紫の瘴気が渦を巻く玉座の間。
完全に透魔王ハイドラの狂気に飲まれ、異形のオーラを纏ったギュンターが、凄まじい剣気を放って僕たちに襲いかかってきた。
「……死ねェッ! カムイィィッ!!」
「……くっ!」
かつて暗夜の城で、幾度となく剣の稽古をつけてくれた時と同じ、しかし全く異質の、純粋な殺意の籠もった重い一撃。
僕は夜刀神・幻夜でその剣戟を受け止めたが、老騎士とは思えない桁外れの膂力に、小さな体が後ろへと弾き飛ばされそうになる。
「カムイに触れるなッ、外道が!」
ヒノカ姉さんが薙刀を構えて飛び込もうとし、カミラ姉さんが殺意に瞳孔を開いて愛斧を振り上げた、その瞬間だった。
「……邪魔立ては、させんッ!!」
ギュンターの体から、爆発的な紫色の瘴気がドーム状に膨張し、玉座の間の中央を完全に分断した。
「なっ……!?」
「きゃあっ!」
凄まじい魔力の暴風が、リョウマ兄さんもマークス兄さんも、そして僕に群がろうとした者たちをも容赦なく壁際まで吹き飛ばす。
濃密な瘴気の結界が、僕とギュンター以外のすべての者の介入を物理的に拒絶したのだ。
「カムイッ! 貴様、私の弟に何をする気だッ!」
結界の外から、ヒノカ姉さんが白銀の薙刀で何度も瘴気の壁を叩き斬るが、刃は虚しく弾き返される。
「……私の可愛いカムイを独り占めする気……? 許さない……絶対に許さないわッ!」
カミラ姉さんが狂ったように斧を叩きつけ、サクラが光の魔力を放つが、透魔王の力を注ぎ込まれた絶対の防壁はビクともしない。
結界の内側。
暗く淀んだ空間に、僕と、僕を殺そうとするかつての恩人の二人が残された。
「……これで邪魔者は消えた。さあ、絶望の中で死ぬがいい、カムイッ!」
ギュンターの長剣が、空気を切り裂いて僕の首筋に迫る。
「……っ!」
僕は必死に身を躱し、夜刀神で下から斬り上げた。
だが、ガンターはその軌道を完全に読み切り、手首を返して僕の剣を絡め取り、重い蹴りを僕の腹部に叩き込んできた。
「が、はっ……!」
床に転がった僕の小さな体を、無慈悲な刃が追撃する。
強い。ハイドラの魔力だけではない。僕の剣の癖、踏み込みのタイミング、呼吸のすべてを、目の前の男は知り尽くしているのだ。
無理もない。僕に剣の握り方を、敵の殺気の読み方を、生き残るための術を叩き込んだのは、他でもないこのギュンターなのだから。
「……どうした! その程度か、カムイ! 私が教えた剣は、そんなひ弱なものではなかったはずだぞ!」
嘲笑うガンターの連撃に、僕は防戦一方になる。
だが、激しい斬り合いの中で、僕の頭は不思議なほどに冴え渡っていた。
彼が僕の剣を知り尽くしているのなら。
僕もまた、彼の剣のすべてを知っている。
「……はぁぁッ!」
ガンターが大上段から剣を振り下ろした瞬間。
僕はあえて引かず、彼に教えられた定石を破り、「半歩」だけ斜め前に踏み込んだ。
「なにッ……!?」
ガンターの剣が僕の残像を斬り裂き、僕の夜刀神の柄が、彼の無防備な胸元へと深々と入り込む。
そこにあるのは、ハイドラの支配の源である、紫色の魔道核(水晶)。
「……ギュンター。あなたが僕に教えてくれた剣で……あなたを縛る呪いを断ち切るッ!!」
僕が渾身の力を込めて夜刀神を突き立てようとした、その時。
『ユラリ ユルレリ……』
瘴気の結界を透かして、清冽で、どこまでも透明な歌声が響き渡った。
アクアだ。彼女の歌が、分厚い魔力の壁を透過し、ガンターの体内に渦巻く狂気を直接浄化し始めたのだ。
「ガ、アァァァッ……!? 歌を、やめろォォッ!!」
ギュンターが頭を抱え、一瞬、完全に動きを止めた。
「今だッ!」
僕の夜刀神・幻夜の刀身が七色の光を放ち、ギュンターの胸の魔道核を正確に、そして粉々に砕き割った。
パァァンッ……!!
