星界(マイキャッスル)の奥深く、僕の私室は、外の世界の戦火が嘘のような、ひどく甘く、そして息の詰まるような静寂に包まれていた。
「……ん、っ……」
微かな水音と、衣擦れの音。
僕は円卓の地図を前にして椅子に座っていたはずだったが、気づけばその小さな体は、背後から覆い被さってきたフェリシアの豊かな胸の谷間に、すっぽりと後頭部を沈められていた。
「カムイ様……お疲れですね。肩、揉んで差し上げますから……」
フェリシアの体温は相変わらずむせ返るほどに高く、彼女の甘い汗の香りが僕の鼻腔を直接甘く痺れさせる。彼女の柔らかな指先が僕の肩から首筋を揉みほぐすたび、その背後にある圧倒的な肉感と熱が、僕の背骨にじっとりと押し付けられた。
「フェ、フェリシア……ありがとう、でも少し、苦しいかも……」
「だめです。……カムイ様が無理をして倒れてしまったら、私、どうにかなってしまいますから。こうして、ずっと温めて……」
「……フェリシア。あなたが密着しすぎて、カムイ様の体温が不自然に上がっていますよ」
右側から、冷ややかな声と共に、氷のように冷たい指先が僕の襟元からスッと滑り込んできた。
フローラだ。彼女は手袋を外した白く透き通るような指で、僕の脈打つ頸動脈をそっと押さえ、そのまま鎖骨の窪みへとねっとりと這い下りてくる。
「ひゃっ……ふろーら、つめ、たい……」
「ええ、冷やして差し上げます。……あなたのその熱を奪い、心地よい痺れを与えるのは、私の冷気だけですから……」
フローラの顔が極端に近づき、彼女の凍てつく吐息が僕の耳朶を撫でる。熱気と冷気。相反する極端な温度が僕の小さな体の中で混ざり合い、思考がドロドロに溶かされていく。
「……お兄様から、離れてください」
僕の左腕に両腕を絡ませ、そこに自らの柔らかな膨らみをぎゅっと押し付けていたサクラが、フローラを潤んだ瞳で睨みつけた。
「お兄様の疲労は、私が治癒します。暗夜の冷たい氷なんて……お兄様には必要ありませんっ」
サクラの小さな手から、桜色の温かい光が流れ込んでくる。母を失い、僕という存在にすべてを依存しきった彼女の治癒は、もはや純粋な祈りではなく、僕の体の隅々にまで自分の痕跡を刻み込もうとするような、ひどく執着に満ちた熱を帯びていた。
「サクラ……大丈夫だよ、君の魔力も尽きちゃうから……」
「嫌です……っ。お兄様の温もりを感じていないと、私、世界が真っ暗になってしまうんです……。だから、ずっと……」
サクラは僕の腕に顔を埋め、すりすりとその頬を擦り付けてくる。
右からはサクラの逃げ場のない依存。
左からはフローラの凍える独占欲。
後ろからはフェリシアの暴力的なまでの密着。
そして、僕の正面の卓に腰掛け、その様子を静かに見下ろしているのはアクアだった。
彼女は何も言わず、ただその深く透き通った金色の瞳で僕を射抜いている。彼女の視線が僕の唇に落ちた瞬間、目に見えない水底へ引きずり込まれるような、圧倒的な精神の支配を感じた。
「……随分と、お楽しみのようだな」
バンッ、と遠慮のない音を立てて私室の扉が開いた。
腕を組み、忌々しげにこちらを睨みつけているのはタクミだった。その後ろには、オボロとヒナタ、そしてガンターが控えている。
「タクミ……!」
僕が慌てて身をよじろうとするが、フローラたちはまるで自分の所有物を見せつけるかのように、僕の体に絡めた腕の力を微塵も緩めようとしなかった。
「チッ……。相変わらず、暗夜の女共に骨抜きにされてるのか。まあいい、軍議を始めるぞ。イザナ公王から大義を得た以上、僕たちもただ隠れているわけにはいかないからな」
タクミは皮肉交じりに鼻を鳴らしながらも、円卓に新たな地図を広げた。オボロが、僕に纏わりつくフローラたちを「ふしだらな……」と顔を赤くして睨みつけているが、暗夜のメイドたちは涼しい顔で僕の肌を撫で続けている。
「……各地に放っていた斥候から、重要な知らせが入りました」
ガンターが重々しい口調で切り出した。
「暗夜王国の北方に位置する『シヴァリエ公国』が、暗夜に対し反旗を翻そうとしているとのこと。どうやら、カムイ様が白夜でも暗夜でもない第三の道を掲げ、フウマ公国を平定したという噂に感化されたようです」
