1.陽炎の少年
窓から差し込む陽光は、瞼を閉じていても、淡く網膜へと入り込んできた。
「まぶい...」
机に突っ伏す姿勢へと変えてみた。そうすると今度は後頭部が熱くなる。不快な汗が、首筋へと流れた。
真夏の窓際は、仮眠には向いていないみたいだった。
仕方なく私は自分の席からぼんやりと教室を眺めることにした。
「だから、田中の失踪事件って本当は、自作自演って聞いてたぜ」
「坂田は自殺なんかじゃなくて殺されたんだ。絶対嘘じゃないって」
ここ数日、クラス中ではきな臭い事件たちの飛言が飛び交っていた。
「ねえ、田中が失踪した事件あったじゃん、あれの犯人、校長だってさ」
昨日の事件の影響なのか、校長までもその噂たちの仲間入りを果たしていた。どうやら、その噂で校長は田中の事件の真犯人にされてしまっているらしい。
こうやって噂同士が、混じってしまうことは、ここ最近では珍しくなくなっていた。
ひとえに私達の身の周りで、血なまぐさい事件が頻発しすぎているせいだろう。そのいくつもの事件からウジのように溢れた大量の噂は、学校という狭い箱の中で、不安と好奇心という触媒により活性化し、互いぶつかり合って歪んでしまっているのだ。
一体私が送っていたはずの、日常はどこへ行ってしまったんだろう?
そんな私の憂鬱をよそに、周りはこの状況を楽しんでいるようだった。
みんな、怖いだの、ひどいだの、信じられないだの、口では言っているくせに、その話をするのはやめられないみたいで、次々と噂の伝染のお手伝いを喜々としてやっている。
どうやら、周りのみんなは、尊く平和な日常に飽き飽きしているらしい。
でも、そんな甘くとろけそうな夢想は、最近の私からするなら鼻で笑ってしまえる。
気楽でいいもんだ、と。
そうやって、私がぼうっと教室を眺めていると、机の前に赤井と岸本がやってきた。彼女たちは、確か秋月の友人である。
「ねえさー。今日、秋月どうしたの?休みらしいけど」
赤井が聞いてきた。
「いやーそれが昨日、秋月すごい大けがしてさ。階段から思い切り転げ落ちて、脚やっちゃったらしいのよ」
そこから私は、昨日、秋月から言っておくように頼まれた、ごまかすための偽の理由を話した。
「そっかー。大丈夫かな」
「昔からやんちゃだからねえ」
岸本はどこか呆れたように言った。昔からということは、今までもこうやって心配させてきたのだろうか。まったく。
昨日のリースとの戦闘で、秋月は怪我を負ったもののなんとか無事だった。ただ、リースから食らった腹への打撲と、銃による右脚への損傷は素人目から見てもひどかった。そのためしばらくの間、入院することになった。
ついでに、脇坂も無事だった。あんなに殴られたのにどうして無事なのか疑問だったけれど、脇坂曰く、
「一か八か、能力(ごえもん)で俺自身の心臓を一時的に止めてやったんだ。そうして、奴に俺が死んだと誤解させたわけよ。忍法死んだふりってな。がははははは...げほっげほっ」
ということらしい。そんな強がりを言ってはいても、どちらかといえば秋月よりもこっちの方が重傷だ。
結局、脇坂も入院となった。
そうして、秋月と脇坂は入院することになったのだけれど....
「ねえ、なんでわざわざこいつと同じ部屋なの!あたし嫌なんだけど」
「仕方ねえだろ。俺だって、てめえと同じ部屋なんざごめんだぜ」
二人とも、病室の関係で同じ部屋へと詰め込まれた。そして、付き添いの私と洋子そっちのけで口喧嘩をおっぱじめていた。
「本当によかった...」
洋子はそれを見てなぜか、しみじみとしていた。
「まあ、うん」
文句を垂れ合う元気があるのは、確かにいいことかもしれない。
「じゃ、お大事に」
「秋月さん、また来るね」
私と洋子は、そう伝えて病室を出たけれど、きっと二人には届いてなかったに違いない。
廊下へと出ると、とっくに消灯時間は過ぎてしまっているので、明かりが消えていてとても暗い。非常口のピクトグラム、その緑色の光だけが煌々と照っている。
「洋子、今何時?」
時計を持っていないので、洋子に時間を聞く。
「えーと、9時30分ちょうど」
「もうそんな時間かあ」
このままだと、家に帰るのは夜の十時ぐらいになる。そうなると。
「お母さん、怒るだろうな」
漏れ出た言葉に、ますます憂鬱になった。母の性格からして、帰宅時間がこれだけ遅くなればどうなるか考えただけでも恐ろしい。
「わたしも和代の家にいくよ。一緒に事情を説明すれば、きっと大丈夫だよ」
「いいよ。よーこの方の両親もたぶん心配してるし、私なんかの心配より真っすぐ家に帰ったほうがいいよ。それに...」
それに、洋子がどうこうできるような問題じゃないし。
私と洋子は、途中まで一緒に帰って、適当な所で別れた。そうして、団地へと、着いてしまうと憂鬱はさらに重くのしかかった。
暗い気持ちを抱えながら、3階まで上って、部屋の前へと立つと、呼吸が浅くなった。
5分経ってから、ようやく扉を開ける決心がついた。
鍵を差し込み、扉を開ける。
母が、玄関の土間に足を投げ出して座っていた。
そして、 母は私を見たとたん、泣いた。
最初、私のことを心配してくれて待ってくれたんだと、じーん、としたが、そうじゃなかった。
「仕事クビになったの」
母は、赤ら顔でぐずり出した。 その横には、パック酒が乱雑に置いてある。どうやら、仕事を首になったショックで玄関でやけ酒を飲んで逃避していたときに、私という現実が帰ってきたことでいっぱいいっぱいになって泣いてしまった、ということらしい。
私は、洋子の同行を断っておいて、本当によかったと密かに安堵した。
こんなに情けないうちの母を、洋子に見せるわけにはいかない。
ここから、私は母の酒混じりの愚痴に付き合わされることになった。
母が、わーっと喋るのに、私は、うん、うん、と機械的に相槌を打つだけの、嫌な時間が長く続いた。
ようやく床についたのは、日をまたいだ夜の3時だった。
まあ、昨日はそんなことがあったので、十分眠れていないのだ。だから少しでも、この休憩時間中に寝ておこうと思ったのだけれど、
「そーいえばどうなの」
「え?」
「ごまかさないでよ~」
こういうときにこそ、話というのは妙に耳障りに聞こえる。 赤井と岸本の声だった。どうやら、私の席の近くで喋り始めたみたいだ。やれやれ。
「昨日、上手くいってたみたいじゃない。イケメンの彼とはさあ」
赤井がからかうような声で言った。
「えっ、どっどうして知ってるの!?」
岸本は心当たりがあるのか、焦った声色に変わる。
「一緒に帰ったところ、見られてたみたいだよ~」
「えっええ~見られてたの!」
なんだなんだ。普通に気になるぞ。私のゴシップ好きな面、いやいや、好奇心がうずきだして思わず耳を傾けた。
「えと、まずその昨日の噂って、どこまで知られてる感じなの?」
「岸本が、国城と一緒に校舎で雨宿りをして、そのあと一緒に帰って、彼の家に入るまで全部ね。いやいや、もろもろすっ飛ばしてまさか家にまで呼ばれるとはね。やるじゃん」
どうやらお相手の名前は国城というらしい。
「家に呼ばれたのは、まあ、せっかくだからってことで、あのあとごはんまでごちそうになっちゃったし。というか誰が見てたの?」
「新井田だよ。あいつも暇だよねー」
「あんにゃろ」
新井田、また...あいつか。
「そもそも、なんで岸本みたいなちんちくりんが、あんな細めのイケメンと一緒にいられたのかなあ。そこらへん、教えてプリーズ!」
「えーと、話すと長くなるよ?まずさ、国城っていつも放課後、図書室で勉強してるじゃない?」
「してるじゃない?って、公然の事実みたいに言われても。というか国城って勉強熱心だね。わざわざ残ってやるなんて」
「今まで難病で、小さい時からずっと学校に通えなかったみたいなの。こうやって体調が安定して学校に通えるようになったのも、6月ぐらいかららしいし。だからその分の勉強の遅れを取り戻すために放課後頑張ってるらしいの。とっても、健気じゃない?それで、私も最近はそこで勉強することにしてたの」
「へえ、そうやって横から盗み見てたんだー」
「ちがうよ!て言ったけど、まあ、たまにはちょっと覗いたり...いやいやいや」
なかなか初々しい、甘ったるくて吐き気がしそうなぐらいの青春じゃないか。
