白夜の女王である母上(ミコト)は、涙を溢れさせながら僕を強く抱きしめ続けた。
「カムイ……私のカムイ。よくぞ……生きて帰ってきてくれました……っ」
香木のような深く甘い匂い。ヒノカ姉さんの力強さとは違う、どこまでも深く沈み込むような圧倒的な母性。
けれど、その無償の愛の濁流の真ん中で、僕は己の存在が根本から揺るがされるような眩暈と、奇妙な「息苦しさ」を覚えていた。
***
「……さあ、カムイ。ここがあなたの部屋ですよ」
母上(ミコト)に連れられて通されたのは、日当たりの良い広々とした和室だった。
「ここは、あなたが子供の頃に住んでいた部屋です。……あなたがさらわれた後も、片付けてしまうと、もう戻ってこないと認めるようで……どうしてもできなかったのです」
母上(ミコト)は、一枚の古い絵を愛おしそうに見つめた。
「ほら、これが父上、これが私、それからこれがあなた……」
「……」
僕は、その絵を見ても、この部屋を見渡しても、何も思い出すことができなかった。
「あの……僕、何も覚えていないんです」
「え……?」
「だから……今のお話に、どう反応すればいいのか、わからなくて。……あなたにとっては、僕は愛する子だったかもしれません。でも、僕にとっては、あなたは今日会ったばかりの人……。急に親子だと言われても、その想いに応えることは……できません」
僕の残酷な言葉に、母上(ミコト)は悲しげに目を伏せた。
「……いいえ。無理もありません。あなたは暗夜王国で育ってきたのですから……。しばらくはここで自由に過ごしてください。……いつか、もう一度あなたと家族になりたいと、そう思っています」
母上(ミコト)はそっと部屋を出ていった。僕は一人取り残され、どっと重い疲労に襲われ、布団の上に倒れ込んだ。
分厚い御簾を下ろしてもらい、部屋を薄暗くすると、ようやく安堵の息が漏れた。
「カムイ様。お加減はいかがですか」
フローラが静かに歩み寄り、冷気を纏った手を僕の熱い額にそっと乗せる。
「うん……暗くしてくれたから、少し楽になったよ。お日様の光は、やっぱり苦手だ……」
フローラの氷のような指先が、額から頬、そして首筋へとゆっくりと這う。薄暗い部屋の中で、彼女の冷たさが、母上(ミコト)の重い愛にあてられて火照った体には心地よかった。
「お、お待たせいたしましたカムイ様! 白夜のお茶を淹れてまいりまし、わぁっ!?」
勢いよく障子を開けたフェリシアが、敷居に足を引っ掛けて派手に転んだ。
と、同時に、廊下を歩いていたらしい人影が、フェリシアの足に躓いてふわりと宙を舞う。
「……あー、転ぶー……」
間延びした声と共に、見知らぬ弓使いの少女――セツナが、フェリシアの上に見事に重なって倒れ込んだ。
ガチャン!と派手な音を立てて茶器が割れ、生ぬるいお茶が僕の袴の裾にバシャリと跳ねた。
「ひっ!? カ、カムイ様! 申し訳ございませんっ! ああ、私がご奉仕するはずだったのに……っ!」
パニックになったフェリシアが、悔しそうに濡れた布巾で僕の袴を慌てて拭こうとする。
「フェリシア、退きなさい。……カムイ様、お怪我は?」
フローラがフェリシアを冷たく押し除け、僕の足元にひざまずいた。
「いけません。体が冷えてしまいます。すぐにお召し替えを」
言うが早いか、フローラの手が僕の袴の紐に掛かる。
至近距離で見上げるフローラの瞳は、どこか熱を帯びたような暗い執着の色を宿していた。
「あ、フローラ……僕、自分でできるよ……」
「だめです。……白夜の者に、カムイ様のお世話はさせません」
ひんやりとした彼女の指先が、濡れた布地ごと僕の太ももに触れる。冷たいはずの指先が、肌をなぞるたびに奇妙な熱を生んでいく。
バンッ!と、背後で障子が乱暴に開かれた。
顔を真っ赤に染めたヒノカ姉さんと、オロオロとするサクラだった。
「カムイから離れろ、暗夜の女。……その子は、私が世話をする」
「お断りします。カムイ様の肌に触れるのは、私とフェリシアの役目」
ヒノカ姉さんはフローラを押しのけるようにして僕の隣に座り込み、僕の肩をガシッと掴んだ。
「カムイ、濡れているじゃないか。……ほら、私がいま拭いてやるからな」
ヒノカ姉さんの武骨で熱い手が、僕の首元から胸元へと強引に滑り込む。
「あ、あのっ……ヒノカお姉様、カムイお兄様が、困っていらっしゃいます……っ」
見かねたサクラが、恐る恐る僕のもう片方の腕に触れる。
「私が……治癒の杖で、お体を温めますから……」
サクラの小さな手が重ねられ、じんわりとした温かな光が、心地よい麻薬のように流れ込んでくる。
右からはヒノカ姉さんの強引で熱い密着。左からはサクラの甘く優しい体温。そして正面からは、氷のような冷気と共に、射抜くような独占の視線を向けるフローラ。
薄暗く閉ざされた部屋は、彼女たちが放つ濃密な感情の熱気で、息が詰まるほどじっとりとした湿度に満ちていた。
「僕……なんだか、おかしくなりそう、だよ……っ」
家族の愛も、従者の執着も、今の僕には重すぎた。
僕は、この逃げ場のない甘く重たい熱の檻から逃れるように、誰もいない静かな場所――水の流れる音だけが響く、城の奥の泉へと、ふらふらと足を踏み出すのだった。