「シヴァリエ公国が……独立を?」
「ええ。しかし、問題はそこからです。その動きを利用し、暗夜の背後を突こうと……白夜軍の第一王子、リョウマ殿が極秘裏にシヴァリエへ向かったという情報が入りました」
「リョウマ兄さんが!」
僕は弾かれたように身を乗り出した。
「だめだ、リョウマ兄さんが暗夜の領地で暴れれば、本格的な全面戦争になってしまう。それに、暗夜側だって黙って見ているはずがない……!」
「その通りです」
アクアが静かに立ち上がり、地図のシヴァリエ公国を細い指で指し示した。
「暗夜王国は、反乱の鎮圧とリョウマ兄様の討伐のために、最強の部隊を差し向けるはずよ。……おそらく、カミラ姉様を」
カミラ姉さん。
無限の渓谷で、「悪い子にはお仕置きが必要ね」と、暗く歪んだ笑みを浮かべていた彼女の姿が脳裏に蘇る。僕を骨の髄まで愛し、だからこそ、自分以外の者に奪われるくらいなら殺してしまおうとする狂気的な母性。
「……行くしかない。リョウマ兄さんとカミラ姉さんが激突する前に、僕たちが止めるんだ」
僕の決断に、タクミは渋い顔をした。
「言葉で言うのは簡単だ。だが、相手は暗夜の王族と、白夜の第一王子だぞ。僕たちの今の戦力で、両方の軍勢を相手にして無事に済むと思うのか?」
「それについては、頼もしい援軍が来ていますよ」
ガンターが扉の外へ視線を向けると、小柄な少年が呪符を手に自信満々な足取りで入ってきた。
「私は風の部族の呪い師、ツクヨミだ。フウガ様の命により、お前たちの軍に加勢しに来てやったぞ!」
「ツクヨミ! フウガ殿が約束を守ってくれたんだね」
「ふん、私の術は大人顔負けだからな。白夜の備えと結界の補強は私がやっておく。お前たちは安心して、その雪国の反乱でも何でも止めてこい」
ツクヨミは背伸びをして胸を張る。その実力は、黄泉の階段の戦いでも十分に知っていた。彼が拠点の守りを固めてくれるなら、これ以上心強いことはない。
「ありがとう、ツクヨミ。……よし、方針は決まった。目標はシヴァリエ公国。リョウマ兄さんを止め、そして……」
僕は少しだけ言葉を切り、深く息を吸い込んだ。
「暗夜の討伐軍……カミラ姉さんたちを、この軍の『捕虜』として迎え入れる」
「捕虜に……!?」
オボロが驚愕の声を上げた。
「カムイ様、本気ッスか!? あの暗夜の第一王女を捕らえて説得するなんて……」
ヒナタも信じられないという顔をしている。
「……やるしかないんだ。炎の紋章を覚醒させ、本当の敵を倒すためには、きょうだいたち全員の力が必要だから。カミラ姉さんの臣下……ベルカたちも含めて、誰も殺さずに無力化し、僕たちの仲間に引き入れる」
僕の真っ直ぐな言葉に、タクミはフッと小さく笑った。
「狂ってるな、お前。……だが、イザナ公王が命を懸けて託そうとした道だ。その狂った作戦、僕も少しだけ付き合ってやる」
軍議が終わり、出陣の準備が進む中。
僕の周囲の空気は、再び急速に冷え込み、そして甘く濁り始めていた。
「……カミラ様と、戦うのですね」
フローラが、僕の背後から両腕を回し、その顔を僕の首筋に深く埋めた。
彼女の吐息はかつてないほどに冷たく、そして鋭い執着に満ちていた。
「カムイ様は、あの方の歪んだ愛情に押し潰されてしまうかもしれない。……ああ、そんなの許せません。あなたを氷の檻に閉じ込めて、私だけのものにできたら、どんなに……」
「フローラ……」
「カムイ様っ! 私は、カミラ様よりもずっとずっと、カムイ様を温められますからねっ!」
フェリシアが対抗するように僕の正面に回り込み、その柔らかな体を力強く押し付けてくる。
「どんなに寒い雪国でも、私がカムイ様を熱くして差し上げます……っ」
「……お兄様は、誰にも渡しませ……んっ」
サクラが、僕の腕にしがみついたまま、震える声で呟く。彼女の瞳は暗く沈み、これから会うであろうカミラに対する明確な敵意と恐怖が入り混じっていた。
「……さあ、行きましょうか。凍てつく海を越えて」
アクアが僕の手に、自らの冷たくしなやかな指を絡ませ、静かに引いた。
彼女たちの重く、息の詰まるような愛の鎖を全身に巻きつけたまま、僕は凍てつく海に閉ざされたシヴァリエ公国へと、新たな戦いのために歩みを進めるのだった――。