「ともかく、昨日も同じ図書室にいたの。その日も集中して勉強してるみたいで、あんまり話せる感じじゃなかった。それで、夕方あたり、国城が席を離れて図書室から出ていったから、話せるチャンスかもって思って...」
「あとを追って図書室を出たわけだ」
「うん...」
岸本は、しおらしく言った。
「それで、話そうとは思ってたんだけど...いや話そうとは頑張ったんだよ!でも、どう切り出せばいいのか、分かんないじゃん。私の事、向こうは覚えているかもどうかも分からない訳だし。だから、その、話すタイミングも掴めなくて、結局ついていくだけになっちゃったっていうか」
「つまり、国城のことをストーキングしたわけだ」
「ちょっと、ストーキングとか、人聞きの悪いこと言わないでよ。ともかく、そのままついていってみたら、国城、3階まで階段を上がっていったのね。何処まで行くのかなって思ったら、屋上への連絡通路のほうに向かっていったの。そして、そのまま通路の階段を上って、屋上に入ったから、びっくりしちゃった。だって、屋上って普段は入れないよね?」
「うん、確かに」
「そうでしょ。だから、どうしてかなあ、って思ってたら国城がだれかと話してる声が聞こえてきたから、気になって屋上ドアの前で聞き耳立ててみたんだ」
「ふーんストーキングの次は盗聴ねえ。感心しないなあ」
「うるさいなあ。それで国城が話してる相手なんだけど、それが!なんと!うちの校長だったの!」
校長!昨日から、ぼうと、していた頭の中がはっきり明瞭になった。
「ええ~校長!何かの間違いじゃないの?」
「ううん。確実に声は、校長だったよ。それに、校長だったら、屋上のドアの鍵を開けることができるじゃない?だから、きっと間違いないよ」
だとすると、それが本当なら、校長とわざわざ屋上で話している国城は、もしかしたら。
「へえ、だったら国城と校長は何話してたとか、聞こえた?」
「えーと、あんまり。ドア越しだし。そうそう、でも雰囲気は険悪だったなあ」
「険悪?」
「いやーそれが。最初の方は、二人とも結構和やかに話してたんだけど。その途中で、校長に電話がかかってきたみたいで、一旦会話が途切れたんだ。その電話が終わってから、何だか二人とも険悪な雰囲気になったみたいで、特に校長はすごい怒っているみたいだった。何か、ぶつかるみたいな、ごおんってすごい音もしたし。そうだ、思い出した」
「えっ何を?」
「えっと、あのとき、校長がすごい剣幕で言ってたこと。確か、マノンとバンディは大切な仲間だった、って。あんな穏やかそうな校長先生が、あんなに声を荒げるなんて、びっくりだったよ。知らない一面もあるのかもなーって」
間違いない。国城への疑念は確信へと変わっていった。校長が、マノンとバンディとの話をしているということは、それを聞いている国城も間違いなく秘狂クラブの仲間だ。
そして、校長がいなくなって、残るメンバーは一人。だとすれば、国城が....メフィストということになる。
「そうそう、そんときの校長の顔もすごかった。校長が屋上を出てくとき、私扉の陰に隠れて階段降りてくのを見てたけど、すごーく怖い顔してたもの」
「でも、あの穏やかそうな校長がねー。私にはちょっと考えられないなー。というか、いつの間にか校長の話題にすり替わってるじゃん。国城の方はどうなったの?」
「校長がいなくなったのを見計らって、すぐ屋上に駆けつけたよ。すごい音がしたから心配だったし、もうこの機会を逃したら話せないような気もしたし。それで、勇気を出して話しかけてみたんだけど...」
そこからの話は、 耳にまともに入ってこなかった。私は居ても立っても居られなくなって、立ち上がった。
そして、岸本の前に詰め寄った。
「ねえ、国城ってクラス何処!」
「あっ沼田、もしかして横恋慕?」
赤井がからかうように言ってきたけど、今はうるさい。
「そんなこと、いいから!クラスは!」
「と、隣の1-A」
「見た目は!」
「えっ...ええと」
岸本は怯えたように私を見た。
「早く!」
「眠たげな眼と白い肌!あと細身!」
「よし!」
私は、困惑している岸本からそれだけ聞くと教室から飛び出した。
岸本の恋慕相手、国城。今の話が間違いないとしたら、そいつはとんでもない奴だ。
隣にある、1-A教室の前に着く。
そして、廊下から教室内にいるかもしれない目当ての人物の姿を探す。
いた。
眠たげな眼、そして、陽炎のように消えてしまいそうな細い線。白い肌。
窓際の端っこに、国城はいた。
もしゃもしゃパーマの髪が陽光に照らされて、きらりと光っている。天然パーマか?その肌は、西洋の人形のような不自然な白さをしていた。
そして、その彼は頬をついて窓の外の景色を眺めている。
その姿を、一度私は見たことがあった。新井田に連れられて喫茶店に行ったとき、窓の外で目があったあいつだ。
国城、あいつが、最後の敵!
その国城は、覗いているこちらに気付いた。頬杖をやめ、こちらをじっと見つめた。
目線がかみ合った瞬間、背筋が寒くなった。
国城のその目は、敵である私のことを障害とも何とも思っていない、そんな無感動さを湛えていたのだ。
その態度に思わず絶句していると、
「ああ」
国城は、そう吐息を漏らした。そして、私に向かって笑い顔を見せた。口の右端が、もう一方に比べて不自然にきゅっと吊り上がる、不可思議な笑みだった。
昼休みを終えることを伝える、チャイムが鳴る。
私は一旦、背を向けて自分の教室へと戻るしかなかった。敗北感のような、気分の重さを抱えて。
2.放課後の惨劇
5限目が終わると、私はすぐに国城に関する一連の出来事を洋子に伝えた。
「これからどうしよ?」
とりあえず洋子に指示を仰ぐことにした。
「放課後になったら、病院に行って、この事を秋月さんと脇坂さんに伝えよう」
「国城は?あのまま、ほっといて大丈夫かな」
「今、接触するのは危険じゃないかな。それも含めて二人に相談しようよ」
そうして放課後になると、私と洋子は、病院へ行くためいち早く教室を出ようとした。そのとき。
「あの、大神」
隣にいた洋子は、町田に呼び止められた。
「これ、すごく良かった」
そう言って、洋子に渡したのは、何かのCDのジュエルケースだった。
「ほんと?それなら、嬉しいな」
洋子は、そう言って、それを受け取った。
うわ。
町田が渡したそれは、どうやら音楽のCDアルバムらしかった。が、そのパッケージは、とても、気持ち悪くて変な...いやユニークな代物だった。タイトルは"ノストラダムス~時代遅れの終末予見者~"、アーティストはDr.プラネタリウム。そのジャケットの表紙はサイケデリックに染まって歪んだノストラダムスの顔と、ミサイルや銃器など近代兵器のコラージュアートに囲まれていて、とにかく不気味だ。CD帯はボロボロで、"20世紀最後の衝撃!"と太字で銘打たれていた。
「そのCD、まさか洋子の?」
私は、半信半疑で聞いていた。
「うん、町田さんに貸してたの」
「へえ」
衝撃で、思わず変な声が漏れでた。洋子が、こんなドマイナーそうなのを聞くなんて。
知らなかった。
こんなヘンテコすっとこどっこいのCDと、洋子の間にとてもじゃないけれど繋がりを見出せそうにはない。
「そのアルバムの曲、どれもホントに良くてさ。電子音楽だから、俺の好みから外れるしあんまりかなあって思ったんだけど、聴いてみたら不思議なくらい抒情的で、なんだろうなとにかく、とても心に残ったんだ」
そう町田は絶賛して、
「うん、だから、貸してくれてありがとう」
と、大げさな御礼を洋子にした。
「いやいや、そこまで言われると、恐れ多いよ」
洋子はその態度にたじたじしている。
「そうだ、大神的にはあん中で、どれが一番好きな曲なんだ?」
町田はよほどそのCDが気に入ってるのか、興味津々で聞く。
「どれも大好きだけど、うーん、決められないかな」
洋子は、困ったように笑った。
「えーと町田さんは?どの曲が気に入ってるの?」
「最後に入っていた、何だったっけ、そうだ"地球爆発~恐怖の大王パンチ!~"が特に良かった。寂しげなメロディラインですごい暗い曲だけど、でもそこがすごいいいんだ」
それからも、洋子と町田は、その貸したCDアルバムの話でしばらく盛り上がっていた。私を置き去りにして...
