放課後の日陰者たち   作:やまぐち

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ふたり

1.帰路

 

 放課後の惨劇、その翌日は事件の影響で午前中は休校となって、午後からの登校になった。授業の代わりに、事件説明のために、臨時の全校集会が開かれるらしい。

 午後から学校へ向かうなんて、珍しくて、なんだか不思議な感じがする。なんて、新鮮な登校風景を暢気に楽しんでいると、昨日の惨劇について取材している記者に寄られた。記者は、引っ付き虫みたいに、しつこくついて来て、私はそこからいちいち投げかけられる質問を、適当にいなしつつ進まなければならなかった。あんなセンセーショナルな事件があったから、仕方ないとは分かっていも、それでもうざったい。周りを見渡すと、同じような記者が、私達を待ち構えるかのように突っ立っている。まったく。これだから、マスメディアって奴は。記者の数は、通学路を進むにつれどんどん増えていき、校門前まで来ると、

「うわっ。すごい」

 その入り口は、物凄い人混みに塞がれてしまっていた。その人ごみから、TV収録用の録音マイクが、あちこちから、戦国時代の兵が槍を掲げるみたいに突き出されていた。

 そのマスメディアの海を、押し合いへし合いでかき分けて、ようやく、へとへとで校舎へと着いた。

 下駄箱に着くと、同じくへとへとになっている洋子がいた。校門前での洗礼を私と同じく受けてきたらしい。

「酷い目にあったね」

 私が、そう声を掛けると、

「うん とっても」

 と、洋子が返してくれた。

 なんだか、同じ困難を乗り切った戦友みたいな感じがしたので、洋子に向かって、グッジョブサインを突き出した。

 同じように、返しくれた。

 

 校長がいなくなったことで新たに副校長が取り仕切ることになった臨時の全校集会では、肝心かなめの昨日の事件についての話は、曖昧な説明をほんの少しされるだけになった。

 そのことについては、無理もないと思う。あんな惨劇をつつみ隠さず話すとしたら、どこからどう説明すればいいのか、私にもさっぱりだから。

 結局、事件について重要な部分は隠されて、犯人は校舎の外からやってきた不審者で、校内で暴れたあと、まんまと逃げおおせてしまった...そんなカバーストーリーになっていた。

 その話は、早々に切りあげられると、その後の大半は、メディア対応についての話に割かれた。

 その事務的で無機質な対応に、なんだかなあ、とわたしなんかは、ちょっとむかついたりして、でもそんなものかもしれない、とその場では、取り合えず自分を納得させるしかなかった。

 

 全校集会が終わると、私達はあわただしく元の教室へと返され、担任からメディア対応について、再三、口を酸っぱくして言われたあとは、そのまますぐ放課となった。

「よーこ、帰ろ」

 事件の余韻でまだざわめく教室の中、私はいつものように声を掛ける。

「えっと今日は、町田さんと帰るから、ごめん」

 すると、洋子から衝撃的な答えが返ってきた。

「町田と?」

 洋子は、曖昧に頷いて、焦ったように荷物をまとめると、

「あっ」

「町田さん先行ってるみたいだから。じゃあまた来週っ!」

 そそくさと、教室を去ってしまった。私は、洋子が出ていった扉のフレームの四角をしばらくぼんやりと、見つめるしかなかった。

 そっか...洋子と町田が...そうかあ。

「はあっ」

 ため息一つついてやる。教室にはまだたくさんの生徒が事件のことをあーでもない、こーでもないと言っている。私は、その中で、なぜか一人だけ、ぽつんと取り残されたような、そんな錯覚をした。

 

 ☆

 

「ごめん、待ったかな?」

「いいや、全然」

 洋子と町田は、待ち合わせに指定していた下駄箱前で落ち合った。

「よし、行こうぜ」

 そのまま、並んで歩いていくと、ほどなくして、校門まで、たどり着いた。

 が、

「ありゃ」

 その目の前には、人の海が、帰り道をふさいでいた。

「ったく。騒がしい奴らだ」

 登校時よりも、さらにマスメディアの関係者は増えていて、いまやまともに通り抜けるのは不可能になっていた。その浜辺で、洋子は怖気付いて、足を止めていた。

「このままだと、行けそうにないね...待つしかないのかな、でも...」

 洋子は前後をしきりに気にする素振りを見せた。

「いや、その必要はない」

 対して、町田はあくまで余裕でそう言って、

「えっわあっ!」

 なんと大胆に洋子の手を握った。

「よし。行くぞ」

 困惑する洋子を、町田はぐいっと引っ張って、その勢いのまま二人は、人海へと飛び込んだ。人込みを、町田は逆流を優雅に泳ぐ川魚のように、ぐんぐんと進んでいく。それは、流れを瞬時に読み、負担の少ない経路をすぐさま選択する思い切りの良さを、彼が持っているからこそ成せる、ささやかな技量だった。そのおかげで、二人は、大してもまれることなく、その混沌から脱することができた。

 そこから抜け出しても、まだ取材を諦めないのか、ハイエナのようにしつこく記者たちは追いすがる。

「やべっ。走るぞ」

 そのまま、二人は走る。正門がある通りを駆け抜け、そこから左角を曲がって大通りに出たところで、ようやく追手を振り切った。

「はあ...はあ...はあ」

 後ろで荒く息をしている洋子に対して、

「ははっ、どうだざまあない」

 前にいる町田はあくまで余裕そうに半笑いをしていた。

「あ、あの...手...」

 洋子は、上がっている息を抑えつつ、そう声を掛けた。

「おっ悪いな」

 町田は、後ろを振り返りつつ、今まで握っていた洋子の手をぱっと放した。

「顔赤いぜ。だいじょぶか?」

「いや、ぜんぜん、だいじょうぶ。急だったから、すごくびっくりしちゃっただけ...」

 洋子は、思わず顔を下に向けて、そう答える。

「あっ!それと。聞き終わったから、これ...はい」

 勢い込んで、カバンをおろすと、そこからCDケースを取り出して、町田に渡した。そのCDは、昨日、町田が貸していたものだった。

「おお、ずいぶん早いな。どうだった?」

 そのまま町田は、嬉しそうに受け取った。

「今回のも、とっても良かった。特にね、最初の...」

 そこから、二人は、CD曲の談義に花を咲かせた。大通りの車の騒音に邪魔されつつ、それでも二人は、楽しげに話す。上から差す陽光が、並木に遮られながら、二人をちらちらと照らす。

 それは、新芽のように若く瑞々しい、青春の一幕だった。

 

