学校の外れにある、屋上へと通じる階段で、いつものように会話をしていた。
俺達の会話、それは"俺"と"私"、二つの人格を切り替えながら交互に喋ることで成立させていた。
それは、はたから見れば、一人二役で、独り言をつぶやいているようにしか見えないはずだ。
その密やかにしていた会話を、悪意を持って聞いていた奴らがいた。
忘れもしない、同級生の女子グループだ。
そいつらは、にたにたしながら、無遠慮に俺達に近づいた。
「ねえねえ、やってよー。さっきの奴!」
最初に口を開いたのは、そのグループのリーダー格の中本だった。
「さっきの奴って何よ」
「ほらー、言ってたじゃん。私って甘いものが好きでーとか、さっききっしょい口調で喋ってたじゃん。わすれちゃったかなあ」
"私"が、むっとして、怒っているのが"俺"にも伝わった。
"私"は、黙っていると、
「ええ~やんないの」
「面白かったのにねー」
取り巻きもそれにつられるように、小ばかにし始めた。
「ねえほら」
そして、中本は携帯を取り出すと、冷たい声でささやいた。
「これクラスのラインに、バラしちゃうけど。いいの、それでも?」
そうすると、携帯から陰で録音したらしい、俺たちの会話が流れ始めた。
「~わよ。だって、ウケるわー」
「うわー聞いてられないよお」
「ヤバくない? 面白すぎる」
その俺達の会話を聞きながら、奴らはそんな好き勝手なことを言い始めた。
「あんたたちに」
その喧嘩を、そのとき表に出ていた"私"の方は買ってしまった。
「あんたたちみたいな、私を馬鹿にする権利ないはずよ」
そう、"私"が、ほんの小さな声でつぶやいたのを、
「うわーほんとに女みたいに喋った」
「権利だって、権利。めんどくさっ」
「おかまだ。おかま」
すかさず奴らは、ハイエナみたいに食らいついた。
「"私"が"私"なだけなのに、何でそんなバカにするのよ!」
ついに"私"は切れた。それで、 その場は一瞬、その声にしん、と静まり返った。
が、
「ははははは」
奴らにはその声は届かなかった。奴らは一斉に、腹を抱えて笑った。
「あーおかしい」
「もう一回言ってみてよ。面白かったから」
「わたひがわたひなだけなのにー」
そう裏声でさっきの言葉を侮辱する奴もいた。
「ひぐっ...ああっ」
その、あまりに酷い態度にとうとう"私"は、泣いてしまった。それに対しても、奴らは憎いぐらい変わらない。
すぐに興味津々と言った感じで、
「泣き顔きもっ」
「マジヤバい。生きてて恥ずかしくないのー」
「ねえ被害者ぶるのやめなよ。こっちが悪いみたいじゃん」
奴らは、半笑いで携帯を"私"に向けて一斉に動画を撮り始めた。"私"が顔をそむけても、お構いなしで、回り込んで、撮影を続けた。
もう見てられなかった。俺は表に出て、"私"の涙をぬぐってやった。
「おいお前ら」
"私"を囲っていた奴らを"俺"は睨みつけた。
「お前らには分からないだろうけどな。あいつは自分なりに苦しんで、それでも頑張ってたんだ。それをお前らは、引きずりだして、台無しにしやがって」
"俺"は、右の人差し指を思いっきり下へと突き出すジェスチャーをしてやる。
「だからいますぐ、あいつに謝れよ! 今すぐにだ!」
そんな"俺"の言葉も奴らにはまったく届いてなかったらしい。
「わー怒ってるよーこわーい」
「頭冷やせよおかま!」
「おかしいよこいつ」
そうやって今度は遠巻きにして、俺を撮り始めた。
もうこいつら、全員ぶっ殺してやる!