その酷く苦痛な時間がひと段落すると、 町田は、
「それとさ、また、貸してもいいかな?聞いてほしい曲、まだあるし」
そう言って、洋子にCDを差し出した。どうやら、演歌のCDらしい。
「うん。もちろん。あっ、前貸してもらったのと同じ人だね」
「おっ、気づいた?そうなんだよ」
どうやら二人は、いつの間にか、CDの貸し借りをする仲までになっているらしかった。昨日、山で会った時もそんな素振りすら見せなかったし、一体いつから...
うーん。私も何かしら、音楽を聴いてみるべきだろうか?
それとも、私も洋子とCDの交換してみようかな、いやでも私CD持っていないし...
そんなことを、グダグダ悩んでいると、じゃらじゃらと、どこからか金属音が私達の方へと近づいてきた。
「おお、町田。と、ええと秋月の連れの、なんだっけ。まあいいや」
その音源である新井田が、私達へと声を掛けた。その右手人差し指に、鍵束の輪の部分をひっかけ、かき鳴らしている。
昨日も会ったのに、どうやら私と洋子の名前は憶えられてないみたいだった。
その新井田は、町田と洋子をしげしげと見た。
「昨日も思ったけど、お前ら、仲いいなー。もしかして、できてんのか?」
「ち、ちがうよ」
「違うよ」
洋子は、どもって、町田はいつもの苦々しげな顔で、それぞれ答えた。
「ほー、ふーん」
新井田は、その反応をにやにやしながら眺めていた。どうやら、面白がっているらしい。
私にとっては、ぜんぜん面白くない。町田と洋子がいい感じになるなんて...何か嫌だ。
「そういや、お前がそのさっきから回してるそれ、何なんだよ」
町田が露骨に話を逸らした。
「いやあ、これはだな...」
新井田が、そう話し始めようとした、そのときだった。
ジリリリリリリリリリ!
突如、非常ベルがけたたましく鳴り響いた。
瞬間、放課後の弛緩した空気が一気にきゅっと引き締まった。
「な、何!」
私達が困惑していると、続いて、
ピーンポーンパーンポーン
と、校内放送を告げるチャイムの音が流れた。
「緊急連絡です。ただいま校舎一階に、不審者が侵入しました」
若い女性教員の声が、教室のスピーカーから聞こえてきた。
「至急、校内に残っている生徒は、教員の指示に従って屋上へと避難してください」
私はスピーカーへと目を奪われて、口をぽっかり開けたまま、その異常事態を告げる放送を聞いていた。
「繰り返します。ただいま、校舎一階に不審者が侵入しました。残っている生徒は教員の...」
突如、言葉は途切れた。続いて、ごんっと、何かがぶつかる鈍い音がする。
そこから間髪入れずに、女性の甲高い悲鳴がスピーカーから響き渡った。
そのぞっとするような叫びは、ぶつりと、打ち切られた。
誰かが、放送を切ったのだ。おそらく、私達に一方的に恐怖を突きつけた悪意ある存在によって。
放送は終わった。
それでも、教室にいる誰もが動けないで、しん、していた。まるで、教室が凍結したような静けさだった。
「屋上だろ。行こうぜ」
そんな教室の沈黙を、最初に破ったのは町田だった。
その声に、はっとして、ようやく自分が戻ってきたような気がした。みんなも同じだったようで、 その声を起点にして、周りも解凍されていくかのように徐々に動き出した。さざ波のようなざわめきがゆっくりと広がっていく。
「おい、何してるんだよ。早く!」
町田は教室の引き戸を開けて、避難を促した。教室にいた私達は、それに引っ張られるように、廊下へと出ていった。そうして、そのまま町田を先頭にして、私達は屋上へと向かった。普段あまり目立たないけど、意外にもこういう非常時、町田はすごくしっかりしてるなあ。
そう感心していると、ふと隣にいる洋子の様子が気になった。何か、考え込んでいるのか、表情が険しい。こんな状況だからというのもあるかもしれないけれど、何かそれ以外の、別の関心があるような気がした。
「洋子、どうしたの」
私は思わず洋子へと尋ねた。
「ねえ、和代。どうして放送で避難場所を伝えたのかな?」
いきなり洋子は、そんな事を言い出した。
「どうしてって、それは、私達を犯人から遠ざけるためでしょ?」
「うん。でも、避難場所を伝えたら犯人にもその場所が分かっちゃうから、かえって危険じゃないかな」
確かに、言われてみればそうかも。
「それに疑問はまだあるの。なんで、避難場所に屋上なんて選んだのかな。よりにもよって、逃げ場のない行き止まりに」
「うーん。焦ってただけかも」
私は、適当な反論をした。
「そうかもしれないけれど、引っかかるの。何だか、誰かが裏で糸を引いているみたいで...放っておいたら、もっと大変なことになるかも。だから...」
「ちょっと待ってよ。まさか洋子」
私は、洋子に被せるように言った。
「わたし、放送室の様子見に行ってくる。和代は先に行ってて」
洋子は、屋上へと向かっている町田たちに背を向けて走り始めていた。
「待って洋子!」
私は、洋子の後を急いで追った。自分から危険な方へ飛び込むなんて。まったく、洋子ってば、ホントに馬鹿だ。
そうして、先を走る洋子の後を追って、ばたばた階段を駆け下りて、二階へと降りると、すぐさま廊下へ出て走った。途中、避難している何人かの生徒とすれ違った。その好奇の視線が痛い。
でも、知るもんか。私のやってることは、正しいと言い聞かせてやる。
そう、これも正しいことなんだ。
多分。
二年生の教室、校長室、職員室の前を次々、校則違反で走り抜け、ついに目的の放送室の前へとたどり着いた。
そこでは大勢の教員たちが 、その扉の前を囲んでいた。そこで教員5人が、扉に向かってさすまたを向けていて、その中心に体育教師の鬼道先生、白虎先生、雲龍先生がいる。
「ああ、こんな所にいないで、君たちさっさと逃げなさい」
その輪の一番外側にいて特にやることもなさそうな 1-Aの丸山先生が私達を見かねて注意してきた。
「あの、その中に、大崎先生を襲った不審者がいるんですか?」
洋子は、丸山先生の言葉を無視して単刀直入に聞いた。私は、先生の名前なんてろくに覚えてないので、ここで、放送室で避難を呼びかけていた先生の名前を初めて知った。
「まあおそらく。ドアが内側から閉じられているし、不審者が出た気配もないからね。ただ、妙なことに、廊下で誰も不審者が放送室に入っていくのを見ていないらしいんだ。だから断言はできないけれどね...普通、知らない人が来たら誰かしら気づくはずなのに、おかしいなあ...」
意外にも丸山先生は、洋子の質問にも答えてくれた。結構、お喋りらしい。
「まあ、それで、扉が開かないっていうんで。こうやって、ほら開けようとしているわけだ」
丸山先生は、扉の前を指し示した。見ると体育教師らは、扉に向かって一斉に体当たりし始めていた。
断続的に、金属が歪む音があたりに鈍く響く。
「職員室の鍵を使って開けないんですか?」
「それが、妙なことにないらしいんだ。さっき雲龍先生に聞いたら、どうやら副校長が点検のために、さっき持っていてしまったみたいでね。その副校長も見当たらないし、こんな肝心なときなのにまったく何を...いやいや、そんなことはいいから。ほら、屋上へさあ行った行った」
丸山先生は思い出したかのように私達に去るよう促した。これ以上は答えてくれそうにない。
そのとき、決定的に何かが壊れる、裂けるような音が響いた。
「開いたぞ!」
教員の誰かの叫び声が聞こえた。
ついに扉は、開かれた。
次々と教員らは、放送室へと踏み込んでいく。
「大崎先生!しっかりしてください」
「おい、誰か!救急箱持ってたろ!」
私は、遠目から放送室の喧騒を眺めていた。教員たちの隙間から、机に突っ伏して座る血まみれの若い女性教員が一瞬見えた。あれが大崎先生らしい。傍目で見ただけだけど、もう助からないことは、なんとなく察することができた。
その教員たちのざわめきが変わった。何かと思っていると、
「不審者は!?」
「大崎先生以外いません!」
驚愕の叫びがこちらへも聞こえてきた。おかしい。丸山先生の話じゃ、不審者は放送室にいるんじゃなかったのか?鍵は内側から掛けられていたし。犯人が中にいたのは、確実だろう。
それとも、ドア以外のどこからか出た?いや、放送室には窓もない。じゃあ、どこから、どうやって、犯人は消えた?
