紫色の靄が淀む森を抜け、僕たちはついに、透魔王国の王城へと続く巨大で無機質な回廊へと足を踏み入れた。
アクアの悲痛な涙が乾き、再び静寂が戻った軍の空気は、これまで以上に重く、張り詰めていた。
死した親族すらも手駒として操るハイドラの悪辣さに、白夜と暗夜の両軍は深い怒りを共有し、無駄口を一切叩くことなく、ただ足音と衣擦れの音だけを響かせて暗闇を進んでいく。
しかし、その緊迫した静寂の真ん中で。
僕の小さな体は、相変わらず息の詰まるような、そして以前よりもさらに粘度を増した『熱と冷気の探り合い』に囚われていた。
回廊の闇は深く、松明の灯りだけが頼りだ。
その死角を縫うように、僕の右腕には、ひどく熱っぽい小さな手が絡みついていた。
震える指先から流れ込んでくる、微かな桜の香りと治癒の魔力。暗闇の中で、誰にも見られないように僕の指の間に自分の指を滑り込ませ、恋人繋ぎでぎゅっと握りしめてくるサクラの、逃げ場のない依存の気配だった。
だが、左腕は全く別の熱に支配されている。
白夜の第一王女・ヒノカお姉様が、音もなく僕の左半身にぴたりと寄り添い、僕の腕を自身の引き締まりつつも豊かな胸の谷間へと、強引に、しかし外からは見えない絶妙な角度で抱き込んでいた。
武人としての凛とした香りの奥から、じっとりと汗ばんだ『女』としての甘い匂いが立ち昇る。言葉はない。だが、その力強い抱擁からは「お前は私のものだ。誰にも渡さない」という、姉の皮を被った圧倒的な独占欲が伝わってくる。
そして背後からは、僕の首筋に冷たい吐息がかかるたび、むせ返るような香水と大人の熱気が僕の背骨を舐め上げる。
カミラ姉さんが、僕の歩幅に完全に合わせて背後に密着し、その豊満な双丘で僕の背中を波打つように叩いているのだ。さらに、僕の襟元にはフローラの絶対零度の指先が忍び込み、僕の服の裾はルーナが不器用に、けれど絶対に離さないほどの力で握りしめている。
「……」
誰も喋らない。
言葉を発すれば、この危うい均衡が崩れ、この暗闇の中で女たちの壮絶な殺し合い(僕の奪い合い)が始まってしまうことを、彼女たち自身が一番よく分かっているからだ。
僕は、思考すらもドロドロに溶かされそうな極端な温度差と圧死の恐怖に耐えながら、ただ無言で前を向き、歩みを進めるしかなかった。
***
「……止まれ」
先頭を歩いていたマークス兄さんが、右手を高く掲げた。
無言のまま、オボロがその背後で薙刀を構える。リョウマ兄さんとクリムゾンが背中合わせに立ち、レオンとニュクスが魔導書を開き、タクミとベルカが頭上の死角をカバーする。
軍全体が、完全に息の合った連携で一つの巨大な扉の前に集結した。
「……この奥から、強大な魔力を感じるわ」
アクアが静かに告げる。
僕は、周囲の無言の拘束から静かに、しかし強引に身を引き剥がし、夜刀神・幻夜の柄を握って前に出た。
ギィィィィッ……。
重い扉を押し開くと、そこは死の国の淀んだ空気とは全く異なる、神聖で、どこか懐かしい光に包まれた広大な玉座の間だった。
そして、その玉座の前に。
純白の和装を身に纏い、慈愛に満ちた笑みを浮かべる一人の女性が立っていた。
「……ようこそ、私の愛する子どもたち。ここへ来るのを、ずっと待っていましたよ」
その声を聞いた瞬間。
白夜のきょうだいたちの動きが、完全に凍りついた。
「……母……上……?」
リョウマ兄さんの手が震え、雷神刀の切先が床に下がる。
「母様……!? 」
ヒノカ姉さんが、信じられないものを見るように目を見開いた。
「あ……お母様……っ」
サクラが両手で口を覆い、その場にへたり込む。
「……そんな、あり得ない。母上は、あの広場で……っ!」
タクミが風神弓を握る手を白くさせて絶句する。
僕たちを優しく見つめているのは、白夜王国の先女王であり、僕と白夜きょうだいの母でもある母上(ミコト)だった。
「ああ、リョウマ、ヒノカ、タクミ、サクラ……。それに、私の可愛いカムイ。……ずっと会いたかったですよ。さあ、武器を下ろしてこちらへいらっしゃい。これからはこの国で、家族みんなで一緒に暮らしましょう……」
母上(ミコト)は両手を広げ、甘く優しい声で僕たちを招き寄せる。
「母様……!」
ヒノカお姉様とサクラが、涙を流しながらふらふらとミコトの元へ歩み寄ろうとした。
