透魔王国の最深部。ガロン王の呪縛が解けた玉座の間は、もはや元の形を保っていなかった。
『……グォォォォォォォッ!!!』
空間そのものを喰らい、無数の次元の欠片と紫の泥がデタラメに癒着して膨張し続ける肉塊。
頭頂部さえ見えないほどに巨大化した狂王ハイドラの最終形態が、星空がねじ切られた虚無の空間に君臨していた。
その圧倒的な質量から放たれる瘴気は、息をするだけで肺が焼け焦げるような物理的な圧力(重力)を伴って、僕たちを押し潰そうとしてくる。
「……くそっ! 立っているだけで、内臓が破裂しそうだ……っ」
僕の小さな体が、強烈な瘴気の暴風に吹き飛ばされそうになる。
「……耐えろ、カムイッ!!」
その絶望の嵐を真っ向から切り裂き、リョウマ兄さんが雷神刀を構えて前へと躍り出た。
「……俺たちが、お前の往く道を創る!」
「……ああ。暗夜と白夜、そのすべての想いを、私たちのこの一撃に懸ける!」
マークス兄さんが、ジークフリートを上段に構え、リョウマ兄さんと完全に肩を並べた。
各々の軍の仲間たちが一言ずつ喋って連携を確認するような、悠長な時間など一秒たりともない。
マークスの背中の死角をオボロが命懸けで死守し、リョウマの側面から迫る異形をクリムゾンが血まみれになりながら薙ぎ払う。レオンの魔力回路をニュクスの呪いが強制的に拡張させ、タクミの射線をベルカやアシュラたちがこじ開ける。
全員が、声すら出せないほどの死力を尽くし、四人の王族の攻撃のために『絶対の布陣』を敷いていた。
「……いくぞ、リョウマ王子ッ!」
「……応ッ!!」
マークス兄さんの漆黒の波動と、リョウマ兄さんの極大の紫電が、同時にハイドラの分厚い瘴気の壁へと叩き込まれた。
凄まじい衝撃波が次元を揺らす。二人の兄は、鎧にヒビが入り、全身から血を吹き出しながらも、決して武器を引かなかった。
「……ここだッ! タクミ!」
「分かってるッ!!」
レオンが口から血を流しながらブリュンヒルデの重力球で瘴気の裂け目を強引に固定し、タクミが風神弓の光の矢で、その奥底に潜むハイドラの本体(核)までの射線を完璧に撃ち抜いた。
四人の兄弟たちが、己の命を削ってこじ開けた、黄金と紫電と闇と光が交錯する『たった一本の道』。
「……行け、カムイッ!! 私たちの未来を、お前に託す!!」
マークス兄さんの血を吐くような絶叫が、空間に響き渡った。
「……ああッ!!」
僕は夜刀神・終夜(ファイアーエムブレム)を強く握りしめ、その光の道へと飛び出そうと、床を強く蹴り上げた。
『……グォォォォォォォォッ!!!』
僕の突進を喰らい尽くそうと、ハイドラの巨大な泥の顎が、空間ごと大きく開かれた。
「……終わらせるッ!!」
僕は、無数の亡者の悲鳴が渦巻く巨大な口の奥――ハイドラの本体が宿る絶望の核に向かって、炎の紋章の光の刃を、真っ直ぐに突き刺した。
ドゴォォォォォォォンッ!!!
七色の黄金の斬撃が、ハイドラの巨体の内側から爆発的に広がり、世界を喰らっていた絶望の泥を、内側から完全に焼き払っていく。
『……グオォォォォォォォォッ!!!』
ファイアーエムブレムの黄金の斬撃を内部から浴び、ハイドラの巨大な異形が、虚無の床へと崩れ落ちた。
しかし、狂王の悪あがきは終わっていなかった。
崩れかけた泥と肉の表面がおぞましい音を立てて波打ち、周囲の空間から次元の断片を強制的に引き剥がし、自らの傷口へと吸い寄せて急速に癒着させ始めたのだ。
「……ッ、自己再生だと!? 空間そのものを喰らって傷を塞ごうとしている!」
タクミが風神弓を番え直し、戦慄の声を上げる。
「……フッ、どこまでもしぶとい化け物だ。だが、私の魔力が尽きるのが先か、あの巨躯が朽ちるのが先か……徹底的に削り切ってやる」
レオンがブリュンヒルデを抱え直し、不敵な笑みを浮かべた。
ハイドラの無数の目が憎悪に燃え上がり、再生を終える前に僕たちを完全に消し飛ばそうと、その巨大な顎を開いた、まさにその時。
『……ユラリ ユルレリ……』
戦場の中央。すべてを清めるような、清冽で、力強い歌声が響き渡った。
アクアだった。
彼女は静かに立ち、自らの命の限界すらも超えるほどの膨大な魔力を、その歌声に乗せて放っていた。彼女の透き通るような白い肌が、過剰な魔力の放出に耐えかねて微かに淡い光を帯びている。
「アクア……!」
僕が叫ぶと、彼女の金色の瞳が、真っ直ぐに僕を捉えた。
(……私は、あなたの魂の片割れ。……あなたの未来を、絶対に神なんかに奪わせはしないわ)
言葉には出さずとも、その揺るぎない覚悟が僕の心に直接響いてくる。
「……カムイ様! 私も、お力になりますッ!」
アクアの歌声に呼応するように、星界の管理人、リリスが本来の星竜の姿となって虚空へと舞い上がった。
『……我が星の力よ! 狂王の呪縛を、凍てつかせろッ!!』
アクアの清冽な歌の波動と、リリスの増幅された星界の力が完全に融合し、ハイドラの巨体全体を縛り上げる、巨大な光と水の鎖となった。
『……グ、ガァァァッ!!? な、なんだ、この力は……ッ!! 我の……我の再生が……ッ!!?』
空間を喰らい、次元を癒着させる絶望的な自己再生能力が、アクアとリリスの命懸けの封印術によって、完全に凍結させられたのだ。
「……今だ、カムイッ!! その刃で、狂王の連鎖を断ち切れッ!!」
マークス兄さんの力強い号令が、玉座の間に響き渡る。
「……ッ!! おおォォォォォォッ!!!」
僕は、夜刀神・終夜(ファイアーエムブレム)を強く握りしめ、すべての力と祈りを黄金の炎へと注ぎ込んだ。
僕という小さな存在が、ハイドラの核――巨大な瞳の奥に宿る透魔の心の中心へと、流星となって飛び込む。
ドォォォォォォォォンッ!!!
