「ユウギリッ!!」
僕は床を強く蹴り、小さな体を限界まで弾き飛ばした。
夜刀神を構える暇すらない。僕はユウギリの背中に覆い被さるようにして、その闇の魔法を自らの背中で直接受け止めた。
「ガ、アァァッ……!!」
骨が砕け、肉が焼けるような凄まじい激痛。
幻影とはいえ、込められた魔力は本物だ。僕の視界が一瞬真っ白に染まり、小さな体は吹き飛ばされて、冷たい石の床へと無様に転がった。
「カ、カムイ様……!?」
ユウギリは驚愕に目を見開き、金鵄から飛び降りて僕の元へ駆け寄ってきた。
「まあ……なんということでしょう! 私を庇って、こんな小さな体で……っ」
彼女が僕を抱き起した時、僕の背中から流れ出た温かい血が、彼女の白い指先を赤く染めた。
「……ごめ、ん……ユウギリ。君が、無事で……よかっ、た……」
僕が息も絶え絶えに微笑んだ、その瞬間だった。
ユウギリの瞳の奥で、何かが決定的に切り替わる音がした。
彼女は自分の指先についた僕の血を見つめ、そして、荒い息を吐きながら苦痛に顔を歪める僕の顔を、至近距離で見つめ下ろした。
「……ああっ……なんて、素敵なお顔……」
彼女の頬が紅潮し、その口から熱っぽく、ひどく甘い吐息が漏れた。
「私のために……我が主が、これほどの血を流し、苦痛に喘いでくださっている……。ああ、駄目ですわ……私、ゾクゾクしてきちゃいましたの……」
ユウギリの血塗られた指先が、僕の額から頬へと、まるで宝物を慈しむようになぞる。
「……たまらないですわ。私、あなたのこの傷痕ごと……骨の髄まで愛してしまいそう。これからはずっと、私があなたに最高の痛みと快楽を……ううん、永遠の忠誠を捧げて差し上げますわね……」
彼女の顔が極端に近づき、その血の匂いのする妖艶な唇が僕の首筋に触れそうになった、その時。
「……汚らわしい。カムイ様から離れなさい、戦闘狂」
極寒の冷気が、ユウギリと僕の間を鋭く切り裂いた。
フローラだ。彼女は凍傷の痕が残る指先を直接僕の傷口付近に押し当て、強制的に出血を凍らせて止めた。
「痛っ……ふろ、ら……」
「我慢してください。……それにしても、あなたというお方は。ほんの少し目を離した隙に、また別の女に肌を許そうとするなんて……本当に、悪い主君ですね」
フローラは氷点下の声で囁きながらも、その瞳にはどろどろとした暗い独占欲が渦巻いている。傷口を塞ぐ彼女の冷気は、同時に僕の体を彼女の支配下に置くための冷たい鎖でもあった。
「お、お兄様ッ!! いやっ、血が……お兄様の血が……っ!」
サクラが泣き叫びながら飛び込んできた。彼女はフローラの冷気を押しのけるようにして、僕の小さな体を自らの柔らかな胸元にきつく抱き込み、膨大な治癒の光を注ぎ込み始めた。
「私が治しますっ! 私がお兄様の傷も、痛みも、全部引き受けますからっ! だから……これ以上、私の知らないところで傷つかないでください……っ!」
サクラの涙が僕の頬にポタポタと落ち、彼女のむせ返るような体温と桜の香りが、僕の呼吸を甘く塞いでいく。
「私も、私も温めますからっ!」
フェリシアが下から僕の脚にすがりつき、自分の豊かな太ももを押し付けてくる。
「……私のカムイに傷をつけた幻影……ただ消滅するだけじゃ許さないわ。バラバラに刻んで、魂の底まで恐怖を教えてあげる」
カミラ姉さんが、かつてないほどに冷酷で、静かな怒りを纏って立ち上がった。彼女の愛斧が禍々しい紫色のオーラを放ち、塔の内部を振動させる。
「ちょ、ちょっとアンタ! バカじゃないの!? 自分の体がどれだけ小さいか分かってんの!?」
ルーナが顔を真っ赤にし、涙目になりながら僕の無事な左手を両手でぎゅっと握りしめてきた。
「……ア、アタシが背中を守ってあげるって言ったじゃない! もっとアタシを頼りなさいよ、バカッ! ……手、離してあげないんだからねっ……!」
革鎧越しに伝わる彼女の震えと、不器用なほどに熱い体温。ツンケンした態度の裏にある、隠しきれない彼女の愛情が、僕の左手からダイレクトに流れ込んでくる。
「……後方は片付けたわよ、カムイ」
アクアが静かに歩み寄り、僕の額に彼女の冷たい唇をそっと落とした。
その一瞬の、すべてを支配するような静寂の口づけに、ヒロインたちの視線が一斉にアクアへと向かう。
「……前方の敵は、私と白夜の王子が潰す。……遅れるな」
ベルカが手斧をクルリと回し、無表情のまま前線を構築する。
「フン、誰に口を利いている。お前こそ、僕の矢の邪魔をするなよ、暗殺者!」
