狂王ハイドラの巨体が完全に光となって消え去り、玉座の間を覆っていた禍々しい瘴気が、透き通るような清浄な空気へと変わっていった。
長い、本当に長い戦いが終わったのだ。
「……終わったんだな」
リョウマ兄さんが雷神刀を鞘に収め、崩れ落ちた天井の隙間から差し込む、柔らかな光を見上げた。
「ああ。……私たちの手で、この世界の狂気を断ち切ったのだ」
マークス兄さんがジークフリートを降ろし、深く、静かに息を吐く。
その時、崩壊した玉座の瓦礫の陰から、ひどく掠れた、弱々しい声が響いた。
ハイドラの暴走の巻き添えを食らい、瓦礫の下敷きになっていたガロンだった。
彼を縛っていた泥と呪いは完全に消え去り、そこにはただ、白髪を振り乱し、顔を皺だらけにした一人の老人が、虚ろな目で宙を見つめているだけだった。
「……父上」
マークス兄さんは、ゆっくりと、しかし重い足取りでガロンの元へ歩み寄った。
リョウマ兄さんも、暗夜・白夜のきょうだいたちも、固唾を呑んでその後ろ姿を見守る。
「……マ、マークス……。私は……私は……」
ガロンの目から、ポロポロと濁った涙がこぼれ落ちる。ハイドラの呪縛から解き放たれ、自分がしでかした取り返しのつかない罪の重さが、老いた精神に一気にのしかかっているようだった。
「……あなたは、暗夜の王として、あまりにも多くの血を流しすぎた。白夜との戦争、スメラギ王の暗殺、そして……自らの家族への非道」
マークス兄さんの声は、怒りではなく、ただ冷徹で、そして悲壮な決意に満ちていた。
「……あなたの罪は、決して消えることはない」
「……あ、ああ……。私を……殺せ……ッ。この老いぼれを……お前の手で……っ」
ガロンが、震える手でマークス兄さんの漆黒のマントにしがみつこうとする。
暗夜の過酷な掟において、敗者の末路は死のみ。彼自身もそれを痛いほど理解していた。
「……いいえ、父上。何度も言いますが、私はあなたを殺さない」
マークス兄さんは、ガロンの手を静かに、しかし有無を言わさぬ力で振り払った。
「……死という安易な逃げ道は与えない。あなたは暗夜王の座を退き……生涯、薄暗い幽閉塔の底で、自分が奪った命の幻影に怯え、罪の重さに泣き叫びながら生きていくのだ。……それが、次代の王たる私からの、最大の罰です」
「……マークス……っ」
ガロンは顔を覆い、その場に泣き崩れた。
マークス兄さんはそれ以上言葉をかけず、静かに踵を返した。
「……よく言った、マークス」
リョウマ兄さんが、戻ってきたマークス兄さんの肩に、ポンと手を置いた。
「……肉親の罪を自ら裁くのは、他国の敵を斬るよりも遥かに重く、苦しいものだ。……お前は立派に、暗夜の未来を背負う王としての責任を果たした」
「……ああ。リョウマ、お前には……白夜には、多大な迷惑をかけた」
「気にするな。……俺たちは、共に死線を越えた兄弟だ」
二つの王国の未来を背負う男たちが、過去の血塗られた因縁を越え、力強く、固い握手を交わした。その背後では、オボロとクリムゾンが、それぞれの主君の頼もしい背中を静かに見守っていた。
***
「……さて。これですべてが終わったわけだが……」
タクミが、周囲の瓦礫を片付け始めた家臣たちを見渡し、ふと視線を動かした。
「……あいつ、無事か?」
タクミの視線の先。
玉座の間の隅で、瓦礫に腰を下ろして息をつく僕の周囲だけが、まるで重力が歪んだかのような『異常な空間』と化していた。
そこには、ドタバタとした騒がしい奪い合いも、賑やかな歓声もない。
ただ、僕の小さな体を中心とした半径一メートルの円周上に、カミラ姉さん、ヒノカお姉様、サクラ、フローラ、ルーナ、フェリシアたちが、一歩も引かずにぐるりと立ち塞がっていた。
彼女たちは、まだ僕の体に物理的に触れてはいない。
しかし、その間に流れる空気は、ハイドラの瘴気よりも遥かに濃密で、息が詰まるほどの『殺気』と『情念』に満ちていた。
カミラ姉さんは、蠱惑的な笑みを浮かべてはいるが、その紫色の瞳孔は一切笑っておらず、隣に立つヒノカお姉様を射殺さんばかりの圧力を放っている。
ヒノカお姉様もまた、薙刀を地に突き立て、一歩でもカミラ姉さんが僕に近づけば即座に腕を切り落とす構えで、凄まじい熱気を放ちながら牽制し合っている。
サクラの周囲には、限界突破した治癒魔力が桜色のオーラとなってバチバチと放電し、フローラが立っている足元の石畳は絶対零度の冷気で白く凍りついていた。ルーナは剣の柄から手を離さず、フェリシアも暗器を隠し持ったまま氷の微笑を浮かべている。
『……誰が、最初にカムイに触れるか』
一言でも言葉を発すれば、その瞬間に凄惨な殺し合い(愛のテリトリー争い)が始まりかねない、極限の冷戦状態。
その円陣の中心に閉じ込められた僕は、休むどころか、ハイドラ戦以上の冷や汗を流して身を固くするしかなかった。
「……相変わらず、あいつの周りだけは別の意味で命懸けだな……」
少し離れた安全圏から、タクミが風神弓を肩に担ぎながらドン引きしたように呟いた。
隣にいるベルカは、その殺気の濃度に危険を感じたのか、無表情のまま飛竜を数歩後退させている。
「……フッ。あの底なしの情念の渦。僕なら三日で呪い殺されているね。カムイには同情するよ」
レオンが、自身の背中を守ってくれたニュクスを気遣うように隣に立たせながら、呆れ半分、哀れみ半分で肩をすくめる。
「俺は絶対に近づかないぞ……。生きて故郷に帰りたいからな」
サイラスが、セツナの腕をしっかりと引き寄せながら、絶対に巻き込まれまいと首を横に振った。
彼ら兄弟や親友たちですら、今のヒロインたちが形成する「愛の防壁」を突破することは不可能だった。
そして。
その一触即発の円陣から少しだけ離れた場所で。
アクアが一人、静かに立ち、この異常な空間を眺めていた。
彼女は、血走った目で牽制し合うカミラ姉さんやヒノカお姉様たちの輪には加わらなかった。
しかし、彼女の透き通るような金色の瞳は、ヒロインたちの情念をすべて見透かした上で、『いくら争っても、最後に彼を支配するのは私よ』という、底知れぬ正妻の余裕と、静かで絶対的な呪縛の光を湛え、僕を真っ直ぐに見つめていた。
(……戦いは、終わったんだよな……?)
僕は、心の中で誰にともなく問いかけながら、これから始まるであろう「本当の終わりのない戦い」の予感に、小さく息を呑んだ。
世界は救われた。
だが、僕たちそれぞれの場所に、それぞれの未来に向けて歩き出すための『準備』が、この透魔の地で静かに整い始めていた――。