「あああああああっ!」
そこからの記憶はなるべく思い出さないようにしている。
無様で、情けなくて、無力なのを思い知った俺は、気づけば最近はやりの不登校とやらになっていた。
学校に行かなければ、"私"が出てくる時間も増えるだろう、と楽観的に考えていたが、それは大きな間違いだった。
ただでさえ、控えめだった"私"は、あの一件後さらに出てこなくなり、ついには夜中にしか出てこなくなった。
"私"は出てきても、何もせず、ただ足を投げ出して、人形みたいにぼっと座るだけになってしまった。
そんな日々が続いていくと、"俺"はふとある変化に気づいた。
だんだんと少しずつではあるが、自分の中に存在する、"私"の存在が希薄になっているのだ。
このままじゃ、本当に"私"が消えちまう。
焦燥に駆られて、必死に"私"へと話しかけたが、どれも効果はなかった。
どうすればいい。どうすれば。俺はこいつに何もしてやれないのか。
そうやって無力に打ちひしがれている"俺"を、
消えかかっていた"私"を、
救ってくれたのは、メフィストだった。
メフィスト、悪魔の名前を持つ男に出会ったのは、"俺"が引きこもり始めて丁度10か月が経過した、3月10日だった。
"私"は、いつものように、部屋の端ッコにうずくまって座っていた。
夜のくらやみは、色々な不安をかき回して、気分を落ち込ませる。
"私"はそれに浸って、窓から差し込む月を見ていた。
奇麗な三日月。
突然、それは陰に隠れた。
雲が覆ったのかと、思ったけど、そうじゃなかった。
そう、私達の部屋にある窓の前に人が立っていたのだ。
その人は、背後から月明かりをシルエットにして、私達の前に姿を現した。
なぜか、 不思議と怖くなかった。
なので"私"は その人をぼんやりと眺めることにした。
その人は、鍵の掛かっているはずの引違い窓を、難なく横に滑らせて開けると、そのまま私達の部屋へと入った。
よどんだ私達の部屋に、さわやかな空気が入った。
風が、肌を撫で上げて、部屋の隅にあった、丸めたティッシュが少し動いた。
「ここ、二階だけど」
そんな奇妙な接触、"私"の第一声はひどく間抜けな感じになってしまった。
「ああ、すまん」
その人、いやその男は微塵もそうは思っていない謝り方をした後、
「こんばんは、俺は...まあ、そうだ悪魔とでもしておこう」
そんな挨拶をしてきた。
「悪魔あ?」
自分でも不思議なくらい素っ頓狂な声が出た。悪魔はそれをさして気にせず、
「君の名前は?」
名前を聞いてきた。どうやらここに入った経緯は説明せずに、押し通すつもりらしい。
「樫本幸喜...」
私のその答えに、
「それは"彼"の名前だろ」
悪魔は眉をひそめた。その両親から貰った名前は悪魔にはお気に召さなかったらしい。
「お前の名前を聞いてるんだ」
そう悪魔は念を押すように尋ねた。
「それは....」
私の名前? 樫本幸喜は、"私"じゃなくてきっと"俺"の方の名前だ。だったら、私の名前は...
「ない、私に名前なんてないのよ」
私は首を振って、そう言うしかなかった。
すると、悪魔は土足のまま部屋を横断し、私の前へとかがみこんだ。
「名前がないっていうのは存在していないのと同じことなんだ」
そうして、悪魔は、両手で"私"の頬に触れた。
「名前がないなんていけない」
彼は私を覗き込んで、ささやいた。
「だから俺が名前を付けてやろう」
そこで、悪魔は"私"に名前をくれた。
そこで、"私"は生まれて初めて名前を得た。そこで貰った名前は、後に入ることになる、奇妙なクラブでの偽名じゃない。"私"の、本当の名前だった。
でも、その本当の名前を付けたのは、"私"の親でもましてや、"私"の片割れでもなく、初対面の、あって一分ともたたない悪魔だった。
「でも、名前があったって、それだけじゃどこにも行けないわ」
"私"は悪魔の目をじっと見つめ返して、そう言ってやった。
「どこにも行けない、ね。ははっ」
悪魔は笑った。
「そんなことはない。俺たちは何処にだって行ける」
「そうかな」
「そうだよ、よし。さっそくそれを証明しにいこう」
そうすると、彼は私の腕を取って、さっき自分が入るのに使った窓へと連れて行った。どうやらそこから、外に連れ出そうとしているらしいことを察した。
「ど、どこにいくんだよ」
心配になったのか、"私"を押しのけて今度は、"俺"の方が喋る。
