無限の渓谷に架かる吊り橋を、地鳴りのような足音と禍々しい紫色の瘴気が覆い尽くしていく。
「ヒヒヒッ!! さあ、白夜も暗夜も関係ありません! ここで全て、お肉の塊に変えてさしあげますよォ!」
暗夜の軍師マクベスが狂気的な笑い声を上げ、その背後から際限なく湧き出すノスフェラトゥの大軍が、怒涛の勢いで僕たちへと雪崩れ込んできた。
「……ッ、数が多すぎる!」
夜刀神・幻夜を構えようとした僕の小さな体は、未だに二人の姉の激しい愛情の綱引きの中心に囚われていた。
「カムイ、危ないッ! 姉さんの後ろに隠れていろ!」
正面から僕を抱きしめるヒノカ姉さんの、戦いと汗で熱を帯びた柔らかな胸が、僕の顔をぐっと押しつぶす。
「……野蛮な真似はおやめなさいな。私の可愛いカムイは、お姉ちゃんの胸の奥で、甘い夢だけを見ていればいいのよ」
背後からはカミラ姉さんの長くしなやかな腕が僕の腰をきつく締め上げ、圧倒的に豊満な双丘の谷間が、僕の背中を完全に飲み込んでいた。
むせ返るような香水と汗の匂いが混じり合う、前と後ろの極端に豊満な「姉の檻」。
「だめですっ! お兄様が怪我をしたら……私、生きていけませんっ!」
サクラが右腕にすがりついて治癒の魔力を流し込み、フローラが僕の首筋にスッと冷たい指先を這わせ、カミラ姉さんたちの熱に対抗するように絶対零度の冷気を注ぎ込む。熱と氷の強烈な温度差が背筋を走る。
さらに、ルーナが顔を真っ赤にして僕の左手を握りしめ、フェリシアが脚に抱きつき、エリーゼが背後からカミラ姉さんごと抱きついてくる。
息が詰まる。このままでは、敵にやられる前に、彼女たちの重たすぎる愛憎に窒息してしまいそうだった。
「……少し、離れなさい」
その混沌を切り裂いたのは、アクアの透き通るような、しかし絶対的な支配力を持った声だった。
彼女の金色の瞳に見据えられ、ヒノカ姉さんとカミラ姉さんは渋々といった様子で腕の力を緩めた。
「行くよ、みんなッ!」
僕は自由になった体で床を蹴り、夜刀神・幻夜の七色の光の軌跡を描きながら、迫り来るノスフェラトゥの群れへと飛び込んだ。
乱戦が始まる。しかし、吊り橋の上という狭い地形では、圧倒的な数を誇るマクベスの軍勢が有利だった。
「チッ、暗夜のバケモノどもめ……ッ! アタシの薙刀の錆にしてやる!」
前線で果敢に槍を振るっていた白夜の槍術士・オボロだったが、倒したノスフェラトゥの影から、さらに巨大な個体が突如として現れ、彼女の死角からその丸太のような腕を振り下ろしてきた。
「しまっ……!」
オボロが体勢を崩し、死を覚悟して目を閉じた、その瞬間。
ズバァァァァッ!!!
暗黒の波動を纏った凄まじい斬撃が、オボロを襲おうとしていた巨大なノスフェラトゥを一瞬にして消し炭に変えた。
「な、なに……?」
オボロが恐る恐る目を開けると、そこには、漆黒の重鎧に身を包み、神剣『ジークフリート』を構えた黒馬の騎士が、彼女を庇うように立ち塞がっていた。
「……無事か、白夜の槍術士」
静かで、重厚な声。暗夜王国第一王子、マークス兄さんだった。
「あ……あんた、暗夜の……っ」
親の仇であるはずの暗夜の王族。憎むべき相手のはずなのに、絶対的な窮地から自分を救い出し、微塵も揺るがないその高潔な背中を見せつけられ、オボロの顔は自分でも信じられないほどに真っ赤に染まっていた。
「な、なによ……アタシは助けてなんて言ってないんだからねッ!」
憎まれ口を叩きながらも、オボロの心臓はかつてないほどの早鐘を打っていた。
「マークス兄さんッ!」
僕が歓喜の声を上げると、マクベスが信じられないものを見るように目を剥いた。
「マ、マークス様!? なぜ貴方がここに! ガンズの罠で足止めされているはずでは……ッ!」
「……マクベス。父ガロン王の命令とはいえ、お前のその卑劣な罠、反吐が出る」
マークス兄さんはジークフリートをマクベスへと突きつけた。
「カムイからの伝言、確かに受け取った。……我が弟が命を懸けて見せようとしている『真実』、この目で見届けるために参った!」
「兄さんにばかり、いい格好はさせないよ。……カムイ、遅くなってごめん」
