Chapter1-残陰物-
0.プロローグ-塔の上で-
ぬるい風が全身を撫でる。前までの私なら、今日の夜のような暑さをごまかしてくれる、この風の存在に感謝したのだろうか。
いや、こんな大事なときなのに、何を考えているんだ私。
我に返って、自分がしていることへと、意識を戻した。
私は塔の上で、洋子に覆いかぶさっていた。
そして、私は今...洋子の首を両手で絞めていた。
「和代...しっかりして...」
私の下で、洋子がかすれた声で名前を呼ぶ。 洋子の特徴的な下がり眉が、いつにも増して、下がっているような気がする。彼女の、たれ目が、潤んだ瞳で私を見つめている。
私はここで洋子を、殺してしまわないと、いけないのだ。いけないのだ...なぜだかそのフレーズが頭の中で何回もリフレインする。反発するように、すさまじい私の握力は、その細い首へとぐぐっ、と力を加えた。
「お願い...もとの和代に...もどって...」
洋子の顔色は、だんだんと、美しい青白い色へと変わっていく。
そう、私は洋子を殺さなくちゃならない...偉大なる主のために...
主様はいまも私を見てくれている...やらなくちゃいけないんだ...
そう、私の主のために....洋子を殺す。
このままじゃいけない。
私は、ぐっ、とさらに手に力を籠めようとした。
ふいに、デジャブを感じた。少し前、こうやって、洋子を上から覗き込んでいたことがあったような...
ふっと、そこからの記憶が、たくさんのシャボン玉が弾けるみたいに、ぱぱっと私の脳裏をよぎり始める... そうだ、私は...
1.金曜日 -灰の考察-
「下手したら、死んでたんだよ...ホント、バカだよ...」
「ごめん...」
私の怒った声に、ベッドの上に座っていた洋子は、顔をうつむけて答えた。彼女の長い髪が、身にまとっている白い病衣へと、柳のようにしだれかかっている。私と洋子は、数時間前、川で制服をびしょ濡れにしてしまったので、今は病院が貸し出してくれた病衣に着替えてあった。
その洋子の病衣が、窓越しの夕日の光を反射した。
まぶしくて、思わず、目を細めた。
今、私たちは、病院の一室にいた。一昨日、秋月と脇坂が入院することになったのと同じ病院だ。この病室は、角部屋だからなのか、他の部屋よりも狭いらしく、二人分のスペースしかないようだ。洋子がいるベッドの、向かい側にはもう一つベッドがあって、その上に、くまのぬいぐるみと、絵本が無造作に置いてあった。どうやら向かい側には、子供の患者がいるらしかった。今は、どこかに出かけているのか、不在のようだ。
正直助かった。
自分が怒っているところなんて、他人には見せたくない...それに、私たちが関わっている普通じゃない事情について、話すとき他人がいると困る。
「洋子は、日陰者じゃないんだから。無茶する必要なかったのに...」
そう、洋子と私は違う。そのことを、私は突き付けてやるために手を出した。私は手に力を込めて、体の内側にあるもやを解き放つイメージを頭に昇らせる。そうすると、手のひらが盛り上がるような感覚が一瞬、皮膚の上を這いまわった。
「水餅」
私が、そうつぶやくと同時に、手のひらから、透明な粘体をずむりと出した。粘体は次々と手からあふれていく。その大きさがちょうど饅頭ほどになったところで、私は出すのを止めた。そうすると、その小さく盛り上がった、まさに水餅のような塊は、重力によって、なめくじの通った後のようなぬめった軌跡を手のひらに残しながら落ち始めた。
これが私の日陰者としての能力"水餅"だった。この目を疑うような、魔法のような力を、私はひょんなできごとをきっかけに使えるようになっていたのだ。
その発端は、三週間ほど前に遡ることになる。その日...私と洋子は、とある放火事件に首を突っ込んだせいで、その犯人の放火魔に襲われることになった。そこで放火魔は、私たちにこう言った。曰く、自身が摩訶不思議な超能力を使えること、そして世の中にはそういう能力者、日陰者と呼ばれる者たちがいることを... そのことをしゃべり終えると、放火魔は用済みとばかりに、私たちを殺そうとした。その絶体絶命の危機に瀕したとき、私は放火魔と同じ力、"日陰者"の能力に目覚めたことで、逆に放火魔を返り討ちにすることに成功したのだ。
そこからさらなる運命の巡りあわせで、私たちは、メフィストを名乗るリーダーを中心にした、狂人集団秘狂クラブと対峙することになってしまった。クラブのメンバーに次々命を狙われつつも、なんとか退け、ようやく昨日、リーダーであるメフィストが死んだことで解決した...はずだったのだけど...事態はそう思っていたよりも単純じゃなかった。
なんと、リーダーのメフィストは私たちが対峙したやつとは、別にいたのだ。そして、その正体は、同じクラスメイトの、町田だった。
そのことに洋子は、いち早く気づいたらしく、今日の放課後、町田...いやメフィストと、ひそかに落ち合ったらしいのだ。メフィストに罪を償ってもらおうと、自首を促すために。洋子も、さすがに一人で会うのはまずいと思ったのか、脇坂刑事に事情を話して、部下を付き添いに出していたみたいだけど...それでも危険なことには変わりなかった。洋子の甘すぎる説得は案の定失敗した。結果、メフィストは、まんまと逃げおおせ、洋子自身は橋から落ちて、川に着水した衝撃で気を失うことになってしまったのだ。
その後、洋子はすぐに目覚めたものの、頭を打っていたこともあり、病院に運ばれ脳の検査を受けることになった。その結果、異常は見つからなかったものの、念のため一晩だけ入院して、経過観察を見るたことになったらしい。そうして、病室へと移され、今に至るというわけである。
さっきまで、私はここで、洋子から今日の放課後の出来事をもれなく聞いていたのだ。そこで私は、むかっ腹が立ったのだった。洋子の無茶すぎる説得に...そして、何より、そんな重要なことを私に何も伝えずに、勝手に行動したことに。
「そもそも、危険を冒さずに、警察に任せればよかったのに。どうしてわざわざ、聞きにいったりなんかしたの」
私は、突き出した手を下ろしながら、そう聞いた。同時に、手のひらに出していた水餅を元の自分の体へと、まるで鼻水をすするみたいに、ずるずると戻した。
「それは...町田さん本人からちゃんと、聞いておきたかった...から」
「何を?」
「どうしてこんなことをしたのか。その理由が知りたかったから、かな...」
「で、納得できる答えは聞けたの?」
「ううん...全然。」
なおも、俯いてぼそぼそ答える洋子に、ますます私はいら立った。だから、私はほんとのことを、言ってやろうとした。
「それって言い訳だよね」
ハッとしたように、洋子がようやく前を向いた。
「ほんとは...洋子って、町田に結構入れ込んでたんでしょ...だから」
私は、傷口をえぐるみたいに、続けようとした言葉をつぐんだ。これ以上言葉を重ねたら、取り返しのつかないことまできっと口にしていたはずだ。
「...まあともかく。こうやって危険なことするのは、これっきりにしてよね」
そうやって、私は話を無理やり軌道修正させ打ち切った。
病室に、気まずい沈黙が降りた。洋子に目を合わせるのが怖くなって、夕日がまぶしいふりでごまかしながら、私は、窓とは反対の病室内側へと目をそらした。
陰が、床から壁へとぼんやりと淡く広がっているのが見えた。そして...