「お前たちに、どこへも行けないと思わせている元凶がいるんだろ」
悪魔は、"俺"の方へ振り向いた。
「そいつを断ちにいくのさ」
悪魔は、私達を、真夜中の闇へと連れ出した。
そうして、着いた先は、悪魔の言う通り、私達を追いやった元凶の家だった。
「よし、一泡吹かせようぜ」
その悪魔の言葉とともに、私達は吸い込まれるようにして、その家へと入っていた。
やるべきことは分かっていた。
断ち切ってやる。
その夜、私達を追い込んだ元凶、中本を殺した。
私達と悪魔は、中本を殺し終わった、その足で、街の下流を流れる玉川、その河川敷をゆったりと歩いていた。
服は血まみれで、月明かりに照らされると、その血が前衛芸術みたいな模様で浮かび上がった。
「あの、ありがとう」
"私"は横に歩く悪魔に心からの御礼をしていた。
「別に、礼を言われるほどのことはしてない」
月明かりが、彼を照らす。その右頬には、さっきついたばかりの返り血が付いていた。
「でも」
「俺はあくまで、殺す機会をやっただけだ。殺したのはお前の力だ。だから」
彼は一息吸って、
「もっと胸を張っていい」
そう言ってくれた。その言葉はとても嬉しかった。だけど。
「それでも、やっぱりあなたがいなければ、私こんなことできなかった」
"私"は彼に目を合わせて、
「だから、ありがとう」
そう言いきってやった。そうすると、悪魔はそれきり黙ってしまった。
掛けてくれた言葉を否定したせいで、流石に怒ったのかもしれない。
そこで会話は一旦途切れた。
しばらく経ってから、ようやく踏ん切りがついて、そろそろ謝ろうか、と私が声を掛けようとしたとき、
「あのさ、俺の気晴らしに付き合ってくれないか?」
悪魔は先にそう切り出した。
「気晴らし? 何するの?」
"私"が食いつくと、悪魔は喜んでその狂気の構想、秘狂クラブの活動内容を語り始めた。
その活動、その構想はとても正気じゃなかった。それゆえに、私達はその狂気の内容にすぐに惹かれていた。
「興味があればでいいんだけど」
もちろん、"私"はこくりと頷いてみせた。
「彼の方もいいのか?」
「ああ、いいぜ」
"俺"もその活動の参加に同意した。悪魔は"私"にとっての命の恩人だ。出来ることなら協力してやりたい。
「そうか」
悪魔が満足気につぶやいた。そこからも、私達は色々な話をした。そうして、悪魔との夜はさらに更けていくのだった。
メフィストは、私達にとって人生で最大の恩人だった。
"私"を生かしてくれた恩は一生忘れないだろう。
"俺"の片割れの命を救ってくれた恩は一生忘れるものか。
だから、私達は、俺達はメフィストに報いなければいけない。
たとえ命を捧げても。
6.Fallen Twinstar
「まさか、あたし自身の能力にやられるとはね。まだまだ、修行不足だなあ」
秋月は、そこらに転がってる小さな石を蹴飛ばしながら愚痴っていた。どうやら、そばかす野郎(秋月曰くマノンとバンディらしいが)に負けたのが結構悔しいらしい。
あの戦いの後、秋月はすぐに自力で目覚めていた。
「仕方ないよ、実質二人分の相手だったしね...洋子の方は大丈夫?」
「うん。なんとか。まだ少し頭がくらくらするかもだけど、全然、大丈夫」
洋子の方も、なんとか無事だった。
あのそばかす野郎に付けられたトラバサミ、洋子はそれを自力で外していた。洋子曰く、トラバサミにあった安全装置のおかげで、簡単に外すことができたそうだ。
そうして事なきを得ていた洋子は、無事とはいえど、まだ体調の方は万全ではなさそうだ。
酸素が頭にまだ回り切っていないのか、不安定にゆらゆら揺れている。
「洋子、ホントに無理しないでよ。少しでも体調悪くなったら、すぐ横になってね」
「うん」
洋子はこくりと頷いたのか、もしくは頭が揺れただけなのか判別はつかない、そんな頼りない返事をした。
「...ところで、特異科はまだかな? もたもたしてると、あいつ目覚めるかもしれない」
私は後ろで倒れている、そばかす野郎を親指で指し示した。あの戦いの後、気絶させたそばかす野郎は、首から下の全身を水餅で吸着させることで、拘束していた。
そばかす野郎は、私達3人相手でも危険だろう。もし目覚めたら拘束されている状態でも、何をしでかすか分かったもんじゃない。だから、特異科に早めに来てほしかったのだが、通報から30分経過しても未だに姿を見せなかった。
