紫色の霧がうねる透魔の森を抜け、僕たちは王城へと続く冷たい荒野を行軍していた。
「……カムイ」
重苦しい空気の中、白夜の第一王子・リョウマ兄さんが、歩みを寄せて低い声で僕に話しかけてきた。
「リョウマ兄さん? どうしたの、そんな険しい顔をして」
「ああ、少し……あの無限の渓谷での落下の時のことを思い出していてな」
リョウマ兄さんは、周囲の目を盗むように声を潜めた。
「あの時、お前を狙って放たれた『不可視の凶刃』。レオンとニュクスが防がなければ、お前は確実に命を落としていた。……あの攻撃について、気になっていることがあるんだ」
「気になっていること……?」
「ほう……リョウマ王子も、お気づきになられましたかな」
いつの間にか、背後からギュンターが音もなく近づいていた。彼の老獪な瞳には、深い暗い光が宿っている。
「ああ。……カムイの前では言いにくいのだが、お前を狙ったあの攻撃……あれは、俺たちの仲間の中から放たれたものだ」
「えっ……!?」
僕は息を呑んだ。
「まさか……! そんなこと、信じられないよ! だって、あの時はみんな、必死で落下から生き延びようとして……」
「いいか? よく考えてみろ」
リョウマ兄さんが僕の肩をガシッと掴む。
「あの瞬間、透魔の軍勢はまだ俺たちを捕捉しきれていなかった。魔法の軌道や魔力の残滓から見ても……外部からの狙撃ではなく、極めて至近距離から、仲間を装って放たれた暗殺の一撃だった。そう考えるのが自然だ」
「はい。私も、嫌な予感がしてならないのです」
ギュンターが静かに頷く。
「今まで黙っていたのは……仲間を信じるというあなたの気持ちに、水を差したくなかったからです。しかし、最終決戦を前にして、背中を狙われたらかなわない」
「そんな……」
僕の視界がぐらりと揺らいだ。
この白夜と暗夜の絆で結ばれた仲間たちの中に、僕の命を狙う裏切り者がいるというのか。
「すまない、カムイ。お前はいつも通りでいい。ただ、この話を心の片隅に置いておくんだ。……あくまで、可能性の一つとしてな」
「……わかった。話してくれてありがとう、リョウマ兄さん」
僕は震える声で答え、拳を強く握りしめた。
***
リョウマ兄さんとギュンターから離れ、歩みを再開した僕の心臓は、嫌な動悸を繰り返していた。
(仲間の中に、裏切り者が……?)
思わず周囲を見渡した、その瞬間だった。
「……カムイ。誰に、何を言われたの?」
背後から、ひどく冷たく、凄まじい殺気を帯びた声が鼓膜を打った。
振り返ると、カミラ姉さんが紫色の瞳を細め、僕の周囲の空間――リョウマ兄さんや他の仲間たち――を、まるで害虫を睨むような目で睥睨していた。
「あ……ううん、何でもないよ、カミラ姉さん」
「嘘ね。あなたの顔が青ざめているわ」
カミラ姉さんは僕に触れることはしなかった。しかし、彼女から放たれる圧倒的な威圧感が、僕と他の仲間たちとの間に「見えない壁」を構築していく。
「……誰かが、あなたを脅かしているのなら。あるいは、あなたを陥れようとする不穏な輩が、この軍の中に潜んでいるのなら……私が見つけ出して、跡形もなく解体してあげるわ」
「カミラ、お前の言う通りだ」
正面から、ヒノカ姉さんが薙刀の柄を強く握りしめ、静かに歩み寄ってきた。
彼女の瞳には、いつもの真っ直ぐな愛情以上に、研ぎ澄まされた刃のような警戒心が宿っていた。
「カムイ。お前は優しすぎる。だからこそ、誰かに背中を刺されるのではないかと……私は、気が気ではないのだ」
ヒノカ姉さんは僕の前に立ち塞がり、周囲の仲間たちを鋭く見回した。
「……何が立ち塞がろうと、お前の背中は私が守る。もし万が一、味方の中にカムイを害する者がいるならば……私がこの手で、容赦なく斬り捨てる!」
「お、お兄様……」
サクラが少し離れた場所から、怯えたように、けれどひどく執着に満ちた目で僕を見つめている。彼女の桜色の魔力が、いつでも僕を覆い尽くせるように明滅していた。
「……私の氷は、いつでも不穏な心臓を凍らせる準備ができています」
フローラが、冷徹な視線で軍の最後尾を睨み据える。
「アタシの目からは、絶対に逃げられないんだから……ッ!」
ルーナが剣の柄に手をかけ、僕の斜め後ろに陣取って周囲を睨みつける。
彼女たちの「カムイを守るためなら、他の仲間すら疑い、殺すことも辞さない」という剥き出しの独占欲と警戒心が僕を精神的な檻に閉じ込めていた。
***
「……そこまでです」
その張り詰めた空気を、紫の霧の向こうから響いた虚ろな声が断ち切った。
現れたのは、透魔の眷属と化したアクアの母・シェンメイだった。
「……これ以上、王城に近づかせるわけにはいきません。ここで死んでいただきましょう」
シェンメイが静かに腕を掲げると、足元の沼がボコボコと泡立ち始めた。
「……お母様。また透魔兵を呼ぶつもり?」
アクアが悲痛な声を上げ、水刃の槍を構える。
「いいえ。今回は、あなた方のご友人にも声をかけてきました」
シェンメイの言葉と共に、沼の中から這い出してきたのは――異形のバケモノではなかった。
かつての戦いで命を落とした、白夜と暗夜の兵士たちの死体だった。