「あっ」
病室の廊下側から、誰かが覗いていることに気づいた。そこには、セミロング髪の活発そうな女子...同じ日陰者である秋月と、その後ろにはぼさぼさの髪をした男...刑事の脇坂がいた。
「よっ。元気?」
と秋月は、覗いていたことを悪びれもせず、開き直ったように、手を挙げた。後ろにいた、脇坂もそれに倣ったのか、手を挙げる。 脇坂刑事は、日陰者を取り締まる刑事で、なんやかんや私たちと、腐れ縁がある。最初に会った時の、怒鳴られたときの印象が強く残っているので、どうも苦手だ。
秋月と脇坂は一昨日、山中での戦闘で、だいぶ大けがを食らったのにも関わらず、もう歩いてこうして覗きの真似事ができるくらいには回復しているらしかった。日陰者は普通の人よりもけがが、治りやすいらしいので、たぶんそのおかげだろう。
脇坂刑事は、私と洋子から目をそらすように、横目で向かい側のベッドばかりを見ていた。そもそも、今回の洋子の無茶についても、脇坂が洋子から相談を受けた時点で、協力なんかせずに、とっとと別の方法で逮捕なりすればよかったはずなのだ。
「脇坂さん」
私は自分でもびっくりするほど鋭い声が出た。
「ああ...」
「何か言うことあるんじゃないですか」
「いや、済まなかった...今回の件については完全に俺の責任だ...」
「あのっ。そのことは、わたしが悪いの。わたしがそもそもわがまま言わなければ...」
「洋子は黙ってて」
私は、洋子の擁護をぴしゃりと切って、脇坂を追求する。
「どうして、洋子のこと、ちゃんと止めてくれなかったんですか」
自分でも眉間にしわが寄っているのが分かる。とにかく、何か言わなきゃ気が済まなかった。
「メフィストが学生だったと知って、正直舐めてたんだ。これに関しちゃ言い訳のしようがねえ。本当に済まなかった」
と、言って脇坂は頭をすっと下げた。正直、脇坂のことだから、言い訳まみれで、逆切れまでしてくると覚悟してたのだけど、拍子抜けだった。
「まあ...ともかく大神が無事でよかったじゃん」
秋月が、とりなすように言った。
「そうだ、今日の放課後何が起こったのか聞かせてよ。沼田はもう聞いてるだろうけど、あたしと脇坂はまだだからさ」
と、空気の悪さを改善しようとしたのか、秋月が話を方向転換させた。そうして、端っこあたりから、三人分の丸椅子を取り出すと、私と脇坂に、座るように促した。
腰を下ろすと、洋子は、私に話したのと同じ、一連の出来事を話した。
その話が終わると、最初に口を開いたのは秋月だった。
「へえ、じゃホントに、町田がメフィストだったのかあ。そんな印象なかったなあ」
なんとも、緊張感のない言い方は良くも悪くも秋月らしい。ただ、言っていることは、私にも分かった。町田のまっとうそうな印象と、メフィストという猟奇的な犯罪者の印象が、頭の中でどうも一致してくれないのだ。
「まっどう見ても普通そうなやつが実は凶悪な犯罪者だったっていうのも、意外と多いもんだぜ」
「脇坂って浮浪者みたいな見た目してるから、もしやらかしても意外性も何もないね」
秋月がにやにやしながら茶化した。
「てめえみたいな単細胞野郎は、そもそも犯罪をやるおつむすら足りねえよ」
「なんだとおー」
「おおっなんだ!やるかっ」
その二人の言い合いは、まるで子供の喧嘩だ。なんだか、頭が痛くなってきた。
「まあまあ...」
洋子は、そんな二人をなだめた。
「えーと、その、これから町田さんは、どうなるんですか?」
洋子は話題を変えて、脇坂に向かって尋ねた。
「ああ...表向きには、たぶん行方不明扱いだろうな。お前らの学校で国城が派手に暴れすぎた弊害もあるし、犯罪者扱いはしずれえんだ。まあ、それでも捕まえるのに、手を抜くなんてことはねえのは保証するぜ」
「そう...ですか」
「そういえば、アッシュあったじゃん。あれは、どーなるのさ」
秋月は、そう疑問を口にした。 それは、私も気になっていたところだった。
「メフィストは、半分を本来の持ち主に返したって言ってたよね。だとしたらさ、本来の持ち主ってのは誰なんだろ?」
「それは...脇坂が前に言っていたアッシュを持ってた暴力団とやらじゃないの?」
秋月の言葉に、私はそう返した。前に脇坂が話していた暴力団組織は、メフィストによる襲撃を受けて、アッシュを奪われていた。渡した経緯はわからないけど、本来の持ち主と言われれば、そいつらなんじゃなかろうか。
「いや、そいつはない」
と、脇坂が素早く断言した。
「どーして、そう言えるのさ」
当然浮かんだ疑問に秋月がそう詰め寄ると、
「そりゃあ...そーだな、えー」
脇坂は急に言いよどんだ。
「歯切れ悪いねー刑事」
「ああ...えーこいつは極秘事項なんだ」
脇坂は、どうやら勢いでつい、言ってしまったらしい。
「えーでも前は話してくれたじゃん。どうして今回はダメなのさ」
さらに、秋月が不満そうに追求すると、
「うっせえ、ともかくこのことについて、これ以上俺から言えることはねえ」
と、言ったきり脇坂はだんまりとして、口を閉じた。しばらく秋月は、そんな脇坂の態度にもお構いなしに何度か質問したものの、そっから聞き出せないと悟ったらしい。
「あーあと、もう一つ灰(アッシュ)について疑問があったよね」
「なんかあったっけ」
「ほら、パンデモニウムの生き残りが言ってたじゃん。灰(アッシュ)には日陰者を覚醒させる以外にも、もう一つ作用があるって」
そうだ。そのこともあった。脇坂が一昨日、話題に出していたパンデモニウムのただひとりの生き残り。もう、自殺してしまったらしい彼は、確かにそんなことを言っていた。
「それは...昨日国城がアッシュを飲んだとき、ものすごく強くなったみたいだったから、そのことじゃないかな。つまり、アッシュは、一種の増強剤として作用するんだと思う。あと、私が気を失っている間に、国城は、制服と、灰色の粉を残して消えてしまったことをあわせて考えると...アッシュを飲むとおそらくだけど、体が灰色の粉になって崩れてしまうんだと思う。まあ、でも消える瞬間まで見てないから、副作用については、なんともいえないけど」
私は、昨日の出来事から考えた、アッシュについての推理を展開してみせた。そして、話しているうちにあることを思いついた。
「そうだ。脇坂さんは、昨日の事件の後、国城の周りにあった灰色の粉って調べたんですよね。あの灰色の残留物は、その、国城だったものなんですか」
「...ああ、それについちゃ間違いない。あれからは国城の体内成分が大量に検出された。」
私の質問に、脇坂は苦々しげに、答えてくれた。てっきり秋月のときみたいに、はぐらかされるのだと、思っていたのだけれど。 今日の分の負い目があったからなのだろうか。
「ともかく、新しく灰(アッシュ)のことが分かったってことでしょ。だとしたら、大神と沼田のお手柄じゃん」
秋月はそう言ってから、脇坂の方を見て、
「だったら、脇坂から何かお礼が欲しいよね~。カニの食べ放題とかさ~」
「誰がお前らなんかにおごるかよっ!それに、秋月。てめえはなんも関わってねえじゃねえか」
「えーけちんぼ脇坂~」
「言っちゃ悪いが、べつに大した発見でもねえよ。よって俺がおごる必要性はまったくねえ」
ぴしゃりと、脇坂はそう言って話を打ち切った。せっかくの新発見だったとは思うけれど、あんがい大したことないのだろうか?脇坂からの反応は思ったよりも薄かった。それとも...脇坂はもうすでに、このことについて知っていたんじゃないだろうか...ふとそんなことが頭をよぎった。
「どうやったら灰(アッシュ)は、国城さんのときみたく、増強剤として働くのかな?」
