重々しい石の扉が、低い地鳴りのような音を立ててゆっくりと開いていく。
七重の塔の最上階。そこに広がっていたのは、吹き抜ける冷たい山風……ではなく、どこか見覚えのある、埃っぽい木の床と天井だった。
「……えっ?」
扉を抜けた先は、驚いたことに、麓の村で出会ったあの「親切なおじいさん」の民家だったのだ。
「フォフォフォ。……よく帰ってきたのう、お前さんたち」
囲炉裏のそばで、あのおじいさんが静かにお茶を啜っていた。
「あなたが……? ど、どうしてここに! だってここは、塔の最上階のはずじゃ……」
「ああ。この場所は、塔の最上階と繋がっておったのじゃよ。……試練を乗り越え、よく辿り着いた。お前さんたちこそ、五番目の勇者じゃ」
おじいさんがゆっくりと立ち上がると、その姿が淡い光に包まれ、荘厳なローブを纏った賢者の姿へと変わった。
「いかにも。虹の賢者とはわしのことじゃ」
その神聖な空気の中にあっても、僕の小さな体を包み込む極端な温度差と甘い香りは、少しも薄れることはなかった。
「……はぁっ、着いた……っ」
僕が安堵の息を吐き出した瞬間、左手を強く、ひどく熱っぽい力で握り込まれた。
「っ……! ア、アタシが支えてあげるって言ったでしょ。アンタは、アタシの手だけ握ってればいいのよ……バカッ」
顔を真っ赤に染めたルーナだった。彼女のツンケンした言葉とは裏腹に、革鎧越しに触れ合う肩から、彼女の鼓動がドクドクと伝わってくる。僕の体温を分け合おうとする彼女の小さな手は、微かに汗ばみ、不器用な情熱で僕の指をしっかりと絡め取っていた。
「……る、ルーナ……ありがとう……」
「べ、別に感謝されるようなことじゃ……っ!」
「お兄様の手を握るのは、私ですっ!」
すかさず右側からサクラが僕の腕を抱え込み、彼女の柔らかな胸の谷間に僕の腕をぐいっと押し込んできた。
「お兄様の背中の傷……完全に塞がったとはいえ、まだ油断はできません。私が、ずっと治癒の魔力を流し続けますから……っ」
サクラの瞳は、ルーナに向けた明確な敵対心と、僕への重篤な依存で甘く濁っている。彼女の桜の香りが、僕の呼吸を支配する。
「うふふっ……二人とも、私の可愛いカムイを引っ張り合って怪我をさせたら、お姉ちゃん怒るわよ?」
背後から、カミラ姉さんの長くしなやかな腕が僕の腰に巻き付き、その圧倒的な質感を誇る双丘が、僕の背中と後頭部に容赦なく押し付けられた。
「んっ……カミラ、姉さん……苦し、い……」
「いいのよ、カムイ。ここは風が冷たいもの。お姉ちゃんの胸の奥で、もっと熱く溶けてしまいなさいな……」
カミラ姉さんのむせ返るような香水と、大人びた熱い吐息が僕のうなじを撫でる。彼女の愛撫は、僕の思考を泥沼のように甘く麻痺させていく。
「……カミラ様。カムイ様が茹で上がってしまいますよ。私が、芯まで冷やして差し上げます」
フローラが氷のような指先を僕の開いた襟元から滑り込ませ、
「私も、私も温めますっ!」
フェリシアが下から僕の脚にすがりつく。
「カムイお兄ちゃん、あったかいねーっ!」
エリーゼが背後から無邪気に抱きついてくる。
さらに、その後ろでは、ユウギリが恍惚とした瞳で僕の背中(先ほど負傷した箇所)をねっとりと見つめ、その赤い舌で自らの唇を舐め上げていた。
「あぁ……我が主。あなたのその小さな体が、私のために痛みに歪んだお顔……思い出すだけで、体が火照ってたまらないわぁ……」
「……相変わらず、頭の痛くなる光景だな」
少し離れた場所で、タクミが深いため息をつく。その後ろには、無表情のまま周囲を警戒するベルカが、音もなく影のように寄り添っていた。
「……白夜の王子。右の死角が甘い。私の視界を遮るな」
「チッ、指図するな暗殺者! 僕の弓の射線に入るお前が悪いんだろうが!」
言い争いながらも、二人の間には互いの実力を認め合う、奇妙な連携の空気が出来上がっていた。
「フォフォフォ。……誰一人欠けることなく、さらに新たな者たちまで導き、よくぞ試練を乗り越えよったな」
虹の賢者は深く頷き、僕の腰にある剣を指差した。
「さあ、その『夜刀神』を抜くがよい」
僕はカミラ姉さんたちの甘い拘束から強引に抜け出し、夜刀神を引き抜いて両手で掲げた。
「我は神刀を鍛えし者、禁忌を犯せし者、伍色を紡ぎし者……我が名に応えよ、『炎の紋章』よ!」
賢者が杖を掲げると、空から七色の光が降り注ぎ、夜刀神の刀身を包み込んだ。
キィィィンッ……!!
