透魔王国の淀んだ廃墟の砦を抜け、僕たちは鬱蒼と茂る深い森へと足を踏み入れていた。
重力を無視して空に浮かぶ木々や、青白く発光する奇妙な植物。ここは、僕たちの知る自然の法則が一切通用しない、死と狂気の森だった。
僕の小さな体は、ヒロインたちの極端な温度差と、それぞれのどろどろとした愛情の引力に完全に絡め取られ、頭の芯が甘く痺れて溶け落ちそうだった。
「……静かにして」
その息の詰まるような修羅場を、アクアの氷のように冷たく、透き通った声が切り裂いた。
「え……?」
僕たちが顔を上げると、前方の深い霧の中から、一人の女性が音もなく姿を現した。
流れるような青い髪と、透き通るような白い肌。その顔立ちは、アクアと瓜二つと言っていいほど似ていた。
しかし、彼女の瞳には一切の生気がなく、虚ろな闇だけが広がっている。
「……お母様」
アクアが、信じられないものを見るように呟いた。
「お母様!? アクアの母親って……でも、彼女はとっくの昔に亡くなっているんじゃ……!」
僕が驚きの声を上げると、女性はゆっくりと口を開いた。
「……私は、シェンメイ。透魔王ハイドラ様の忠実な僕。……透魔の眷属の一人です」
「透魔の……眷属!?」
マークス兄さんがジークフリートを構え、リョウマ兄さんが雷神刀に手をかける。
死した人間をも手駒として操る、透魔王ハイドラの冒涜的な力。その事実が、僕たちの背筋を凍らせた。
「……ここは通しません。あなたがたは、ここで全員死ぬのです。……ハイドラ様のご意志のままに」
シェンメイは虚ろな声で宣告すると、強力な水の魔力を放ち、無数の透魔兵を召喚した。
「アクア……大丈夫かい?」
僕はヒロインたちの拘束から強引に抜け出し、アクアの隣へと歩み寄った。
「……ええ。この人は、私にお歌を教えてくれた、私の道標だったお母様。……でも、そこに心がなければ、死んでいるのと同じこと」
アクアの金色の瞳が、冷たく、そして恐ろしいほどの決意の光を宿して細められた。
「……私が、終わらせるわ。愛するカムイ……そして、お母様をハイドラの呪縛から解放するために」
アクアは水刃の槍を構え、誰よりも早く、実の母であるシェンメイへと一直線に突撃した。
「すべては透魔王ハイドラ様のため……」
シェンメイが巨大な水流を放つが、アクアはそれを同じ水の魔力で相殺し、肉薄する。
「……お母様。あなたをこんな姿にしたハイドラを、私は絶対に許さない……ッ!」
アクアの猛攻は、かつてないほどに容赦がなく、そして狂気を帯びていた。
前回の砦でロンタオを排除した時の冷徹さが、さらに研ぎ澄まされているようだった。彼女は「カムイを守る」という絶対的な大義のために、自らの手をどれだけ血に染めようとも構わないという、恐ろしいほどの自己犠牲と愛情を僕に向けていたのだ。
「……なかなかやりますね。ですが、ここでは分が悪いようです。一度、引きましょう」
シェンメイはアクアの鬼気迫る攻撃に押され、霧の中へとワープで逃亡を図った。
「逃がさないわ……ッ!」
アクアがそれを追おうとした瞬間。
「待つんだ、アクアッ!」
僕は彼女の細い腕を強く掴んだ。
「……深追いは危険だ。ここは敵の森のど真ん中なんだよ!」
「離して、カムイ……ッ! 今あそこでお母様を仕留めなければ、またあなたが危険に晒されるのよ! 私は、あなたに降りかかるすべての脅威を、この手で排除しなければ……ッ!」
アクアが振り向いたその顔は、焦燥と、僕への強迫観念にも似た愛情で歪んでいた。
彼女の冷たい指が僕の腕を握り返し、その爪が食い込むほどの強さで僕を引き寄せる。
「……アクア。君は、一人で背負いすぎだ」
僕が彼女の震える手を両手で包み込むと、アクアはハッとして、瞳を揺らした。
「……あら? 随分と一人で悲劇のヒロインを気取っているのね、アクア」
カミラ姉さんが愛斧を肩に担ぎ、妖艶な笑みを浮かべて歩み寄ってきた。
「カムイを守るのは私よ。あなたがそんなに必死にならなくても、私の可愛いカムイには、お姉ちゃんのこの豊満な愛の盾があるんだから」
カミラ姉さんは僕の背後に回り、再びその圧倒的な双丘で僕の背中を包み込んだ。
「暗夜の魔女、貴様がカムイを堕落させているのだろう! アクア、お前もだ。弟の命は、白夜の長女であるこの私が守る!」
ヒノカお姉様が正面から僕の腕を引っ張り、
「お兄様のお怪我は、私が治しますからっ!」
サクラが僕の脚にしがみつく。
「……私の冷気があれば、どんな敵も近づけません」
フローラが首筋に氷の指を這わせ、
「ア、アタシの手、絶対離さないでよねっ!」
ルーナが僕の左手をきつく握りしめる。
「……はぁ。どいつもこいつも、カムイを中心に回っているんだな」
タクミが風神弓を降ろし、呆れたようにため息をつく。
「……だが、その中心にあるからこそ、あいつは折れないわ。……私の主(カミラ様)が、あそこまで執着するだけの理由はある」
ベルカが無表情に、しかし確かな信頼の目で僕を見つめる。
「フン、愛だの絆だの、反吐が出るね。だが……君のその呪術は、僕の魔力をさらに高めてくれる。……行くぞ、ニュクス」
レオンがブリュンヒルデを開き、ニュクスが「若い子ね……けど、悪くないわね」と小さく笑う。
「オボロ、俺から離れるなよ」
「だ、だからッ! 自分で自分の身くらい守れるってば! あんたこそ、アタシを庇って怪我しないでよねッ!」
マークス兄さんの言葉に、オボロは顔を真っ赤にしてツンデレの極みを見せている。
「ヒナタ、あなたがあの透魔兵の攻撃を受ければ、骨が砕けます。私の後ろに」
「エルフィさん! 俺、一生あんたの背中についていくッス!」
怪力無双のエルフィに、ヒナタが完全に平伏している。
「おい、お嬢ちゃん! そっちは罠だぞ!」
「あはははは! おじさーん、早くこっち来てーっ!」
アシュラがピエリの保護者として振り回され、
「サイラスー、また転んじゃったー」
「お前は本当に……! ほら、俺の手をしっかり握っておけ!」
サイラスがセツナの手を引いて世話を焼く。
そして、クリムゾンがリョウマ兄さんの背中を叩く。
「どうだい、リョウマ。アタシたちの愛竜の機動力なら、あの逃げた母親(シェンメイ)を上空から追跡できるよ」
「ああ。頼む、クリムゾン。……アクアの心を救うためにも、ここで決着をつけねばならない」
白夜と暗夜。
かつては血を洗う争いをしていた彼らが、今や完全に一つの軍として、息の合った連携と絆を見せている。
「……みんな」
アクアが、僕と仲間たちを見渡し、その張り詰めていた表情を少しだけ緩めた。
彼女の透き通るような金色の瞳に、微かな涙が光る。
「……ありがとう、カムイ。……行きましょう。お母様を……ハイドラの呪縛から、解き放つために」
アクアの言葉に、僕たちは力強く頷いた。
ヒロインたちの重く、熱く、そして凍てつくような愛憎の鎖を全身に引きずりながら。僕たちは、逃亡するシェンメイを追って、透魔の深い森の奥へとさらなる追撃を開始するのだった。