中立国イズモ。神々への祈りと豊かな湯量に恵まれたこの国は、国境の緊張が嘘のように、のどかで平和な空気に包まれていた。しかし、街のあちこちから立ち上る温泉の湯気と、容赦なく降り注ぐ白夜の太陽は、僕の小さな体から急速に体力を奪い去っていく。
「……ふぅ、あつい……」
「お兄様、大丈夫ですか……? お顔が、とても赤いです……」
僕の右腕に、サクラが両腕でしっかりと抱きつき、その体を密着させてくる。彼女の小さな手から絶え間なく流れ込む治癒の魔力は、確かに僕の疲労を和らげてくれる。しかし、温泉街の湿度と相まって、サクラ自身の体温と、ふわりと香る桜の甘い匂いが、僕の理性をじっとりと溶かしていくようだった。彼女の柔らかな胸の膨らみが僕の腕に押し付けられ、トクン、トクンという彼女の激しい鼓動が直接伝わってくる。
「サクラ、少し……近い、かも……。暑くない?」
「……暑くなんてありません。お兄様の温もりを感じていないと、私……不安で、息が詰まって死んでしまいそうですから……っ」
サクラは潤んだ瞳で僕を見上げ、さらに強く腕を締め付けた。その視線は、もはや純粋な妹のそれではなく、僕という存在を自らの内に取り込もうとするような、甘く重い熱情に支配されていた。
「……サクラ様。カムイ様が汗をかいておられます。これ以上、熱を押し付けないでください」
左側から、スッと冷たい空気が割り込んできた。フローラが、手袋を外した白く冷たい指先を、僕のうなじから襟元へと滑り込ませた。
「ひゃっ……ふろーら……っ」「……お日様の熱と、温泉の湯気。カムイ様には少し刺激が強すぎますね。私の氷で、お体の芯まで冷やして差し上げます……」
彼女の指先が、僕の背骨に沿ってゆっくりと這い下りる。凍えそうなほど冷たいはずなのに、彼女の指が触れた場所から、逆にゾクゾクとするような火照りが広がっていく。フローラの顔が近づき、彼女の冷たい吐息が僕の耳朶を直接撫でた。看病という名目を借りた、彼女なりの強烈なマーキングだった。
「わ、私だって! カムイ様のお汗、拭きますからっ!」
背後からは、フェリシアが背伸びをして僕の額に布を当ててくる。その拍子に、彼女の豊かな双丘が僕の後頭部や背中にふにゅりと押し付けられ、彼女のむせ返るような体温がダイレクトに伝わってくる。
右からはサクラの逃げ場のない依存と治癒の熱。左からはフローラの凍てつく愛撫と独占欲。後ろからはフェリシアの無自覚で暴力的なまでの肉体的な密着。そして前を歩くアクアは、時折振り返っては、僕たちをまるごと深淵に引きずり込むような、静かで深い金色の瞳で僕を見つめている。イズモの平和な景観の中で、僕の周囲だけが、息の詰まるような重たくて甘い愛の牢獄と化していた。
***
「イエーイ! よく来たねー、白夜と暗夜の皆さーん! 僕がイズモ公王、イザナだよーっ!」
イズモ公国の王城の広間。そこに現れたのは、神々しい神官の衣装を身に纏いながらも、どこか軽薄でハイテンションな男だった。長い髪を揺らし、ピースサインを作って僕たちを歓迎する。フウガ殿から聞いていた「神々の声を聞く不可侵の王」という厳かなイメージとは、あまりにもかけ離れていた。
「えっと……あなたが、イザナ公王?」
「そーそー! 君がカムイちんだね? 噂は聞いてるよー! 白夜と暗夜の架け橋になりたいって? いやー、素晴らしいね! 感動したっ! というわけで、まずは歓迎の宴といこうじゃないか!」
イザナの合図で、豪華な食事が運ばれてくる。
「ささ、遠路はるばるお疲れ様! このイズモ特製の『神酒』を飲んで、ゆっくり休んでよ!」
イザナは自ら杯を手に取り、僕の目の前へと差し出してきた。
「あ、ありがとうございます……」
僕がその杯を受け取ろうと手を伸ばした、その瞬間だった。
「……お待ちください」
パシッ、と。フローラの冷たい手が、僕の手首を強く掴んで引き止めた。
「フローラ……?」
