突然のご都合主義、ご容赦願いたい(ラインハルト風)
轟音。ただただ、耳を劈くような風の咆哮だけが世界を支配していた。
「ギュンター……っ!!」
伸ばした小さな手は虚空を掻き切るだけで、老騎士の姿はすでに底知れぬ暗闇の奥へと呑み込まれていた。無限の渓谷。その名の通り、奈落へと続く漆黒の口が、今度は僕自身を丸呑みにしようと待ち構えている。
裏切り、絶望、そして死。
冷たい風が全身を打ち据え、浮遊感と落下への恐怖で心臓が破裂しそうになる。
(……僕、ここで死ぬんだ……)
ぎゅっと目を閉じ、意識が遠のきかけたその瞬間だった。
「カムイ様ぁぁぁっ!!!」
鼓膜を震わせる、聞き慣れた悲痛な叫び声。
直後、ドンッ!と柔らかな、けれど力強い何かが僕の小さな体を空中で受け止めた。
目を見開くと、そこにあったのは美しい白銀の鱗。透き通るような青い宝石を額に輝かせた星竜——リリスだった。
「リ、リス……!?」
「カムイ様、お掴まりくださいっ!」
竜の背には、暗夜のメイド服をひるがえし、必死の形相でこちらへ手を伸ばすフェリシアとフローラの姿があった。彼女たちは、城を離れた僕の身を案じ、密かに後を追ってきていたのだ。
「届いて……っ! お願いします、カムイ様っ!」
フェリシアの震える両手が僕の体を強く引き寄せ、フローラが背後から彼女ごと僕を抱え込むようにして竜の背に固定する。
直後、谷底の瘴気が意思を持ったように渦を巻き、僕たちを丸ごと飲み込んだ。
ぐにゃりと、世界が反転するような奇妙な感覚。水の中を息をせずに泳いでいるような、圧倒的な重圧と紫色の霧。
その息苦しさに意識を手放しそうになった直後——視界が、暴力的なまでの「白」に染まった。
「……きゃあっ!?」
「くっ……!」
リリスの体が空中に放り出され、僕たちは柔らかな草むらへと転がり落ちた。
全身を打つ衝撃。しかし、それ以上に僕の体を重く、気怠くさせたのは、頭上から容赦なく降り注ぐ「光」だった。
「……う、あ……」
眩しすぎる。そして、息苦しい。
お日様の光を浴びると、どうしても気分が塞いで、鉛を飲んだように体が重くなってしまう。薄暗い暗夜の城や、日の当たらない日陰が好きな僕にとって、雲一つない青空から突き刺さるような直射日光は、ただただ心をどんよりと沈ませる猛毒のようだった。
「……僕、もう……だめ、かも……」
「カムイ様!? カムイ様っ、ああ、どうしよう、お顔が真っ青です……っ!」
草むらにぐったりと倒れ込んだ僕の頭を、フェリシアが慌てて抱き起こす。彼女の豊かな胸の谷間に、僕の小さな顔がすっぽりと埋もれた。
ドクン、ドクンと、フェリシアの激しい心音が耳のすぐそばで鳴っている。死の恐怖から主君を救い出した安堵からか、彼女の体は小刻みに震え、甘い汗の香りと共に、熱を帯びた吐息が僕の首筋にハァハァと降りかかってきた。
「生きて……生きていらっしゃる……っ。よかった、本当によかった……っ!」
「ふぇ、りしあ……苦し、いよ……でも、お日様が……」
光を浴びて、ズーンと沈み込んでいく僕の精神状態にいち早く気付いたのは、フローラだった。
「フェリシア、離れなさい。カムイ様が日に当たって具合を悪くされています」
氷のように冷たく、それでいてどこか熱情を帯びた声。フローラはひざまずくと、僕の体をフェリシアからそっと奪い取るように抱き寄せた。
スッと、周囲の空気が冷やされる。フローラが氷の魔法を使い、僕たちの周囲にひんやりとした冷気のドームと、分厚い氷の壁を作り出して日陰を生み出してくれたのだ。
「あ……涼し、い……」
「……申し訳ありません、カムイ様。私たちがもっと早く追いついていれば、あのような恐ろしい思いをさせることも……」
日陰に入り、少しだけ呼吸が楽になった僕の頬を、フローラの冷たい指先が這うように撫でた。普段は感情を表に出さない彼女の瞳が、今は水気を帯びて妖しく揺らいでいる。
ひんやりとした彼女の手のひらが、僕の首筋から鎖骨へと滑り降り、心臓の鼓動を確かめるように胸元に押し当てられる。その冷たさと、彼女自身の体から発せられる仄かな熱のギャップに、ぞくりと背筋が震えた。
「フローラ……僕、大丈夫だから……」
「いいえ、いけません。お顔色がまだ優れません。……このまま、私の体温で……いえ、冷気で、少し休んでいてください」
言い訳をするように視線を逸らしながらも、フローラは僕の小さな体を抱きしめる力を決して緩めない。むしろ、逃がさないとばかりに強く密着してくる。
そこへ、人間の姿に戻ったリリスがふらふらと歩み寄り、僕の足元に崩れ落ちるように座り込んだ。
「カムイ様……っ」
「リリスも……ごめんね、無理させちゃって……」
「何を仰いますか。私の命は、カムイ様のためにあるのです」
リリスの白い手が、僕の膝から太ももへとそっと添えられ、祈るようにすりすりと頬を押し付けられる。フェリシアも負けじと背中側から覆い被さるように抱きついてきて、僕は完全に3人の温もりと甘い香りの檻の中に閉じ込められてしまった。
頭上には白夜の容赦ない太陽。しかし、氷の壁に守られたこの狭い日陰の空間だけは、彼女たちの過保護すぎる愛情と、生き延びた興奮の熱気で、じっとりと甘い湿度に満たされていた。
「……カムイ様。ここは、白夜王国の領内のようです。すぐに誰かが異変に気付いてやってくるでしょう」
フローラが、僕の耳元で唇が触れるほど近い距離で囁く。その吐息に混じる微かな震えが、僕の肌をくすぐった。
「それまで……もう少しだけ、こうさせてください……。あなたが無事であるという証を、私に……っ」
首筋に、フローラの柔らかな唇が触れた気がした。それは看病という名目を借りた、彼女たちなりの切実な愛情表現だった。
太陽のせいで気怠いのか、それとも彼女たちの濃密な熱気に当てられたのか。僕の頭は次第にぼんやりと甘く痺れ始めていた——。