そう、30分程前、秋月は重い腰を上げて、警察特異科に電話を掛けた。
電話に出たのは、前にもお世話になったチンピラ刑事、脇坂だった。
しばらく、秋月は脇坂と電話越しに言い合っていたが、
"いいか。お前ら絶対そこ離れるなよ! "
向こうの喚き声を最後に、電話が切れたのだ。
「絶対そこを離れるなよ! なんて言っておいてこれだけ待たせるなんて、いい度胸してるよあの刑事も」
「まあ、あんな奴がいる特異科でも、捜査はしっかりしてるってじいさんは言ってたし。あとちょい待てば、秘狂クラブに怯える日々におさらばできると考えれば、こんな時間大したことないよ」
思わず出た愚痴は、秋月に軽くなだめられた。
まあ、秋月の言う通り、こんな事でいちいち苛立ってもしょうがない。
そんな事で、チンピラ刑事の脇坂が中々来ないので、私達は手持無沙汰となった。
それで、暇つぶしに私達はそばかす野郎の作った物品を観察することにした。
「でも本当にすごいよ。能力でこんなものまで作れちゃうなんて」
洋子は、作られたサバイバルナイフを手に持って、しげしげと眺めていた。
私もその一本を手に持ってみたが、素人目にも分かる精巧な作りで、思わず感心していた。
これが能力で作られたものとは、にわかには信じがたい。
「あれ?」
洋子はしばらくナイフをじっと見ていたが、何かに気づいたのか少し首をかしげた。
「このナイフ、よく見ると、ちょっと色味がのっぺりしているというか。ずいぶんシンプルだね」
「言われてみれば確かにそうかも。装飾も全然ないしね」
「もしかしたら、もとになる商品があって、それをコピーしてるのかも」
洋子のその推測は間違っていないような気がした。なぜなら、その推測が正しければ、あのトラバサミに安全装置があったことも納得できるからだ。もし、あのトラバサミに元となるものがあれば、それをまるごとコピーしたせいで、安全装置もコピーしてしまったに違いない。
「ねえ何か聞こえない?」
不意に秋月の声で、その私の思案は断ち切られた。
耳を澄ませてみる。すると、がさがさと葉をかき分けるような音や、木の枝を踏まれたようなぱきっという音がした。
その方角は、私達が通ってきた山道よりも少し左にそれた場所から聞こえてきた。
「もしかして、秘狂クラブの連中?」
私達は、その気配を見極めようと、物音のした方にゆっくりと向かった。
葉音もどんどん大きくなり、ついに、その侵入者は草原へと姿を表した。
森への侵入者その正体は...
「おーい、元気かー」
そいつらを目にした瞬間、緊張は脱力感へと還元された。
「お前ら、そんなところで何してんだー」
新井田は、なぜか嬉しそうに、こちらへと向かってきていた。そして、その後ろには口をへの字に曲げて、右手で頭を抱えた町田がいた。
そうして、二人は私達の目の前までやってきた。
「いや、そちらこそ何やってんのさ?」
思わず出てしまった私の言葉に対して、
「もちろん斎藤探しだよ」
そこには当たり前だろと言わんばかりの新井田の顔があった。
まだやってんのかよ。
「こんなところに斎藤がいるわけないでしょ! というか、ここ私の土地なんですけど」
秋月が、地面を突き刺すんじゃないかという勢いで、人差し指で下を指した。
「えっ、もしかしてこのフェンスで囲ってる全部そうなのか?」
「そうだよ!」
「すげえー。てっきり、不法侵入仲間だと思ってたんだがなあ」
「さっきから、何馬鹿なこと言ってんの! ともかく斎藤はこんな所にいないし、さっさと出てってくれないかな!」
秋月はさらに怒りに顔を歪めた。今にも新井田に噛みつきにでもしそうだ。
「そ、そいつは悪かった」
ここでようやく、新井田にもその怒りが伝わったらしい。
「よ、よし。町田、さっさと行こうぜ。あれ、町田は?」
そうだ、新井田のインパクトがあって忘れていたが、町田もここに来ていたのだ。
あたりを見回してみる。いつの間にか、町田は私達の後ろ、それも、そばかす野郎の前に、かがみこんでいた。
まずい。
洋子と秋月も、後ろの町田に気づいたらしい。急いで、私達は町田の方へと駆けつける。すると、
「樫本先輩が、どうしてこんなところに。ん? ...なんだこれ。とりもちか? うわ、べちゃっとしてやがる」
町田は、目の前にいるそばかす野郎(どうやら町田曰く、樫本という名前らしい)が倒れている前で、そんな独り言をごちていた。
どうしよう。この状況、どう説明すればいい?
