玉座の間で本当の母との永遠の別れを経験し、僕たちは重い足取りのまま、透魔の王城のさらに奥深くへと続く迷宮の回廊を進んでいた。
「……」
軍の空気は、これまで以上に異様だった。
言葉を発する者は誰もいない。ただ、暗い石畳を叩く足音だけが虚ろに響いている。
僕のすぐ隣では、アクアが僕の左手をしっかりと、決して逃がさないほどの強い力で握りしめて歩いていた。
彼女の透き通るような白い横顔は、一切の感情を排したように冷たい。しかし、僕の指先に絡みつく彼女の指の強さは、玉座の間で交わしたあの「口づけ」の支配――僕の悲しみを誰にも触れさせず、同じ呪われた血を分けた半身として永遠に閉じ込めるという、静かで絶対的な独占欲を無言で主張し続けていた。
その背後から突き刺さる視線の群れが、僕の背筋を氷のように冷たく、同時に焼け焦げるほど熱くさせていた。
カミラ姉さんが愛斧の柄をギリギリと握りしめ、妖艶な笑みの裏に凄まじい殺気を隠して僕たちの背中を睨みつけている。
「……」
白夜の第一王女・ヒノカ姉さんもまた、薙刀を片手に無言で歩いていた。女としての情念を覚醒させた彼女の瞳は、アクアの背中を射抜き、今すぐにでもその手を切り離して僕を奪い返そうとする激しい衝動と、武人としての理性の間で激しく葛藤している。
サクラは涙目で自らの腕を抱きしめ、フローラは冷気を漏らし、ルーナは唇を噛み締めている。
誰も、僕に物理的に群がろうとはしなかった。
実の母を喪った僕の悲壮感と、いとこ同士という「血の特権」を盾にしたアクアの神聖不可侵な空気が、彼女たちの手出しを固く禁じていたからだ。
***
「……おかしいわね。この回廊、さっきから少しも景色が変わらない」
アクアがふと足を止め、警戒するように周囲を見渡した。
「罠かもしれない。……みんな、警戒を」
アクアが振り返ろうとした、その瞬間だった。
シュウゥゥゥッ……!
床の隙間から、突如として濃密な紫色の瘴気が噴き出した。
「なっ……!?」
「カムイッ!!」
背後でヒノカ姉さんとカミラ姉さんの悲鳴が響いた気がしたが、視界は一瞬にして紫の霧に完全に遮断されてしまった。仲間たちの気配も、足音も、すべてが分厚い壁に隔てられたように遠ざかっていく。
「カムイ! 手を離さないで!」
霧の中で、アクアの声だけがすぐそばで響き、僕の左手を握る彼女の指にさらに力がこもる。
「うん、大丈夫だ、アクア……!」
僕たちが霧の中を手探りで進もうとした、まさにその時。
『……我は忘れられし神。裏切られし王、埋もれし竜……』
耳元で、脳髄を直接撫で回すような、呪詛に満ちた男の詠唱が響いた。
「誰だッ!?」
僕が夜刀神を構えようとした直後。
ズガァァァッ!!
背後の完全な死角から、空気を叩き割るような不可視の凶刃が、僕の背中を強かに打ち据えた。
「ガアァァッ……!?」
「カムイ!?」
凄まじい衝撃と魔力が背骨を貫き、僕はアクアの手を離して床に崩れ落ちた。視界が真っ白に明滅し、呼吸が詰まる。
(無限の渓谷で落とされた時と……同じ、魔力……っ!)