洋子がふいに疑問を口にしていた。
「うーん。量とかじゃない?」
私は、気を取り直して、そんなことを言ってみる。それに答えず、洋子はなんだか、難しそうな顔で悩んでいた。
「洋子は、何か気になることがあるの?」
「うん、灰(アッシュ)のもうひとつの作用っていうのは、一時的な増強剤として働くって、ただ、それだけなのかなって思って」
「...どういうこと?」
「アッシュが増強剤として働くってのは、その作用のあくまでも一側面でしかないような気がして...考え過ぎかな....」
と、洋子は、目線を下にして、深く考え込んでいた。
そこからも、灰(アッシュ)について、いくらか話していたものの、結局は有意義な意見は出なかった。そうしているうちにも、窓の外は暗くなっていき、ついには、完全に日が沈んでしまった。窓の外に目を向けると、外はもう真っ暗で、あちこちの街灯がわずかながら夜を照らしている。そうすると、窓ガラスに、この病室の様子が、おぼろげに浮かんだ。その様子をぼんやり眺めていると、窓に映った廊下から、小さな女の子とその親だと思われる中年の女性がこちらの部屋へと入ってくるのが見えた。小さな女の子は、小学生低学年ぐらいだろうか。病気の治療の過程か、髪の毛はすべてぬけおちて、つんつくりんの頭をしている。ピンク色のかわいらしい寝間着姿と日に当たっていなさそうな白い肌を見るに、だいぶ重い病気らしい。その母親らしき人は、女の子の肩に手を不安そうにかけている。
窓の反射から、現実の病室へと目線を戻すと、その女の子と母親は、丁度、洋子の向かいのベッド側へと向かっていた。
「まっそろそろおいとましましょか」
そのことに気づいたのか、秋月は、そう話を区切った。これ以上掘り下げる話こともないように思えるから、丁度いいころあいかもしれない。
「じゃあねー」
そうして、秋月は椅子から立ち上がり、手をひらひらさせて、出ていった。それに続いて、脇坂も病室を出ていこうとしたとき、その入り口で、立ち止まった。くるりと振り向くと、
「そうだ...ああ」
とバツが悪そうに言う。
「今日のことは、悪かった...だから」
そして、一拍置いてから、指をびっとこちらへと差すと、
「これは、借りだ。いつか返すからな」
脇坂は言うと、そのまま速足で、病室を出て行った。
「まったく。どうして素直に謝れないのか...」
私は、腰に手を当てて、脇坂の後ろ姿に言ってやる。
そのあとに、言葉は続かない。私と洋子の間に、ごまかしていた気まずさが再来したからだった。
「じゃあ、私もそろそろ...」
私は、逃げるようにそう言って、席から立ち上がろうとした。
「今日のことは、本当にごめんなさい」
洋子がふいに、言葉を発した。その表情は、真剣なときに見せる仏頂面になっていた。思わず、その態度に緊張して私は唾を飲み込む。
「伝えなかったのは、信じてなかったとか、そういうことじゃないの」
洋子はかみしめるように言う。
「和代が言った通りで、わたしが町田さんに肩入れしてたっていう...そんなただ自分勝手すぎる理由で、巻き込みたくなかったからなんだ」
「まあ、もう、いいよ。こっちも...さっきも言いすぎたし」
私は、そう適当に洋子の言葉を遮った。あれから時間もたったので、なあなあでその話を早く終わらせてしまいたかった。
それでも、洋子は、さらに重ねるように言葉を紡いだ。
「だから、今度からは...もう、そんな自分勝手で動かないって約束する」
そうして、洋子はおもむろに左手を差し出した。その小指をかぎのようにくいっと曲げ、それ以外の指は折りたたむ、指切りげんまんの形にしていた。
私は、一瞬、ぽかんとして洋子の顔を覗き込むかのように見る。洋子の表情は、さっきから変わらない真剣そのものだ。その表情に気圧されて、私も同じように左手を指切りげんまんの形にした。そして、洋子の小指のカギに私の小指のカギを絡めた。
そうすると、なんだか、この一連の指切りが、秘密めいたようなものの気がして、ある種の緊張感が私を包んできた。
私は、そこから気を紛らわせるように、流れてくるであろう指切りげんまんの歌を待った。
けれど、その歌は流れなかった。
しばらくして、私から小指を離した。そして、洋子は気まずそうに顔を背けた。
不安になって後ろを振り返ると、さっき病室に入ってきた少女と、その母親が私たちのことを不思議な生き物でも見るかのように、じっと好奇心たっぷりに見ていた。
なんだか気まずさと気恥ずかしさが混じりあったようなそんな気分がわいてきた。
私はその気分に押されて、洋子の方も見ないで、そのまま、部屋の出口まで向かった。そして、じゃ、と振り返りもせずそう言って、病室を後にした。
病院を出た帰り道、上を見上げると、月が見えた。月は、まん丸の形がわずかにかけていた。満月に近いのか、はたまた遠ざかっているのか。しばらく立ち止まって見ていると、やがて月は風に流された雲に隠れてしまった。
ふと、あの指切りのとき、洋子も私と同じような気分を抱いていたんじゃなかろうか、とそんなことが頭をよぎった。
2.土曜日-病院にて-
洋子が入院した日の翌日。土曜日。私は洋子の退院の見送りと、借りていた病衣を返すために、昨日の病院へと来ていた。
さっそく受付で、病衣を返した。そしてそのまま、訪問の手続きをすまして、洋子の病室へと向かった。 その前まで来ると、洋子と、誰か別の女の子の声が聞こえた。中へ入ると、洋子と、昨日病室でみかけた女の子が、楽しげに話していた。女の子は、洋子がいたベッドの真向かいのベッドに足を延ばして座っていて、洋子はその横で丸椅子に座っていた。二人が話している雰囲気を見ると、だいぶ仲良くなっているようだ。
話に割って入るタイミングを見失って、私がそのまま、突っ立ってると、ようやく洋子は気づいた。
「あっ和代。来てたの」
「うん、昨日病衣借りてたから返すついでにね」
「よーこおねえちゃんのお友達?」
女の子はさっそく興味津々と言った感じで聞いてきた。
「うん。そうだよ」
「わたし、裕理っていうんだーよろしくね」
女の子...裕理ちゃんは、ぺこりと子供特有の背伸びしたおじぎをした。
「えっと私は、洋子の友達の和代です。よろしく」
なので、私もつられて、変に気張った感じで、お辞儀し返すことになった。
ごほん、気を取り直して。
「邪魔しちゃってたかな。なんの話してた?」
「えっとねーおばけのはなしー」
食い気味に、裕理ちゃんは話してくれた。
「このびょういんね。昔からおばけがでるってゆうめいなんだよー」
「へえ、その、裕理ちゃんはおばけ、見たことある?」
「うんうん。それが、ぜんぜんみないの。わたしおばけ、みてみたいのに」
と、なぜか裕理ちゃんは、残念そうな顔をした。
「みんななんでおばけがきらいなのかな。ようこおねえちゃんもそうなんだよ。おねえちゃんおばけすっごくにがてみたいで、きのうなんかすっごく...」
「ちょちょっと...そのことは...」
洋子は焦ったように、続く言葉をふさいだ。昨日は、だいぶ怖がっていたらしい。
「そーんな怖がることないのに。どうせ、おばけなんていないんだし」
「やっぱり、いないのかな...」
意外にも、裕理ちゃんはしょんぼりした反応を見せた。
「おばけ、いてほしいの?」
洋子は、やさしく裕理ちゃんに問いかけた。
裕理ちゃんは、悲しそうな顔でうなづくと、ぽつぽつと言葉をこぼした。
「だって、おばけがいるってことは...わたしがもし死んでも、おばけになれるってことでしょ...」
ここで私ははっとした。そうだ裕理ちゃんは...