生気のない瞳のまま、彼らは錆びた武器を構え、ゆらりと僕たちに向かって歩みを進めてくる。
「なっ……!」
「嘘だろ……あいつらは、国境で戦死した俺の部下……!」
「隊長……!? どうしてこんなところに……ッ」
白夜と暗夜の兵士たちが、かつての同胞の変わり果てた姿を見て絶叫する。
「……死者をも冒涜し、心を折ろうというのか。卑劣な……!」
マークス兄さんがジークフリートを構えるが、その手は微かに震えていた。
「……相手が誰であろうと、斬るしかない」
リョウマ兄さんが雷神刀を構えるが、やはり白夜の兵の死体を前に踏み込みが遅れる。
「……チッ、動きが鈍いわよ、弓使い」
その凄惨な戦場を、無表情な飛竜の羽ばたきが切り裂いた。
暗殺者ベルカが、躊躇うタクミの死角から襲いかかってきた白夜兵の死体を、無慈悲に斧で両断した。
「……ッ! すまない、ベルカ……」
「……謝罪は不要。あなたの視界に映るのが辛い標的なら、私の斧が先に沈めるわ。……あなたは、ただ風を読みなさい」
ベルカの冷淡だが確かな信頼に、タクミはハッとして風神弓を構え直した。
「……下がっていろ、オボロ。相手は白夜の死兵だ。お前が無理に見る必要はない」
マークス兄さんが、オボロの前に立ちはだかる。
「だ、だからッ! 自分で戦えるって言ってんでしょ!……アンタにばかり、嫌な役目を押し付けられないわよッ!」
オボロは顔を真っ赤にしながらも、マークス兄さんの背中を預かるように薙刀を振るった。
「……煩わしいわね。死者は土に還るべきよ。出力を上げなさい、レオン王子」
「フッ、言われなくても。いくぞ、ニュクス!」
ニュクスの古代呪術とレオンの魔法が同調し、立ち塞がる死兵の群れを一瞬にして空間ごと消し炭に変えていく。
「アタシたちの愛竜なら、迷いなく飛べるよ! 行くよ、リョウマ!」
「ああ! 頼む、クリムゾン!」
クリムゾンとリョウマ兄さんが戦陣を切り開き、
「エルフィさん! 俺が盾になるッスから!」
「……いいえ、私が粉砕します。あなたは私の背中を守ってください」
ヒナタとエルフィが互いの長所を生かして戦線を押し上げる。
「あー、サイラス、前が危ないよー」
「くっ……お前はこんな時でもマイペースだな! 離れるなよ、セツナ!」
サイラスがセツナを庇いながら剣を振るう。
仲間たちの悲痛な、しかし決して折れない共闘の絆。
その中央で、アクアは真っ直ぐに、己の母であるシェンメイを見据えていた。
「……なぜでしょう。あなたを見ていると……頭に奇妙な痛みを覚えます……」
シェンメイが苦しげに頭を押さえながら、アクアへ極大の水流を放つ。
「……っ……!」
アクアはその攻撃を正面から受け止め、自身の水の魔力で強引に相殺しながら、一歩、また一歩と母へと近づいていく。
「ですが、あなたを殺せば、この痛みも消えることでしょう……! さあ、覚悟なさい!」
「……そうね。覚悟は、とうに決めているわ。……この手で、あなたを倒す覚悟を!」
アクアの歌声が、死の国の淀んだ空気を震わせた。
清冽な水の槍が、シェンメイの放った魔法陣を突き破り、その胸の魔道核を正確に貫いた。
「……あ……私……は……」
シェンメイの体が光の粒子に包まれ、その瞳から虚ろな闇が消え去っていく。
「アクア……」
「お母様……?」
シェンメイの顔に、かつての優しい母親の微笑みが戻っていた。ハイドラの呪縛が解け、彼女の魂が解放されたのだ。
「私はもうじき……この身も魂も消滅します。……ああ、アクア。私はやっと……あなたを思い出せた……」
「お母様……! お母様っ!」
アクアが槍を投げ捨て、崩れ落ちるシェンメイの体をきつく抱きしめた。
「ごめんなさい……一人で寂しく、辛い思いをさせて……」
「いいえ! 私は一人じゃなかったわ! 暗夜や白夜のきょうだいたちが……そして、カムイが、ずっと一緒にいてくれたから!」
アクアの目から、せき止めていた大粒の涙がこぼれ落ちる。
「そうですか……良かった……。ああ……もっと、声が……聴きたいのに……」
シェンメイの体が、ふっと水泡となって、少しずつ透魔の空へと溶け始めていく。
「お母様! そんな……駄目よ、待って……お母様……っ!」
「……ありがとう、アクア。……私の子供になってくれて……」
最後に、彼女は僕の方をちらりと見て、優しく微笑んだように見えた。
「最期に……あなたの姿を見れて……本当によかった。愛しています……アクア……」
「お母様ァァァッ!!」
アクアの悲痛な叫びが、荒野に響き渡る。
完全に水泡となって消え去った母の温もりを求めるように、アクアはその場に膝をついて泣き崩れた。
「……」
僕は無言で歩み寄り、泣きじゃくるアクアの肩を強く抱きしめた。
彼女の冷たい涙が僕の胸を濡らす。僕は彼女の震える背中を撫でながら、激しい怒りと共に、心の奥底で漆黒の炎を燃やしていた。
死者の心まで弄び、親子の絆を引き裂く狂王。
その底知れぬ悪意を討つためなら、この身がどれだけヒロインたちの愛憎の炎と、見えない裏切り者の刃に晒されようとも、僕は絶対に止まらない。
僕たちは、アクアの悲しみを胸に刻み、ついに透魔王国の最も深い絶望――ハイドラの居城へと歩みを進めるのだった。