そうして止め処なくなった思考は、身の毛のよだつ悲鳴によって断ち切られた。
今度の悲鳴は複数聞こえた。それが、途切れることなく伝染するかのごとく、悲鳴は下から大きなうなりを伴って、広がっていった。
犯人の悪意は、まだ続いている。
「あっ洋子!」
洋子は、そんなことに怖気てないのか、すぐに悲鳴の聞こえたほうへと、廊下を駆けていった。
その方向は、私達が来た方向とは反対方向だ。
私もしぶしぶ、それについていく。そうして、洋子と私は廊下の突き当りにある階段へと着いた。そのまま、階段を降りようとしたけれど、大勢の生徒が一階から駆け上ってきたせいで、少し待つことになりそうだった。生徒の誰もが、死にものぐるいといった感じで、わき目もふる余裕もなさそうに、私達の前を走り抜けた。
一体下で、何が、どんな恐ろしいことが起きた?
未知の恐怖に私が怖気づいていると、その生徒の波は途切れた。
「危ないから、やっぱ行くのは...」
そう、力なく声を掛けても、洋子には聞こえていないみたいで、返事もなしで階段を降り始めた。
仕方なく、私も階段を下り廊下へと出る。
「うっ...」
そこに待ち受けていたのは、赤い彼岸の光景だった。
廊下の数十メートルほど先、数人の生徒がうつ伏せで倒れていた。そこから、血だまりがゆったりと広がっていっている。
そして、その生徒たちの死体の中心に立つのは、血を服にたっぷり吸わせている、マルメガネをかけている中年の女性だった。片手には包丁が握られていて、その刃先からまだ血がぽたりと落ちていた。その教員のことは、ちゃんと知っていた。そう、今日も、いつも通り授業をやっていた...
「高山先生...」
洋子から呟きが漏れた。
その高山先生には、今、いつもの穏やかな雰囲気はなくなって、にやっとした、したり顔で私達を見つめていた。
不審者の正体...それは、高山先生だった? 違う、あれは高山先生なんかじゃない!そう感じさせる決定的ではないにしても、直感が否定していた。
「やあ、君たち遅かったじゃあないか?」
高山先生は口の右端をきゅっと吊り上げて、笑った。
「あんたの中身は、高山先生じゃないんでしょ?」
私は目の前のヤツに問いかける。
「ん。ああ、だとしたらどうする?」
その答えには、ほんの少し迷いが生じていたような、ためが確かにあった。
「あんたって、国城なんでしょ?」
私は確信して、言ってやった。
「...」
今度は黙った。間違いない。 目の前にいるのは、高山先生本人じゃない、国城だ。
「やっぱり。その口の右端を吊り上げる癖、直しておいた方がいいんじゃない?」
「...ふふふ、そうさ。俺は国城智之」
不気味な笑い声をあげて、国城はうそぶく。
「お前らの敵で、そして...俺こそがメフィストだ」
国城は、堂々と自身の正体を名乗り上げた。察していたとはいえ、やっぱり衝撃が大きかった。
メフィスト。私達を、そして街を混乱に陥れた張本人が今、他人の身体を介しているとはいえ目の前にいた。
「国城、あんたの能力は他人を自在に操ることができる能力。そのあんたの能力で、高山先生を操ってるんでしょ。たぶん、放送室の大崎先生も、あんたがやったんだ。あんたが操って、自殺させた」
そう、それなら放送室の内側から鍵が掛かっていたこと、そして屋上へと誘導した不自然さも説明できるはず。おそらく、一連の事件でパニックを広げるため、大崎先生を操って、見せしめの形で自殺させたに違いない。
自作自演で、自分の手すら汚さない...とんでもない卑怯者だ。そう考えているとむくむく、怒りが湧いてきた。
「そう、俺のパニックオーダーでやってやったのさ」
メフィストは私をからかうように、そう言い放つ。
「国城!あんたは今、どこに...」
「遊びは、終いだ」
メフィストは断ち切るように言うと、血まみれのナイフ振りかぶって、こちらへと向かってきた。
「水餅!」
私は、両足から透明な粘体を次々と出していった。まずその粘体を、廊下の幅いっぱいに広げると、そこから洪水のようにして、押し流すように動かす。
向かってきた国城は、それを視認して、後退するために、一旦止まろうとした。だけれど、駆け抜けた勢いが余ってつんのめる。
私はその隙を逃さず、右手をしっかり奴に向ける。
「精流魔(すぺるま)!」
右てのひらから放たれた粘体は、勢いよく飛び出して、メフィストの右頬に当たった。
「ぐっ」
「動いたら、その水餅、口元にいれるよ!」
私はそう脅しつつ、床に広げていた水餅を奴の足元まで近づけると、そのまままとわりつかせて、全身を覆うべく這い上がらせていく。
よし!これで、メフィストが動かせるのは、上半身だけになった。
そう安堵してメフィストの方を見ると、それを意に介していないのかにやりと笑っている。そして、握ったナイフを、なんと自身の首元に向けた。
「聞こえなかったの!動くと」
「じゃあな!」
「あっ」
警告を無視してメフィストは、そのナイフを自分の首へと突き刺した。びゅっと鮮血が噴き出し、放物線を描いて飛び散る。地面に広がった粘液に、血が混じって、模様を描きながら、溶けていった。 その血が鮮明に網膜に焼き付いた。
死んだ。こんなに、目の前で、あっけなく。血が...高山先生を...