「そしたら、お母さんとお父さんのそばにずっといてあげられる...」
「だったら...もしおばけになったら、洋子のことたまに脅かしにいってやりなよ。洋子怖いの苦手だからきっと、すごく驚いてくれるよ」
私は、無理きり話題を明るくしようと、冗談を言ってみた。
「えーそうだったら、わたし怖いな」
洋子も乗ってくれた。そうすると、少しだけ裕理ちゃんも笑ってくれた。
そこで、なんとなく空気がほぐれたらしい。裕理ちゃんは、そこから次々にいろいろなことを話してくれた。読んだ絵本の冒険の話、病院の屋上に無断で入った話(どうやら、秘密の抜け穴があるらしい)、窓から見える風景、そして、暗闇で誰かに話しかけられた夢の話へと差し掛かった。
「その夢不思議なんだよ...まるで頭の中に直接声が響いてくるみたいで...」
そこまで話すと、ふいに、裕理ちゃんは何かに気づいたようで、病室の入り口へと目を向けた。
「あっお母さん!」
「あっどうも、こんにちは」
裕理ちゃんのお母さんが後ろに来ていた。
「あの...すみません。昨日も遅くまで付き合ってくださって」
裕理ちゃんのお母さんは、昨日と同じように、不安そうな表情を顔に張りつけているようだった。裕理ちゃんの入院でいろいろ大変なんだろう。
「わたし病院初めてで、とても心ぼそかったんです。でも、裕理ちゃんがいてくれて、ほんとうに、助かりました」
洋子が言うと、裕理ちゃんのお母さんは、ますます申し訳なさそうな顔をした。裕理ちゃんがゆうれいになりたくなるのも無理ない気がしてくる。
「病院には、同年代の子もあまりいませんし...裕理も、話し相手がいなくて退屈してるみたいなんです。だから、昨日は本当に嬉しそうで...ありがとうございます」
そう言われた洋子は、たじたじだ。
「そろそろ検査があるので、ほら、裕理...最後に、洋子お姉ちゃんにお別れ言っておかないと」
母親は裕理ちゃんをせかすように言った。
「えー」
「えーじゃないでしょ。裕理、この前も遅刻したじゃない」
裕理ちゃんは、そう言われると、しぶしぶベッドから降りて、スリッパをはいた。いざ検査へ向かう段になっても、洋子の方を名残惜しそうに見ていた。
「ほら、先生またせちゃいけないでしょ」
「うん」
母親にそう言われて、ようやく裕理ちゃんは、病室の出入り口へと歩いていった。そうだ。今日、洋子が退院してしまえば、これから会うことはないのだ。
「それじゃあね」
裕理ちゃんは、病室前の廊下で、手をいっぱいに振った。私たちも振り返すと、裕理ちゃんは母親に連れられていき、すぐに視界から消えてしまった。
「裕理ちゃん。いい子だね」
「うん」
私たちは、しばらくの間、去ってしまった裕理ちゃんのことをしみじみと思った。いなくなると、寒々とした空白が部屋にできたようだった。さっきまで明るい空気は裕理ちゃんが持ち出してしまったみたいだ。
そうして、そのあとも、ぽつぽつとしばらく二人で雑談をしていると、病室に、既知の女性がこちらへ入ってきた。
洋子のお母さんだ。
「あら、沼田さんじゃない~」
わたしの顔を認めるなり、洋子のお母さんは、明るく言った。
「ご無沙汰してます」
洋子のお母さんは、華やいだところがあったなんだか、ぽわぽわした感じの人だ。
「久しぶり、あっ前より背伸びたねえ~」
「たぶん、はい。少し」
「いつも洋子がお世話になってます」
「いえいえ、こちらこそ。洋子に助けてもらってる気がしますし」
私と洋子のお母さんは、互いにぺこぺこさせながら社交辞令に頭を下げる。
「わざわざ今日も、来てくださって、ほんとに洋子は、いい友達を持ったわ」
洋子のお母さんから次々飛んでくる話を切り抜けていき、ようやく会話がひと段落したので、
「それじゃそろそろおいとまします...」
「あら、ちょっといいかしら」
その隙を突いて、去ろうとする私を洋子のお母さんが呼び止めた。
「もうすぐお昼だし、よかったら一緒にご飯でも食べに行かない?」
「いえ、その……母が昼ご飯を作って待ってると思うので」
「だったら、家には電話しておくから」
「あの、ほんとにいいんです。それじゃ、洋子また明日」
そのまま振り切るように、背を向けて病室を出た。
洋子のお母さんの提案は、嬉しかったし、ただで外食も食べたい気持ちもあった。でも、行く気にはなれなかった。私の母親が怒るからだ。うちの母は、洋子の母親のことを嫌っていて、よく悪口を私に言うのだ。こうやって、おごられたのを知ったら、あの人は偽善者でほんとうは見下してるだの、こっちは働いて稼いでいるのにあっちは主婦で苦労してないだの、そういう愚痴が止まらなくなるに違いない。それに、今母は、失業中だし、帰りが遅くなって余計な心配を掛けたくなかった。
そう、全部、仕方ないことなのだ。
「ふう」
ため息が出た。
「行きたかったな」
3.月曜日-青い炎-
ぼうっ、とオレンジ色の光が灯る。黒く包まれていた空間が、おぼろげに、浮かび上がった。
どうやら6畳ほどの物置らしい。両側にある木製の棚には、怪しげなビーカー、虫食いされた本や、呪い①とラベリングされたビデオテープなど怪しげなものが並んでいる。そうしたものの一方で、漫画雑誌や、ゲーム機、はてはなぜか生めんが置いてあったりするので、どうにもまとまっていないようだった。棚が置いていない一方の壁際には、黒いカーテンが引いてあり、その下に段ボールが積まれていた。段ボールからは、書類が、インナーシャツがはみ出ているみたいに、だらしなく出かかっていた。その反対側の壁には、この部屋唯一の、出入り口である扉があった。
この雑多な小宇宙を照らしているのは、中心にあるろうそくの火だった。ろうそくは黒い四角の机の上に置かれていて、その机を4人の人影がかこっている。その4人は、皆一様に、黒いフードをかぶっていた。その様は、まるで黒魔術師の秘密会合そのもののように見える...