僕の放った最後の一撃が、光の鎖に縛られたハイドラの核を真っ向から貫き、完全に粉砕した。
『……我……は……。……忘れられし……神……。……埋もれ……狂い……果てて……』
断末魔の叫びと共に、ハイドラの巨大な異形が、内側から激しく崩壊を始めた。
紫の泥は浄化の炎に焼かれて無数の光の粒子へと変わり、喰らわれていた空間が、静かに元の形へと修復されていく。
「……やったのか」
「……ああ。……透魔王は、滅びたのだ」
リョウマ兄さんが雷神刀を下ろし、深く息を吐く。
白夜と暗夜の仲間たちが、信じられないものを見るように沈黙し、やがて爆発的な歓喜の声を上げようと息を吸い込んだ。
だが、その歓声が弾けるより、ほんの数秒だけ早く。
僕は、夜刀神を地に突き立て、崩壊し、光の粒子となって空へと昇っていくハイドラの残滓を静かに行き仰いでいた。
僕の隣には、歌い終えて力なく跪いたアクアと、人間の姿に戻ってふらふらと立ち上がったリリスの姿があった。
僕、アクア、リリス。
僕たちの視線が、ふと、空中で交差した。
その一瞬だけ、周囲の喧騒は完全に音を失った。
(……お父様)
(……かつての主、)
(……忘れられし、哀れな神)
透魔の血を引く僕たち3人だけが共有する、特別な記憶。狂気に飲まれる前、人間を愛し、透魔王国に繁栄をもたらした、優しかった頃のハイドラの在りし日の面影。
「……静かに、眠って」
アクアの唇が、音もなく紡ぐ。
僕も、リリスも、静かに目を伏せ、光の粒子となって永遠の眠りにつく父へと、密かな哀悼の祈りを捧げた。
それは、誰にも邪魔されることのない、僕たち3人だけの、切なく、そして最も温かい葬列だった。
(……さようなら、僕の、もう一人の父親)
胸の奥に残る微かな痛みを抱えながら、僕がゆっくりと目を開けた、その直後だった。
神殺しの大役を終え、僕の小さな体から一気に力が抜け、その場に膝から崩れ落ちそうになる。
だが、僕の体が冷たい虚無の床に叩きつけられることは、決してなかった。
「……ッ」
背後から、むせ返るような濃厚な香水と、圧倒的な質量を誇る、底なしに柔らかい双丘が、僕の背中をすっぽりと受け止めた。
カミラ姉さんだ。
彼女は言葉を一切発しなかった。ただ、僕の小さな体を自らの胸の深い谷間へと完全に沈め込み、両腕で僕の腰を蛇のようにきつく絡め取った。彼女の震える腕からは、「もう二度と、絶対に外の世界へは出さない」という恐ろしいほどの独占欲と、甘い死の匂いが立ち昇っている。
そして正面からは、凄まじい熱量を帯びた戦装束の胸が、僕の顔を強引に抱き込んだ。
ヒノカお姉様だ。
彼女もまた、一切の言葉を口にしない。汗ばんだ肌の匂い、激しく早鐘を打つ心音、そして引き締まりつつも豊かな女の肉体の弾力。それらすべてを僕に直接押し付けることで、生き延びた僕の命(心音)を自分だけのものとして確認し、支配しようとする狂気的な情念。
僕の右足にはサクラの柔らかな胸が泣きすがるように密着し、左手はルーナの小さな両手に痛いほど握りしめられ、首筋にはフローラの絶対零度の指先が、僕の理性を麻痺させるように静かに這わせられた。
戦いは、終わった。
だからこそ、彼女たちはもはや、僕を世界に晒しておく理由をすべて放棄したのだ。
その逃げ場のない、息の詰まるような暗く甘いカオスの中で。
僕の頬に、冷たく透き通るような感触が触れた。
アクアだった。
彼女は、僕を貪り喰らおうとする女性たちの中心に静かに手を伸ばし、僕の唇に、確かな重みを持って、自身の冷たい唇を重ねた。
神殺しの業も、未来も。
あなたのすべては、この私が永遠に封じ込める。
その、誰も介入できない静かで絶対的な「共犯の口づけ」の感触に、僕の意識は、底なしの甘い泥沼へと、完全に白濁して堕ちていったのだった。