「……カムイ、お前は下がっていろ。私が奴らを皆殺しにして、母上の仇を……っ」
僕の細い腕をきつく握りしめるヒノカ姉さんの手は、怒りと悲しみで小刻みに震えていた。
吊り橋を挟んで睨み合う、白夜と暗夜の巨大な軍勢。
分厚い鉛色の雲が太陽を覆い隠してくれているおかげで、僕の体はあの息苦しい気怠さからは解放されていた。しかし、両軍から放たれる凄まじい殺気と、僕の小さな体を両側から引き千切らんばかりに求める兄姉たちの重圧が、別の意味で僕の呼吸を浅くさせていた。
「母上の仇だと? 笑わせるな、白夜の偽善者ども」
マークス兄さんの低く威圧的な声が渓谷に響く。
「カムイは我が暗夜の王子。……カムイ、こちらへ来い。お前を惑わすその者たちから離れるのだ」
「いやだ、カムイお兄ちゃん! ずっと一緒にいるって約束したじゃない……っ!」
エリーゼの泣き叫ぶような声が、冷たい風に乗って僕の胸を刺す。
僕の視線が両軍の間で激しく揺れ動く。
その時だった。極限まで張り詰めていた両軍の空気が、一つの小さな火種によって弾け飛んだ。
「……女王陛下の、仇ァッ!!」
白夜軍の最後尾から、血走った目をした一人の槍兵が突如として前線に飛び出してきた。彼の槍の切先が向かっていたのは、暗夜軍ではない。僕の足元で息を潜めていた、フローラとフェリシアだった。
「広場を吹き飛ばした暗夜の女どもめ! カムイ様をたぶらかしおって……死ねッ!」
「なっ……!?」
ヒノカ姉さんが止める間もなかった。
しかし、狂気は伝染する。白夜兵の突出を見た暗夜軍の魔道士たちもまた、フローラたちを「白夜に寝返った裏切り者」と見なし、反射的に炎の魔法陣を展開したのだ。
「裏切り者のメイド共め、ガロン王の裁きを受けよッ!」
両軍の兵士たちの憎悪が、僕の最も身近にいる大切な従者たちへと同時に牙を剥いた。
「フローラ、フェリシアっ!! リリス!!」
考えるより先に、僕の体は動いていた。
ヒノカ姉さんの拘束を強引に振り解き、僕は三人の前に飛び出した。
腰に帯びていた夜刀神を引き抜き、白夜兵の槍を渾身の力で弾き飛ばす。同時に、左手をかざして竜の魔力を薄く展開し、暗夜兵から放たれた炎の魔法を空中で相殺した。
ガキィィィンッ!!という鋭い金属音と、魔力の爆発音が吊り橋の中央で轟く。
「……っ、あぁっ……!」
無理な姿勢での迎撃。竜化の暴走で負った全身の火傷が、包帯の下で悲鳴を上げた。
膝から崩れ落ちそうになった僕の体を、背後から二つの柔らかな腕が必死に受け止めた。
「カムイ様ッ!!」
「ああ……っ、なんということを……ご自分の体がボロボロなのに、どうして……っ!」
フェリシアの豊かな胸が僕の背中に激しくぶつかり、彼女の甘く熱い涙が僕の首筋にポタポタと零れ落ちる。反対側からは、フローラが僕の腰をきつく抱きしめ、彼女自身の凍傷を負った指先から、痛みを麻痺させるための冷気を直接流し込んできた。
荒い息を吐きながら顔を上げると、周囲は水を打ったような静寂に包まれていた。
白夜の兵の武器を弾き、暗夜の兵の魔法を打ち消した僕の行動は、両軍の目には決定的な「反逆」として映ってしまったのだ。
「……カムイ。お前、自分が何をしたか分かっているのか」
リョウマ兄さんの声が、地の底から響くように震えていた。
「白夜の同胞に刃を向け、暗夜の女たちを庇うというのか……! お前は、白夜を……血の繋がった我々を裏切るというのかッ!!」
「違う、リョウマ兄さん! 僕はただ……!」
「黙れ、カムイ!!」
今度は、マークス兄さんの怒号が渓谷を揺らした。
「我が暗夜の軍勢に牙を剥くとは……。育ての恩を忘れ、裏切り者の女共に唆されたか。……ならば、お前もまた、我が暗夜の敵だ!」
誰も、僕の言葉を聞こうとしない。
白夜も、暗夜も、それぞれが信じる「正義」と「愛情」を僕に押し付け、それにそぐわない僕の行動を「裏切り」と断定した。