「へへっ、部長。たまには、こういうのも悪くないっすね」
この厳粛な空間に漂っていた沈黙を、最初に破ったのは、調子の良さそうな声だった。声の主は、男で、そのフードからぴょこんとくせっけが飛び出していた。
「へへっなんて雰囲気崩れるであろう」
部長と呼ばれた人物が、咎めるように言った。どうやらこの会合にノリノリなのは彼女のようだ。よく見ると、黒いフードから、彼女のみつあみがこぼれている。
「ごほん...うむ。今日(こんにち)は、我らがオカルト研究会にとって、いや世界にとって大きな一歩になるであろう...それほどまでに...」
「 前置きはいいから、もうはじめようぜ」
その部長の、言葉を遮ったのは、スクエアタイプの眼鏡をかけた男だった。その目つきは、鋭く、冷たい印象を与える。
「ひどいっ。せっかく口上考えてきたのに!」
「部長の話はなげえんだよ。この前だって...」
部長の必死の訴えも、眼鏡の男はぶっきらぼうに反論する。
「まあまあ...」
その二人をなだめるように、くせっけの男が言う。その慣れた感じを見るに、どうやら、毎回二人のとりなし役をさせられているらしかった。
ろうそくをかこうのは、4人の黒魔術師ではなく、学校のはぐれものたちのオカルト研究会の生徒のようだ。
「ところで、部長。そんな怪しげな箱、どこで手に入れたんスか」
くせっけの男が二人の喧嘩をそらそうとそんなことを言った。その男が言った怪しげな箱は黒い机の上、ろうそくの横にちょこんと置いてあった。それは小さな木箱で、表面には、だいぶ時間が経ったらしい黄ばんだ和紙がラベルのように貼ってあった。そして、そこには、こう書いてある..."この箱開くことなかれ"と。
「おおっよく聞いてくれたな。我らが同志よ。その箱はだね、うちのおばあちゃんが持ってたものなんだ。それをこの度私が譲り受けたというわけだ」
「へえ、でもいいんスか。この箱、開けちゃだめだって書いてあるみたいにみえますけど。よく部長みたいな軽薄な人に、渡してくれましたね」
「おばあちゃんの認知症がひどくなったからね。苦労したけど、やっと手に入れたよ」
と、部長は、今までの厳かな口調をなくして言った。
「うわあ最低だ」
「...おお...」
部員のひとり、先ほどから一言も喋らなかった女子生徒が、嘆息を発した。その目線の先には....
「あっ!いつの間にっ...」
その木箱がぱっかりと、開けられていた。無口な女子生徒がやったらしかった。
「ごめん...ぶちょうはなしがながい...」
無口な少女は、大して悪びれずに言った。
「ああ~せっかく私が開けたかったのにいっ」
「いいだろ別にへるもんじゃねえんだし」
「これは、ハンマーですかね」
「ちがう...これは小槌...」
箱の中に、あったのは古い小槌だった。そして、この薄暗さで、よくわからないが、その頭の部分にはわずかに赤黒いシミみたいなのがついていた。
「へえ、ふうん」
と、さっそく部長が、興味深そうに手に取った。すると、部長にある奇妙なほんの小さな変化が起きた。その目が一点を、まるで遠くの物をぼう、と見るかのように凍りついたのだ。
「おい、次は俺に見せてくれねえか、って部長?」
最初にその異変に気づいたのは、どうやら眼鏡の部員らしい。
「ちょっと、様子がおかしくないか」
「ぶ...ぶちょう...」
すぐさま周りの部員もそれに気づきはじめた。そして、部長は、目はそのままに、歓喜にふるえるかのように、がたがたと震えはじめた。
「な、なあどうしちゃったんスか。部長」
「部長!おいっ大丈夫か!」
「お...おーい」
「ふふふふ..」
部長は、うす笑いしたかと思うと、
「ひゃあっ!」
突然、狂的な興奮を伴った声を発し、なんと、隣にいたくせっけの部員を、持っていた小槌で横っ面を殴りつけた!
「ぐわっ」
くせっけの部員は、その勢いで、地面へと倒れこんだ。
「おいっ!何やって...あっ」
怒鳴っていた眼鏡の男は、思わず絶句した。それは、部長がいきなり殴ったこともあったが、それよりも、そのすぐ後に起きた奇想天外な、目の前に起きた現象に信じられなくなったからだった。
部長の持っていた小槌、そのあざみたいになっているシミから、青い光が、まるで蛍のようにちらつきはじめたのだ。よく見ると、それは、炎だった。そして、その青い炎は、小槌の周りをぐるぐると、まるで水魚が泳ぐように回り始めたではないか。
「わわわ...」
「なっなんだあっ」
「たたりだ...きっと小槌さまのたたりだべえっ!」
頬を殴られたくせっけの部員は、そのあまりに摩訶不思議な様子に錯乱して、そんなことを言い始めた。
「きゃはあっ!」
部員たちが固まっている隙をつくように、部長は、そのまま扉...唯一の出入り口の方へと走り出す。
「きひひひっ!」
部長は、扉をばあっと開けて、外へと飛び出した。
「わわわ...」
「まずいぞっ部長を止めねえと!」
眼鏡の男は、黒いマントを投げ捨てて、部長のあとを追い始めた。
「待たせたね。じゃっ帰ろ」
週明けの月曜日。授業が終わった放課後。私は、当番の掃除を終え、待っていた洋子と合流した。最近は、いろいろありすぎたので、こうして二人きりで帰るのは久しぶりだ。
私たちは、三階の教室を後にして、階段を降りていった。そうして、二階と三階のあいだの踊り場まで来たときだった。
突然、下から、どたどた足音を響かせ、みつあみの女子生徒が、ものすごい速さで階段を駆け上ってきたのだ。
「うわっ」
「きゃっ」
そのまま女子生徒は、私たちを通り過ぎ、そのまま3階まで駆け上ると、廊下へと消えていった。ちらりと見えたその目はかっと見開かれていて、何かただならぬものを感じた。彼女の右手にあったものは...茶色い小槌だろうか?