 やがて曲の話がひと段落すると、話題は何気ない日常へ、そしてそこから友達の話へと移っていった。

「...そうか。いつもは、沼田と一緒に帰ってるのか」

「うん。いつも帰り道が同じだし」

「今日の帰り道、俺の方を優先してもらって悪かったな。こういう時は、男たる俺が、大神の方の道を優先するってのが筋なんだが...」

「全然気にしなくていいよ!もともとは、帰ろうってこっちが無理やり提案したことだし...だから町田さんがそんな風に思う必要ないよ」

 そう洋子は、ぱたぱたと言葉を続ける。

「だけど、俺の家遠いんだよ。長く付き合わせるってのも悪いし」

「長いのは、別に、いやじゃないよ。だって、こうして、町田さんと話てるの楽しいから」

 後半の方は、ごにょごにょと口ごもりながら、洋子はそう言った。

「そりゃよかった」

 ふっと会話が途切れて、二人の間を天使が通り抜けた。そうなると、今まで、目立たなかった靴音が、良く聞こえるようになった。

「ねえ、町田さん。嘘ついたよね?」

 そのこそばゆい沈黙を先に破ったのは、洋子だった。

「家が遠くにあるって。本当は、もっと近くにあるよね?」

 洋子はその大きな垂れ目で、下から町田の目を覗き込むように見た。

「ん?そんなことないぜ。俺の家は、川向かいにあるんだ。だから登校が不便で...」

「嘘つき」

 洋子は唐突に、町田の言葉を遮った。そして、作り笑いをした。怖いくらいの満面の笑みだった。

 町田は、最初こそ少し困惑した表情をしていたが、すぐに、応えてやるように、にやり、と笑った。 そうすると、洋子は、なぜか、またいつもの困ったような表情に戻った。

 風で並木が揺れる。その音に紛れて、片方の靴音が止まった。

「あの...」

 足を止めたのは、洋子だった。

「ん?」

 それに、少し遅れて町田は気づいて、体をそちらに向けた。相変わらず、大通りでは車がせわしなく、すぱぱっと騒音をまき散らしながら通りすぎている。

 洋子は、俯いて、言葉を口の中で探しているうちに数秒経った。そして意を決したように、前を向いて、ついに口を開いた。

「町田さん。あなたが、本物のメフィストなんでしょ?」

「ああ、そうだ」

 

 

2.放課後の悪魔

 

 洋子は、しばらく、ぽかんと口を開けていた。

「あ、あっさり認めたね...」

 そして、少ししてようやく、それだけがようやく言えた。

「疑われた時点で、バレてるのとほぼ変わらねえだろ?」

 町田は、さっきのテンションのまま、悪びれもせず、淡々と述べた。

 そうして、手を振った。

「すまない。少しだけ、話させてくれ」

 その目線は、洋子の後ろにある、小さな建物の隙間に向けられている。

 洋子の額に、ひや汗が流れた。

「気づいてたの?」

「もちろん」

 メフィストはひょうひょうと言って、

「後ろのは、刑事さん?」

「うん。町田さんを逮捕しに来た」

「秋月と沼田は居ないんだな」

「危険だと思ったから、なるべく巻き込まないほうがいいかなって」

「ふうん」

 そして、町田は、横目で洋子を見ながら、

「せっかく、正体を暴いたんだし。ここはひとつ読者の皆様にも分かるように、名探偵による解決パートが必要なんじゃないか?」

 と、冗談交じりに宣った。

「ええっ...うーん」

 そこから洋子はしばらくうーん、あー、としばらく悩んでいた。すると町田は、

「別に、推理自体間違えてもいいからさ。何せ、俺自身がもう正体を明かしたんだからな。そんな気負わずに、茶飲み話ぐらいの気楽さでいいんだ」

 そう優しく気遣う風に言う。

「うーん...」

「俺はもう逮捕されるんだし、最後に聞いておきたいんだよ。ねえ、頼むぜ」

 町田は、顔を近づけて、懇願するような口調へと、変えて言った。

「わかったよ。わかったから...やってみる」

 それが効いたのか、はたまた、耐えきれなくなったか、ついに洋子は折れた。

「さっすが大神。期待してるぜ」

 と、それに対して町田は、なんだかよく分からない激励をした。

「よし、突っ立ってるのもなんだし。歩きながら頼むよ」

 町田が先に歩きだして、すこし遅れて洋子は続いた。少し前を行く彼は、大通りから脇道へと逸れる道を行く。

「うん、じゃあ、ええと...ごほん」

 洋子は小さな咳払いをして、

「 じゃ、じゃあはじめます」

 すう、と一息吸うと、下がった眉はまっすぐに、口元は硬く結ばれ、しまりある仏頂面へと変わった。

「そもそも、わたしが町田さんのことを疑い始めたのは、一昨日、樫本さんが亡くなったときからだったんだよ。そのときは、まだメフィストとしてじゃなくて、秘狂クラブのメンバーとして疑っていたんだけど...まずその話からするね」

 並木通りから外れて、そのまま住宅街へと入ったので、遮るものなく太陽が直接二人を焼いた。その灼熱の中、うねった迷路のような道を進んでいく。

「樫本さんが亡くなったとき、その全身は水餅で拘束されてた。そして、口にはチューブをくわえていて、左手まで垂らしていていて、その周囲には毒物が撒かれていた。その状況を見て秋月さんは、樫本さんが、まずマスターピースでチューブと毒物を左手に生成して、それを使って自殺したんじゃないか、ってそう結論づけたの。でも、わたしには、どうしても、その推理が間違っているような、そんな気がしてならなかった。だから、わたしはもう一度、あのときの状況を振り返ることにしたんだ。そこで、わたしは、秋月さんの推理に、3つの穴があるのを見つけたの」

 正面に、象牙色の巨大な鉄道高架橋が見えてきた。その壁のような橋台を横切る。そして、橋の上部がつくる淡い陰が二人を覆い、つかのまの避暑地となったが、それもすぐに通りすぎ、再び夏が降りかかってきた。

「 まず、ひとつ。あの状況だと、おそらく樫本さんはマスターピースを使えない。わたしは直接、マスターピースが発動しているところを見ていないから、これについては断言できないんだけど...秋月さんは、マスターピースの発動についてこんなことを言ってた...マスターピースを発動させるとき、まず最初に左てのひらを開いて上に向けると、そのてのひら上に灰色の球体が現れる。そこから、数秒経つと、今度はその球体が変化して、そこから自在に物体を生成してみせたって。そうだとすると、あのときの樫本さんは、左手で拳を握ったまま、水餅で拘束されていたから、ここで左のてのひらを開くなんてことは、出来ないはず。だとしたら、そこでマスターピースを使うことはできないんじゃないかな。