「ああ...あ....」
気づいたら、私の身体は洋子に支えられていた。ショックで、倒れそうになってたらしい。
「ああ...」
「和代、しっかりして」
その声がぼんやりと脳に入ってきた。
「和代。まだ事件は終わっていないよ」
洋子の少し硬い声で、ようやく、現実の感覚が戻ってきた気がした。
「うん。ああ...」
そうだ。こんな事を、こんな死に方させる奴を、これ以上放っておいちゃだめだ。がくがくと、まだ震える脚を踏ん張らせる。
「それで、これからどうする?」
まだ震える口でなんとか洋子に聞く。
「それを決めるためにも、まずは敵の情報を整理しようよ。まず敵の能力、パニックオーダーだけど、それで国城さんは、他人を乗っ取って操ることができる。そして、ここからは推測になっちゃうけれど、操ることのできる人数はおそらく一人だけだと思う」
「どうして?」
「放送室での大崎先生の悲鳴が聞こえてから、次に高山先生が事件を起こしてからの悲鳴が聞こえるまでの時間に結構差があったよね?もし、二人以上操れたら、同時に事を起こして、もっと事件のパニックを大きくすることができたと思う。でも、そうはしなかったてことは、たぶん一人の操作しかできないんじゃないかな」
「だったら、とにかくその本体を早く探りあてなきゃ。だから...」
「ちょっと待って。今、本体の国城さんを探すのは危険、だと思う」
私の言葉に、洋子は冷静に待ったをかけた。
「何で?早くしないと、大変なことに」
「まだ国城さんがどうやって人を操っているのか分からないから、うかつに近づくのは危険だよ。もしかしたら、返り討ちにされてこっちが操られるかもしれないし。それに国城さんの目的は、このパニックを利用して、屋上に人を集めて、"何か"しようとしているみたいだから、まずは最低限そっちを守るのを優先しようよ」
"何か"...秘狂クラブなんていう狂った組織にいる人間が、しようとしていることなんて碌な事じゃないだろう。例えば...私は屋上に逃げた人たちが次々と凶刃によって、さっきみたいに血まみれに倒れていくところを想像した。きっと、メフィストなら簡単に出来てしまう。
「確かに。それで洋子は、何か作戦あるの?」
「うん。一つある。国城さんが屋上に入る前に、そこに入れないように塞いじゃえばいいんだよ」
「どうやって?」
「屋上前の階段、あるでしょ?そこを、和代の水餅でぴっちり覆っておくの。そうしたら、国城さんは簡単に踏み込むことができないはずだよ。どうかな?」
なるほど。それなら、メフィスト本体とも顔を合わせず、なおかつその野望を打ち砕くことができそうだ。
「うん、いいと思う。さすが洋子」
私がそうほめると、洋子は顔を少しほころばせた。
「ありがとう。じゃあ、すぐ行かないと。国城さんが先だと、意味がなくなるもの」
そうして、さっそく私達は屋上へ行くためさっき通った階段へと走りながら向かった。
こうして方針が決まって気持ちが落ち着いてくると、今度は、洋子へとむくむくと怒りが湧いてきた。 それは、さっきメフィストのときに抱いたのとは別種の怒りだった。
「ねえ洋子」
今の私の顔は、きっとしかめっ面に違いない。
「?」
横を走る洋子は、きょとんとしていた。
「危ないことにクビツッコむのもいいけど、もっと自分のこと大切にしてよね!さっきも、もし私がいなかったら死んでたよ!」
私は頑張って声を張り上げて、そう言ってやった。勇敢と無謀は違うのだ。ということを一度言ってやりたかったのだ。もちろん洋子は、後者だ。
「えっと、その、ごめんなさい」
横を走る洋子は、申し訳なさそうに顔を伏せた。
「まったく。さっきだって、私が付いてきてなかったら、どうするつもりだったの」
「それはないよ!」
洋子はそう言い切った。
「どうしてそう言い切れるのさ」
「だって和代って、いつも、なんだかんだ着いてきてくれるから」
はああっと、私は今月一番大きなため息をついた。本当は、言いたいことをもっと言ってやろうと思ったけれど、それ以上の言葉は続かなかった。
そんなことをしている間に、さっきの階段まで着いていた。
そこには先客がいた。
そいつは、一階と二階の踊り場に立っていた。その後ろの窓からの陽光で、逆光になっているので、誰かはぱっと見では、分からない。
私達に、緊張が走る。
「おーい。沼田。大神ー!俺だよ。俺」
その、おれおれ詐欺みたいな文言をのたまう声には聞き覚えがあった。
「新井田さん!」
「いや、何してんの?」
そこにいたのは、こんな時にも関わらず、緊張感の欠片もなさそうな男、新井田がいた。
「いや、お前らが急にいなくなるから心配で探しててよお」
そうして、こちらへと階段を降りてきた。
その階段の中ほどまで来たとき、私はすぐさま、右手を新井田に向けて、
「精流魔!」
そのひらから、粘体を発射させた。
この距離なら避けられないだろう。
「ぐっ」
粘体は、新井田の顔に着弾した。
「洋子!そいつは新井田じゃない!」
私は、面食らっている洋子の横顔にそう言ってやる。そう、今目の前にいる新井田は、メフィストに操られているのだ。
「何故分かった?」
「一ついいこと教えてあげる。新井田は、私と洋子の名前なんて覚えてないんだよ」
いまだ不思議そうな顔をしているメフィストに、私はそう言ってやった。そこから間髪入れず、新井田は、懐へと右手を入れる。
すぐに、その行動の目的を悟った。
きっと、刃物を取り出して、また自害させるつもりだ。
「同じ手は通じないよ!精流魔!」
もう一度放った粘体は、今度は懐へと入れた右手とその前にある制服を包み込んで着弾した。その二つを縫い付けるように、吸着させる。
これで右手の自由を封じた。
「くっ!」
メフィストのその顔に初めて、焦燥が浮かんだ。
「メフィスト!あんたは、今どこにいる!答えないなら...」
「それは、こいつからでも聞くんだな!」
そう言うと、階段の中ほどに立っていたメフィストは、魂が抜けたようにふらりと揺れて、
「え、ちょっ わあ」
こちらへと倒れ掛かってきた。流石に予想外だったので、こっちも対応する暇もない。その体の元である新井田の大きさも相まって、まさに質量兵器だ。どんどん迫ってきて...
「ぎゅう」
気付けば、 私はあおむけの状態で新井田に押しつぶされていた。
「いたた...」
圧迫と、衝撃で、全身に痛みが走った。特にお腹が痛い。傍から見たら、事案になるな、とどうでもいい考えがふと頭をよぎる。
「大丈夫!?」
横にいた洋子は、巻き込まれずに済んだのは、不幸中の幸いだ。私よりも、はるかに小さい洋子だ。もし下敷きになったのが洋子だったら、余裕で死ねる。
「な、なんとか...げほっげげほっ」
圧迫された影響か、次は咳が止まらなくなった。そうしている間にも、洋子は、新井田の腕を引っ張ってどかしてくれていた。
「うわー。うごかさないでくれえ」
引きずられながら、力なく、宣っているのは、メフィスト、いやこの情けなさは新井田だろう。どうやら、メフィストが新井田の身体の操作を止めたらしかった。
その新井田は、口を馬鹿みたいに開けて、目を閉じていた。なんだか、昔駅前で見た酔っ払いみたいだった。
どうやら、こうなってしまっているのは能力の後遺症らしい。そのせいで、新井田は今、前後不覚の状態に陥ってしまっているようだ。
でも逆に、話を聞くならこれくらいの方が好都合かもしれない。メフィストに操られる前に、何があったか聞ければ、だいぶヒントになるはず。
「やい、新井田あ。今まで何をしてたのか、全て教えろ!さもなければ...」
さっき潰された怒りを抑えつつ、新井田の学ランの襟へと掴みかかる。
「うへー、わかった。わかったおしえるよお」
私の怒りが十分に伝わったのか、そこから新井田はべらべら喋ってくれた。
「あのほうそうのあと、お、おれはうー、こうちょうしつにいったんだあ」
「えっ校長室?何で?」
私は、間抜けに聞き返してた。