吊り橋の反対側から、重力を歪めるような強大な闇の魔力が放たれ、マクベスの後方の部隊を一瞬にして押し潰した。
神雷の書『ブリュンヒルデ』を片手に馬を進めてきたのは、暗夜王国第二王子、レオン兄さんだった。
「レオンッ!」
「チッ、数が多いな……。いくら僕の魔力でも、この数を一度には……」
レオンが次の詠唱に入ろうとした時、その背後から、漆黒の炎が巨大なノスフェラトゥの群れを正確に焼き尽くした。
「……大口を叩く割には、詰めが甘いわね、暗夜の若い子」
黒衣の幼い少女――ニュクスが、老成した瞳でレオンを見上げ、皮肉げに口角を上げた。
「なっ……! 君は……いや、その凄まじい古代の呪術の痕跡……君、見た目は子どもだが、一体何者だ?」
レオンが驚愕の声を上げると、ニュクスはフッと自嘲気味に笑った。
「私は罪深き女よ。……だが、魔法の腕ならお前のような青二才には負けないわ。私の魔力に、お前のブリュンヒルデの出力を合わせなさい。一気に薙ぎ払うわよ」
「……ふん。生意気な子どもだが、言うだけの腕はあるみたいだ。いいだろう、合わせてやる!」
天才魔道士であるレオンと、悠久の時を生きるニュクス。二人の放つ闇の共鳴が、暗夜の軍勢を次々と灰に変えていく。
「死ね死ね死ねーっ!! ピエリの槍で、みんなお肉になっちゃえーっ!!」
「おいおい、お嬢ちゃん、命がいくつあっても足りないぜ」
無邪気に血を求めて突進する暗夜の家臣・ピエリの無防備な背中を、アシュラが正確な暗器の投擲でカバーする。
「むーっ! ピエリはお嬢ちゃんじゃないの! でも、おじさん、なかなかやるのね! ピエリ、おじさんのこと少し気に入ったの!」
「……おじさんねぇ。まあ、悪くない」
「おらぁッ! 邪魔だ退けェッ!」
白夜の侍・ヒナタが刀を振るうが、重装の暗夜兵の盾に阻まれる。
「危ないです」
その直後、凄まじい地響きと共に、ピンク色の重鎧を纏ったエルフィが猛烈なタックルをかまし、重装兵を遥か彼方へと吹き飛ばした。
「す、すげえ怪力……! あんた、見た目はすげえ可愛いのに……!」
ヒナタがぽかんと口を開けて見上げると、エルフィは無表情のまま、少しだけ頬を染めて振り返った。
「……カムイ様と、エリーゼ様のためですから。あなたも、怪我をしたくなければ私の後ろにいてください」
「い、いや! 俺だって男だ、あんたの背中は俺が守るッス!」
白夜と暗夜。親の仇として憎み合っていたはずの彼らが、無限の渓谷という特異な戦場で互いの背中を預け合い、奇妙で熱い絆を紡ぎ始めていた
「バ、バカな……! 暗夜の第一王子も第二王子も、裏切り者に味方するというのですかァッ!?」
マクベスが恐怖に顔を引き攣らせ、後退りする。
「マクベス! もう逃げ場はないぞ!」
僕が夜刀神・幻夜を構えて前に出ると、リョウマ兄さんが雷神刀を、マークス兄さんがジークフリートを構え、僕の両脇に並び立った。
「……カムイよ。お前が何を隠しているのか、すべて終わった後に聞かせてもらおう。だが今は……」
リョウマ兄さんの言葉に、マークス兄さんが深く頷く。
「ああ。この下劣な軍師を討ち、我らの道を切り拓く!」
「行くよ、みんなッ!」
「ええ。お姉ちゃんが、あの醜い男を切り刻んであげる」
カミラ姉さんが愛斧を掲げ、僕の背後で妖艶な殺気を放つ。
「カムイの敵は、私の敵だ!」
ヒノカ姉さんが薙刀を構え、
「お兄様、私がずっとお守りします……っ!」
サクラが祈りを捧げ、
「私の冷気で、一瞬で凍てつかせます」
フローラが冷たい殺意を研ぎ澄まし、
「……アタシの背中、しっかり見てなさいよねっ!」
ルーナが僕の左隣で剣を構え、
「カムイお兄ちゃん、がんばれーっ!」
エリーゼが杖を掲げる。
そして、アクアが静かに、清冽な歌声を響かせた。
『ユラリ ユルレリ……』
「ヒ、ヒィィィィッ!! ガ、ガロン様ァァァッ!!」
白夜の『白き炎』と暗夜の『黒き炎』。そして、僕を愛してやまない女性たちの放つ極彩色の業火が一つに交わり、マクベスの絶望的な大軍を完全に飲み込んでいった。