「ああ、えっと樫本? 知ってるの?」
たじたじで、私は独り言に割り込むように言った。
「ああ、樫本幸喜先輩。うちの学校の二年の先輩だよ」
町田はかがみこんだ姿勢から立ちあがると、私達に向き直った。
「一体どうして、樫本先輩がこうなってんだよ? 説明してくれないか?」
そして、町田は私達に至極当然の疑問をぶつけた。
隠し事がある分、こっちの立場は悪い。
そうだ、秋月は、この手のイレギュラーに強い、きっとなんとかしてくれるはず。
その秋月は...
「あ~え~っと、それは~」
冷や汗だらだらで、目線はせわしなく泳いでいた。
駄目だ。今の秋月は、役に立たない。
「おい、どうしたんだ?」
町田は私達がろくに説明しないので、さらに疑念を深めたようだ。
「おー何がどうなってんだ?」
遅れて後ろから来た、新井田は、状況をあまり把握していないのか能天気に興味津々だ。
そう状況は、さらに悪くなっていた。
この沈黙の時間が経つにつれ、お腹のあたりに何か溜まっていくような緊張が加速していった。どうしよう、どうしよう。どうすれば。
「あのっ!」
その緊迫状況を、切り裂いたのは、洋子だった。
「あの、その、えーと、町田さん!」
「な、何だよ」
「えーと、これ以上は危険だから、帰ったほうがいいよ!」
そう洋子はすぱっと、直球に伝えた。
「危険ってどういうことだよ。それだったら、樫本先輩がこうなってる事情を説明してくれ」
町田は、当然ながら食い下がった。
「ごめんなさい。その、事情ははっきり教えられないんだ」
きっぱり、真っすぐに洋子は言った。
「何でだ」
「もしかしたら、これ以上事情を深く知ったら、町田さんたちに危害が及ぶかもしれないから。わたしは、町田さんたちをおかしな事件に巻き込みたくない。それだけは絶対にいやだから」
今、洋子は、あの真剣なときの仏頂面で町田を見ていた。
「だからお願い。ここからは、わたし達に任せてくれないかな」
そう洋子は言い切った。
しばらく、町田は睨むように洋子を見ていたが、
「巻き込みたくない、ね」
そう呟いて、ふかーいため息をついた。
「隠し事されてるってのは気分悪いな」
洋子は、罰が悪そうに下を向いた。
「でもまあ、そうだな。大神がそんなに言うって事はきっとそうしたほうがいいのかもな。しょうがない。おい、行くぞ」
おや? どうやら意外にも、状況は好転したみたいだ。
「行くって、まだ何も重要な事を聞けてねえじゃねえか」
町田に対して、新井田はまだ納得していないみたいだ。
「あれは、あいつらにしか解決できない領分と見た。俺達が首ツッコむべきじゃない」
「良いのかよ! あいつらの言い分全部信じちまってよ」
「良いんだよ。ほら、帰るぞ!」
町田は強引に新井田の裾を引っ張って連れてこうとしたが、
「俺は納得してないぞー」
新井田は未練がましそうに、駄々をこねるようにその場に踏みとどまった。
気持ちは分からんでもないけど、頼むから今はさっさと行ってくれ。そう願っていると、
「あの。新井田さん」
洋子が申し訳なさそうに、切り出していた。
「えっとそろそろ、脇坂さんが来ると思うから、その、早めに帰った方がいいと思うよ?」
「脇坂って誰だよ」
「木曜日の取り調べをした刑事さん」
その忠告を聞くと新井田は急に真面目な顔つきになった。
「おいまじか。よし! ずらかるぞ」
さっきまでの態度とは一転して、新井田はそそくさと、町田を追い越し、足早に森へと戻っていった。
「ほんとに、単純な奴だなあ」
町田はため息をついて、その後を追っていった。
そうして、二人は背を向けて森へと向かう。
まず、新井田が先に森の中へと消えた。
町田は、森へと入る直前に、私達の方へ振り返り、
「いずれ何があったか、きっちり聞くからなあ」
そう言い残して、新井田を追うように緑の海へと消えていった。
その二人の姿が見えなくなると、体にのしかかっていた緊張が一気にほぐれていった。
やれやれ、一時はどうなるかと思ったけど。良かったー。帰ってくれて。
「洋子のおかげで助かったよ。もしかして洋子、交渉とか向いてるんじゃないかな」
私は今回のMVPである、洋子を褒めちぎってやった。