 ふたつ。チューブが不自然な濡れ方をしていたこと。樫本さんが、くわえていたチューブは、全体が濡れていた。けど、よく考えれば、それはおかしいと思うの。もし、秋月さんの推理通り、マスターピースでピンと張った状態のチューブを生成して、倒したとしたら、きっと水餅に触れている下部分だけが濡れるんじゃないかな。だから、チューブ全体が濡れるなんていうのは、考えにくいと思う。

 みっつ。チューブそのものにおかしい点があったこと。町田さんと新井田さんが来る前、わたし達は、マスターピースで生成したナイフを眺めていたんだけど、そこで、ナイフ自体が簡素で、余計な装飾がないことに気づいたの。だから、マスターピースで生成するものには、参考にする商品があって、そこからなるべく能力で作りやすいように、必要な部分を簡単な形にして生成してるんじゃないかって、そう考えたんだけど...だとしたら、あの樫本さんが咥えていたチューブに企業名が印字されているのはおかしいと思うの。だって、チューブとして使うだけなら、生成するときに、そんな手間を、わざわざかける必要ないもの」

 二人が横切っている公園から、聞こえてくる小学生たちの嬌声が届いた。

「この3つの穴は、どれも推論混じりの不完全な疑念。でも、どうしても見逃せなかった。だから、秋月さんの推理とは別に、この穴を埋められる方法があるんじゃないかってもう一度考えなおして、そして、思いついたの。樫本さんの自殺に協力者がいたとすれば、できるかもしれないって。協力者は、樫本さんが命を絶つ前に、そのそばへと近づいた。そして、協力者は、わたしたちを騙すために、3つの仕掛けを施したんだよ。

 ひとつ。協力者は、外から持ってきた透明なチューブを、地面とできるだけ水平になるように、水餅の中にすべて差し込んだ。なるべく真っすぐに、そして、一部が右手に触れるように。そう、このチューブに印字がしてあったのは、外部から持ち込んだからだったんだよ。そして、チューブは透明だったから、水餅の中にさえ入れてしまえば、そこに紛れてしまう。だから、わたし達が樫本さんに近づいたときも、よほど注意して見ない限り、チューブがあることなんて気づけないと思う。

 ふたつ。協力者は、持ってきた透明な毒物の粉を、左手周辺にばら撒いておく。これも透明だから、チューブと同じで、わたしたちは見つけることができなかった。

 みっつ。左手にばらまいたのと同じ種類の毒物を樫本さんの口の中に入れた。ここで直接毒物が加わると、たぶんすぐに効いてしまうと思うから、おそらくある程度タイミングを調整できるように、水溶紙なんかで包んだりしたんじゃないかな。

 そうして、協力者は仕込みを終えて、その場を去った。おそらく、この仕込みは、ほんの少しの時間で、出来たはず。そうして、そのあと、わたしたちが目を離した一瞬のすきに、樫本さんは、自殺を実行した。

 まず、樫本さんは右手に触れているチューブを、マジックサーカスの瞬間移動させる能力、あれで口の中から左手へと繋がるように、移動させた。右手のマジックサーカスなら、たとえ拳を握っていたままでも、対象にさわってさえいれば発動できたんだ。このとき、チューブは水餅の中から移動させられたから、それで全体が濡れていたんだよ。

 最後に、樫本さんは、事前に仕込んであった毒物を飲み込んで、自殺した。...この一連の偽装工作は、スムーズすぎるから、やったとしたら、たぶん初めてじゃなくて、きっと、和代の能力を知った上で、事前に打ち合わせをしていたんじゃないかな。

 そうして、この偽装工作で、わたしたちに、マスターピースを用いた自殺だと誤認させることで、協力者の存在を隠そうとした。そして、ここで唯一協力することができたのは、樫本さんを拘束した後から自殺を実行したときまでの間に、わたしたち以外に樫本さんへと接触した人物、つまり町田さんしかいないんだよ」

 その言葉の終わりで、丁度、信号に差し掛かった。信号の赤色に阻まれて、二人は止まった。そうして、洋子は、ふいに横の町田を見た。

「確かに、それならできるが...だが」

「決定的な証拠にはならなかった」

 洋子は、釘を打ち込むかのごとく鋭く、町田の言葉を継いだ。

「それでも、町田さんが、秘狂クラブのメンバーじゃないかと疑うには十分すぎる理由になったよ」

 目の前を通り過ぎる車が、その空間を押し出して、飛び出した風が二人の汗を押し流した。

「でも、そのすぐ後にこの考えをもう一度見直さなきゃいけない出来事が起こった...それは昨日、国城さんがメフィストを名乗って事件を起こしたことだった」

 信号は青に変わった。再び、歩み始めると、動き出したことで、空気に含まれた熱が、ふたりへ直接ぶつかった。

「わたし達は一週間前、秘狂クラブの人数を、田中さんからの情報で3人だと知ったの。でもそれだと...国城さんがメフィストだったことで、そのメンバーの構成は、樫本さん、校長先生、そして国城さんでちょうど3人になっちゃうから、そうなると町田さんは、その中に含まれてなかった、ということになるんだけど...それには納得できなかった。だから、もしかしたらこの数日のあいだに、新しいメンバーが加わったんじゃないかって、そう考えたの。そして、その可能性を裏付けるような話をわたしは和代経由で聞いていたんだ。そう、それは、岸本さんが、一昨日の夕方、屋上前の階段で偶然耳にした会話のことだった。岸本さんは、屋上で校長先生と国城さんが話しているのを陰から聞いていたの。

 その一連の流れはこうだった。まず国城さんが、屋上へ着くと、先にいた校長先生と、和やかに話し始めた。しばらくして、途中で校長先生が電話に出たことで、話は一度中断した。そして、校長先生が電話を切ったあと、なぜか二人の間の空気が、明らかに険悪になった。特に校長先生は、声を荒げて、マノンとバンディの死を嘆いていたみたい。

 以上を踏まえて、わたしが考えるに、ここで、校長先生が電話で知らされたのは、マノンとバンディの訃報、だったんじゃないかな。電話の後から、様子が変わったのも、きっと、そのせいなんだったんだよ。だとしたら、ここで一つ疑問が生まれるの。校長先生に、電話を掛けて、マノンとバンディの訃報を伝えたのは誰だろう?って。この時点だと、いくらなんでも一般人にその死が伝わるのは、早すぎる。だから、わたしは、もうひとりメンバーがいてそれを伝えたんじゃないか、って...そう思ったの。」

 再び住宅街へと入っていく。そうして真っすぐ進んでいくと、その雑多な平屋と、一線を画す高い柵が、左にあった。市民野球場だった。その濃い緑の壁に、二つの陰が焼き付くように、通り過ぎていった。

