白夜と暗夜の空が交わる、無限の渓谷。
その底知れぬ漆黒の奈落へと、僕たち全員の体が投げ出された。
「……ッ!!」
凄まじい風圧が下から吹き上げ、重力が完全に消失したような浮遊感が全身を襲う。
真っ逆さまに落ちていく恐怖で息が詰まりそうになる中、僕の小さな体を真っ先に包み込んだのは、容赦のない「熱」と「柔らかさ」だった。
「絶対に離さない。お前と共に落ちるなら、地獄の底でも怖くはないさ……ッ!」
ヒノカ姉さんの戦装束の奥にある、豊かな弾力を持った胸が、僕の顔にぐっと押し付けられる。彼女の熱い息遣いと、汗ばんだ肌の匂いが、恐怖を塗り潰すように僕の鼻腔を満たした。
「……あら? 随分と勇ましいこと。でも、私のカムイを怖がらせているのは、あなたのその野蛮な抱擁のせいじゃないかしら?」
背後から、風の音すらも掻き消すような甘い声が鼓膜を撫でる。
カミラ姉さんだ。彼女は長い手足を僕の背中と腰に絡みつかせ、その圧倒的に豊満な双丘の谷間へと僕の後頭部を飲み込んだ。
落下による凄まじいGが、二人の姉の肉体を僕の小さな体に限界まで密着させる。
前からはヒノカお姉様の真っ直ぐで熱い圧迫。後ろからはカミラ姉さんの、むせ返るような香水と大人の熱を帯びた、逃げ場のない極上のクッション。
さらに、サクラが治癒の光と共に僕の腕にしがみつき、フローラが凍てつく冷気の防壁を張りながら僕に身を寄せ、ルーナが顔を真っ赤にして僕の左手をぎゅっと握りしめてくる。
息が詰まる。僕の体は、少女たちの極端な温度差と、どろどろとした愛情の塊に完全に絡め取られ、落下しているという事実すら思考の彼方へと追いやられていた。
「……恐れないで。もうすぐ、見えざる世界よ」
アクアが静かに舞い降りてきて、僕の額に冷たい口づけを落とした、その時だった。
ヒロインたちの愛憎に包まれ、視界を奪われていた僕の『死角』から。
音もなく、出所不明の不可視の魔力刃が、ピンポイントで僕の心臓を狙って虚空から放たれたのだ。
「……ッ!?」
気づいた時には遅かった。風の音に紛れ、気配すら殺したその凶刃が、僕の胸元へと迫る。
ズドォォォォンッ!!
僕を貫く直前、凄まじい闇の奔流が横合いから渦を巻き、その不可視の魔力刃を空中でことごとく粉砕した。
「……フン。落ちながら味方を的にするような趣味の悪い輩がいるとはね。僕の弟の命を、そんなコソ泥のような真似で奪えると思うなよ」
漆黒の魔導書『ブリュンヒルデ』を開き、片手で強大な重力魔法を操っていたのは、レオンだった。
「……大口を叩く割には、魔力の密度が足りないわね、レオン王子」
そのレオンの背中に張り付き、古代の呪力を放っていたニュクスが皮肉げに笑う。
「レオン王子の魔力に私の呪を乗せるわ。出力を合わせなさい、次が来る前に空間ごと一掃するわよ」
「チッ……僕に命令しないで欲しいな! だが……このタイミングなら!」
天才魔道士と悠久の罪人。二人の闇が空中で完璧に共鳴し、極大の漆黒の炎となって僕の周囲の空間を焼き尽くし、暗殺の凶刃を完全にシャットアウトした。
「……助かった、レオン、ニュクス!」
僕が安堵の息を吐く中、周囲の仲間たちもそれぞれのやり方で落下を乗り切ろうとしていた。
「うおおおおッ! クリムゾン、掴まれ!」
リョウマ兄さんが雷神刀を壁面に突き立てて落下速度を殺そうとするが、足場が崩れる。
「バカッ、アンタこそ舌噛むんじゃないよッ!」
真紅の竜騎士クリムゾンが空中で愛竜を呼び寄せ、間一髪でリョウマ兄さんの体をガシッと抱きとめた。
彼女の胸元には、シュヴァリエ公国の女騎士が一世一代の勝負の前に挿すという『花飾り』が揺れていた。本来ならこの渓谷の底で、得体の知れない暗殺者の凶刃に倒れ、その花を焦がしていたかもしれない彼女の背中は、今は力強く白夜の第一王子を支え、互いの顔を見合わせてニヤリと笑い合っていた。
タクミは強がりながらもベルカのワイバーンにしがみつき、ヒナタはエルフィに軽々とお姫様抱っこされ、オボロはマークス兄さんに強引に手を引かれながら、顔を真っ赤にして落ちていく。
***
そして。
僕たちはついに、長い落下の果てに、アクアの水の魔力とリリスの空間魔法の補助によって、怪我一つなく無事に着地を果たした。
「……着いたわね」
アクアの声に、僕たちはゆっくりと身を起こし、周囲を見渡した。
そこは、白夜でも暗夜でもない、全く別の異次元だった。
紫色の靄が立ち込め、空には不気味な紋様が浮かび、大地や建造物が重力を無視してあちこちに浮遊している。生命の息吹が一切感じられない、死と静寂に支配された虚無の世界。
「ここが……全ての争いの元凶、透魔王国。見えざる世界……」
僕が呟いた、その時だった。
「……う、ぐァッ……!!」
背後から、低く、押し殺したような苦痛の呻き声が響いた。
「ギュンター!?」
振り返ると、幼い頃から僕に仕え、ずっとこの旅に同行してくれていた老騎士ガンターが、胸を押さえて片膝をついていた。
彼の顔色は土気色に変わり、その瞳孔が、まるで何かに乗っ取られたかのように禍々しい紫色に濁りかけている。
「ギュンター、どうしたんだ!? 落ちた時に怪我を……ッ」
僕が駆け寄ろうとした瞬間、ガンターは信じられないほどの身のこなしで後方に飛び退き、僕に向かって鋭く槍を突きつけた。
「……来る、な。……私に、近づくな、カムイ様……ッ!」
「ギュンター……?」
ガンターの息は荒く、その腕は微かに震えていた。先程、空中で僕の背中を狙った「見えない凶刃」の残滓が、彼の槍の穂先から微かに立ち昇っているように見えた。
「ヒッヒッヒ……。ようこそ、見えざる王国へ」
その時、ガンターの背後の紫の霧の中から、不気味な声が響き渡った。
空間が歪み、現れたのは、顔を布で覆い隠した透魔王国の軍師(ステラテジスト)だった。その後ろには、先程までとは桁違いの強さを感じさせる重武装の透魔兵たちがズラリと布陣している。
「息つく暇も与えてくれないらしいな」
リョウマ兄さんが雷神刀を抜き放ち、マークス兄さんがジークフリートを構える。
「迎え撃つよ、みんな!」
僕が夜刀神・幻夜を構えると、ヒロインたちも一斉に僕の周囲を固めた。
「お姉ちゃんの可愛いカムイの邪魔をするなら……地の底だろうと、皆殺しよ」
カミラ姉さんの愛斧が禍々しく輝き、ヒノカお姉様の薙刀が空気を切り裂く。
誰も知らない、歴史から消し去られた見えざる王国。
そして、未だに誰が放ったのか分からない、僕を狙う『見えざる凶刃』の気配を背後に感じながら。
その絶望的な深淵の底で、僕たちの本当の戦いが幕を開けようとしていた。