紫色の靄が、重力を無視して浮かぶ奇妙な建造物の間を縫うようにゆっくりと流れていく。
見えざる世界、透魔王国。
ギュンターの異変というショック冷めやらぬ中、ステラテジスト率いる異形の兵たちを撃破した僕たちは、荒れ果てた浮遊島の中央で足を止めていた。
「……ここは」
マークス兄さんが、広場にそびえ立つ巨大な石像を見上げて息を呑んだ。
「ああ。父上がいつも祈りを捧げていた石像と、同じものだ」
レオンもまた、信じられないものを見るように目を丸くしている。
「……それは、透魔竜ハイドラの像よ」
アクアが静かに歩み寄り、石像を見上げながら口を開いた。
「白夜に光竜、暗夜に闇竜がいるように……ここには、ハイドラという知恵の竜がいたの」
アクアの透き通るような金色の瞳が、白夜と暗夜の王族たちを真っ直ぐに見据える。
「……残念だけど、暗夜王ガロンは、すでにこの世のものではないわ。今の彼は、ハイドラの呪力に操られた死体……『透魔の眷属』に過ぎないの」
「なっ……!?」
「操り人形だって!? だから父上は、あんな風に……ッ」
マークス兄さんとレオンが絶句する。
「ええ。ハイドラの目的は、暗夜と白夜の共倒れ。……前触れもなく現れる『見えない敵』も、ハイドラが送り込んだ兵士よ。互いに相手国が攻撃してきたと誤解させ、戦争を引き起こすために」
「……なるほど。世界を救う方法というのは、その透魔竜を倒すことか」
リョウマ兄さんが雷神刀の柄を強く握りしめ、静かに呟いた。
「ええ。私たちの最終目的はそこになるわ。……そして、もう一つ、伝えておかなければならないことがあるの」
アクアは伏し目がちに、しかし覚悟を決めたように言った。
「私は……この透魔王国の、王女なの」
「まさか……! アクアが、この国の王女だと?」
両軍の間に、重々しい沈黙が落ちた。
「あっはっは。世界が丸ごと隠されていて、しかも口にすれば消滅する呪い。その上、あなたがその国の王女とは。仏の思し召しにしても悪趣味極まりないですねえ」
白夜の修験者・アサマが、飄々とした口調で笑い声を上げた。
「まあ、どうせいつかは皆死ぬんですから、どこで死のうと同じですがね」
「縁起でもないことを言うな、生臭坊主!」
風の部族のツクヨミが、大人びた態度でアサマを睨みつける。
「この天才呪い師たる私がいる限り、死なせはせんぞ! だから安心しろ! ……こ、ここ、少し暗くて不気味だからといって、私が怯えているわけではないのだからな!」
「誰も怯えているなんて言ってませんよ。虚勢を張る子どもは見ていて飽きませんねえ」
一方、少し離れた崖の端では。
「わあー……空島がいっぱい浮いてるー……。ここから落ちたら、どこまで行くのかなー……」
セツナが身を乗り出して、ぼんやりと虚空を見つめている。
「おい! 身を乗り出すなセツナ、本当に落ちるぞ!」
サイラスが慌てて駆け寄り、彼女の腕をガシッと掴んで引き戻した。
「あー、ありがとうー。サイラスは、いつも私のこと見ててくれるねー」
「お、俺は別に……! っ、とにかく、俺の背中から離れるなと言っただろう!」
「ねえアクア! この浮いてる石とか、すごく高く売れそうじゃない!?」
行商人のアンナが目を輝かせる。
「……命が惜しければ、変なものには触れないことね。呪いで金貨ごと消滅しても知らないわよ」
アクアが冷ややかに釘を刺すと、アンナは「ひぃっ」と首をすくめた。
「――助けてください! 誰か……誰か!!」
その和やかな空気を、遠くから響いてきた少年の悲鳴が強引に断ち切った。
「え……?」
僕たちが顔を上げると、紫の霧の向こうから、ボロボロの服を着た一人の少年が、必死の形相でこちらへ向かって走ってくるのが見えた。
その後ろには、異形の槍を構えた透魔兵たちが音もなく彼を追跡している。
「あの子……人間の生き残りか!?」
「みんな、助けに行くよ!」
僕はヒロインたちの牽制をすり抜け、夜刀神・幻夜を引き抜いて飛び出した。
「させないわっ!」
ルーナの剣が先陣の透魔兵を切り裂き、フローラの氷とフェリシアの爆炎が敵の動きを封じる。サクラが少年の足元に光の結界を張り、カミラ姉さんの愛斧が残りの透魔兵を粉砕した。
「……はぁっ、はぁっ……た、助かった……」
少年はその場にへたり込んだ。
「大丈夫? 怪我はないかい?」
僕が剣を収めて近づくと、少年は怯えたように僕たちを見上げた。
「あ、ありがとうございます……。僕はロンタオ。透魔王ハイドラのお世話をしていた、小姓です」
「 透魔王の……!?」
リョウマ兄さんやマークス兄さんが、驚きと共にロンタオを取り囲む。
「……はい。あの王は普通ではありません。恐ろしい悪魔のような存在です。……その理不尽で横暴なやり方に嫌気がさして、やっとの思いで脱走してきたのです」
「じゃあ、あなたはハイドラの居場所を知っているのね?」
アクアが静かに問うと、ロンタオは深く頷いた。
「やったぁ! こんなラッキーあるんだね!」
エリーゼが無邪気に喜ぶが、ロンタオは戸惑ったように僕たちを見た。
「もしかして、あなた達は、透魔王のところに……?」
「うん。僕たちは、透魔王を倒すためにやってきたんだ。……お願いだ、ロンタオ。僕たちに力を貸してくれないか」
「! た、倒すだなんて……そんなことができるとは思えません。それに、せっかく逃げてきたのに……」
「すまない……でも、僕たちは本気なんだ。彼を倒せば、君も逃げる必要はなくなる」
僕の言葉に、ロンタオは少しの間黙り込み、やがて決意したように頷いた。
「……はい、わかりました。協力させてください。透魔王がいるのは……難攻不落の奇岩城、ロウランです」
ロンタオという奇妙な案内人を得て、僕たちは透魔王国のさらなる深淵へと歩みを進めることになった。
「……カムイ。どんな罠が待っていようと、私があなたの背中をお守りしますからね」
フローラが僕の首筋に冷気を絡ませ、
「お兄様のお体は、私が癒やし続けますっ!」
サクラが僕の腕を抱き込み、
「ア、アタシの手、しっかり握ってなさいよっ!」
ルーナが顔を赤くして僕の左手を握りしめ、
「お姉ちゃんが、全部の敵をバラバラにしてあげるわ。だから、安心して愛されなさいな……」
カミラ姉さんが僕の後頭部を豊かな胸の谷間に引き寄せる。
彼女たちの重く、息の詰まるような、逃げ場のない愛憎の鎖を全身に巻きつけたまま。
僕は、見えざる敵の正体へと迫る、死の国の行軍を再開したのだった。
***
その頃。
僕たちの見えない遥か彼方、深い闇に包まれた王座の間。
「……くるか、カムイ」
黒いフードを深く被った男が、低くしゃがれた声で呟いた。
「はい……アクアという娘もきます」
透魔の魔道士が平伏して答える。
「そうか……二人揃ってくるとは。……これもまた、一興か」
黒いフードの男の傍らには、生気のない瞳をした、白装束の美しい女性が、ただ静かに佇んでいた――。