イズモ公国の外れ、白夜と暗夜の境界に位置する小さな港町。
そこから出港した僕たちの船は、うねるような波を越え、一路、北の「シヴァリエ公国」へと舳先を向けていた。
北上するにつれ、肌を刺すような潮風は急激に温度を下げ、白夜のむせ返るような熱気はとうの昔に彼方へと消え去っていた。
「……くしゅっ」
甲板に吹き付ける凍てつく風に、僕の小さな体が思わず震える。
「カムイお兄様! お体が冷え切ってしまいます……っ!」
すかさず、隣を歩いていたサクラが僕の右腕にすがりつき、自身の羽織ごと僕の体をすっぽりと包み込んできた。
「サ、サクラ……大丈夫だよ、少し風が冷たいだけだから……」
「だめですっ! お兄様の手、こんなに氷みたいに冷たくなって……っ。私が、温めますから……」
サクラは僕の冷え切った両手を自分の小さな両手で包み込み、ハーッ、と温かい桜色の吐息を吹きかける。それだけでは飽き足らず、彼女は僕の手を、自らの羽織の奥――ふくらみのある柔らかな胸元へと強引に引き寄せて、ぴたりと押し当てた。
「あっ……サクラ……っ」
「……お兄様、温かいですか? 私の熱、全部……お兄様にあげますから。だから、私から離れないでくださいね……」
分厚い布地越しでもはっきりと伝わってくる、サクラのトクン、トクンという激しい心音。彼女の潤んだ瞳が至近距離で僕を絡め取り、純粋な庇護欲は、完全に逃げ場のない依存と執着へと変貌していた。
「……サクラ様。カムイ様の手をあなたの胸で温めるなど、いささか破廉恥が過ぎるのではないですか?」
背後から、凍りつくような冷ややかな声が海風を切り裂いた。
振り返る間もなく、僕の背中に、暗夜のメイド服に身を包んだフローラが覆い被さるように密着してきた。
「ふぁ……っ、ふろーら……」
フローラの手袋を外した白く冷たい指先が、僕の首筋から衣服の隙間へと滑り込み、背骨に沿ってスッと這い下りる。
「ひゃっ……つめ、たい……!」
「ええ、冷たいですよ。……この凍てつく海の寒さに体を慣らすには、私の冷気を直に浴びるのが一番です」
フローラは尤もらしい口実を並べながらも、その指先は僕の肌を執拗になぞり、彼女自身の豊かな双丘が僕の背中にきつく押し当てられている。氷のように冷たいはずの吐息が僕の耳朶を打ち、そこから逆にゾクゾクとするような熱が全身に広がっていく。
「ずるいですフローラお姉様! 私だって、カムイ様を毛布でぐるぐる巻きにして温めて差し上げるんですからっ!」
甲板の奥から、分厚い毛布を抱えたフェリシアが駆け寄ってくる。
しかし、船が大きく波に揺れた瞬間。
「あわわっ!?」
フェリシアは毛布に足をとられ、凄まじい勢いで僕たちの方へと倒れ込んできた。
「きゃあっ!」
「うわっ!」
サクラとフローラごと、僕は甲板の隅へと押し倒される。僕の小さな体は、フェリシアが被さってきた分厚い毛布の下で、三人の少女たちの柔らかな肉体と極端な温度差に完全にサンドイッチされる形となった。
「ううっ……カムイ様、お怪我はありませんか……? ああっ、でも毛布の中、カムイ様の匂いでいっぱいです……っ」
フェリシアの熱い頬が僕の首筋にすり寄せられ、彼女のむせ返るような汗と甘い香りが、毛布という密室の中で爆発的に膨れ上がる。
右からはサクラの逃げ場のない熱と治癒の鼓動。
背後からはフローラの凍てつく愛撫と冷気。
そして上からはフェリシアの暴力的なまでの密着。
「……あなたたち。そろそろ離れないと、カムイが窒息してしまうわ」
毛布の隙間から差し込んだ光と共に、冷ややかな、けれどどこまでも静かな声が響いた。
アクアだった。彼女は毛布をスッと払いのけると、もつれ合う僕たちを見下ろし、小さくため息をついた。
アクアの細く冷たい手が僕の頬に触れ、乱れた前髪をそっと直してくれる。その指先の水のような冷たさと、奥底まで見透かすような金色の瞳に射抜かれ、僕の体はビクリと跳ねた。
「……もうすぐ、シヴァリエの海域よ。でも……空がおかしいわ」
アクアの言葉に、僕たちは慌てて体を離した。
先程まで鉛色だった空が、突如として禍々しい紫色の雷雲に覆われ、海面が異常なうねりを上げて船を激しく揺さぶっていた。
「な、なんだ!? 嵐か!?」
タクミが甲板に飛び出してきて、風神弓を構える。
「違います……これは、強大な魔力による人為的な嵐ですッ!」
ギュンターが鋭く叫んだ、その時。
『ズドォォォォンッ!!』
凄まじい水柱が船のすぐ真横で上がり、船体がメシリと悲鳴を上げた。