「うわさをたしかめるためだあ...こうちょうがたなかコロしたってうわさながれてたじゃねえかあ」
そうだ、こいつには余計な好奇心で物事にツッコむ悪癖があるんだった。ここでひとつ納得したことがあった。ああ、鍵束を持っていたのは、そのためだったのか。
「それで、かぎあけて、こうちょうしつにはいったら、すごくてよお。ふくこうちょうとか、あさかわせんせえとか、いっぱいせんこうがすわったままねててさ。...ティーカップがわれて、そこからおちゃがいっぱいこぼれてて、げんじつばなれしてたなあ」
新井田は、そんな不気味な光景を伝えた。
「その中に国城さんいなかった?」
今度は、洋子が新井田に聞いていた。
「くにしろお?だれだあ、それ」
「えーと、イケメンの奴」
我ながら雑な特徴を伝えた。
「それなら、こうちょうしつのいちばんおくにある、でっかいいすにすわってたやつがそうかもなあ、あのなかにいたゆういつせいとだったし。そいつもつっぷしてねてたよ おれが、はたいても、しんでるみたいにうごかなかったし」
「それで、部屋に入った後はどうしたの?」
洋子が話の先を促した。
「これはしらべるチャンスかなあっておもって、そのまま、つくえをあさってみたんだけど...なにもなくてよお」
はあ~。机を漁っただあ。どう考えても、異常事態でしょうが。なんでそんな暢気な事しとるんじゃあ。さっき潰されたときから抑えていた、怒りがついに爆発した。
「へえ、それでその後どうしたんですかねえ、新井田さんはあ」
「和代!その拳で何するつもりなの!」
今にも振り下ろしそうになる私の拳を、洋子は必死で抑えた。
「うるさい!一発ぐらい殴らないとこいつは分からないんだ!」
「抑えて、抑えて和代~」
「むにゃ、そうだ目だ」
「目?」
再び、新井田が喋り出したので、一旦落ち着いて私はそちらに耳を傾ける。
「そうじようぐいれをあさってるさいちゅうだったかなあ、うしろからなにかがぶつかるおとがして、ふりかえったらその、さっきまでねてたイケメンがいて、目があったんだ。そしたら、その目にすいこまれて、するりとこっちにはいってきて....。うそじゃない、ほんとうなんだぜ。そうだそれでいつのまにかここにいて....」
「新井田?新井田?」
「くかあ...ぐー」
「寝ちゃった...」
新井田は、いびきを立て始めた。
まったく。もしここに、あったかい毛布があってもきっとかけてやらないんだからね。
「まあ、でも。くれた情報は有益だった。ここで一度、整理しよう」
そこで、一度言葉を切って、一息吸う。
「まず、メフィストの能力。発動条件は相手と目を合わせること、それで間違いないと思う。新井田は、目が合ってからの記憶がないわけだし。それから、新井田が校長室に入ったときメフィストが死んだように眠っていたことから考えるに、能力を使って他人を乗っ取っている間はきっと本体の方は眠ってしまうんだよ」
洋子は静かにうなずいた。どうやら異論はないみたいだ。うん、普段推理は洋子に任せっぱなしだから、いざ自分がやるとなると自信がなくなる。
「つまり、メフィストは能力を使っている間は無防備になる。だから事前に、校長室に教員たちを呼び出して、眠らせておいたんだ。操るための駒としてストックするために。眠らせた方法は、ティーカップとお茶があったことから、おそらく睡眠薬を飲まされたんだと思う。それと、さっき丸山先生は、副校長先生が鍵を持っていったって言ってた。あれも、きっとメフィストが副校長を操って持ち出させたんだよ。校長室に、誰も入れないようにするためにね」
ここでも洋子からの反論はない。ちょっと、ほっとする。
「それで私、ここまでの前提を踏まえて、メフィストの目論見を無力化させる作戦を思いついたんだ」
こうして、私が推理を披露して、あげく作戦まで提案するなんて、初めてなんじゃないだろうか。いままで頭脳面は、洋子だよりだったけれど、私にだって頑張って頭を使えばそれなりにはできるはずなのだ。
「メフィストって、校長室から教員を操って外へと向かわせているでしょ。そこで、私の水餅を使って、その扉を覆って吸着させてしまえば、中から開けることができなくなる。そうすれば、メフィストは、好き勝手出来なくなると思うんだけど。どう、この作戦?」
私は、洋子の顔色をおそるおそる確認した。眉を寄せていて、まだ難しい顔をしている。
「うん。いいと思う。けれど、もし作戦の前にメフィストが校長室から出てきたら、どうしよう?」
「その可能性は低いと思う。だって、メフィストって能力を使っている間、眠っちゃうから、そうそう前線には出てこないよ。それにもし出てこられても、こっちは二人いるし、もし一人操られても、もう一方は動けるしさ」
「うん、そうだね。それなら、大丈夫かも」
洋子の顔は、まだ不安げなものの、それでもさっきよりは和らいでいた。
ともかく、私の初めての意見は採用されたのだ。ぽわぽわと浮く炭酸みたいな、熱がじわじわとのぼってきた。
「それじゃあすぐ、行こう」
その熱も冷めやらぬ間にすぐ、洋子は階段の上へと目線を向ける。
「ちょっとまって!、その前に...少しだけ...」
私は倒れている新井田の前にかがんで、ポケットに手を入れた。
「和代!何してるの!」
「へへ、いや、せっかくだから、何か使えるものないかなって」
「だめだよ。和代。人のもの盗むなんて」
洋子が常識的な注意をしたけれど、私は構わずその作業を続ける。それにしても中々入っていないな...私は、ズボンのポケット捜索を一通り終えてから、続けて学ランの捜索に入った。
「非常時だし、仕方ないのだ、おっ、あったあった...」
学ランの内ポケットから取り出したのは、7つ道具と書かれたきんちゃく袋だった。その袋をひっくり返してやると、小さな雑品が散らばった。小型ルーペ、ライター、ペンライト、500円玉、そして十徳ナイフ。と、白色で卵型の...何だろ、これ?
「それにさ、洋子は無防備すぎるよ。私は水餅で身を守れるけど、洋子は何もないし。だからさ、持っておいたほうがいいよ」
私は、苦い顔をしている洋子に、そこにある小さな十徳ナイフを渡した。
「大丈夫大丈夫、後でちゃんと返すし」
そう言うと、しぶしぶ洋子は一応受け取ってくれた。よし。一応、私も何か持っておこう。ペンライトは、相手の能力が目に起因するから、目くらましに使えそうだ。と思ったが、試しにスイッチを入れても明かりが点かなかった。電池切れらしい。
他に使えそうなものは...ライターは、たぶん、今回の相手には使えないし、燃料も切れてる。却下。ルーペと500円玉に限っては論外だ。そうして、残ったのは、正体不明の卵型の物体だけだった。
その触り心地は、すべすべしている。プラスチックのような、何かの樹脂でできているらしい。その中央に、円形の溝が刻まれている。じっと見つめていると、その物体をどこかで見たことがあるような気がしてきた。そうだ。どこかで...
「ねえ、和代。そろそろ行かないと...」
はっとして、我に返った。そうだ。こんな事で、時間をつぶしているわけにはいかないのだ。どうやら、がらくた漁りに、少しだけ熱が入ってしまったみたいだ。
「うん。よし、行こう」
立ち上がる前に一応、卵型の物体を左手に握っておいた。後々、何かの役に立つかもしれないし。
そうして、私と洋子は、目の前の階段を駆け上って、再び二階へと戻った。そのまま、廊下へと出ようとしたそのとき。
「まって!」
洋子が、呼び止めた。
「まず、角から廊下の様子を見てから行こうよ。もしかしたら、メフィストが操っている人が待ち受けてるかもしれないし」
確かにそうだ。そして、 私と洋子は角から、廊下をそっと覗いた。
そこには、洋子が言っていたような、操られた人はいなかった。けれど、その代わりに奇妙なものが鎮座している。
二十メートルほど先だろうかそこには、なぜか大鏡が置いてあった。鏡の面をこちらと、廊下の左側、つまりは教室側へと傾けた斜めの状態で置かれていた。
どうして、そんなものが...