「そのもう一人が、町田さんだという決定的な証拠は、昨日の校長室に残されていたんだよ...まず、校長室のことでひとつ気になったのは、和代がそこに入ったとき内側から鍵を掛けていたのに、どうして、町田さんや新井田さんが駆け付けたときには開いていたのか、ってことだった。あのとき、部屋の中にいた和代とわたしは気絶していて、国城さんは消えてしまった。そして、扉を開けるための鍵は全て校長室の中にあった。そう、だとしたら、あのとき、わたし達以外に校長室に誰かが残っていて出ていったことになると思う。

 そして、それが誰なのかを示す痕跡が、校長室に残っていたの...それは、壁に張り付いた三日月形の水餅と、割れた壺、この2つ。このうち水餅の方は、和代が国城さんへと放とうとして、それが逸れたものだった。和代は、この水餅が、壺にぶつかったことで、台から落ちて割れたって考えていたんだけど...でも本当にそうなのかな?もし、水餅がちゃんと壺にぶつかったとしたら、きっと壁には、あんな三日月型に水餅が、張り付かないんじゃないかな...だとしたら、壺を割ったのは別の"何か"のはず。

 その"何か"の正体を明らかにする手がかりのひとつに、和代からの証言があったの。和代は壺が割れる"パリン"という音の直前、"ガッ"という鈍い音を聞いたって、確かそう言ってた。それから、もう一つの手がかり...それは壁に張り付いた水餅の形だった。それは三日月形をしていたんだけど、最初からその形だったわけじゃないと思うんだ。つまり、わたしが言いたいのは、その欠けた部分は壁以外の"何か"に付着した可能性があるってこと。そして、わたしは、確かにその欠けた部分を昨日、触っていた...そうだよね?町田さん」

 やがて住宅街は途切れて、巨大なマンション群が前へと広がっていた。その群は、まるでティラミスを重ねたかのように、黒茶の段々色の層を形成している。そして、そのマンションは日照権の配慮として、階層が上に行くほど部屋数は少なくなっていく構造を取っていた。まるで、分別の付かない子供が積み木で作ったオブジェとしか思えないような、そんな巨大な山が二人へと立ちふさがった。

 だから二人は、一旦、迂回するため左へと曲がった。しばらく進むと、その右側の群間に、頼りない隙間の細道があった。その暗い谷のような隙間へと、二人は足を踏み入れていった。

「 事件が終わって、わたしが目を覚ましたとき、町田さんは泣いていたでしょう?だから、わたしは、涙をぬぐってあげようと思って、町田さんのほっぺたを触った...その感触は、涙にしては冷たくて、そしてぬめってた。そう、欠けた水餅は、町田さんのほっぺたにあったんだよ。だとしたら、町田さんは、あの事件の最中に、校長室にいたことになるんじゃないかな。あのとき...校長室で何が起きたのか、再現すると、こうなると思うの」

 細道に入ると、太陽は側面のマンションに遮られ、うすくらくなり、彩度が落ちたように見えた。じめりとした冷気が肌表面にまとわりつく。地面のコンクリートは黒々と濡れていて、その隙間からは、深緑の苔が血管のように奔っていた。

「まず、和代は、国城さんの視界が戻ったことに気づいてまぶたを閉じた。そのとき、町田さんは、和代に見つからないように、きっと掃除用具ロッカーの中へ隠れていたんだと思う。そうして、和代が目を閉じた隙に、町田さんはロッカーから出て、校長室の外へ逃げようとした。でも、そこで和代が目をつぶったまま放った水餅は、国城さんに軌道を逸らされたこともあって、その一部が、町田さんのほっぺたに当たってしまった。町田さんは、それに戸惑って、よろめいて...そのまま、壺が載っていた台にぶつかってしまった。その衝撃で、台上にあった壺が落ちて割れてしまった。だから、和代には、町田さんが台に当たった、がっという音と、壺が割れるパリンという音が聞こえてきたんだ。そして、その水餅は町田さんのほっぺたに吸着したから、そのまま取ることもできなかったんだ。そのせいもあって、町田さんが部屋を出るのは、少し遅れてしまった。だから、そのあいだに、和代は気絶して、国城さんも、おそらく飲んだ灰の副作用で消えてしまった。そんなこともあってようやく、町田さんは内側から扉を開錠して、部屋を出た。そのとき、ちょうど校長室に戻ってきていた、新井田さんと鉢合わせしてしまった。そこで、町田さんは機転を利かせて、噓泣きで水餅を隠した。そう、水餅の透明なぬめりを、涙で濡れた頬に見せかけたんだよ。そうして、町田さんは新井田さんと一緒に、何も知らない振りをしながら、わたしたちが目覚めるのを待った...こんなところだったんじゃないかな」

 マンションの渓谷を通りすぎると、そこには、今通ってきた場所とは、対照的な広々とした空間がひらけていた。どうやら、そこは、市民広場らしい。芝生が、日差しにしおれたのか、はたまた空気が悪いのか、黄緑色の不健康な色で出迎えた。二人は、無遠慮にしゃくしゃくとそこを踏みしめて、進んでいく。すると、前にはまた住宅街が広がっていた。再び、二人はその迷路へと足を踏み入れる。

「そうなると、町田さんは、どうやって部屋に入ったのかな...校長室の扉はおそらく国城さんが鍵を掛けていたし、その鍵自体も、和代が部屋に入るときまでは、取り出せないようにダイヤル式のロッカーで管理されていた。つまり、事件の最中、校長室に入るには、中にいた国城さんに扉を開けてもらう必要があったんだよ。そして、そのとき、校長室に入れるなんて、それだけの判断をできる相手は、同じ秘狂クラブのメンバーじゃないとあり得ないんじゃないかな。そう、だから、町田さんが事件のあのときあの中にいたということは、そのメンバーであるということを示しているほかならないんだ」

 迷路のようなその住宅地は、まだ続いている。その平屋の隙間から、時折、灰色の給水塔の先端が、見え隠れした。

「そこで、もう一つ気になることがあるの。町田さんはどうして部屋にわざわざ残ったのかな?わたしは、国城さんが灰(アッシュ)をちゃんと飲み込んだかを、その目で確認したかったから、って考えた。今まで、メンバーに手を下していたのは、町田さんなんだよね?それは、たぶん、警察に捕まったメンバーが情報を流してしまうのを防ぐための行為だったって考えているんだけど...だから、国城さんが、しくじったときに、町田さんは自らの手で始末する必要があった。

