透魔王国の深奥、「楼蘭(ロウラン)」へと続く道は、不気味なほどに静まり返っていた。
重力を失った巨大な岩塊が頭上を覆い、紫色の靄が足元にまとわりつく。生命の息吹が一切感じられないこの異次元の廃墟を、僕たちはロンタオの案内を頼りに進んでいた。
「……はぁっ……んっ……」
張り詰めた空気の中を行軍しているというのに、僕の小さな体は、相変わらず極端な熱と冷気の檻に完全に囚われていた。
「どうしたの、カムイ? お姉ちゃんの胸の鼓動が、そんなに心地いいのかしら……?」
歩みを進めるたび、背後からカミラ姉さんの長くしなやかな腕が僕の腰と腹部をきつく抱え込んでくる。彼女の圧倒的に豊満な双丘の谷間に僕の後頭部がすっぽりと埋まり、薄絹の衣装越しにその重く柔らかな弾力が僕の背中を波打つように叩いていた。
「カミラ、姉さん……歩き、にくいよ……っ」
「いいのよ。この死の国は冷たくて嫌な匂いがするわ。……だから、私の甘い香水と体温で、あなたの世界を全部塗り潰してあげる。……深く、息を吸い込んでごらんなさいな……」
カミラ姉さんの熱っぽい吐息が僕の耳朶をねっとりと舐め上げ、むせ返るような大人の女性の香りが肺の奥深くまで侵入してくる。
「カムイから離れろ、暗夜の魔女ッ!」
正面からは、白夜の第一王女・ヒノカ姉さんが、僕の右腕を力強く引いて自分の胸元へと抱き込んだ。
「カムイはお前の所有物じゃない! この淀んだ空気の中で、そんなに息を塞いだら倒れてしまうだろうが! ……カムイ、私の鼓動に合わせて息を整えるんだ……大丈夫だ、何が立ち塞がろうと、お前のことは私が必ず守り抜いてみせる!」
ヒノカ姉さんの真っ直ぐで熱い姉の愛情が、カミラ姉さんの妖艶な熱と正面衝突する。彼女の引き締まりつつも豊かな胸に腕を挟まれ、二人の姉による凄まじい綱引きに、僕の体は文字通り引き裂かれそうだった。
「お二人ともッ! お兄様のお体に負担がかかりますっ!」
サクラが涙目で飛び込み、僕の脚にしがみついて強制的に桜色の治癒の魔力を流し込んでくる。
「……カミラ様、ヒノカ様。いい加減になさいませ」
左側からは、フローラが絶対零度の冷気を纏って跪き、手袋を外した白く透き通る指先を、僕の汗ばんだ首筋から鎖骨へと滑り込ませた。
「ひゃっ……ふろーら……冷た……」
「……ええ。王女様方の鬱陶しい熱も、異界の瘴気も、私がすべて凍てつかせて差し上げます。……あなたはただ、私の氷の奥で心地よい痺れに身を委ねていればよいのです」
フローラの凍てつく吐息が僕の肌を撫で、極端な温度差が背筋にゾクゾクとする快感の粟を立たせる。
「……ちょっと、アンタたち! 前が見えないじゃないのよッ!」
赤いツインテールを揺らしたルーナが、顔を真っ赤にして僕の左手(フローラが触れていない方の手)を両手でぎゅっと握りしめた。
「……こんな気味の悪い場所、アタシが手ぇ繋いでてあげないと、アンタすぐどこかに行っちゃうでしょっ! ほら、アタシの手、もっとしっかり握り返しなさいよね……バカカムイッ!」
ツンケンした言葉の裏にある、彼女の小さな手のひらの汗ばむほどの熱と、不器用な情熱。
「私も、私もお守りしますっ!」
フェリシアが下から僕のもう片方の脚にすがりつき、エリーゼが「カムイお兄ちゃーん!」とカミラ姉さんの背後から飛び乗ってくる。ユウギリは少し離れた場所で、頬を紅潮させて恍惚と見つめていた。
「……相変わらず、カオスな状況ね」
行商人のアンナが、金貨の入った袋を揺らしながら呆れたようにため息をつく。
「カムイ様のあの高貴な匂い……たまらないのは分かるけど、あの中に入っていく勇気は私にはないわ……」
***
そんな僕の修羅場の周囲では、白夜と暗夜の家臣たちが、異界の不気味な空気を紛らわすように肩を並べて歩いていた。
「……弓使い。周囲の気流が変わったわ。……風を読みなさい」
暗殺者ベルカが無表情のまま、タクミの背後でワイバーンの手綱を引く。
「チッ、言われなくても分かってる! お前こそ、僕の射線を塞ぐなよ!」