甲高い音と共に水晶が砕け散り、ギュンターの体を覆っていた禍々しい瘴気が完全に霧散した。
それと同時に、僕たちを隔てていた紫の結界も音を立てて崩れ去る。
「……っ……」
ガンターは静かに膝をつき、そのまま床へと倒れ込んだ。
「ギュンター!」
僕は剣を放り出し、彼を抱き起こした。
ギュンターはゆっくりと目を開けた。その瞳から、あのドロドロとした暗い憎悪の色は完全に消え去り、かつての、僕の知る厳格で温かい老騎士の光が戻っていた。
「……カムイ、様……」
「ギュンター! 良かった、目を覚ましたんだね……っ」
僕が涙ぐみながら言うと、ギュンターはすべてを悟ったように顔を歪め、僕から目を逸らした。
「……私は……私は、なんと恐ろしいことを……」
ガロン王への復讐心に囚われ、魂を売り渡した。
無限の渓谷で僕を殺そうとした。そして今もまた、本気で僕の命を奪おうとした。
己の犯した大罪の記憶が、濁流となって老騎士の精神を打ち据える。
「……私のような裏切り者が、生きてあなたの御顔を拝する資格などありません。……この大罪、命をもって……!」
ギュンターは、床に落ちていた短剣を素早く拾い上げ、躊躇うことなく自身の喉元へと突き立てようとした。
「……逃げるなッ!!」
パァンッ!!
僕は、自らの手を血で切ることも厭わず、素手でその短剣の刃を強引に弾き飛ばした。
「カ、カムイ様……!?」
ガンターが驚愕に目を見開く。
結界が解け、駆け寄ろうとしていたリョウマ兄さんやマークス兄さん、そしてヒノカ姉さんたちも、僕の放つかつてないほどの王としての覇気に息を呑んで足を止めた。
「……死んで楽になるなんて、許さない」
僕は、血の滲む手でガンターの胸倉を強く掴み、真っ直ぐに睨みつけた。
「君の罪は消えない。僕の命を奪おうとしたことも……ハイドラに魂を売り渡し、仲間を騙し続けたことも。絶対に無かったことにはならないんだ」
その言葉に、少し離れた場所で息を呑むクリムゾンの姿があった。彼女の隣に立つリョウマ兄さんも、黙って僕の裁きを見守っていた。
ガンターの目から、ボロボロと悔恨の涙がこぼれ落ちる。
「ならば……ならば、せめてこの命で……っ」
「だから、生きるんだッ!!」
僕の叫びが、玉座の間に響き渡る。
「……君のその命は、もう君だけのものじゃない。僕たちのために……一生、その重い罪を背負って、生き地獄を這いずり回れ。……最期の血の一滴が枯れ果てるまで、僕のために剣を振るえッ! それが、君の罰だ!」
冷酷で、甘さを捨てた、一人の「王」としての絶対の命令。
それは、死という逃げ道を許さず、しかし彼を絶対に見捨てないという、血を吐くような愛の形だった。
「……カムイ、様……っ。あぁ……ああぁぁっ……!」
ギュンターは、その場に深く伏して、声を上げて泣き崩れた。
「……御意に。この薄汚れた命、朽ち果てて灰になるまで……あなたの盾となり、剣となりましょう……っ」
死闘が終わり、真の裏切り者が再び僕の前に忠誠を誓った。
「……カムイ。お前は……真の王になったな」
マークス兄さんが静かに目を伏せ、タクミも小さく息を吐いて弓を下ろした。
その、重く、悲痛な決着の余韻の中。
カミラ姉さんが、ヒノカ姉さんが、僕を抱きしめようと一歩を踏み出した。
だが、遅かった。
「……よくやったわ、カムイ」
僕の背後に、音もなくアクアが立っていた。
彼女は、他の誰にも干渉を許さない神聖な気迫を纏いながら、僕の背中から細く冷たい両腕を回し、僕の小さな肩をきつく、そして絶対的な力で抱きしめた。
「アクア……」
「……恩人を生かすために、自ら手を血に染め、冷酷な罰を下したのね。……あなたのその優しい心は、さぞ痛んで、血を流しているでしょう」
アクアの冷たい頬が、僕の汗ばんだ頬にすり寄せられる。
「……っ、暗夜の女、そこを退け……! カムイの心は私が……」
ヒノカ姉さんが顔を強張らせて歩み寄ろうとするが、アクアは振り返ることすらなく、その金色の瞳の視界だけで白夜の王女を射抜き、その場に縫い留めた。
カミラ姉さんも、アクアから放たれる「ここは私と彼だけの領域だ」という底知れぬ狂気と独占欲に押され、武器を下ろすことしかできなかった。
「……いいのよ。あなたは、王になったのだから」
アクアは、僕の耳元で、甘く、呪いのように囁いた。
「……その重い業も、罪も、拭いきれない悲しみも。……血を分けた私だけが、あなたのすべてを、一緒に背負ってあげるから……」
皆が見つめる前で、アクアの冷たい唇が、僕のうなじに静かに、そして深く落とされた。
それは、愛や慰めなどではない。罪を共有する『共犯者』として、僕の魂の根幹を誰にも渡さないという、静かで恐ろしい、絶対的支配の完成だった。