 町田さんは、アッシュの副作用を知ってたんだよ。でも、国城さんはそこまで知らされてなかった。そうじゃなきゃ、灰を飲んだ後に、"自分の人生はこれから始まる"なんて、前向きなこと言わないもの。たぶん、町田さんは、灰(アッシュ)のことを、ただの増強剤程度にしか、国城さんには伝えていなかったんじゃないかな。だから、国城さんは、何も知らないまま、あの局面で灰(アッシュ)を飲んで、消えてしまった。そして、町田さんは、それをちゃんと飲んだことを確認してから、校長室を出ようとしたんだと思う」

 住宅街はようやく途切れて、片側二車線ほどの大通りの正面に出た。丁度その通りの信号が青だったので、二人はそのまま渡って、大通りの左に沿って歩く。

 そうすると、道の街路樹が織りなす陰と光のコントラストが二人を覆った。

 右手には、深く掘り下げられたコンクリートの水路が、並行して存在していて、その底には、浅い水がゆっくりと流れていた。

 この水路の存在は、街の南を流れる巨大河川である玉川がもう近いことを示していた。

「ここまで考えてみると、わたしには、どうしても国城さんのことがメフィストだとは思えないんだよ。それに、国城さんがメフィストではないと思う根拠は、これだけじゃなくて...ほかにもあるの。

 そもそも、わたしたちが、国城さんをメフィストだと誤認することになったのは、彼自身がわたしと和代の前でそう名乗ったからだった。 でも、それは、田中さんが言っていた"メフィストは自分の偽名(コードネーム)を好いてなかった"って話からすると、不自然なんだよ。坂田さんの独白でも、メフィストは自分のことをただ"悪魔"と称してただけだったし。

 でも、国城さんは、はっきりと自分がメフィストだと名乗った。それに名乗り方にも、いま考えると違和感があった。国城さんは、"俺こそがメフィストだ"って、そう名乗ったんだけど"俺こそ"って言うのは、まるで自分がメフィストという称号を、後から手に入れたみたいな言い方だった。普通なら"俺が"、もしくは、"俺は"ってなるはずだよ」

 大通り沿いの道から、右横の水路のある方へと伸びている小道にそれる。そして、その水路を横切る小さな橋を渡る。その薄い水面が、夏の陽光を強く反射して、そこも太陽へと変わっていた。その下からの光が安っぽいスポットライトのように、二人を薄く照らす。

「だから、きっと、国城さんは、町田さんが用意した"メフィスト"の影武者だったんじゃないかな。それで、本物の代わりに、メフィストを名乗って事件を起こした。そして、町田さんは、灰(アッシュ)の情報の一部を伝えずに、国城さん自身がそれを飲むように仕向けた。その思惑どおり、国城さんは灰(アッシュ)を飲んで、消えてしまった...それは、メフィストが死んだと、わたしたちを誤解させるためだったんだよ」

 渡り終えると、やがて、目の前に公園が見えてきた。公園には、二つ入り口があって、こちら側にひとつ、もう一つは反対にあって、川沿い土手の遊歩道へと繋がっていた。ここからだと、その川の鉛青色は見えず、河川敷土手の緑色がわずかに端っこに見えるだけとなっている。

「これで推理はおしまい」

 その公園の入口へと差し掛かったそのタイミングで、洋子は推理の終着を告げた。

 ぱん、ぱん、ぱん、とその幕引きを乾いた拍手が迎えた。 

 一足先に公園へ入っていた、町田だった。

「すごく良い推理だった。ただ、最後の部分、俺が国城のことを影武者として利用してたってのは違うぜ」

 その公園の真ん中で、町田は、出していた手をポケットに突っ込みながらそう言った。

「えっ」

「俺は、特に国城には、指示していないんだ。奴が勝手にメフィストって名乗って事件を起こしただけだ」

「じゃあ、どうして...」

「国城はメフィストに憧れていた。ただ、それだけだ」

 突風が吹いて、二人の汗がたらたらと流れて、白い砂に平衡に点線を作った。そして、二人の間に沈黙が降りた。

「ふう」

 その隙をつくように、洋子が一息つく。その顔は、緊張が解けたのか、眉が下がった元の表情に戻っていた。

「お疲れ。わざわざ、俺のわがままに付き合ってくれてありがとう。感謝するよ」

 いつの間にか、町田は、公園内にある自動販売機まで移動していたらしく、そこから彼女の方を見やっていた。そうして五百円玉をでひとさし指で、ぴん、とはじいて自販機に入れると、缶ジュースの下のボタンを3回押した。そうして、かがんで、その下部の出口に落ちてきた3つの缶を取り出した。

「これは、ほんの気持ちだ」

 そうして、手に持っていた缶ジュースを、洋子に向かって投げ渡した。

「あなたも、どうぞ」

 そうして、後ろにある木陰に向かってもひとつ投げた。その木の後ろから、手だけがにゅっと伸びて、ぱしっと受け取った。

 洋子は、缶ジュースを受け取ったあとも、固まったように持ち続けていた。難しい顔をしながら、じっと、それを見つめている。

「毒なんか入ってないぜ」

「...っ。ありがとう....」

 洋子は、思い出したように礼をして、そのまま勢いこんで、缶を口に当てると、こきゅこきゅと喉を鳴らして、ジュースを飲んだ。

「ぷはっ...」

「良い飲みっぷりだね」

 と言っている町田の方は、いつの間にか、洋子より早く一気に飲み切ってしまっている。そこから、唐突に缶を上へ投げると、それをゴミ箱目掛けて蹴った。

 缶は綺麗に放物線を描き、ゴミ箱へとすっぽり入った。

「よし」

 その間に、ジュース飲み切った洋子は、しばらく缶とゴミ箱を見比べていたが、意を決した顔になって、

「えいっ」

 と、缶を蹴った。缶は、へなちょこな軌道で、ふらっと不安定に揺らいで、大きくゴミ箱からそれた。

「ああっ~~」

 洋子は、慌てて缶を拾いにいって、それをゴミ箱まで持っていくと、ぽとっ、と力なくその中へと落とした。

 その一連のコミカルな動きを、町田は木陰下のベンチに座って眺めていた。その隣に、缶蹴りの失敗でしょんぼりとした洋子も腰を下ろした。

「町田さんはどうして、こんな事をしたの?」

 隣に座ると、洋子は顔を少ししかめて尋ねた。

「たまにむしゃくしゃして、何か蹴り飛ばしたくなるだろ。缶蹴りって奴は、妙な魅力があって..」

「そうじゃなくって。どうして、灰(アッシュ)をばらまいたり、秘狂クラブを作ったりしたかってこと」

 町田は、ああ、と納得したような顔になって、

「やれることを、やるだけやってみようと思ったんだ......そして、やってやった」

 そう、簡潔にさらりと答えた。

「わたしは、町田さんに怒っているんだよ」

 洋子は、真剣な仏頂面になって、そう言った。

「町田さんが何をしたか、もちろんすべて、はっきりと、しってるわけじゃないけれど、無責任に、不必要に、たくさんの人を弄んだってことはわかるよ。それは、わたしがはっきりと、この目で見たもの。わたしの友達や、伏見さん、それだけじゃない、そう、坂田さんや雲母さん、それに秘狂クラブの人たちだって、みんな...」