「どうしたんだろ?」
「ずいぶん、急いでるみたいだったね」
あっけにとられて、私たちは、みつあみの女子が通った階段をぼんやりと見上げていた。すると、下から切迫した声が響いた。
「おい!そこの二人!」
下の階段の踊り場に眼鏡をかけた男子生徒がいた。その目線は、切れ長で、厳しい印象がある。
「オカケンの部長を見なかったか」
「オカケンって?」
「オカルト研究部の略だ。俺もそこに入ってて...いや、いまはそんなことはどうでもいい!」
「あのーもしかして小槌を持ってた子?」
洋子が恐る恐る言った。
「そうっ。そいつだっ!どこいった?」
「今上にいったけど...」
「畜生!」
それを聞くとすぐさま、眼鏡の男子は、血相変えて、上へとかけのぼっていった。
私と洋子は、顔を見合わせて、そして頷いた。眼鏡の男子についていくことに決めたのだ。そうして私と洋子は、眼鏡の男子に続いていった。
階段を昇って、三階まで上がる。右手はすぐに突き当たりになっているので、私たちは左の廊下へと折れた。そのまま廊下を走っていると、前を走っていた眼鏡の男子が不意に足を止め、すぐ右側にある教室へと飛び込んだ。
どうやら、教室の中に、部長とやらを見つけたものらしい。私と洋子も、続いて教室へと入った。
教室は、空き教室らしく、さっきのみつあみの女子以外には誰もいなかった。
そしてその女子...小槌の狂人は、教室の窓際にいた。
彼女は、にいと笑っていた。にこやかに、まるで通販番組のお姉さんみたいに、気持ちの悪い笑みを顔に浮かべている。
私は、あることに気づいて、あっと声が出てしまった。みつあみ女子が持っている小槌の周りに、まるで衛星のように、3つの青いスパークがぐるぐる回っているのだ。その超常現象は、彼女が起こしているらしい。つまり、彼女は私と同じ...日陰者なのか?
「部長!聞こえてるか!」
眼鏡の男子は、みつあみ女子に向かって、きりっと問いかける。
「ふひゃ」
それに対して、あくまで彼女は、猿みたいにあざ笑った。
「やっぱり。その小槌がおかしくさせてんだなっ!」
眼鏡の男子は、そこで、取り押さえようとしたのか、彼女に向かって走り出した。
「あっ待って!」
みつあみの彼女は、それを見やると、奇妙な動作をした。持っている小槌を、いきなり虚空に振り下ろしたのだ。そうすると、周りにある炎のらせんは、振り下ろされたその最中に、小槌からすぱっと離れて、そのまま眼鏡の男子へと飛び去った。
「なあっ!」
眼鏡の男子はそれをもろに食らうと、その青い炎が、彼の体中へとぼわっと広がった。
「わっ!あつつつつ...あれ、熱くないぞ!」
炎につつまれた眼鏡の男子は、最初こそ驚愕していたものの、すぐその感情が困惑へと変わっていった。それも、そのはずで、眼鏡の男子の全身は、今も青い炎で包まれているにも拘わらず、その服や体は一切、燃焼していないのだ。熱を持たない奇妙な炎。
「な、なんだこれ、こ、こ、れは...つつめたくなって...」
その炎への困惑のセリフは、異様なことに、しだいにとぎれとぎれになっていった。そして...ついに、一言も発さなくなったかと思うと、男子はどたっと倒れこんだ。
「だ..大丈夫ですか!」
私は、急いで、駆け寄ろうとした。
「和代!触れちゃダメっ」
「ふえっ」
「もしかしたら、燃え広がるかも...しれないしっ」
「た..たしかに...」
そうだ。これは私たちの常識が通用しないとはいえ炎は炎なんだ。
「ふひゃふひゃ!」
私たちの反応を見て、みつあみの彼女は、おかしくてしかたがないというように、腹を抱えて笑っていた。
「あの炎は、たぶん、人間が触っちゃいけないんじゃないかな。ほら、部屋のものとかは、燃えてないし、きっと生き物にしか反応しないんだよ」
洋子が能力について、そう推察する。普通の炎が、物質を燃料にしているとしたら、これは精神を燃料にしているってことなのかもしれない。ということは...
「だとしたら、直接触れなきゃいいってことでしょ!」
「く...くるよっ」
再びみつあみの彼女は、小槌を虚空へと振って、その周りにある炎を、今度は私へと散らした。私は、それをよけもせず、真っすぐと、彼女に向かって走る。
「水餅っ!」
私は、"水餅"、透明の粘体を出した。それも、体全体に一部の隙も無くまとわせるようにして。即席で作った水餅の鎧を包みながら私は、炎へとまっすぐ向かった。炎は、私に触れる前に、水餅の層へぶつかる。そうすると、炎は、ふうっと、空気に溶け込むように消えていった。
「うおおっ!」
私は、なんとかみつあみの女子までたどり着いた。そして、その両手首を、私の両手でがっちり掴みかかりながら、窓へと押しつけた。
「ぎゃあっああっ」
みつあみの彼女から笑みが消え、恐竜の鳴き声みたいな声を上げて、叫び始めた。
「洋子っ!小槌をお願い!」
私は、後ろにいる洋子に指示を出した。すぐに、洋子は、小槌に手を掛けて、引っぱってくれた。
「うう~」
「ぎゃぎゃきゃあ」
なかなか、みつあみの女子は、手放そうとしない。まるで、その小槌が自分の全存在とでもいうようだ。
「う~んしょ...えいっ!あっ」
「きゃああっ!」
ようやく、洋子は、小槌を引き抜いた。みつあみの女子は、断末魔の声を響かせたかと思うと、がっくりと気を失った。
「いててっ」
洋子の声に、思わず私は、後ろを振り向く。見ると、洋子は地面に、しりもちをついていた。引っ張り上げたときに勢いそのまま後ろに倒れこんでしまったらしい。小槌も手放してしまったらしく、洋子の少し後ろに落ちていた。
「だ、だいじょぶ」
「う、うん」
「あっそうだ。眼鏡のやつはっ!」
私は、急いで眼鏡の男子を見ると、さっきまで燃え盛っていたあの奇妙な炎が消えていた。洋子が、眼鏡の男子へと駆け寄って、その倒れている体をゆする。
「あのっ...大丈夫ですか..」
「うう...ああ...なんとか」
眼鏡の男子は、意外と、すぐに起き上がった。あれだけのことがあったみたいけど、とりあえずは無事みたいだ。ほっとしていると、
「あっあの~、いったい」
今度は、前から声がかかった。
「私、部室にいたはずじゃ。と、というか何で...」
向き直ると、両手を押さえていたみつあみの女子が、どぎまぎしながらこっちを見ていた。さっきまでの狂気じみたところが無くなっていることから、どうやら、正気戻ったらしい。
「あっええと、なんかごめん」
私は、ぱっとみつあみ女子のつかんでいた手を放してやった。
「あの、その眼鏡のやつ、具合悪そうだし保健室に連れて行ってくれないかな?」
私は、ここにある小槌を取るために、とりあえず建前の用事を彼女に与えることにした。
「はっはい。えとえと、じゃ、い、行きましょ...」
みつあみ女子は、すぐに眼鏡の男子の手を取って、引っ張っていった。
「おいっ、その小槌のことなんだがっ、そいつに触れると呪われ...」
「あー私たちがちゃんと責任もって、預かっとくから安心しといて」