「……カムイ様ッ! カムイ様ッ!!」
僕の意識が沈みかけた直後、周囲の紫の霧が嘘のように晴れ渡り、重々しい足音と共に老騎士ギュンターが駆け寄ってきた。
「あ……ギュン、ター……っ」
「ご無事ですか! 一体何が……ッ。凄まじい魔力の残滓だ。……暗器か、あるいは呪いか」
ギュンターは僕を抱き起し、険しい顔で周囲を見回した。
回廊には、床に倒れ伏す僕と、そのすぐそばで蒼白な顔をして立ち尽くすアクア。そして、遅れて霧の向こうから駆けつけてくる仲間たちの姿しかなかった。
ギュンターの老獪な瞳が、氷のように冷たく細められ、アクアを射抜いた。
「……奇妙ですな、アクア様」
「え……?」
「この状況。突然の霧で分断され、カムイ様が背後から凶刃に倒れた。……その時、カムイ様のすぐ傍にいて、背後を取れたのは……あなただけだ」
ギュンターの言葉の刃が、静かに、しかし致命的な毒を孕んで空間を切り裂く。
駆けつけてきたヒノカ姉さんやカミラ姉さんたちも、息を呑んで足を止めた。
「……待て、ギュンター。まさか、お前はアクアを……」
リョウマ兄さんが顔を強張らせる。
「ええ。この見えざる世界で、カムイ様の命を狙う裏切り者がいるとすれば。……先日の砦で、案内人の少年を口封じのように手にかけてみせた彼女ならば、いかようにも偽装できよう」
「なっ……! 違うわ、私はカムイを……!」
アクアが悲痛な声を上げるが、ギュンターは厳しい顔を崩さない。
「ならば、なぜあなたのすぐ傍で、カムイ様は背後から撃たれたのです? ……彼女の目的は、最初からカムイ様を孤立させ、その命を奪うことだったのでは?」
「いい加減にしろッ、ギュンター!!」
僕は背中の激痛を堪え、夜刀神・幻夜を杖代わりにしながら強引に立ち上がった。
「カ、カムイ様! 無理をしては……」
「アクアは裏切り者なんかじゃない! 彼女は、僕の魂の片割れだ……ッ! 僕の痛みを誰よりも分かってくれている彼女を疑うなら、僕が相手になる!」
僕の激しい怒気に、ギュンターは小さく舌打ちをするように目を伏せた。
「……よろしいのですか、カムイ様。その甘さが、いつかあなたの寝首を掻くことに……」
「甘くて結構だ! 僕は彼女を信じる。……アクア、大丈夫だよ」
僕が振り返ると、アクアは胸の前で両手を固く握りしめ、金色の瞳を震わせて僕を見つめていた。その顔には、疑われたことへの怒りよりも、僕が自分を無条件で庇ってくれたことへの、痛切なまでの愛しさが滲み出ていた。
「……敵襲だッ! 前方から透魔兵の大群!」
緊迫した空気を破るように、前線を警戒していたマークス兄さんの叫び声が響き渡った。
「……話は後だ。今は目の前の敵を凌ぐぞ!」
リョウマ兄さんの号令と共に、僕たちは再び武器を構え、回廊の奥から雪崩れ込んでくる透魔の異形たちとの乱戦へと突入した。
***
母を失った深い悲しみ。そして、仲間内に裏切り者がいるかもしれないという疑心暗鬼。
肉体的にも精神的にも限界が近づく中、白夜と暗夜の軍は、それでも互いの背中を預け合い、必死で死線を支え続けていた。
しかし、透魔の軍勢は倒しても倒しても底なしに湧き出してくる。
「くっ……キリがないな……!」
タクミが風神弓を構えたまま、荒い息を吐く。
「……陣形を縮めろ! 各個撃破されるぞ!」
マークス兄さんがジークフリートを振るいながら叫ぶ。
その、血みどろの戦線の最前線だった。
『……クク……。嬉しいぞ。この血が湧き立つような喜びだ』
回廊の奥。
重苦しい紫の靄を切り裂いて、一人の男がゆっくりと姿を現した。
二刀の妖刀を携え、異形の甲冑に身を包んだその男。
……僕が幼い頃、暗夜王国へと連れ去られる原因となった、あの日の広場で母様と僕を庇って倒れた、あの男。
『嬉しいものだな。……我が子の成長というものは』
男が、魔剣ガングレリを手に、その不気味な顔を歪めて笑った。
「な……ッ!?」
リョウマ兄さんの雷神刀が、手から滑り落ちそうになる。
ヒノカ姉さんも、サクラも、タクミも、信じられないものを見るように完全に硬直した。
「そんな……馬鹿な……。父……上……!」
「……ああ。私はスメラギ。死して透魔の眷属に堕ちた者」
白夜王国の先王、スメラギ。
最強の剣聖と呼ばれた彼が、虚ろな闇の瞳で僕たちを見据えていた。
「白夜の先王だと……!?」
マークス兄さんがジークフリートを構え直し、暗夜軍全体に極度の警戒が走る。
母・ミコトの幻影に続き、今度は白夜の父の幻影。ハイドラの悪意は、これでもかというほどに僕たちの心をへし折りにきている。
「昔とは違う……。今ならば、極上の仕合ができよう」
スメラギが、ゆっくりと二刀を構え、獣のように低い重心で腰を落とす。その瞬間、回廊の空気がビリビリと震え、圧倒的な剣気が僕たちの肌を刺した。
「さあ……存分に、刃を交えようぞ。我が子たちよ」
絶望の連鎖。
親の愛と記憶を冒涜する透魔王の悪意の前に、僕たちは再び、あまりにも残酷な試練へと立ち向かうことになったのだった。