 そこから先の言葉は、小さく握りしめている拳へと姿を変えたようだった。その仏頂面がさらに変わって、眉が持ち上がった。洋子は、その顔をそのまま横の町田へと向けた。

「国城さんが、言っていた灰(アッシュ)。あれは、いまも持っているの?」

「半分は、俺が持っている。そしてもう半分は、しかるべき、本来の持ち主に返した。」

「本来の持ち主って...」

 と、急ぎこんで聞いた洋子に、

「そうだ、今度は、こっちからもいいか?」

 町田は、ほんのわずかな彼女の言葉の隙間に、質問を差し込んだ。

「な、なんでしょう」

 不意を突かれた洋子は、そこで思い切り躓いて、すっかりどぎまぎしてしまった。眉も、いつもの不安そうな、ハの字へと戻ってしまっている。

「ひとつだけさっきの推理で、腑に落ちない点があるんだ。大神は、リース...いや校長にかかってきた電話で、クラブにさらにもうひとりいることを突き止めた、そう言ってたよな。だとしたらその人数は、ひとりだけじゃない...二人以上いた可能性ももちろん考えられるはずだ。なのに、どうして、大神はひとりだけだと決めつけたんだ?」

「それは、なんとなくで...突拍子もないただのカンって言うか、なんていえばいいんだろう...」

 洋子は、ごにょごにょと言ったあと、意を決したように言ったかと思うと、

「あのっ!メフィスト、いや、えっと町田さんの本当の目的って、秘狂クラブを壊すこと、だったんじゃないかなって...そう思って」

 突然、洋子は弾かれたように声を上げると、そこから、土砂崩れのごとき勢いで、言葉を重ねた。

「本当に私たちが邪魔だったらもっと簡単な方法で出来ただろうし、わざわざ、自分で立ち上げたはずの伏間殿を自壊させてしまったから...えっと、だからきっと、それで、ひとりだけかなって...ごめん、全然理屈になってないよね」

 喋る内に、言葉は絡まった糸のようにこんがらがって、とうとう最後には、洋子はうつむいてしまった。それに対して、町田はあくまでそれを真剣に、受け取ったようだった。しばらく思慮に沈んだような表情になっていたが、やがて、

「なるほど。考えてもみなかったが、そうかもしれないな」

 と、ぽっかり結論を出した。

「壊す、か...うん、うん」

 その目の焦点は、はるか遠くに当てられて、言葉を口の中で確かめるように、転がした。

「町田さん?」

 その異様な様子に洋子が戸惑ってると、

「ありがとう。やっぱり、大神と話せて良かったよ」

 と、町田は唐突に、感謝で返した。

「ど、どういたしまして?」

「よし、そろそろ行くか」

 困惑する洋子に、町田は切り替えるように言って、椅子から立つと、しっかりとした歩調で、歩き始めた。

「どこに?」

 慌てて、洋子のほうも席を立った。

「この長い帰り道の終点だよ」

 町田は、首だけを振り向かせてそう言った。歩き進めて、公園を、来たときとは反対側の河川敷方面へと抜けてそのまま川沿いの土手へと出た。そこを、左に曲がって進む。右には、手前に土手と地続きに川原の緑が広がり、そしてその先を巨大河川である玉川が、ぐったりと流れていた。ふたりは示し合わせたかのように、しばらくの間、一片の言葉も交わさず、歩いた。やがて、ふたりはその河川の両岸を繋ぐ巨大な橋へと差し掛かった。

 町田は、その橋へと迷いなく進むと、その丁度四分ほど歩いたところで足を止めた。そして、傍らの欄干へと、前から体を預けた。その町田の目線は、川の上流、いや、そのさらに先をじっと見据えていた。

 洋子もつられて、その右横で、同じようにした。

 そこから見える風景は、街のただ中にひらけた、ある種の壮大さを感じさせるパノラマだった。巨大な川が、真ん中に大きく走り、川原の緑や白、黄色の自然色がその枠線となって、追従している。そうなると、その両脇に広がっている街、そこを構成する建物や車は、中心を走る河川に比べて、はるかに小さく、ミニチュアのように、ひどく虚構めいている。 この町の中心であるビルもここからだと、小さな銀塊のようで、それも夏のうだった空気で歪んで、蜃気楼のようになっていた。

「俺、この川が好きなんだ。街と交わらない異物って感じがしてね。そう、ここには、どうにもならない、いびつさってがあるんだ...それは、俺とか、他の奴らも、似たようなものかもしれないって、変に同情できてくるんだ」

町田はふいに、そう喋った。その言葉には、洋子からの同意や否定の返答もなく、ただ、宙ぶらりんにその場に少し残り、やがて夏の熱風によってかき消えた。後ろから不規則に、車の通るシャーっという音が流れる。

「町田さん」

 しばらくして、洋子から声が掛かった。

「ん?」

「町田さんは、さっき腑に落ちない点があるって聞いてきたけど、わたしも、一つあるんだけど。いい?」

「ああ」

 互いに、顔も合わせないまま会話が続く。

「町田さんは、わたしがほっぺたを触ったとき水餅に触れたって、気づいてたよね」

「うん」

「なのに、どうして逃げなかったの?」

「背中を見せれば男がすたるだろ?」

 町田は道化じみた声色でそう言った。

「...その理由も、きっと、嘘なんだよね」

「もちろん」

「嘘つき」

 今度は、優しい声で、洋子はそう言った。 もともと下がり気味の眉が、一段と下がった。

 また、沈黙が降りた。そこから五分ほどがたった頃、

「まっそろそろ、行くぜ。刑事さんを、これ以上待たせるのも酷だしな」

 ようやく町田は、そう口を開いた。そうして、橋から去ろうと、ポケットに手を突っ込んで、足を数歩踏み出した。

「あ、あの、最後にひとつだけ」

 その背後から洋子の声が掛かった。

「何だ?」

 町田は、足を止めて、振り向く。

「メフィストって名前どうして嫌いなの?」

 町田は、それを聞くと、一瞬だけ、目を丸くしてしてから、

「何聞かれると思ったらそんなことかあ」

 と、答えてから、滔々と語り始めた。

「メフィストって名前は、死んだフィッシュ、いや斎藤がつけてくれたんだ。ちょうど、伏間殿の虐殺が終わった頃かな...そこから、しばらくは気に入ってこの偽名を使ってたんだが...あるとき、言われたんだ。メフィストは敗北者の名前だ、って。そいつが言うには、悪魔メフィストフェレスは、ファウスト博士の魂を簒奪するため賭けを持ち掛けて、それに勝ったにも関わらず、最終的には、神の手によって邪魔されて、みすみす魂を逃した...だから所詮、メフィストフェレスは神様の掌で踊る哀れな被造物でしかない、ってそう、ね。俺は、そのときまで、メフィストが悪魔だってことぐらいしか、知らなかったもんだから、その話を聞いて、なんつーかショックだったんだ...まっ、ただ、それだけだ。くだらないだろ?」