フローラは氷のように冷ややかな視線を、イザナの差し出した杯、そしてイザナ自身へと向けた。
「……カムイ様、そのお酒には口をつけてはなりません」
「えっ?」
「……暗夜特産の『まどろみ草』の匂いがします。無味無臭に近いですが、微かに土の匂いが残る。……暗夜の宮廷で、我々メイドが暗殺者を警戒する際によく嗅いだ匂いです。強力な睡眠薬ですよ」
フローラの言葉に、広間の空気が一瞬にして凍りついた。イザナの顔から、あの軽薄な笑みがスッと消え失せる。
「それに……」
フェリシアが、エプロンの下からチャキッと鋭い暗器を引き抜いた。
「あなたの足元、おかしいです。イズモの神官は神聖な儀式のために素足に草履を履くはずなのに、あなたの足首には、暗夜の魔道士特有の黒い革の防具が見えていますっ!」
フェリシアの指摘に、イザナはチッと舌打ちをした。完璧な変装のはずだった。しかし、彼が計算に入れていなかったのは、僕の側に、暗夜の宮廷の裏側を知り尽くしたメイドたちが二人も……それも、僕を守るためならどんな些細な違和感も見逃さない、異常なほど過保護な従者たちが張り付いていたことだ。
「……くそっ。暗夜のメイド共め、余計な知識を……!」
イザナの姿が、ぐにゃりと歪んだ。幻術が解け、そこに現れたのは、醜悪な笑みを浮かべた暗夜王国の魔道士――ゾーラだった。
「ゾーラ……! ガロン王の側近の……!」
「ヒヒヒッ! バレてしまっては仕方がない。ガロン様からは、貴様ら裏切り者を捕らえよと仰せつかっているのだ! ここで全員、始末してやる!」
ゾーラが杖を振り上げると、周囲の隠し扉が開き、伏兵の暗夜兵たちが一斉に雪崩れ込んできた。
「ガロン様から賜った氷の魔法具で、驚かせてさしあげますよ! ヒョーッホホホ!」
ゾーラの杖から放たれた魔力が、広間の床と壁を一瞬にして分厚い氷で覆い尽くしていく。
「カムイ様ッ! 下がっていてください!」
「お兄様、私の後ろへ……っ!」
僕が夜刀神を抜くよりも早く、四人の少女たちが僕を庇うように前面に飛び出した。サクラは僕の腕をきつく抱きしめたまま、強力な光の結界を張り、一切の攻撃を僕に届かせない。アクアの清冽な歌声が水の魔力を呼び起こし、敵の動きを鈍らせる。
「ヒャハハハ! 氷に閉ざされ、凍え死になさぁーい!」
ゾーラが氷の魔法を僕の結界に向けて放つ。しかし、その魔法が届くより早く、フローラが鼻で笑って前に出た。
「……氷の扱いを、氷の部族である私に教えようとでも? 魔法具頼りの氷など……片腹痛いですね」
フローラが指を弾いた瞬間。広間を覆っていたゾーラの氷が、逆にゾーラ自身と暗夜兵たちの足元に絡みつき、彼らを瞬時に氷漬けにしてしまったのだ。
「なっ……バ、バカな……! 私の魔法具の力が……ヒィッ!?」
フローラの氷の暗器が正確に暗夜兵の武器を粉砕し、フェリシアの爆炎が広間を包み込んで残りの敵を制圧する。圧倒的な制圧力。僕を守るという一点において、彼女たちの連携はもはや狂気的なまでの完成度を誇っていた。
「……そこまでだ、ゾーラ」
僕は結界の中から歩み出て、夜刀神の切先を腰を抜かしたゾーラの喉元へと突きつけた。
「ヒィィッ……! ま、待ってくれカムイ様! 降参だ、降参する!」
「本物のイザナ公王はどこだ? それに、イズモの兵士たちはどうした」
「ち、地下の牢屋だ! 本物のイザナも、たまたま偵察に来ていた白夜の王子も、罠にかけて全員捕らえてある!」
「白夜の王子……! まさか、タクミか!?」
***
ゾーラを拘束し、僕たちは薄暗い地下の牢獄へと急いだ。鉄格子の中にいたのは、傷だらけになりながらも鋭い眼光を失っていないタクミと、その臣下であるオボロ、ヒナタの三人。そして、彼らとは対照的に、どこか呑気な顔で座禅を組んでいる本物のイザナ公王だった。
「タクミ……! 無事だったか!」
僕が牢の鍵を斬り裂き、鉄格子を開けると、タクミは驚愕に目を見開いた。
