イズモ公国の夜は、どこまでも静かで、そして甘い湯の香りに満ちていた。
偽公王ゾーラを捕らえた日の夜。僕に宛てがわれた王城の一室は、外の涼やかな夜風とは無縁の、息が詰まるほど濃密でじっとりとした熱気に支配されていた。
「……カムイお兄様。お髪が、まだ少し湿っています……」
僕の背中に回されたサクラの小さな手が、湯上がりの僕の髪を梳くようにゆっくりと撫で下ろす。彼女は背後から僕の小さな体をすっぽりと抱き込むように座り、その柔らかな胸を僕の背中にきつく押し当てていた。
「サクラ……ありがとう。でも、もう乾いてるよ……?」
「だめです……。お兄様の髪から、イズモの温泉の匂いと……お兄様自身の匂いが混ざって、私、もう……このまま溶けてしまいたいくらい……っ」
サクラの熱っぽい吐息が僕のうなじを直接撫で、彼女の震える唇が、服の襟足から覗く僕の肌にちゅっと、微かな音を立てて触れた。
「あ……っ、サクラ……」
背筋を駆け抜ける甘い痺れ。彼女の治癒の魔力とは違う、剥き出しの依存と情熱が、僕の体温を急激に引き上げていく。
「……サクラ様。カムイ様がのぼせてしまいますよ」
正面から、スッと冷たい空気が割り込んできた。
寝巻き姿の上に薄いケープを羽織ったフローラが、僕の足の間に膝を進めるようにして座り込み、その氷のように冷たい指先で僕の頬を包み込んだ。
「ふぁ……っ、ふろーら、つめたい……」
「ええ。あなたの熱を奪うのは私だと、いつも言っているではありませんか。……白夜の姫君のぬるま湯のような熱など、私がすぐに冷やして差し上げます」
フローラの顔が極端に近づき、彼女の濡れたような冷たい唇が、僕の額にそっと押し当てられる。
「ん……っ」
「も、もう! 二人とも抜け駆けですっ! 私だって、カムイ様を冷やし……ううん、お世話したいですっ!」
横から飛び込んできたフェリシアが、勢い余って僕の膝の上に倒れ込んできた。
「わっ、フェリシア!?」
「あうっ……カムイ様、ごめんなさい……でも、カムイ様のお膝、すごく居心地がいいです……っ」
ドサリと、僕の膝の上にフェリシアの豊かな体が乗しかかる。甘い汗と湯上がりの匂いが混じり合い、柔らかな太ももが僕の肌に直接触れ合う。
右からはサクラの逃げ場のない抱擁。前からはフローラの凍てつく愛撫。下からはフェリシアの暴力的なまでの密着。
部屋の隅の長椅子から、アクアが静かに、しかしすべてを支配するような深い金色の瞳で僕たちを見つめている。
僕の周囲だけが、完全に狂おしい愛の牢獄として完成しつつあった。
その密室の空気を破ったのは、バンッ!という乱暴な襖の開閉音だった。
「……やれやれ。戦いの直後だというのに、ずいぶんと破廉恥なご身分だね、カムイ兄さん」
「……レオン!?」
部屋の入り口に立っていたのは、紫色のマントを羽織った暗夜の魔道士――レオンだった。彼の背後には、ゼロやオーディンの姿もある。
僕が弾かれたように立ち上がろうとすると、フローラたちが一斉に殺気を放ち、僕を背後に庇って武器を構えた。
「警戒しなくていいよ。……兄さんたちを氷漬けにしようとしたあのゾーラという愚か者は、僕が『処理』しておいたからね」
レオンは呆れたようにため息をついた。
「我が暗夜王国軍の恥晒しめ……。あんな卑劣な手を使ってまで勝とうとするとは。だから、僕が魔道で塵にしてやったのさ」
「レオン……君が、ゾーラを……?」
「勘違いしないでよね。別に兄さんを助けたわけじゃない。僕はただ、父上の名に泥を塗る者を排除しただけだ」
レオンは冷たく言い放つが、その瞳の奥には、僕の無事を確認して安堵したような、微かな光が揺れていた。
「……カムイ! まだそんな暗夜のバケモノ共とつるんでいるのか!」
レオンと入れ替わるように、廊下の奥から鋭い怒号が響いた。
地下牢から解放されたばかりのタクミが、風神弓を握りしめて駆けつけてきたのだ。
「暗夜の魔道士がこんなところにまで……! 貴様ら、やはりグルだったんだな!」
タクミが矢を番える。レオンもスッと魔道書を構えた。
「野蛮な白夜の王子が。……兄さんに近づく者は、僕が焼き尽くしてあげるよ」
「二人とも、やめるんだッ!!」
僕が間に入ろうとした、その時。
「……やあやあ、夜分遅くに喧嘩はごめんよー!」
イザナ公王が、二人の間にふわりと割り込んできた。
「レオンちんにタクミちん! ここは中立国イズモだよ? 武器はしまってしまって!」
「イザナ公王……ですが、こいつらは母上の仇だ!」
「暗夜の誇りを汚す白夜の虫けらめ……」
「まあまあ! そこで、僕もね、イズモの公王として、そして古き神々の血を引く者として、やらなきゃいけないことがあるんだ」
イザナのその言葉には、先程までの軽薄さは微塵もなく、どこまでも静かで重い覚悟が宿っていた。
その変化に気づいたアクアが、スッと立ち上がった。
「……イザナ、まさか」
イザナは静かに目を閉じ、深く息を吸い込んだ。