タクミが風神弓を引き絞り、二人の息の合った猛攻が、さらに上の階層への道を切り開いていった。
サクラの治癒とフローラの冷却、そして少女たちの極端な温度差と愛情の圧力によって、僕の背中の傷は奇跡的な速度で塞がっていった。しかし、心に刻まれた彼女たちの「重さ」は、もはや後戻りできないほどに僕を絡め取っていた。
***
塔のさらに上層。
試練の幻影兵とは違う、二つの奇妙な気配をギュンターが察知した。
「……誰かいるわね」
カミラ姉さんが斧を構えたその先、瓦礫の陰から姿を現したのは、ボロボロの衣服を纏った眼光の鋭い男と、幼い少女のような容姿をした黒衣の呪い師だった。
「……白夜と、暗夜の王族か? 俺を捕らえに来たのなら、好きにしろ。抵抗はしねえ」
男は自嘲気味に両手を上げた。
「俺はアシュラ。フウマ公国に滅ぼされた国の、忍びだった者だ。……故郷を再建させるために力を求めてここまで来たが、結局……こんな塔の中で無様に死ぬだけのようだな」
アシュラの隣に立つ幼い少女は、ひどく老成した、諦めを孕んだ瞳で僕たちを見上げた。
「煩わしいわね……。戦乱を避け、誰の目にも触れず一人で生きていこうとこの塔に隠れ住んでいたのに、貴方たちの騒ぎで台無しじゃない」
彼女は忌々しげに溜息をつく。
「私はニュクス。……見た目はこんなでも、私は子どもではないわ。貴方たちに関わる気はないから、放っておいてちょうだい」
死を望む男と、他者を拒絶する女。
彼らの瞳の奥底にある深い絶望は、かつて僕が暗夜の塔で一人孤独に震えていた時の感情と、痛いほどに似ていた。
「アシュラ、ニュクス」
僕はサクラやカミラ姉さんたちの甘い拘束からそっと身を離し(彼女たちは不満げに僕の服の裾を引いていたが)、二人の前へと歩み出た。
「死に場所なら、ここにはないよ。……僕たちと一緒に来てくれないか」
「はあ? なんだ、あんたは。俺は盗賊だぜ。お前たち王族の面子に泥を塗ることになる」
アシュラが眉をひそめる。
「僕たちはもう、白夜でも暗夜でもない。本当の敵を倒すための『第三の道』を歩んでいるんだ。……フウマ公王は、僕たちが倒した。もし君が故郷を再建したいなら、僕がその野望に手を貸すよ」
僕の言葉に、アシュラは目を丸くし、やがて深く息を吐き出して片膝をついた。
「……そうか。では、俺たちコウガの民の仇は、あんたたちが討ってくれたってことだな」
アシュラは真っ直ぐに僕を見上げ、敬意を込めて頭を垂れた。
「……そこまで言われて断れるほど、俺は立派な男じゃない。これからはあんたが、俺の主だ。よろしく頼むぜ、……カムイ様」
「はあ? 何を言っているの?」
ニュクスは呆れたように僕を見た。
「人の事情も知らないくせに仲間に招き入れるだなんて、貴方正気? 面倒事はごめんだわ……私にもう関わらないで」
「君の事情は知らないけど、それでも仲間にはなれるだろう? 誰にだって、人に言えない事情や秘密があるものだ。……僕も、そうだからね」
僕が真っ直ぐに見つめ返すと、ニュクスはふっと息を漏らし、その幼い顔に微かな笑みを浮かべた。
「……ふうん。若いのに、知った風な口を利くじゃない。……でも、そうね。貴方なら、私のことを理解してくれそうな気がするもの」
ニュクスは諦めたように、けれどどこかホッとしたように肩をすくめた。
「……いいわ。私、貴方に付いて行く。この力、好きに使うといいわ」
アシュラとニュクス。
新たな二人の仲間を迎え入れ、僕たちはついに、七重の塔の最上階――虹の賢者が待つであろう、最後の扉の前へと辿り着いた。
「……カムイ。準備はいい?」
アクアが僕の手に、自らの冷たくしなやかな指を絡ませる。
「いつでも、お姉ちゃんの胸に逃げ込んできていいのよ?」
カミラ姉さんが背後から僕の肩を抱き、
「お兄様のお怪我は、私がすべて治しますからっ!」
サクラが僕の腕をきつく握りしめ、
「私の冷気が、あなたを最後までお守りします」
フローラが僕の首筋に冷たい吐息を吹きかけ、
「私も、絶対に離れませんっ!」
フェリシアが背中に密着し、
「……あ、アタシが背中を守ってあげるって、言ってるでしょ……っ!」
ルーナが顔を赤くして僕の左手を握りしめる。
「うふふ……我が主の血の匂い、ゾクゾクしますわ……」
ユウギリが恍惚とした瞳で僕をねっとりと見つめる。
彼女たちの重く、息の詰まるような、逃げ場のない愛憎の鎖を全身に巻きつけたまま。
僕は、夜刀神の真の力を解放するため、最後の重厚な石の扉をゆっくりと押し開いたのだった。