とりあえず眼鏡の男子には、そう声を掛けておいた。眼鏡の男子は、まだ本調子ではないのか、それ以上は何も言わずに、ずるずるひきづられていく。
「じゃじゃじゃ、私、行くんで、さ、さいなら....」
みつあみの子は、とんでもなく自信なさげにどもりながらも、眼鏡の男子を連れて、教室を出ていった。
「おまえ、ほんっと内弁慶だなあ」
「う、う、うるさいっ」
二人が廊下に出ても、言い合う声が少しの間聞こえてきた。
「さて、と。」
問題は、残っている。残ったこの呪いの小槌、これをどうすればいいんだろう。 私たちは、小槌に不気味な視線を送る。
「とりあえず、触んない方がいいよね」
私のその言葉に、洋子がこくりと頷いた。とりあえず、私のバッグからビニール袋を取り出して、それをがさごそと包んだ。
「うわあ、洋子、もつ?」
洋子は、首をふるふると横に振った。
「とりあえず、これが何なのか、秋月さんと脇坂さんに聞いてみようよ」
「名案だね」
そうして私たちは、病院へと向かうことにした。
4.月曜日- 再び病院-
「それは、残陰物だよ」
秋月が神妙そうな顔でそう言った。
「ザンインブツ?」
私は、思わずその単語を繰り返した。私と洋子は、秋月と脇坂がいる病室にいた。脇坂は、煙草を買いにいっているみたいで、今はいなかった。
秋月は、ベッドの隣にある木台へと目を向けた。そこに、小槌を入れたビニール袋を置いておいたのだ。秋月は、そのビニール袋をがさがさとかき分けて、入れてあった件の小槌をひょいと取った。
「ちょ、ちょっと」
「あんまり、触らない方が...」
私たちが焦るのを、意に介せず、
「だいじょぶだいじょぶ。あたしは日陰者だから...多少触っても、問題なし」
秋月は、手に取った呪いの小槌をまじまじと見つめた。
「うん、やっぱり残陰物だ。触ってると、ざわざわする感じがあるし」
「その、さっきから言っている残陰物ってのは一体?」
私は、なかなか説明を始めない秋月をせかした。
「残陰物ってのは、要するに、日陰者の意思が残った物体のこと」
そこから、秋月が残陰物とやらの説明を始めた。
「日陰者は死ぬとき、強い負の感情、たとえば怨念や怒りを抱いて死ぬとき、たまーに、その精神とそれに付随する能力が本体から離れて、近くにある物体へと移ることがあるんだよ。それが残陰物。そうやって残陰物はできるから、たいていそこに宿る精神は、負の感情を抱いてるんだ。今回みたいに、持った人の意思を乗っ取るのも珍しいことじゃないんだよ」
「じゃあ、どうして秋月さんは持っていても大丈夫なの?」
「それは、私が日陰者だからだよ。日陰者は、意思の一部を自覚して、操る者。普通の人より、自分の意思をはっきり認識しているんだ。だから、それを崩そうとしたり、乗っ取ろうとしたりする動きに強いの」
「そうなの?私が国城と戦ったとき、精神、乗っ取られそうになったけど...」
「それは、沼田が日陰者になったばっかだからだよ。日陰者として強くなればなるほど、精神を守る力もきっと強くなるはずだよ。まっあたしがもし国城とやってたら、そんなおちおち乗っ取られることなんてなかったけどね」
余計なことを、ふん、と鼻を鳴らして秋月は言う。
「秋月さんは、前にも残陰物見たことがあるんだよね」
「まあね」
「どんなのがあったの?」
洋子が興味津々といった感じで尋ねた。
「そうだね。一番有名なやつだと、妖刀ムラマサ...聞いたことない?それとかは、じいさんから見せてもらったことがあったなあ。あと身近なのだと、うちの学校の応援旗もそうだったし。あと、昔ここらへんにあったクローズマンションも。まあでもあれは、通常のプロセスでできたわけじゃなくて住人の無意識が寄り集まってできたものだけど...」
「そんなものまで...」
私は、唖然としていた。今まで、名前を聞いたあれやこれやの認識がぐらりと揺らぐような気がしたのだ。
「そう。案外ありふれてるでしょ。何せ、じいさんが言うには、ひとまとまりの単位として数えられるものは残陰物になる可能性を秘めてるんだって。一つの机 一つの部屋、一つのマンション。そして...」
「ひとつのビニール袋」
私は、ふざけて口をはさむ。秋月はちょっとムッとしながら話し続ける。
「一つの街... あたしは見たことはないけど、じいさんは、昔、街そのものが、残陰物になってるのも見たことがあるって言ってた」
ふうん、と私は感心して聞いていた。じゃあ、もしかしたら、地球そのものも残陰物になるのかしら...なんてばかみたいな考えが頭にふっと浮かんだ。
「とにかく、危険物には変わらないから...まっこれは、あたしがとりあえず預かっとくね」
そう言って秋月は小槌をふところへと入れようとしたそのとき。
「おいっ、話は聞かせてもらった。そいつは、お前らが持っていていいもんじゃない」
いつの間にか、私の後ろに脇坂がいた。煙草を口にくわえているのを見るに、買い物の用事は終わったらしい。そもそも病院でたばこはだめじゃないか?
「ほいっ没収だ」
「あっ」
脇坂は秋月から小槌を奪い取ると、それを懐へとしまった。
「ちえっせっかく珍しいのに...」
秋月は、そう言っても、あんまり悔しがっていない。さっきの預かる云々は秋月なりの冗談だったらしい。
そこからは、残陰物の話はしなくなり、脇坂を交えて、少しの間、いくつかたわいもない話をした。特に、秋月は、ここ数日、学校に行けてないので、そのことをよく聞いてきた。
そうした会話もひと段落したところで、私と洋子は帰ることを伝えて、病室を出ようとした。 ちょうど戸口をまたごうとしたところで、
「あっ、あたし、明日退院して、明後日がっこういくから、赤井とかにいっといて」
秋月からの伝言が背中にかかった。
私は、了解の意を込めて片手を挙げて答えて、病室を出た。
「ふう、ともかく一件落着だね洋子。そうだ、オカケンにはなんて説明しよう」
「うーん。知り合いのイタコに預けた...とか?」
だらだら喋りながら廊下を歩いていると、
「あっ洋子お姉ちゃん!」
背後から聞き覚えのある声がした。振り向くと、嬉しそうに裕理ちゃんが手を振っていた。
「どうしておねえちゃんたち、ここにいるの?よーこおねえちゃん、おととい、退院したんだよね?」
私たちが裕理ちゃんのそばまで行くと、食い気味に声を掛けてきた。
「友達のお見舞いできてたんだよ」
「友達って、もしかして、あのあきづきっていうおねえちゃんのこと」
「うん。裕理ちゃん、秋月さんのこと知ってるの?」
「えーとね。あのおねちゃん、隣のおじさんといつもけんかしてるからおぼえちゃった。すごいんだよ。きのうもとっくみあいして、かんごしさんたちがとめてた。なかよくすればいいのに...」
思わず、ため息が出た。病院で、何をやってるんだ。あのバカどもは。
「おねえちゃん、つぎはいつくるの?」
「えっと、秋月さん明日、退院するから、うーん、いつになるかな...」
洋子は困ったように言った。