「駄目だッ! 行くな、ヒノカ姉さん、サクラ!」
僕は夜刀神を強く握りしめ、二人の前に立ち塞がった。
「カムイ!? 何をするんだ、どいてくれ! お母様が、私たちを呼んでいるんだぞ!」
「お兄様、お母様ですっ! 生きていらしたんですっ!」
「違うッ!! あれは……母上じゃない!!」
僕は胸の奥が張り裂けそうになるのを必死に堪え、叫んだ。
「……母上は、僕を庇って亡くなったんだ! 目の前にいるのは、ハイドラに操られて記憶を利用されているだけの……透魔の眷属だッ!」
僕の悲痛な叫びに、母上(ミコト)の慈愛に満ちた表情が、スッと消え去った。
代わりに浮かんだのは、恐ろしいほどに冷酷で、虚無の闇を宿した瞳だった。
「……あら。随分と賢しいことを言うのですね、カムイ」
母上…いや、ミコト(透魔の眷属)は、ゆっくりと腕を下ろし、僕の背後で立ち尽くすヒノカ姉さんとサクラへ、氷のような視線を向けた。
「……ヒノカ、サクラ。私の可愛い娘たち。でも……あなたたちがカムイに向けているその目は、家族へ向けるものではありませんね」
「え……?」
ヒノカ姉さんとサクラが、息を呑む。
「……獣のように飢え、どろどろに濁りきった、ふしだらな執着。……弟の肌の温もりを求め、暗黒の女たちと暗闇の中で見苦しく奪い合うその姿。……お母様は、あなたたちをそんな浅ましい獣に育てた覚えはありませんよ」
ミコトの静かで、しかし急所を抉るような冷酷な宣告。
「なっ……!?」
ヒノカ姉さんの顔が一瞬にして青白くなり、次いで羞恥と絶望で真っ赤に染まった。
「あ……ああ……っ」
サクラは自らの腕を抱きしめ、ガタガタと震え出した。
実の母親(の姿をした敵)から、心の奥底でひた隠しにしてきた、そして暴走させていた僕への『女』としてのタブーな欲望を、最も残酷な形で暴露され、完全否定されたのだ。
二人の心に、取り返しのつかない深い傷が刻み込まれようとしていた。
「母上……っ! 私、私は……っ!!」
ヒノカお姉様が、涙を流しながら膝から崩れ落ちそうになった、その時。
「……黙れッ!!」
僕は夜刀神・幻夜の切先を、実の母の姿をした敵へと真っ直ぐに突きつけた。
「……母様の姿で、母様の声で、姉さんたちを……僕の家族を侮辱することは、絶対に許さないッ!!」
僕の全身から、白き炎のような闘気と、竜の怒りが爆発的に立ち昇る。
「ヒノカ姉さんも、サクラも、僕の大切な家族だ! 彼女たちがどんな想いを抱えていようと……どんな業を背負っていようと……僕がそのすべてを受け止める! お前のような偽物に、彼女たちの心を否定する権利はないッ!」
僕の雄叫びが、玉座の間に響き渡る。
その力強く真っ直ぐな小さな背中に、ヒノカお姉様とサクラは、息を呑んで見入った。
「……カムイ……っ」
ヒノカお姉様の瞳から、絶望の涙が消え去る。代わりに溢れ出したのは、自分のすべてを肯定してくれた僕への、狂気的なまでの愛と絶対的な信頼の涙だった。
「お兄様……っ!」
サクラの震えが止まる。彼女の瞳に、僕のすべてを捧げて共に戦うという、揺るぎない覚悟の火が灯った。
「……ふふっ。愚かな子どもたち。ならば、ここで永遠に眠りなさい。……ハイドラ様のご意志のままに」
ミコトの背後から、無数の透魔兵と、強大な魔力を秘めたゴーレムたちが湧き出してきた。
「みんな、行くよッ! あれは敵だ! 僕たちの手で、母様の魂を解放するんだッ!」
「……ええ。お姉ちゃんが、カムイの心を傷つける偽物を、微塵切りにしてあげるわ」
カミラ姉さんが禍々しい愛斧を構え、
「私の冷気で、あの偽りの幻を永遠に凍てつかせます」
フローラが絶対零度の暗器を放つ。
「……カムイ! お前の往く道がどれほど険しくとも、この私が……私が必ず、共に往く!」
ヒノカお姉様が薙刀を構え直し、頬を極限まで赤く染めながら、僕の隣に力強く並び立つ。
「お兄様……私、もう迷いませんっ! お兄様と、最後まで戦いますっ!」
サクラが祓串を高く掲げ、極大の光の魔力を練り上げる。
実の母の在りし日の面影を断ち切り、家族としての、そして「男と女」としての深い業を背負って。
僕たちは、涙と愛憎の熱を刃に乗せ、眷属ミコトとの最も悲しく、そして激しい死闘へと身を投じたのだった。