眩い光と共に、夜刀神の形が変化していく。
禍々しさと神々しさが入り混じった、鋭く反り返った刀身。柄には新たな紋様が刻まれ、剣全体から、僕自身の血脈に呼応するような熱い魔力の脈動が伝わってきた。
「これは……」
「『夜刀神・幻夜(げんや)』。白夜でも暗夜でもない、幻のような狭間の道を歩むお主に相応しい名じゃろう」
賢者は静かに微笑んだ。
「しかし、それはまだ真の姿ではない。世界を救う『ファイアーエムブレム』へと至るには、五つの神器……白夜の『雷神刀』『風神弓』、暗夜の『ジークフリート』『ブリュンヒルデ』の力が共鳴せねばならん」
「五つの神器……。やっぱり、マークス兄さんたちとリョウマ兄さんたち、全員の力が必要なんですね」
僕が剣を握り締めると、賢者はふと視線を横に向けた。
「……白夜の王子、タクミよ。お主の抱える迷い、そして『風神弓』の嘆き……わしにはよく視えるぞ」
「なっ……僕の、迷いだと?」
タクミがハッとして一歩前に出る。
「お主は、己の弱さを憎み、強さを求めるあまり、心に小さな『闇』を飼っておる。……だが、その闇を恐れるな。お主の背中を預けられる者たちが、必ずお主を光へと引き戻すじゃろう」
賢者の言葉に、タクミは息を呑み、無意識に自らの風神弓を強く握りしめた。彼の背後で、ベルカが感情の読めない瞳でタクミの横顔を見つめ、オボロとヒナタが心配そうに彼に寄り添う。
その傍らで、新たに軍に加わったアシュラが、腕を組んで黙り込んでいた。
「……おい、お前。その身のこなしと暗器の扱い……コウガの忍であろう?」
風の部族のツクヨミが、アシュラを鋭く見上げて問いかけた。
「……とうの昔に滅びた国の名だ。今の俺は、ただの薄汚い盗賊に過ぎねえよ」
アシュラは自嘲気味に笑った。
「そうか……。だが、お前のその技、腐らせるには惜しいな。お前がその気なら、私の呪術と連携させてやらんこともないぞ。……過去がどうあれ、今、お前がカムイの力になるというのならな」
ツクヨミの大人びた言葉に、アシュラは少し驚いたように目を見開き、やがて小さく口角を上げた。
「……ふっ、生意気なガキだ。だが、悪くねえ。主のためにも、せいぜい力を合わせるとするか」
ニュクスはそのやり取りを、幼い少女の姿のまま、老成した瞳で静かに見守っていた。
「……ふふ。若い子たちは、見ていて飽きないわね」
「……さて。わしの役目も、これでようやく終わりのようじゃ」
突如、虹の賢者の声が微かに震えた。
「え……?」
僕が振り返った瞬間、賢者の体がぐらりと傾き、床へと崩れ落ちたのだ。
「賢者様ッ!?」
僕は慌てて駆け寄り、その枯れ木のような体を抱き起こした。
「サクラ! フェリシア! 早く治癒を!」
「は、はいっ!」
サクラが懸命に祓串から光を放つが、その光は賢者の体に吸収されることなく、空しく霧散していく。
「だめです……魔力が、弾かれます……っ。お怪我じゃない……これは……っ」
「……やめておけ、白夜の姫君。『人』の魔法は、わしには効かん」
賢者は、ゴホッ、と弱々しく咳き込みながら、僕の顔を見上げた。
「『人』の魔法……? あなたは、もしかして……!」
「……ああ。このわしが、お前さんの探していた『竜』じゃ」
その言葉に、その場にいた全員が息を呑んだ。
「わしの寿命は、とうの昔に尽きておった。……お主のような、真の覚悟を持つ者が現れるのを待つためだけに、無理やり魂をこの体に縛り付けておったに過ぎん。……カムイよ」
賢者の冷たくなっていく手が、僕の頬にそっと触れた。
「お主は、竜の血を引きながら、人間の心を持つ者。……お主の歩むその狭間の道こそが、この狂った世界を救う、唯一の希望なんじゃ……。どうか……頼んだ、ぞ……」
「賢者様……っ、賢者様ッ!!」
僕の悲痛な叫びも虚しく。
虹の賢者の体は、淡い七色の光の粒子となって、風の中へと溶けるように消えていった。
後に残されたのは、静寂と、彼の遺した重すぎる真実だけだった。
僕は、賢者が消えた床を見つめたまま、立ち上がることができなかった。
「……カムイ」
「……カムイ」
静かに、透き通るような声が僕の耳を打った。
アクアだった。彼女は僕の隣に膝をつき、僕の手に自分の冷たい手を重ねた。
「悲しんでいる暇はないわ。彼の命が託してくれた剣で、私たちは『無限の渓谷』へ向かわなければ。……二人の兄様たちが、待っているわ」
「……お兄様」
サクラが僕の背中にすがりつき、
「カムイ。お姉ちゃんが、ずっとついていてあげるからね……」
カミラ姉さんが僕の頭を胸に抱き込む。
「アタシが、アンタの背中を守るって言ってるでしょ……っ!」
ルーナが僕の左手をきつく握りしめ、
「私の冷気で、あなたの悲しみも麻痺させて差し上げます……」
フローラが僕の首筋に冷たい口づけを落とす。
彼女たちの極端な温度と、息の詰まるような重たい愛情が、賢者を失った僕の虚無感を、強引に、そしてドロドロに塗り潰していく。
白夜と暗夜の空が入れ替わる日。約束の地、無限の渓谷へ向けて。
僕たちは、真の敵の待つ究極の深淵へと、ついに足を踏み出そうとしていた。