「そうかな...ありがとう」
洋子はもじもじして、下を向いていた。
そう、あの状況は洋子じゃなきゃ説得できなかったんじゃなかろうか。洋子の真っすぐさがあったから。そんな気がするのだ。
そのおかげで、倒れている樫本についても深く聞かれなかったのだ。
そこでふと、樫本のことが気になった。今、樫本は私達の後ろで倒れているはずだ。さすがに、そろそろ気絶から目が覚めるかもしれないし、誰かが見張っておいた方がいいかもしれない。そう考えて、樫本の方を見た。
「なっ?」
その私から出た声は、目の前の不意の衝撃に思わず漏れ出た空気の喘ぎだった。
一気に体温が低くなる。
何が、起きてるんだ? 樫本のその状態を理解すると、次に、訪れたのは恐怖だった。
「秋月! 洋子!」
私がそう呼んだ声は悲鳴になってしまっただろう。
「樫本が、樫本が...」
ようやく、樫本の異変に二人とも気づいたらしい。後ろで息をのむ音がはっきりと聞こえた。
「死んでる」
そう、樫本は死んでいたのだ。全身からはもはや生気が抜けて、死体特有のよそよそしさを湛えはじめていた。
その顔は、青白く、眠っているような表情をしていた。なぜかそのぽかりと空いた口には、鉛筆程の細さの透明のチューブが咥えられていた。
その死の衝撃、冷めやらぬまま、私の頭、その冷静な部分に一つの疑問が沸いた。
何で、何があって死んでいるのか? その疑問は一度頭の中に湧き出ると、どうしても気になった。
その頭にこびりつき始めた考えに押されるようにして、私は観察を始めていた。
まず、彼の口元のチューブそれは、全長1m程の長さで、チューブは口から辿ると、左手まで繋がっていた。全体が濡れていて、よく見ると、それには小さく、ベッツ資材株式会社と黒い字で印字してある。
ここで、ある一つの考えが頭をよぎった。このチューブはもしかして、彼のマスターピースで作ったものではないか?
そのひらめきもあって、今度は左手付近に目を向けると、
「ん?」
きらりとした粒のようなものが一瞬、反射した。
よく目を凝らしてみる。
すると、水餅の上に、透明の砂糖のような粒状のものが散らばっているのが確認できた。
「この白いの毒じゃないかな」
いつの間にか秋月は横にいた。そして、その透明の粒を指で掬い取ると、 ぺろりと舐めた。
「秋月! 何やって...」
「毒っていっても、少しぐらいなら舐めてもダイジョブなの。まったく大げさだなあ」
動揺する私をしりめに、秋月はいたって平常心だ。
「うーん。やっぱり、毒だね。この少量でも舌がすごいひりひりするから、間違いない」
「よ、よくやるよ」
「じいさんに鍛えてもらったからね。これぐらいどうってことないの」
呆れ半分でかけた声にも、秋月はなぜか誇らしげに答えた。
それにしても、伏見さんはなんてことを教えてるんだ。
「まっでも、これではっきりしたよ。どうやって樫本が死んだのか」
秋月は、さっきの毒で痺れた舌をピロピロと間抜けに出しつつ、そう宣言した。
「ほ、ほんとに?」
「ふっふっふ、名探偵秋月様の名推理を聞かせてやろうじゃないか」
秋月は、自信満々で、調子に乗り始めていた。それに苛立ちながらも、本当に短時間で分かったのだろうか、という興味の方もあった。苛立ちと興味、その二つを天秤にかけると、興味が勝ったので、私はおとなしく、秋月の推理に耳を傾けることにした。
「単刀直入に言おう! 樫本を殺した犯人は....」
ごくり。
「樫本自身なんだよ! そう、これは、自殺なんだ」
秋月は言うと、その推理を披露し始めた。
「まず、動機から話そうと思う。樫本、だっけ彼はまず、実は気絶から目覚めてたんだ。そこで、彼は自分の状況を理解したはずだよ。身動きが取れず、このままじゃ警察に突き出されるってね。それも特異科に突き出されたら、秘狂クラブについては、洗いざらいばれてしまう。そう考えて、彼は今回の自殺計画を思いついたんだ」
秋月は、顎に手を掛けて推理を続ける。