「カムイ……!? なぜ、お前がここにいる! 裏切り者の、お前が……!」
タクミは痛む体を引きずりながら立ち上がり、僕をきつく睨みつけた。しかし、僕がゾーラを倒して彼らを助けに来たという状況が、彼の思考を混乱させているようだった。
「説明は後だ。とりあえず、ここから出よう」
「触るな! お前の情けなど受けないっ!」
僕が差し伸べた手を、タクミが激しく払い退けようとした、その時。
「……カムイ様のお手に触れないでいただけますか。白夜の王子様」
スッと僕の前に立ち塞がったフローラが、極寒の冷気を纏いながらタクミを睨み下ろした。
「カムイ様は、あなた方を救うために危険を冒したのです。その恩を仇で返すというのなら、私がここであなたを氷漬けにいたしますが?」
「なんだと……っ、暗夜の女が!」
タクミが風神弓を構えようとするが、オボロとヒナタが慌てて彼を制止した。
「タクミ様、いけません! 今はこちらが丸腰です!」
「そうッスよ! とりあえず、ここを出るのが先ッス!」
「……やあやあ、助かったよカムイちん!」
緊迫した空気を破るように、本物のイザナがふわりと立ち上がった。
「いやー、暗夜の幻術師に一杯食わされちゃってさ! でも、君たちが来てくれるって、僕の『神託』で視えてたから、安心して待ってたんだよねー!」
「イザナ公王……ご無事で何よりです」
僕が頭を下げると、イザナはニコリと笑い、そしてタクミの方へと向き直った。
「さてさて、白夜のタクミ王子。君は彼を『裏切り者』だと思っているようだけど……僕の神託は絶対だよ? 神々は、カムイちんの歩む道こそが、この世界を救う『真実の道』だと告げている」
「なっ……神託が、彼を肯定していると……? バカな、母上を殺した暗夜のバケモノだぞ!」
タクミが噛み付くが、イザナは静かに首を振った。
「自分の目で見て、心で感じなよ。彼が本当に白夜の敵なら、君をここで見殺しにすればよかったはずだ。……でも、彼は君を助けた。それが答えじゃないのかな?」
イザナの言葉に、タクミはぐっと言葉を詰まらせた。僕を見るタクミの瞳には、憎しみと、そして拭いきれない戸惑いが入り混じっていた。
「……タクミ。僕は、白夜も暗夜も、絶対に滅ぼさせない。本当の敵は、別にあるんだ」
僕は真っ直ぐにタクミの目を見て言った。
「信じてくれとは言わない。でも……どうか、真実を見極めるために、少しだけ僕たちと行動を共にしてくれないか」
タクミは唇を噛み締め、オボロとヒナタの顔を交互に見た後、深く、重い溜息を吐き出した。
「……勘違いするなよ。僕はまだ、お前を許したわけじゃない。母上の仇である暗夜の連中とつるんでいるお前を、信用したわけでもない」
タクミは僕から目を逸らし、忌々しげに吐き捨てた。
「だが……イザナ公王の言葉には重みがある。それに、助けられた借りを返さないのは、白夜の武士の恥だ。……一時的だ。一時的にだけ、お前たちと行動を共にしてやる」
タクミの言葉に、僕は安堵の息を漏らした。まだ完全な和解には程遠い。でも、これで確実に「第三の道」への理解者が増えたのだ。
「……カムイお兄様。よかったですね」
サクラが、僕の腕にぎゅっと抱きつきながら、耳元で甘く囁いた。
「でも……タクミお兄様がいても、カムイお兄様の一番近くは……私だけの場所ですからね……」
彼女の潤んだ瞳が、僕を独占するように見上げてくる。背後からは、フローラとフェリシアが「白夜の王子が何人増えようと、カムイ様をお守りするのは私たちです」と、僕の背中や肩にそっと触れ、互いの体温と冷気を押し付け合っている。アクアは少し離れた場所から、僕が彼女たちの愛の重力に絡め取られていくのを、静かに、そして満足げに見つめていた。イズモの地下牢。新たな味方を得た喜びの裏で、僕の心と体は、彼女たちの濃密で逃げ場のない愛情の網の目に、さらに深く、甘く縫い付けられていくのだった――。