 そう、メフィストはせかせか言い切ると、くるりと背を向けて、歩きだそうとした。

「待って」

 その背中に再び、洋子の言葉が掛かった。

「何だ?」

 町田は、今度は、首だけを後ろ斜めに向けた。

「その名前のことで、ちょっと」

 訝しげな表情をする町田に、洋子は遠慮がちに話始めた。

「確か、そのメフィストの話って、ゲーテのファウストの話だと思う。でも...他の伝承ではメフィストはちゃんとファウストから魂を取って、地獄へと連れ去ってるんだよ」

「へえ」

「だから、その...そんなに名前のことで気にすることないんじゃないかな」

「はははっ」

 町田は、それを聞くと声をあげて、おかしそうに笑った。

「どうして笑ったの?」

 不思議そうに、洋子は首をかしげた。

「わざわざそんなこと言うために、呼び止めたのかよ」

「そうだけど」

 洋子の顔に、少しだけ不満そうな色が浮かんだ。

「いや、そうだな。笑ったのは悪かった」

 町田はそう、とりなした。そして、ふと、何かに気づいたのか横の川岸へと目線を移すと、

「おっと。どうやら、迎えが来たようだ」

「それって、どういう...」

「また会おう」

 町田は、そのとき、とびきり、にやりと笑った。

 その数瞬後、突然に、突き上げる衝撃と爆音が橋の上から広がった。それは、ある種の架空の化け物の咆哮のようなうなりを伴って、街へと反射した。

「わっ...!」

 二人がいた歩道の一角は、ばらばらの瓦礫となって、崩れ落ち始めていた。

「ひゃああああっ!」

 橋の裏にいつの間にか仕掛けられていた爆弾が、今、悪魔の手によって作動したのだ。

 足場を失い宙へと、二人は放り出された。爆発の衝撃で、洋子の小さな体は、中空で半回転して、真っ逆さまに、墜ちていく...

 水面に落ちるまでの、その刹那、洋子の目に、さかさまの風景が次々に飛び込んできた。遠くにある街の中心のビル街、灰色の給水塔、そして河川敷の緑とその土手の上、そこには...

「かずよ?」

 

3.愚者

 

 一人きりの帰り道、私は不満に頭を煮詰めていた。

 もちろん、洋子と町田についてのあれこれだ。むくむくと頭の中を覆い始めたその考えに、夏の暑さのせいも相まって、知恵熱でも起こしてしまいそうだった。そのことをずっと、ウンウン悩んでいたけれど、家の前についたときについにそのむしゃくしゃは爆発した。そして、私はついに行動を開始することにした。

 ええい...そのまま来た道を引き返して、いつも洋子と帰るとき、別れる道まで戻ってみる。そうしてから、洋子の家までの道を辿ってみた。引き返しても、洋子の姿は見えない。そのまま、歩いていくとついには、洋子の家まで着いてしまった。洋子の家は私のとこと違って立派な庭もついたちゃんとした一軒家だ。何度か見ているその家の柵越しに、背伸びして覗き込んで、洋子がいるか確認してみる。分からないけれど、たぶん、いやきっといないだろう、そうだろうと、思いこむと、私はその通ってきた道へと引き返して、今度は、学校へと向かった。そう、確か、町田の家は、私達とは反対だった。もしかしたら、そっちに行った可能性もあるかも、と思ってのことだった。

 こんな日に限って、うなるような暑さがする。汗が顔の前面をなじるように、撫で下した。今、私はとんでもなく馬鹿な事をやっている気がする。でも今更止まる気はさらさらなかった。学校の正門がある道路へと差し掛かると、その校門前には、帰りのときと変わらず、まだ記者たちがたむろしていたので、しょうがなく、迂回して、反対の町田の通学路を辿ることにした。

 と言っても、私は町田の家を知らないから、想像で補いながら進むしかない。最初の方は、どの道を通りそうか憶測混じりとはいえちゃんと考えていたのだけど、暑さのせいで、そして何より徒労感で頭は鈍って、途中からはもうやけくそで道を選んで、そして...

「ははは...」

 いつしか街の最南端である、玉川への河川敷に出ていた。

「ホント、バカみたい」

 そのまま、なし崩しにその土手を歩くことにした。右横にある、玉川は私の無茶苦茶さとは別に、今日もいつものように、ゆったりと流れていた。

 そんな風に見ていると、いつしか、つん、とくる感傷に襲われて、あわてて私は目をそらして、そして、なぜだか情けなくなって思わずその場にうずくまった。

「はあ、何やってんだろ。私」

 口に出せば、本当にそうだとしか言えない。そもそも洋子たちに合ってどうするつもりだったんだ、私は、何をするつもりだったんだ。

 唐突に、"結婚式の会場に乱入して、花嫁を奪い去る"あのベタすぎる情景が、頭をよぎった。それが、浮かんだあと、急いで、頭の中のそのイメージを、消し去ろうとしても、ガツンと殴られた後みたいに、じん、と焼き付いてしまった。

 違う。そんなんじゃ。そんなんじゃない。

 そうだ。

 そう、これは子供っぽいやきもちなんだ。おもちゃを取られて、いじけてるみたいな、そんな、ほんとに...

「はぁっ」

 考えれば考えると、自分がますます情けなくなった。このままだと、泣きそうな気がしてきたので、力を込めてぐっと立ち上がる。そこから、むしゃくしゃした衝動に身を任せて、歩くことにした。そう、こうなったら、ここまで来たのなら、歩き倒してやる。そんな行き場のない自業自得の怒りを、今にも羞恥で倒れてしまいそうな弱さを、消してしまうには、それがいいはずなんだ。

 そうやって無理きり言い聞かせて、土手の上を一歩一歩意識的に歩いていくと、やがて川の両岸を繋ぐ大きな橋が見えてきた。 橋の上には、淡い緑色のアーチが大きな弧を描いて架かっている。

 気持ちが不安定だからか、なんだか何の変哲もないはずのその橋も、いつもより、美しく見えた。

 その橋をぼんやり眺めていると、

「うん?」

 その橋上の真ん中に、見慣れた背の小さなシルエットが見えた。

「洋子...!?」

 ここからだと、本当に小さいけど、間違いない、洋子だ!