口ではいがみ合いながらも、タクミの風神弓はベルカの死角を完璧にカバーする位置をキープしていた。
「な、なんだよこの足場! いつ崩れるか分かったもんじゃねえッス!」
ヒナタが浮遊する岩の段差に足を取られそうになる。
「……不注意ですね。ヒナタ、私の後ろを歩いてください。私が踏み固めた道なら安全です」
エルフィがピンクの重鎧を鳴らし、巨大な岩を軽々と粉砕しながら進んでいく。その圧倒的な物理の力に、ヒナタは顔を真っ赤にして「お、押忍ッ!」と背筋を伸ばした。
「……お前のその呪術、なかなか応用が利くわね。俺の暗器にその闇の魔力を乗せられないか?」
元盗賊のアシュラが、ニュクスを見下ろして問う。
「フン、若い盗賊風情が、私の呪いを利用しようとはね。……でも、レオン王子との同調よりは手軽で面白いかもしれないわ。試してあげる」
ニュクスが幼い姿で老成した笑みを浮かべ、レオンが「聞こえてるぞ、君たち」と呆れ顔でブリュンヒルデを開いた。
「ピエリ、そっちは崖だぞ! 落ちたらただの肉塊になるぞ!」
「えーっ! おじさん心配性ー! ピエリは落ちないもーんっ!」
アシュラはピエリの暴走に手を焼きつつも、しっかりと彼女の命綱を握っていた。
「……オボロ。お前、少し顔色が悪いぞ。無理をするな」
マークス兄さんが、静かにオボロを気遣う。
「だ、だからッ! アタシは平気だって言ってるでしょ! あんたに心配される筋合いは……っ」
オボロは顔を背けたが、その態度は以前のような憎しみではなく、完全な動揺と照れ隠しに変わっていた。
「……あー、また罠だー」
セツナが、今度は浮遊する蔦に逆さ吊りになっていた。
「セツナッ! お前はなぜそう毎回……ッ!」
サイラスが慌てて駆け寄り、剣で蔦を切り裂いて彼女を受け止める。
「あー、サイラス、また助けてくれたー。やっぱり頼りになるねー」
「……俺の背中から一歩も離れるなと言っただろうが! ほら、手を繋いでおけ!」
生真面目な騎士が顔を真っ赤にして弓使いの手を引く光景に、周囲から生温かい視線が注がれていた。
***
「……見えてきたよ。あそこだ」
ロンタオが立ち止まり、前方を指差した。
紫の靄の向こうに現れたのは、巨大な浮遊岩の群れだった。それらの岩は朽ち果てた石の橋で辛うじて繋がっており、その遥か先には、楼蘭(ロウラン)の入り口らしき巨大な城門が霞んで見えた。
「この橋を渡れば、もうすぐだよ。……でも、足場が悪いから気をつけて」
ロンタオが振り返り、僕たちに告げる。
「……本当に、この薄汚い橋を渡るのかしら?」
カミラ姉さんが愛斧を杖代わりにしながら、怪訝そうに橋を見下ろした。
底は見えない。落ちれば間違いなく無限の奈落だ。
「……私が、先に渡って安全を確認するわ」
アクアが静かに前に出た。
「アクア様、危険です! 私が空間魔法で……」
リリスが止めるのも聞かず、アクアはしなやかな足取りで、最初の石橋へと足を踏み入れた。
ギシッ……。
古い石が軋む音はしたが、橋は崩れることなく、アクアは無事に中腹の浮遊岩へと辿り着いた。
「……大丈夫みたいね。ロンタオ、あなたもいらっしゃい」
アクアの呼びかけに、ロンタオは頷き、小走りで橋を渡りきった。
「ほら、平気だったでしょ? みんなも早く!」
ロンタオが対岸から手を振る。
「よし、僕たちも行こう」
僕が足を踏み出そうとした瞬間。
「……お兄様、私が先に行きます!」
サクラが僕の手を強く引き、
「いいえ、私がカムイ様の手を引きます」
フローラが僕の首筋に冷気を這わせ、
「アタシの隣から離れないでよねっ!」
ルーナが僕の左手を握りしめ、
「お姉ちゃんが、あなたを抱き抱えて飛んであげるわ……」
カミラ姉さんが背後から僕を拘束し、
「暗夜の魔女になど任せられるか! 私がカムイを運ぶ!」
ヒノカ姉さんが正面から僕の腕を引っ張る。
「ちょ、ちょっとみんな! 橋が狭いから、そんなに固まったら……!」
僕たち一行が、もつれ合うようにして石橋の真ん中へと差し掛かった、その時だった。
メキメキメキッ……!!