急に、首元がヒヤリとした。後ろから伸びた手に、さっきの十徳ナイフが握られている。それを、ぴたりと首元へと押し付けられていた。
「動くなよ」
声がした。
「動くと、そのナイフでお前の喉をかっ切ってやる」
その声は聞き覚えのある、いつもの...洋子の声だった。
3.虚空の魔眼
「種明かしをしてやるとだね。俺のパニックオーダーは、目を合わせてさえいれば発動する。それが鏡の反射でもね。だから俺は、校長室からこの廊下へと反射するように鏡を置いて、お前らを待っていたんだよ」
洋子は、いや今や洋子を操っているメフィストは、後ろでそう言った。
畜生。メフィストのパニックオーダーのことを、私は随分甘く見すぎていた。
「大人しく校長室まで、歩け。いいか妙な気を起こすなよ」
私は、脅されるままに廊下を歩かされた。ちょっとの反抗心と時間稼ぎのため、すり足でなるべく小さく歩く。
前を見ると、鏡に私達が映っている。
それをよく見ると、メフィストは背伸びをしていた。洋子の体が小さいので、そのままだと、ナイフが私の首に届かないみたいだ。なんだか、ちょっとかわいいな、なんて間抜けな事を思っていると、
「ここで一旦止まってくれ」
そうしてしぶしぶ止まったのは、校長室までの途中にある職員室の前だった。
「その横のロッカーがあるだろ?そこを開けてくれ。パスワードは0511だ」
メフィストは、手に持っている十徳ナイフで横にある教員用のダイヤルロッカーを指し示した。指示に従って開けると、鍵束がみっつそこに置いてあった。国城が他人を操作して、校長室から出るとなったら、誰かが入ってこないように、外から鍵を掛けなくちゃいけなくなる。そして、その鍵を隠す場所にここを選んだみたいだった。
「何してるんだ。さっさと、そこにある鍵を全て取り出せ」
何してるんだって言われても、そんなこと指示されてないんですけど。心の中でぶうたれながら、右手で鍵を取った。
「よし。それを持ってまた歩け」
私は再び廊下に出て歩かされる。段々と、校長室に近づいていく。きっと、処刑台に上っていくときは、こんな感じなんだろう。鼓動が早まって息が浅くなるのが自分でもよく分かった。
「連れて行って、どうするつもり?」
私は、気を逸らすために間抜けな質問をした。
「馬鹿だなあ。決まってるだろう。今度は、お前を操ってやるんだよ。水餅って言ったけ、あれを使えば、もっと大きなパニックを起こせる...」
「どうして?どうして、こんな事できるの?」
私は震える声で糾弾した。
「どうして?決まってるじゃねえか、楽しいからだろ?」
後ろのメフィストは、せせら笑いをした。
「退院して、ようやく今までの人生を取り返すチャンスなんだ。そう、今日こそが、俺の本当の人生の始まりだ...」
この言葉の後にも、ぶつぶつとメフィストつぶやく。その静かな迫力に圧倒されて、全身の震えが止まらなくなった。そのせいで、首元にあるナイフの冷たい感触がついたり離れたりを繰り返した。
「着いたぞ」
そうしている間にも、校長室の前についていたらしい。その入り口の扉は、校長室だからといっても、特に装飾はされていない。普通の教室と変わらない、磨りガラスの窓が付いた引き戸だった。その窓の一部に、小さなまんじゅうほどの大きさの穴が空いていた。どうやら、鏡の反射が届く経路を確保するために、穴を開けたらしかった。
「開けろ」
鍵を使って、引き戸を開けた。そうして、目の前に広がった校長室の有様は、新井田から聞いていたとはいえやっぱり、非現実的なものだった。
部屋の手前半分は、応接用の作りになっていて、入り口から見て垂直に二つのソファが向かい合わせで並んでいた。その間に、小さなガラス製の机が配置されている。その机の上には職員室から奪ったであろうたくさんの鍵が積み重なっていた。
その両側のソファに、副校長含む教員らは硬く目を閉ざしてうなだれて座っていた。足元の赤いカーペットには、割れたティーカップが散乱して、そこからこぼれたらしいお茶が黒ずんだシミを作っていた。
その向こう側には、濃い茶褐色をした重厚な木製の机と、黒い腰かけ椅子がある。本来ならば校長が座るはずのその椅子に、主なき今、メフィストは深々と腰掛けていた。その端正な顔は、後から差す太陽の逆光によって深い陰に沈んでいる。
両側で深く頭を垂れる教員たち、その向こうの椅子に堂々と腰を下ろすメフィスト。その光景は、まるで、玉座へと座る王様と、それに対して付き従う配下たちのよう。
美術の教科書に載っていた西洋絵画みたいだった。
「おい、ちゃんと開けたら、鍵を閉めろ」
メフィストから指示が飛んだ。私は、扉へと背をむけて鍵を閉めつつ、必死に頭を回す。
校長室の中で何かこの状況を打破できるものがないか必死に思い浮かべる。眠っている教員たち、メフィスト、机、鍵束、いやそれ以外に何か...掃除用具入れ、でかい旗、よく分からない観葉植物、ガラスケースに入ったいくつものトロフィー、木台に置かれた変な壺...
駄目だ―。何も思いつかない。
「おい、いつまでそうしているつもりだ?元の状態に直れ」
「はいっ!」
メフィストは、私を急かしてきた。くるりと回ってメフィストの方へ向く。
「そこにいる俺を見ろ。いいか、少しでも下手に動いたり、目を閉じたら、このナイフが即刻お前の首を切り裂く。せっかくの友達を殺人犯にしたくないだろう」
大人しく、指示に従うしかなかった。私のせいでミスったのに、 結局ここまで何もできなかった。 所詮私なんて、平凡な脳みそなのだ。やけくそで自己嫌悪していると、柔らかな重みが背中へと、掛かった。
その重みは洋子のものだと気づいた数瞬後、メフィストの目が開かれた。
その目線を逸らす間もなく、黒々とした瞳にすう、と吸い込まれる。 その能力、パニックオーダーには、抵抗すら出来ない。ただ目の前の教室は消えて、その黒い虚空へと落とされていく感覚だけがあった。
パニックオーダーに掛かる前に、もしかしたら抵抗することができるじゃないかという思い上がりも、この現実の前で粉々にされた。
こうして考えることも、段々とままならなくなっていく。力が抜けていって、意識がもたない...もうダメだ...
ピピピピピピ!
突然聞こえた、大音量の機械音が、虚空へと落ちている私の意識を急浮上させた。
目の前の視界は、さっきまでの校長室に戻っている。
考えるより先に、右手が動いた。
「精流魔!」
急ごしらえで構えた右手から、粘体を発射する。
練習の甲斐あったか、はたまた偶然か、見事にメフィストの目を覆うように着弾した。
「うっ!」
メフィストはうめき声を漏らした。必死に粘体をはがそうと、右目辺りをその右手で掴むと、そこも粘体によってくっついた。
「ぐっ...ううっ」
よし!ざまあない!これで、パニックオーダーを封じることができた。
思わず肩の力が抜けた。そうなると、さっきから鳴っている機械音が気になった。ピピピピと、まだけたたましく鳴り響いている。
その音が鳴っている足元を見ると、私がさっきまで左手に握っていた小さな卵型の物体が落ちていた。どうやら、ここから鳴っていたらしい。ようやく、その物体の正体を思い出した。
防犯ブザーだ。
あの場面で、どうして私がパニックオーダーから抜け出せたのか、その理由が、今ようやく分かった。
まず、私は左手で防犯ブザーを拾って、ずっと握りしめていた。たぶん、そこで中央にあるボタンに圧力が掛かって、押している状態がずっと維持されていたのだろう。そして、どうやらこの防犯ブザーは、ボタンが押された後に掛かっていた圧力が無くなったとき、ようやく鳴る仕組みだったらしい。つまり、私がパニックオーダーに掛かるまで、ずっと手のひらで、ボタンに圧力を掛けていたので、ブザーが鳴らなかったのだ。
そして、私が能力に引っかかって、力が抜けていったことで防犯ブザーを手放した。そのときになってようやく、そこに掛かっていた圧力が無くなってブザー音が鳴り響いたのだ。あまりにも突然で、予想外の出来事だったので、きっとメフィストもそのブザーが鳴り響く方向へと目線を向かわせたに違いない。
おそらく、そこに、私が付け入るスキができたということなのだろう。
まあ、ともかく、振り返ってみれば、完全に偶然のラッキーだったという訳だ。
でも、まあ、とにかく助かったし、最後に立っていたものが勝者なのだ。そう思いなおしていると、
「あっ」
背中に掛かっていた重みがずるりと下がる感覚があった。そうだ、さっきまでの戦いに集中してたけど、背中に洋子がいた。今、洋子は乗っ取られた後遺症で前後不覚の状態なのだ。そのまま床へとずり落ちそうになっているのを、振り向きつつ、後ろに手を回して洋子の身体を持ち上げてやる。
これで、よし。
そうして、再び前を向くと、
「なっ」
メフィストはいつの間にか、校長の机の上へと立っていた。アイマスクのように目元に被さっている水餅、そして右目部分にくっついた右手。そして、左手にはどこから取り出したのか小瓶をつまんでいた。その瓶の口は空いていて、その中身は空だ。
「ふふふふっ」
さっきと様子が大して変わらないはずなのに、悪寒が止まらなかった。
「みょ、妙な真似をしたら、今度は口に撃つよ!」
その脅しにも、メフィストは、意を介していないみたいで、挑発のようにその瓶を落とした。
ガラスの割れる耳障りな音が部屋にさむざむと鳴り響く。状況はあっちが圧倒的に不利なはずだ。にも関わらず、メフィストは口の右端が異常に吊り上がるあの独特の笑い方をした。
よく見ると、その顔が、いや全身がみるみると青白く変わっていっている。
私が、目を離した一瞬で、メフィストの身体に"何か"が起きた、らしい。
「俺は、ここからなんだ。この灰(アッシュ)で、俺の人生は...」
メフィストの空いた左手は、右手の上に横向きに据えられた。その左手の爪を、顔の目と耳の間あたりへと、がっ、と立てた。そして...
