『ボクが美少女になっちゃって、魔法のタロットで放課後探偵団!? ~中身はガチの秀才男子だけど、身体が勝手にドキドキしちゃう 作:夏目陽光
第一回:王冠(ケテル)の簒奪
鏡のなかに、見知らぬ記号が立っている。
私はそれを、反射的に「女」という概念で処理しようとしたが、脳が送ってくる信号と、網膜が捉えた実像との間に、埋めようのない断絶がある。鏡面の向こう側に居座るその十五歳の少女は、私の意志を撥ね退けるように、ただそこに「在る」。
肺が勝手に空気を吸い込み、細い肋骨を押し広げる。その膨張のたびに、私の意識の隅々にまで、湿り気を帯びた熱い微粒子が染み渡っていく。それは、私という「個」を溶解させ、この新しい肉体という「全体」へ従属させようとする、暴力的なまでの生命の律動であった。
私は、私という王冠(ケテル)を戴(いただ)くべき玉座を追われ、今やこの見知らぬ器のなかで、ただの観測者に成り下がったのである。
指先を動かしてみる。
私の脳が下した指令は、神経という長い回路を通り、末端の筋肉へと届けられる。だが、そこから返ってくる「手応え」が、私の記憶にあるものとは決定的に異なっている。節くれ立った骨の感触も、乾いた皮膚の摩擦もない。ただ、雪細工のように白く、しなやかな五本の指が、湿り気を帯びた熱を伴って、空を掻(か)くだけである。
それは、精巧な義肢を遠隔操作しているような、不気味な隔たりであった。私は私の意志でこの指を曲げている。しかし、この指を曲げているのは、私ではない「この肉体」の生理現象に過ぎない。意識という王(ケテル)が、肉体という奴隷に、事後承諾を強要されているのだ。
心臓の拍動が、鼓膜の奥で執拗に響き始めた。
ドク、ドク、というその音は、私の驚愕(きょうがく)を待たず、ただ淡々と、少女の生存のために拍動を刻み続けている。私は、その律動を壁越しに聞く隣人の足音のように聞きながら、同時に、その拍動が運んでくる血の熱さに、思考が少しずつ濁らされていくのを感じていた。
脳漿(のうしょう)が、この肉体の温度に馴染もうとしている。氷のような私の知性が、この十五歳の少女という沸騰する檻の中で、じわじわと解かされていく。それは、死よりも残酷な「上書き」であった。
ふと、背後の扉が音もなく開いた。
振り返ろうとした私の首筋に、この肉体が持つ本能的な恐怖が走り、産毛が逆立つ。私の意識は「誰だ」と冷静に問おうとしたが、喉の奥から漏れたのは、浅く、震えるような吐息だけであった。
部屋に入ってきたのは、漆黒の外套(がいとう)を纏った一人の男である。彼は、鏡の前の「私」を見て、慈しむような、それでいて底知れぬ悪徳を孕んだ微笑を浮かべた。
「お目覚めかな。……いや、どちらが目覚めたと言うべきか」
その声が、私の凍てついた知性を鋭く撫でる。
私は、彼を知らない。だが、この少女の肉体は、彼を知っている。
私の意志に反して、胸の奥が締め付けられるような切なさを帯び、目蓋(まぶた)の裏に熱い液体が溜まり始める。これは、私の感情ではない。この器(うつわ)に染み付いた、過去の記憶という名の「熱」だ。
セフィロトの頂点において、神の二重性(タウミエル)が産声を上げた。
一方の頭は、氷のような知性で事態を解剖し、もう一方の頭は、火のような肉体で他者を求めて哭(な)いている。私は、この双頭の怪物のなかで、どちらが真の「私」であるかを、自ら証明しなければならない。
「……答えてくれ。私は、誰だ」
彼女の声を借りて、私は問うた。
その透明な響きは、冷ややかに室内の空気を震わせ、同時に、私の心の奥底に眠る「何か」を、決定的に叩き起こしたのである。