嫌な音が、足元から響いた。
「……ッ!? カムイ様、橋がッ!!」
ギュンターの絶叫。
アクアとロンタオが渡った時には耐えていた石橋が、僕たち大所帯の重みに耐えかねたのか、あるいは何らかの仕掛けが作動したのか、中央から一気に崩壊を始めたのだ。
「きゃあああっ!?」
「落ちるッ!!」
足元の石が次々と奈落へと吸い込まれていく。
「カムイッ!!」
ヒノカお姉様とカミラ姉さんが同時に僕の体を強く抱きしめ、空中に投げ出されそうになる僕の体を、強引に前方の浮遊岩へと放り投げた。
「わっ……!」
僕は岩の縁にギリギリでしがみつく。
「させないわっ!」
ルーナが僕の左手を握ったまま宙に浮き、
「カムイ様ッ!」
フローラとフェリシアが僕の足にしがみつく。
「クリムゾンッ!!」
リョウマ兄さんの叫びに呼応し、クリムゾンの愛竜が急降下し、落ちかけた白夜の兵たちを次々と背中に乗せて引き上げる。
「レオン、魔力を合わせなさいッ!」
ニュクスの叫びと共に、レオンの重力魔法が落下する仲間たちの体を一時的に浮遊させ、エルフィがその怪力で次々と安全な岩盤へと放り投げていく。
「……くっ、みんな、手をッ!」
僕が必死にルーナたちを引き上げ、カミラ姉さんの飛竜とヒノカお姉様の天馬が空を舞い、なんとか全員が崩壊する橋を渡りきり、中腹の巨大な浮遊岩へと転がり込んだ。
「はぁっ……はぁっ……あぶ、なかった……」
僕が荒い息を吐きながら座り込んだ、まさにその直後。
「……チッ、しぶとい連中ですね。あそこで綺麗に落ちてくれれば、手間が省けたものを」
頭上から、冷酷で機械的な声が降ってきた。
見上げると、紫の靄の中から、重武装の透魔兵たちが無数に現れ、僕たちを完全に包囲していた。
「なっ……透魔兵!? どうしてこんなところに待ち伏せが……!」
タクミが風神弓を構え、周囲を睨みつける。
そして、その鋭い視線は、岩の奥で怯えたように震えている、一人の少年へと向けられた。
「……おい。ロンタオ」
タクミの声は、氷のように冷たかった。
レオンもブリュンヒルデを開き、ロンタオを真っ直ぐに見据える。
「……お前が渡った直後に橋が崩れ、この待ち伏せだ。……偶然にしては、出来すぎていると思わないか?」
「ち、違う! 僕じゃない! 橋が古かっただけで……っ!」
ロンタオは顔を青ざめさせ、後ずさりする。
「……言い訳は、地獄で聞きなさい。私の可愛いカムイを危険に晒した罪……その細い首を刎ねて償わせてあげるわ」
カミラ姉さんが、殺意に満ちた紫色の瞳でロンタオを見下ろし、愛斧を高く振り上げた。
「待って、カミラ姉さんッ!!」
僕は弾かれたように立ち上がり、ロンタオを庇うように彼とカミラ姉さんの間に立ち塞がった。
「カムイ……? どきなさい。その子は、私たちを罠にはめた裏切り者よ」
カミラ姉さんの声が低く沈む。
「確証はない! 橋は本当に古かっただけかもしれないし、透魔兵はハイドラの命令で動いているだけだ! 僕は……ロンタオを信じるって決めたんだ!」
僕が両腕を広げて庇うと、カミラ姉さんは悲しげに、しかしひどく暗い瞳で僕を見つめた。
「……カムイよ。お前のその『人を信じ抜く心』は、美徳だ。それがあるからこそ、白夜も暗夜も、こうして一つの軍として団結できている」
マークス兄さんが、ジークフリートを構えたまま、静かに口を開いた。
「……だが、忘れるな。世の中には、その純粋な心を利用し、背後から刃を突き立てようとする輩が必ず存在する。……王として立つならば、信じると同時に、疑う冷酷さも持ち合わせろ。……それができなければ、いずれお前は、最も大切なものを失うことになるぞ」
マークス兄さんの重い忠告が、死の国の淀んだ空気に響き渡った。
「ヒャハハハッ! 仲間割れですかァ!? いいですねェ、その隙に全員串刺しにして差し上げますよォッ!」
透魔兵の部隊長が不気味に笑い、一斉に襲いかかってきた。
「……疑うのも信じるのも、こいつらを片付けてからだ! 行くぞッ!」
リョウマ兄さんの雷神刀が閃き、僕たちの死闘が再び幕を開けた。