私は、何をするか察して、急いで目を閉じた。
「変わる」
直後、べべりっと、何かが剥がれる身の毛のよだつ音が聞こえた。
「どうした、なぜ目を閉じている...目を開けろ...沼田和代」
地獄から響いてくるようなうなり声が、闇の中響いた。見えてはいないけれど、メフィストがやったことは、こんな私でも推理できる。そう、メフィストはおそらく、その手で目元を覆っている表皮を水餅ごと剥がして、視界を確保したんだ。
「ならば、お前を気絶させて、乗っ取るとしよう」
私は、先にいるであろうメフィストに向かって、右手を構える。
「精流(すぺる)..ぐうっ!」
精流魔を放つ直前、私の右腕は、突然、ぐっと奥へと押し込まれた。メフィストの、おそらく左手が私の腕を掴んだらしい。
そのせいで、放った粘体の軌道は変わった。がっという音に、パリンと何かが割れる音が続いた。目をつぶっているから、分からないけれど、メフィストに当たっていないことは確かだ。
奴の左手が右腕から離れた。体勢を立て直そうとしていると、今度はその左手で首元をぐっと掴まれた。そして、そのまま物凄い力で締め上げてきた。
「きゅう」
喉の空気が急激に押し上げられて、変な声が出た。ほどこうと、両手でそのメフィストが掴んでいる手を離そうとするけれど、びくともしない。とても、最近病気が治ってきた病弱の身体とは思えないほどの力だった。
さっきの、灰(アッシュ)という言葉が頭をよぎる。
そう、そんな人間離れした芸当が出来るようになったのはあの小瓶に入っていた灰を飲んだことで、変わったんじゃないか。ふと、その考えがよぎった。
それも一瞬で、すぐさま苦痛と恐怖がやってきた。死ぬという感覚が、はっきりと迫ってくる。
骨のきしむ、こりっとした音が明瞭に体を伝う。それに耐えられなくなって、両足が痙攣し始めた。
メフィストが何か言っている。それも苦痛のせいで意味を成した言葉には聞こえない。
私の存在が、どんどん消えていく感覚がする...意識が...
意識を失う前に考えたことは、母親のことでも、ましてや洋子のことでもなくて、
あのシュミの悪い壺は、私が死んだら誰が弁償するのかな...
そんな、大したことないつまらないこと...
夜の海の底から、すーっと浮かび上がっていく。
それが錯覚か、もしくは夢だと気づくと、反射で目を開ける。赤いカーペットが見える。どうやら校長室の床に、伏していたらしい。
「い、いきてる...?」
がばっと起き直る。私がいる場所は、変わっていない。校長室の扉の前だ。
「ああ、目え覚めたか」
横から、声が聞こえた。声の聞こえたほうを見ると、
「新井田...!」
新井田がいた。そして...
「洋子!...と町田?」
洋子は、赤いカーペットにあおむけに倒れていた。その横には、町田が座っていた。その町田は、なぜか泣いていた。顔をぐずぐずにして、鼻をすすっている。あまりに町田のすかしたイメージとかけ離れていて、びっくりしていると、
「やーい町田あ。女の子に泣き顔見られちゃったねえ」
と新井田がにやけながら煽った。
「うるさいっ!」
町田はそっぽを向いた。
「ともかく何で二人はここに?」
私は困惑しつつ、思わず聞いていた。
「俺はお前らに会ったあの後、しばらく寝ちまってたみたいで。それでようやく起きてみたら、全然時間が経ってねえことに気付いてよ。だから、今だったら校長室で起こったことも分かるかも知れねえってことで、行ってみたら、ちょうど町田が出てきたんだ」
何て好奇心旺盛で、行動力があり余った奴なんだ。やっぱりあの時、一発殴っておくべきだった。
「その町田が泣きながら、中でたくさん人が倒れてるって、大騒ぎしててさ。それで、今ここにいる」
その町田は、倒れている洋子の方をじっと心配そうに見ていた。
「町田はどうして、ここに?」
「屋上にお前らがいなかったからだよ。まったく、心配させやがって。すごい焦ったんだぜ...それで、いざ探しにいったら、血まみれで人が死んでるし、こんな訳の分からん状況が広がってるしで...よく分かんなくなって...ホント、最悪だぜ」
町田はぐずりながらそう言った。どうやら、あの死体を見たことで平静が保てなくなったらしい。それでも、私達を探しに来てくれたのだ。
「えっと、それはごめん...」
私の謝罪に、一回町田は頷いて、それきり顔を伏せた。
そうだ、国城は、何処に行ってしまったんだろ?
私は、手がかりを探そうと、部屋を見渡す。
あれだけの事があったのに、あまり変わったところは見られなかった。ソファには、まだ先生たちが伏して寝ているし、机の上の鍵束も、カップが散乱しているのも、お茶がこぼれているのも...
いや、変わった所は確かにある。部屋の右側にあった壺が、木台から落ちて割れている。そして、その台から見て左斜め上の壁には、水餅が引っ付いていた。さっき、飛ばした水餅だ。その形は、左側が欠けている三日月形だった。
「そーいえば、そこの下にある奴。何なんだろうな」
新井田が、私の足元辺りを見て言った。
「わっ」
目線を下に向けると、ぎょっとした。 灯台下暗しとは、まさにこの事だ。そこには、男子生徒の学ランがばらばらに散らばっていた。そして、その周囲には、大量の灰色の粉がまき散らされている。その異様な有様は、まるで...まるで、人の身体だけが灰色の粉へと変わってしまったみたいじゃ....
ここで私は、察した。この灰色の粉は国城だったものなんだ。おそらく、あの灰(アッシュ)には、一時的に力を増強する作用があった。ただ、その力には代償があった。それでおそらく、身体が維持できなくなってしまい、灰色の粉となって溶けてしまう。そんなところだと見た。おそらく、そのおかげで、メフィストは私を殺し切れなかった、らしい。
だとしたら、"俺の人生はここから始まる"って言っていたのは何だったんだ。副作用に気付いてなかった?...分からない...
「うーん...」
洋子のくぐもった声が、聞こえた。そちらへ目を向けると、洋子がゆっくりと目を開けるところだった。
「あれ、町田さん...」
ぼうと洋子は、町田を見つめた。
「洋子!」
「大神!」
私と町田は思わず、叫んでいた。洋子は顔を私へと向けた。
「あっ。和代、無事だったんだ。良かったあ...」
今度は顔を町田へと向けた。
「町田さん、泣いてるの?」
「ああ、情けねえことにな」
洋子は左手で、町田の頬を触った。
「涙、ちょっと冷たいね」
「そんなこと、ないぜ」
そうして、しばらく洋子は目を細めて、町田なんかと見つめ合っていた。