彼が再び目を開けた時、その瞳は神々しいまでの光を放ち、周囲の空気がビリビリと震えるほどの強大な魔力が満ち始めた。
「……カムイちん。君が選んだ道は、光も闇もない、いばらの道だ。君たちには、世界を納得させるだけの『絶対的な大義』が必要だ。……だから僕は、古の神々に命を捧げ、この身と引き換えに、君の歩む道が真実であるという『究極の神託』を下そう」
イザナの体が、淡い光に包まれ始める。
彼の命の炎が、凄まじい勢いで燃え上がり、そして消えようとしているのがわかった。
「このイズモの公王である僕が、命を賭して下した神託となれば、白夜も暗夜も、決して無下にはできない。……それが、僕にできる君への最大のプレゼントさ」
「待って……!」
僕は弾かれたように立ち上がり、光に包まれるイザナに向かって叫んだ。
「やめてくれ、イザナ! 誰かの命を犠牲にして手に入れる大義なんて、僕はいらないッ!」
「……カムイちん。これは、僕の運命なんだよ」
「運命なんかじゃない! 僕は……もう二度と、僕のために誰かを死なせたりしない!」
僕は夜刀神を引き抜き、イザナを包む神聖な光の結界に向かって、渾身の力で斬りかかった。
「はあああぁぁッ!!」
ガキィィンッ!という鋭い音が響く。しかし、神々の力が込められた結界は硬い。
「カムイ様ッ!」
「……させません!」
背後から、フェリシアとフローラが飛び出してきた。
フローラの放つ絶対零度の氷が結界の一点を急激に冷やし、フェリシアの爆炎がそれに続いて激しい温度差を生み出す。
サクラが僕の背中にぴたりと張り付き、膨大な治癒の魔力を僕の夜刀神へと注ぎ込んだ。
「お兄様の願いは、私の願いです……っ! お願い、壊れてッ!」
そして。
『ユラリ ユルレリ……』
アクアの清冽な歌声が、結界の魔力を波のように乱していく。
僕を縛り付ける彼女たちの重く甘い愛情が、この時ばかりは一つの巨大な力となって僕の剣に宿った。
「うおおおぉぉッ!!」
パァンッ!!
という爆音と共に、イザナを包んでいた命を削る結界が、粉々に砕け散った。
「な……っ!?」
イザナは驚愕に目を見開き、その場に崩れ落ちた。
彼の命の炎は消えることなく、ただ極度の疲労に荒い息を吐いている。
「はぁ……っ、はぁ……」
僕も膝をつき、肩で息をした。
すぐさまサクラが僕に抱きつき、フローラが僕の額の汗を冷やし、フェリシアが背中を支える。
「……信じられない。神々への儀式を、力技で破るなんて……」
イザナは呆然と呟き、やがて、おかしそうにくすくすと笑い始めた。
「あーあ、失敗しちゃった。せっかくかっこよく散ろうと思ったのにさー」
「勝手に死なないでよ。……君が生きて、僕たちを支持してくれるなら、それだけで十分な大義になるはずだ」
僕が言うと、イザナは真剣な顔つきに戻り、深く頷いた。
「……分かったよ、カムイちん。君のその強引で真っ直ぐな優しさに負けた。僕は生きて、イズモ公王として君の『真実の道』を世界に宣言しよう」
イザナの宣言を聞き、タクミとレオンは複雑な顔で互いを、そして僕を見つめた。
「……イザナ公王がそこまで言うなら、このまま手を貸し続けてやるか。だが、お前が少しでも怪しい真似をしたら、この風神弓で背後から射抜くぞ」
タクミが風神弓を下ろし、渋々ながらも同行を宣言した。
「やれやれ。白夜の王子と手を組むなんて反吐が出るけれど……兄さんがそういうなら、仕方ない。僕も、少しだけ様子を見てあげるよ」
レオンもまた、魔道書を閉じた。
「タクミ……レオン……ありがとう」
僕が安堵の息を漏らすと、サクラが僕の腕をきつく握りしめた。
「……タクミお兄様や、暗夜の王子がいても……カムイお兄様の一番近くは、私だけの場所ですからね……」
彼女の潤んだ瞳が、僕を独占するように見上げてくる。
背後からは、フローラとフェリシアが「王子たちが何人増えようと、カムイ様をお守りするのは私たちです」と、互いの体温と冷気を押し付け合っている。
アクアは少し離れた場所から、僕が彼女たちの愛の重力に絡め取られていくのを、静かに、そして満足げに見つめていた。
「さて、次の目的地だけど……」
軍議の間で、ギュンターが地図を指差す。
「タクミ殿とレオン殿からの情報によれば、白夜軍のサイゾウ殿とユウギリ殿が、暗夜に寝返った『フウマ公国』の軍勢と交戦中とのこと。我々もそこへ向かい、彼らを救出して自軍に引き入れましょう」
フウマ公国。暗夜の側についた忍びの国。
新たな戦いの予感に、僕は気を引き締めた。
「カムイ様、準備は万端です。……いつでも、あなたのお背中をお守りいたします」
フローラが僕の首筋に冷気を這わせ、フェリシアが豊かな胸を僕の腕に押し付ける。
「お兄様……私、ずっと……ずっとお兄様から離れませんから……」
サクラが僕のもう片方の腕をきつく抱き込み、アクアが僕の手に指を絡めた。
彼女たちの重く、息の詰まるような愛の鎖を全身に巻きつけたまま、僕はタクミとレオンという新たな仲間(火種)を抱え、フウマ公国へと足を踏み出すのだった。