「そしてこの自殺計画を実行するには、少しだけ時間が必要だったはず。私たちの注意が集まらない時間がね。そしてそれは、唐突に訪れた。そう、さっきの新井田を送り出したとき、あの送り出したときなら、少し、だいたい30秒ぐらいだけど、そっちに注目が集まって樫本に目が向かなかった。樫本はその時間を利用したんだ。そしてその時間で自殺計画を実行したんだ。まず左手の能力マスターピースを使って、この透明の粉、毒物と、チューブを生成した。それで、作ったホースを口に加えると、左手の毒物を吸うことで、自殺したんだ」
「いや、ちょっと待ってよ」
私は全然納得できなかった。
「何でしょ」
「そのホースはどうやって口に加えるのさ。樫本は私の水餅で拘束してたから両手どころか全身動かせないんじゃないの?」
ただ、その反論も秋月の想定済みだったらしい、すぐさま答えをよこした。
「全身動かせなくても加える方法自体はあるんだよ。まず、前提として、彼の左手のマスターピースで、物体を作ったとき、生成する直前までは、重力の影響を受けなかった。そうだったでしょ?」
「確かにそうだね。それで?」
「だからマスターピースであのチューブを、ピンと伸ばした状態で縦に生成したなら、生成直前まで、その棒の頂点は奴の顔の高さよりも、はるかに高い位置になったはずだよ。だから、もし生成直後に、樫本のその顔の方へと、チューブが倒れれば、それを口に加えることだって不可能じゃないでしょ。そうして、チューブを口に加えれば、もう一方のチューブはそのまま左手に落ちるはず。そうすれば、チューブは口元と左手を繋ぐんだ。あとは、左手に毒物を生成して、それを口に加えたチューブで吸うことで、自殺は完了するんだ」
「でも、そんなことできるのかな」
今度は洋子が疑問を挟んだ。
「確かに、運がからむ。チューブの倒れる方向も予測できないし、どこかでミスをするかもしれない。だけど不可能じゃないはずだ。それは、ここにある痕跡が、そして何より樫本の死がそれを示しているんだ。きっと、樫本はわずかな可能性に掛けて、それを見事実行した、その結果がこれなんだよ」
そうして、誰がいうこともなく、私達は自然と樫本の方へと向いていた。その両手をぎゅっと握って、青白い顔をして倒れているその死体は、まるで何か、やり切ってやった、穏やかな顔そんな風にも見えてきた。まあ、これは、秋月の推理でバイアスがかかったからかもしれないけど。
秋月は、毒の分析といい、あっという間に解明して見せた。それは素直に認めざるを得なかった。
「ま、あたしの推理は以上だよ」
「見直したよ。秋月。まさか推理も出来るなんて」
「見直されてたの! まあいいや」
秋月は若干ショックそうな顔を見せたが、すぐに気を取り直した。
ともかく、謎は解決した。
樫本の死から、しばらく経っても、刑事は未だに来なかった。
そうすると、この緊張が続いて、ようやく落ち着いたのもあって、あれが催してきた。
こんな所では、やなんだけどなあ。
しかし、待てども待てども脇坂刑事は一向に現れる気配はない。ついに耐えきれなくなった。
あーもう! 脇坂の馬鹿野郎!
こんな所で、不本意だけど、仕方ないじゃないか、生理現象だし。
「あの、ちょっと行ってくる」
「行ってくる、ってどこに?」
洋子の無邪気な質問が返ってきた。
「お花摘みに!」
そう答えてやると、私は内股で、そそくさと足早にその場を去った。
☆
「ねえ大神。あたしたち二人って、珍しくない?」
秋月は、去っていく沼田にしばらく目を向けていたが、その姿が見えなくなると、洋子へと話しかけた。
「確かにそうかも。ここの所いつも3人で動いてたから」
「それもあるけど、大神っていつも沼田といるじゃん」
「そうかな」
「そうだよ。だから二人きりの今だから言えるんだけどさ」
突然、何かを決意したかのように、秋月は口火を切った。
「土曜日話した時には、ぼかしたけど、あたしさ、あのトンネルの戦いのとき、田中を本気で殺そうとしてた」
自虐交じりの笑いを混ぜて、秋月は独白を始めた。
「じいさんの事も思い出して、それでも許せなくって、きっとあのままだったらあたし、田中を殺してたと思う...でも、殺す直前になって、大神の言葉思い出したんだ」
"自分の感情に整理がつかないからって、それを人殺しになんて終着させる、そんなの馬鹿げてる。"
「それで、あたし、殺すのやめたんだ」