 でも、どうして、こんなところに...と疑問が沸きでてきた、その瞬間。

 目を疑う光景が、網膜に焼き付いた。

 「へ?」

 数瞬遅れて、私の鼓膜を爆発音が震わせる。続けて、こおおおっという残響が耳に届いた。その確かな音が、今見たものが、見間違いなんかじゃなくて、何より現実だと、教えてくれた。

 橋が、いきなり爆ぜて、そしてそのちょうど上には...

「ようこっ!」

 固まっていた私を、パニックがほぐす。そのままの勢いで私は走り出した。目先に見える橋が、すごく遠くに感じる。はしっても、はしっても、こんなに急いでいるのに、橋には全然近づかない。

 橋の方を見ると、思ってたよりも損壊は少ないみたいで、ちょうど洋子がいた辺りの歩道だけが崩れたらしい。その周りの道路や河川敷には、野次馬らしい人たちが集まり始めていた。

 それなのに、誰一人として、川へ入って助けようとする人はいない。

 ふざけんなよ。

 そのことにカリカリ腹を立ててる間に、ようやく、私は橋にまで着いた。

 その川岸には、洋子の姿は見えない。

 私は、息が浅くなって、体の芯が冷たくなるのがはっきりわかる。

 川の方にも目を向ける。けれど、そこにも洋子らしき姿は見当たらない。

 もしかして、流されて、もっと下流にいった?それなら、早くいかなきゃ。

 そうして橋から離れようとしたとき、ここから一番近い川中の橋脚。その根元に、白い塊のようなものが浮かんでいたのが見えた。

 すぐにわかった。あれは、うちの制服のシャツで、あれは...洋子だ!

 私は、バッグを放り投げて、すぐさま川に飛び込んだ。夏にも関わらず、気持ちいいぐらい川の水は冷たい。周りから聞こえる、どよめきや叫び声は現実味がなくなって、それよりも、はっきりとした水音が私を包む。そのまま、だばだばと水を飛ばしながら、私は洋子の方へと進み始めた。

 橋脚までの距離は15mもないはず。それでも、半分を超えた辺りに入ると、川の流れに、身体を持っていかれそうになった。

「水餅」

 だから、私は、足先から水餅をまとわせ、それを吸盤のように水底へと吸い付けながら進んだ。

 そうして、やっとのことで、洋子のところまで、辿り着く。

 洋子はどうやらうつ伏せで、身体を弓なりに反らした体勢になっているらしく、それで背中の部分の白い制服だけが見えていたようだ。

 私は、急いで、その身体を抱き起そうと、彼女に触れた。

 確かなぬくもりが手に伝わった。

 ちゃんと生きてる。

 そのことに、腰が抜けそうなほどの安堵が身体を駆け巡って、全身から力が抜けそうになった。それをどうにか必死に抑えつつ、体勢を立て直してやろうと、私は洋子の両肩を掴んで、自分と向き合うような姿勢にしてやる。

 洋子の顔が正面に来た。目を閉じていて、まるで眠っているみたいだ。

「洋子!聞こえるっ?」

 私が直に呼びかけても、返事はない。その肩を必死に揺らしてみたけれど、洋子の意識はいぜん戻らない。その首がぐったりと揺れる。

「洋子!洋子!」

 大丈夫。体温はちゃんとあるからたぶん、気絶しただけ、水の上に落ちたし...いやでもあんな高さから、落ちたら...頭をぶつけて、そのまま...なんてこともある、かもしれない。

 ともかく、安全なところまで運ばないと。

 そうして、洋子を引き寄せようとしたけれど、何かに引っかかっている感覚に阻まれて、上手くいかない。下を見ると、洋子の右足が、水中に沈んでいる流木に引っかかっていた。どうやら、運よく、これに引っかかったようで、流されずに済んだらしい。私は、左足で、その流木を蹴って、洋子の足から外してやった。

 洋子を離れないように、私の身体の前に引き寄せる。それから、私の身体全体に水餅をまとわせて、それを、洋子へと吸着させた。

 これで離れないはず。

 私は、洋子を抱きかかえる形で、川岸へと戻る。その途中、洋子の長い髪が私の指の間を、通り抜ける。その感覚が、なんだかくすぐったかった。川は変わらず冷たいけど、行きのときと違って、洋子がいるから、温かい。そのぬくもりが、まるで絶海に浮かぶ灯台の明かりのように、私の周りを包んだ。それでも、なんだか不安になって、その小さな身体を確かめるように、もっとぎゅっと抱きしめた。そうすると、その分だけのぬくもりが、十分に私に伝わった。その感覚にほっとして、安心を取り戻しながら、私は行きのときよりも、丁寧に、それでいて足早に、川の中を進んでいった。

 そうして、ついに、川岸へと戻ることができた。周りの野次馬から、安堵の声やら、歓声やらが聞こえてきた。俗な人間である私には、悔しいけどやっぱりそれが嬉しかった。

 両手を岸にあるコンクリートに掛けて、そのまま水餅で前にくっつけている洋子ごと、川岸へと上がった。そこから、洋子の身体を支えながら、川原の草地まで運ぶ。

 風が吹いて、私達から、水滴がぽたぽたと、垂れ落ちていく。

 芝生まで着くと、洋子にくっつけてた水餅を解除して、ゆっくりとその身体を横たわらせた。

 まだ目覚めない洋子の隣に、私は座って、その顔を、覗き込む。洋子は、びしょ濡れで、その長い髪が顔に柳のようにかかっていた。その姿は、何故だか水死体を連想させて、私を落ち着かなくさせる。

「洋子!...ねえ洋子!」

 私は、不安になって、もう一度、すがるように、彼女の名前呼びかけた。

 すると、

「うう...」

 と、洋子は小さくうめくと、

「あっ」

 まぶたをぎゅっと閉じて、それからゆっくりと目を開いた。

「よーこ...」

「かずよ」

 洋子がまだ弱弱しくはあるものの、私の名前を呼んでくれた。私の顔から、水滴が垂れて、洋子に落ちた。

「泣いてるの?」

「違う」

 意地張っていないと、倒れてしまいそうな私は、どうしても、それでも、そうとしか言えない。特に...目の前のたった一人の友達の前じゃ。

「違う、そんなこと」

 ない、と言おうとして、喉がぐっと、つかえった。

 洋子は、左手で、私の頬を撫でた。

「やっぱり、泣いてるよ」

 そして、洋子は目をやさしくつむって、言った。

「だって、とっても...あったかいもの」

 

 

 

 

 

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