「そっか。もうここによう、ないんだね」
裕理ちゃんはうつむいてそう言うと、
「ねえようこおねえちゃん。これからも、びょういんきてくれない」
「へ?」
「たまにでもいいから。おねえちゃんが、いないとさびしいし、つまんないんだもん」
裕理ちゃんは、洋子の着ている制服のスカートをひっぱりながら、小さな懇願をした。
「ねっいいよね。おねがいっ一生のおねがいだから」
裕理ちゃんは、言い終わると、じっと洋子の顔色を窺った。
「うん。いいよ」
洋子は、すぐに、あっさりと承諾した。
「やったーおねえちゃん大好き!」
裕理ちゃんは嬉しそうに、そこら中をぴょんぴょん飛び跳ねた。廊下を歩く看護師と、歩行器を支えにしているおじいさんが何事かとその喜びの舞を見ていた。
「でも、ほんとにいいの?」
しばらくして、ようやく裕理ちゃんは落ち着いたのか、今度は真面目な表情で聞いてきた。そうだよ洋子。ほんとにいいの?と、私も心の中で加勢した。洋子は、甘すぎるところがあるし、それに...裕理ちゃんは、難病だから、きっと別れがつらくなるはずだと、そう思うのだ。
「うん。ほんとにいいんだよ」
洋子は、真剣な時に見せるあの仏頂面で、真っすぐ裕理ちゃんを見ていた。子供の願望になあなあで押し負けたわけじゃなく、洋子は、本心から同意したのだ。
「洋子お姉ちゃん、ありがと」
その真剣さが伝わったのか、裕理ちゃんも、少し緊張した顔になった。そして、子供らしからぬ、何かを決心した顔へと変わると、すっとんきょうなことを言い出した。
「そうだ。お礼に、お姉ちゃんたちにまほう見せてあげる!」
「「まほう?」」
「ほんとは、みせちゃいけないっていわれたんだけど...」
そう前置きしてから、裕理ちゃんは、廊下の端っこにある、植木鉢まで歩いていくと、きょろきょろと周りを見渡した。そして、人がいないことを確認すると、私たちを手招いた。
私と洋子は、裕理ちゃんがいる植木鉢まで近づいた。そこに植えてあったのは、枯れかかり茶色くなっているドラセナだった。本来なら、葉の輪郭が白くふちどりされていて、フランベルジュの刀身のようにうねっている特徴的な葉身を持つのだけれども、目の前にあるそれの葉は縮んで茶色くなり、その幹は灰褐色にくすんでいた。
「ねえよーく見ててね」
裕理ちゃんは、そんな死にかけのドラセナの幹を、両手で包み込むように持った。
すると、そのドラセナの周りに摩訶不思議な変化が起きた。まず、その触れている幹の部分から広がるように、ぼう、と光のちりが覆っていった。そのちりは、やがてドラセナ全体を夜空の星のようにまばらに覆いつくした。そうすると、ちりのおかげか、ドラセナが、まるで活力を得たかのように青々とした色彩を取り戻していっていた。少しして、裕理ちゃんが、今度は、幹から手を離した。そうすると、光のちりは、段々とドラセナの周りから、ふっと空気に溶けていくように消えていった。
ちりが完全に消えると、残ったのは前までとは比べ物にならないほど生気あふれるドラセナだった。
「ねっすごいでしょ!!」
少女は、その"まほう"を終わると、無邪気にそう言った。と、ふらりとその体が揺れ、
「裕理ちゃん!」
倒れそうになっていたのを、かろうじで洋子が支えた。
「まほう、つかうと、ちょっとだけ眠くなるの、でもだいじょぶ」
「大丈夫って...」
「せっかくようこおねえちゃんがきてくれるっていうから、おかえししなきゃいけないと思って」
とりあえず、私たちは裕理ちゃんを近くの長椅子まで運んだ。
「ねえ裕理ちゃん」
そして、裕理ちゃんの体調が戻ったころを見計らって洋子は声を掛けた。
「どうやって、まほうが使えるようになったのか、お姉ちゃんに教えてくれるかな?」
裕理ちゃんは、たどたどしく、ところどころ内容が飛びながらもその経緯を教えてくれた。裕理ちゃんいわく、3日前の深夜に悪魔のお兄ちゃんが来て、いっぱいお話をして、そのあとなんかすごい夢をみたら、"まほう"が使えるようになった、らしい。
「この"まほう"のこと誰かに言ったりしたかな?」
裕理ちゃんの話が終わると、洋子が口を開く。
「ううん。ぜんぜん。あくまのおにいちゃんいがいだったら、おねえちゃんたちがはじめて!」
「そうなんだ」
洋子は一息吸って、
「ねえ裕理ちゃん。"まほう"のこと、これから誰にもいっちゃだめだよ」
言い聞かせるように、裕理ちゃんに言った。
「誰にもって...お母さんやお父さんにも?友達のようちゃんにも?」
「うん。誰にも、ぜえったいに」
「...どーして?」
まだ、いまいちピンと来ていないのか、裕理ちゃんはそんなことを言っている。
「それは...もしかしたら、わるい人が、"まほう"のことを知っちゃうかもしれないからだよ」
「お父さんもお母さんも、わるい人じゃないよ!」
ふくれたように裕理ちゃんは反論する。
「でも、お父さんやお母さんに、魔法のこと話しているときに、どこかでわるーい大人が聞いてるかもしれないよ。そしたらお父さんやお母さんが危険な目にあうかも...」
洋子は脅かすように低い声色で言った。こういうのには、慣れていないのか、あんまり様になっていない。昔、悪いことすると鬼が出ると言っていたおばちゃんのことを思い出した。あれも、わざとらしくて全然怖くなかった、ああいう感じだ。
「そうなったら、裕理ちゃん。いやだよね」
そんな脅しでも、裕理ちゃんには、よく効いたのか、真面目な表情で首をこくりと頷かせた。いつもは小さいのであんまり意識しないけど、洋子も誰かにとってはお姉さんなのだ。なんだか、ほほえましくなった。
「じゃあ、お姉ちゃんと約束してくれるかな」
洋子は、小指以外の指を折った独特の...指切りげんまんの形にした左手を差し出した。裕理ちゃんも、同じように左手をそうした。そして、互いの小指を絡めると、
「ゆーびきりげーんまんうそついたらはーりせんぼんのーます。ゆびきった!」
と、約束の童歌を一緒に歌った。
「秘密だね 秘密」
洋子は、しいと人差し指を口に当て、目を細めた。
「うん、ひみつ」
裕理ちゃんは、その言葉を、しっかりと飲み込んだようだった。
それから、私たちは、長椅子に座っていろいろな話をした。裕理ちゃんは、話したかったことがいっぱいあるみたいで、夕方を過ぎても終わりそうになく、結局、看護師のおばさんに止められる形でその会話は打ち切られた。
「じゃーねーようこおねえちゃん。あと、かずよおねえちゃんも」
看護師のおばさんに連れていかれる裕理ちゃんは、元気に別れの挨拶をしてくれた。そうして、裕理ちゃんは廊下の奥へと消えていった。
「また、あしただって。どうする?」
「もちろん行くよ」
洋子はすぐにそう答えた。その横顔をみながら、でもいつか裕理ちゃんと、別れるときが来るよ、と私の意地悪い部分は、そんなことをひそかに考えていた。
実際、別れは来た。私が思ってたよりも、ずっとはやくに。
このときの、私たちはまだ知らない。