『ボクが美少女になっちゃって、魔法のタロットで放課後探偵団!? ~中身はガチの秀才男子だけど、身体が勝手にドキドキしちゃう 作:夏目陽光
終章:知識(ダアト)の深淵
その温もりは、私の――いや、この少女の皮膚を透過し、凍てついた意識の最奥にある、最後の防壁を焼き切った。
私は、理解してしまった。
この者の差し出した掌(てのひら)の熱が、単なる摂氏(せっし)の温度差ではなく、一人の人間が他者を慈しむという、およそ計器では測り知れぬ「重み」であることを。その重みが、少女の柔らかな肉体を通じて、私の不純な魂を、完膚なきまでに肯定しようとしている。
それが、耐えられなかった。
私は、私のものではない肉体で、この聖なる温もりを掠め取っている。私がこの肉体の中で「生きる」ことは、即ち、この少女に向けられたはずの愛を、永遠に泥塗(どろまみ)れにし、偽造し続けることに他ならない。
知性は、もはや私を救わない。肉体の熱は、もはや私を惑わさない。ただ、この「理解(ダアト)」という名の残酷な光が、私の犯した、存在そのものの罪を冷徹に照らし出していた。
私は、一歩、後ずさった。
彼女の瞳から溢れる涙は、もはや生理現象ではなかった。それは、私の凍てついた自意識が、初めて「他者の痛み」という熱に触れて、音を立てて決壊した証(あかし)であった。
「……すまない。私には、これを受け取る資格がないのだ」
彼女の喉を使い、私は初めて、自分の言葉としてそれを放った。
鈴を転がすような少女の声が、悲劇的なまでの純粋さを伴って、洋館の静寂に吸い込まれていく。私は、私を案じるその者の顔を、二度と見ることができなかった。
セフィロトの樹は、私の内側で枯れ果てた。
クリフォトの悪徳も、今や私の虚無を埋めるには足りない。
私は、二つの木を繋ぐ「見えない橋(ダアト)」の上に立ち、眼下に広がる、底知れぬ無の深淵を見つめた。
解決は、一つしかなかった。
この熱い肉体を、この温もりを、これ以上汚さないために。
私が「私」という異物として、この少女の物語から、永遠に退場すること。
私は、手近にあった鋭利なガラスの破片を、震える指先で拾い上げた。
肉体は、恐怖に戦慄(わなな)き、生きたいと叫んでいる。心臓は、逃げろと、抗えと、烈(はげ)しい拍動を繰り返している。
だが、私の知性は、かつてないほどに凪(な)いでいた。
私は、彼女の細い手首に、その冷たい切っ先を当てた。
熱い血が、鮮やかな紅(くれない)の筋となって、私の視界を塗り潰していく。
痛みはない。ただ、自分という不純物が、この少女の肉体から、一滴、また一滴と流れ出していく、清冽(せいれつ)な解放感だけがあった。
次第に、意識が遠のいていく。
十五歳の少年の記憶が、十五歳の少女の熱が、混ざり合い、薄まり、最後には一つの白い光となって霧散していく。
私は、最後に、誰にも聞こえない声で、彼女の喉を使って呟いた。
「……ありがとう」
それは、奪った命への謝罪か、与えられた温もりへの感謝か。
答えを知る者は、もはやこの世のどこにもいない。
洋館の窓から差し込む、冷ややかな月光が、床に広がった熱い溜まりを、静かに照らし出していた。
そこにはもう、探偵も、怪物も、少年もいない。
ただ、すべてを理解(ダアト)し終えた、永遠の沈黙だけが横たわっていた。