秋月は、一言一言、かみしめるように言った。
「だから、大神のあの言葉がなければ、きっと今頃こうやってここにいなかった」
そこで、秋月は洋子へと真剣な目線を向けた。
「だからさ、あの時掛けた言葉が間違いだなんて言わないでよ」
それは、大神の土曜日の謝罪のことを言っているらしかった。それに、洋子は申し訳なさそうに困り眉をさらに曲げて、
「えっと、そのことはごめんなさ..」
また頭を下げようとすると、
「ああ、もうすぐ謝るんだから。ともかく、大神はもっと自分の言葉に自信もっていいってこと」
秋月は、遮るように、歯がゆそうに言った。そして、間髪入れずに、
「あたし、大神に感謝してるんだからね! 伝えたかったのはそのこと! 以上!」
秋月はそう言い切ると、目線を洋子からそらしてしまった。
それを見て、最初は不思議そうにしていた洋子も、なんだか可笑しくなって少しほほ笑んだ。
「なーに、笑ってるのさ!」
秋月は拗ねてぷうと頬を膨らませたのは逆効果だったようで、洋子の口角はさらに、ちょっと上がった。
☆
「うーん。まずいな」
手洗いを終え、元の草原へと戻っている最中、ふと空を眺めてみると、いつの間にか、空の半分を積乱雲が支配していた。
「この調子じゃ帰るときは濡れるかなあ」
その不気味な雲を眺めていると、その暗いイメージにつられて、秘狂クラブのことが頭によぎった。
田中の言う通りならば、秘狂クラブのメンバーはあと二人、まだ知らないのが一人、そしてリーダーのメフィスト。
「これから、あと二人。戦いはまだ続く、か」
☆
夕方の校舎、その屋上に二つの陰が見えた。
空は、西日さす茜色に染まっていたが、もう一方、東は、この時期特有の積乱雲が徐々に拡大していった。
もう少しで、空は完全にその黒い雲に覆われ、雨が降るだろう。
その空の下、その屋上の一人は携帯で会話をしていた。会話を重ねるにつれ、その口調は深刻になり、やがて沈んだ声へと変わっていた。
電話をしていた陰の一人、シャツを着た老年の男はやるせない表情で電話を切った。
「どうしたの、リース。そんな浮かない顔してさ」
もう一つの陰は、もしゃもしゃの髪に、透き通ったような肌の美少年だ。学生服を着ていて、どうやらその、足下に広がる学校の生徒らしい。
「マノンとバンディが、死んだ...」
老年の男は深刻そうに、吐き出すように言った。
「ふうん。そうかい」
それに対して少年はさして興味がなさそうだ。
「ふうんって、お前は!」
「まあともかく。マノンもバンディも弱っちいから死んだのさ」
瞬間、老年の男はその屋上タイルに跡を残さんばかりの勢いで、地を蹴り上げると、少年の襟元をすばやく掴み、そのまま柵にたたきつけた。
「がふっ」
ごおん、と柵揺れで金属が悲鳴を上げた。
「お前なんかには分からないだろうが、マノンとバンディは大切な仲間だったんだ!」
老年の男は声を荒げ、今にもその少年を、殺してしまうかと思われるほど、その襟をぐいと持ち上げた。
「それをお前は侮辱するか」
「おい。リース。あんまり揺らすなよ」
少年は、あくまでも余裕だ。唇を上へと、皮肉げに釣り上げていた。
「そこらへんにしておけよ。俺のパニックオーダーの射程圏内なんだぜ」
少年の、余裕綽綽と答えるその声に、屈服したかのように、老年の男は手をシャツの襟から離した。
「クソっ」
そう手を離すと、老年の男はよろよろと、しかし確実な足取りで歩き出した。
「どこへ行くんだね」
そう、少年のまるで明治の文豪かのようなふざけた言葉にも怒る気力もないらしい。
「決まっているだろう」
最後に老年の男はくらい目で、睨みつけるように振り返った。
「弔い合戦だ」
そうして、再び前を向き、老年の男は、マスター鍵を使い、屋上の普段は閉鎖されているドアを開けた。
積乱雲が、覆い始め、それが空を閉じるかのように迫ってきた。
その空をぽけっと見ていた、少年は、独り言がぽろりとこぼれ始めた。
「あーあいっちゃったよ。ありゃすぐやられるな」
そのかげろうのような美少年はため息をつくと、
「まあいいや、あいつがやられたらついに俺の出番だしな」
そう言って、その悪戯っぽい顔を醜く、くしゃっと歪めた。