「きゃあああっ!」
「カムイ様ッ!」
大波が甲板を洗い、僕たちは船の縁にしがみつくのが精一杯だった。
雲の切れ間から、禍々しい漆黒の鱗を持つ魔竜(ドラゴンナイト)の群れが、僕たちの船を完全に包囲するように舞い降りてきた。
その先頭に跨り、妖艶な漆黒の鎧から豊満すぎる胸元を露わにした女性が、ゆっくりとこちらを見下ろしていた。
「……ああ。見つけたわ……」
甘く、とろけるような。それでいて、背筋が凍るほどに恐ろしく重たい声。
凍てつく海の冷風など吹き飛ばしてしまうほど、むせ返るような強烈な香水の匂いと、血の香りが甲板を支配する。
「カミラ……姉さん……」
僕が呆然とその名を呼ぶと、カミラ姉さんの紫色の瞳が、僕の小さな体を真っ直ぐに射抜いた。
「私の……私の、愛しいカムイ。お父様から、あなたを殺せって命令が出たの。……だからお姉ちゃん、ずっと探していたのよ?」
カミラ姉さんは魔竜の上で、うっとりと自らの頬に手を添えた。
「でもね、船ごと海の底に沈めてしまったら、あなたの綺麗な体がボロボロになってしまうじゃない? だから……そうね」
カミラ姉さんの瞳孔が異常なほどに開かれ、その視線が、僕を庇うように立つフローラやフェリシア、サクラたちへと向けられた。
「……私の可愛いカムイを誑かし、気安く触れている薄汚い泥棒猫ちゃんたち……。全員、海に沈めてあげる。そうすれば、カムイはまた……私だけの、可愛い弟に戻ってくれるものね……ふふっ、あははははっ!」
狂気を含んだ笑い声と共に、カミラ姉さんの魔竜が咆哮を上げ、さらなる大波が船を襲う。
「くそっ、このままじゃ船が沈むッ!」
タクミが叫ぶが、波に揺れる船の上では満足に弓も引けない。
「……させません」
その時、僕の前に立っていたフローラが、両手袋を引きちぎり、その白く細い腕を荒れ狂う海面へと突き出した。
「フローラ!? 何を……」
「暗夜の王女だからといって、カムイ様を私の手から奪えるとお思いですか。……カムイ様に触れることができるのは、私と、私の妹だけですッ!」
フローラの全身から、彼女自身の命を削るような、凄まじい絶対零度の冷気が爆発的に放たれた。
『ピキィィィィィンッ……!!』
彼女の指先から放たれた冷気が海面に触れた瞬間、荒れ狂う大波が、波頭を立てたままの姿で、一瞬にして巨大な「氷の大地」へと姿を変えたのだ。
見渡す限りの海が凍りつき、揺れていた船は氷の台座にがっちりと固定された。
「はぁっ……はぁっ……」
「フローラ!!」
僕は、極度の魔力行使で膝をついたフローラを慌てて抱きとめた。彼女の体は、氷の彫像のように冷え切っていた。
「……カムイ、様……。これで、足場は……できました。……あの方に、あなたを渡したりしません……っ」
フローラは僕の胸に顔を埋め、執念のような笑みを浮かべた。
氷の部族の長女としての意地と、カムイへの狂おしいほどの独占欲が生み出した、執念の氷結。
「……ふふっ。メイドの分際で、生意気ね」
海が凍りついたことで、カミラ姉さんたち暗夜の軍勢も魔竜から降り、氷の大地へと降り立った。彼女の後ろには、ベルカと、赤いツインテールの少女――ルーナの姿もあった。
「全員、惨殺しなさい。カムイ以外は、肉片一つ残さなくていいわ」
カミラ姉さんの愛斧が、鈍い輝きを放つ。
「……フェリシア、サクラ、タクミ! フローラを頼む!」
僕はフローラの体をサクラに預け、夜刀神を引き抜いて、カミラ姉さんの前へと進み出た。
「カミラ姉さん! 僕は暗夜を裏切ったんじゃない! 本当の敵を倒すために、僕は……!」
「……言い訳は、後でたっぷり聞いてあげるわ、カムイ」
カミラ姉さんは斧の柄をなぞり、濡れた唇をぺろりと舐め上げた。
「まずは、あなたを優しく『捕まえて』、その手足を鎖で縛って……暗夜の私の部屋で、もう二度と逃げられないように、骨の髄まで愛し尽くしてあげるから……待っていてね?」
「……それは、こっちのセリフだよ、カミラ姉さん」
僕は、カミラ姉さんの狂気的な愛を正面から受け止め、一切引かずに夜刀神を構えた。
「僕は、姉さんたちを絶対に死なせない。……姉さんのその重すぎる愛ごと、僕の軍の『捕虜』にして、僕が全部受け止めてみせるッ!」
「……ああ、カムイ。なんて可愛いの」
カミラ姉さんがうっとりと目を細め、斧を振り上げる。
凍てつく海を舞台に、逃げ場のない愛憎と、狂気的な「捕獲」を懸けた死闘が幕を開けたのだった――。