ヒノカ姉さんが絶望に顔を歪め、カミラ姉さんが「悪い子にはお仕置きが必要ね」と暗く甘い瞳で愛斧を構える。
「……僕は」
僕は、震える足で立ち上がり、夜刀神を両手に握りしめた。
「僕は……白夜も暗夜も、どちらも選べない! どっちも僕の、大切な家族だから……っ!」
僕の悲痛な叫びに、両軍の将の顔がさらに険しくなる。
「……家族を裏切るなんて、僕にはできない! だから、二人とも剣を引いてくれっ!」
「……もういい。お前の迷いは、兄である私が断ち切ってやろう」
マークス兄さんがジークフリートを構え、リョウマ兄さんも雷神刀を抜き放つ。
「……僕たちは、ここで死ぬのかな……」
包帯だらけの小さな体が、恐怖と絶望で小刻みに震える。
その時、僕の足元に星竜の姿のリリスがすり寄り、冷たい頬を僕のふくらはぎにピタリと押し当てた。
『……カムイ様。いざとなれば、私が星の魔力で道を切り開きます。あなただけでも……』
「だめだリリス! 君たちを置いていくくらいなら、僕も一緒に……っ」
その重く息の詰まるような絶望の底に、一滴の清らかな水が落ちた。
「……カムイ。まだ、道はあるわ」
いつの間にか、僕たちのすぐ傍らに、アクアが立っていた。
彼女は両軍の殺気などまるで存在しないかのように、静かで透き通った瞳で僕を見つめている。
彼女の細く冷たい手が、僕の剣を握る手にそっと重ねられた。
「アクア……?」
「白夜も暗夜も、今のあなたには眩しすぎるし、重すぎる。……だから、行きましょう。光も闇も届かない、誰も知らない『深淵』へ」
アクアの顔がすっと近づき、彼女の濡れたような唇が、僕の耳たぶに触れるか触れないかの距離で囁いた。
その吐息は水のように冷たく、けれど、不思議と僕の心の奥底を甘く痺れさせるような引力を持っていた。
「深淵って……」
「信じて、カムイ。……私と、あなたの大切な人たちだけが、呼吸できる場所よ」
アクアはそう言うと、僕の手を強く引き、背後の……底知れぬ暗闇が口を開ける、無限の渓谷の「谷底」へと後ずさった。
「なっ……!? カムイ、待てッ!!」
「やめろカムイ!! そこへ落ちれば……ッ!!」
リョウマ兄さんとマークス兄さんが同時に叫び、手を伸ばす。
しかし、僕はもう迷わなかった。
僕の背中には、フェリシアの熱く柔らかな胸の感触がある。
僕の腰には、フローラの冷たく独占欲に満ちた腕が絡みついている。
僕の足元には、命を懸けて寄り添うリリスがいる。
そして目の前には、僕の手を引き、潤んだ金色の瞳で僕を深淵へと誘うアクアがいる。
僕を縛り付ける過保護な光(白夜)と、息の詰まるような闇(暗夜)。
そのどちらにも属さない、僕たちだけの場所へ。
「……みんな、離れないで」
僕が小さく呟いた瞬間、フローラとフェリシアが僕の体にさらに深く、骨が軋むほど強く抱きついてきた。
「はい……っ、どこまでも、お供します……っ!」
「……ええ。もう、誰にもあなたを渡しません」
アクアが僕の首に腕を回し、その冷たく滑らかな体を僕の胸元に密着させる。彼女の蓮のような香りが僕の意識を塗り潰した。
次の瞬間、僕たちは互いの体温と吐息を絡ませ合ったまま、底知れぬ無限の渓谷の暗闇へと、真っ逆さまに身を投げ出した。
ごうごうと風が耳元で吠える。
上空から、ヒノカ姉さんやエリーゼの悲痛な叫び声が微かに聞こえた気がした。
けれど、僕の意識はすでに、四人の少女たちとの濃密な密着状態の中に沈み込んでいた。
落下する重力の中で、彼女たちの体が僕の小さな体をすっぽりと包み込んでいる。暗闇の中、誰かの柔らかい唇が僕の首筋に触れ、誰かの甘い吐息が僕の頬を撫でた。
それは、恐怖よりもずっと甘く、じっとりとした官能を伴う墜落だった。
僕たちは、ただ互いの体温だけを頼りに、世界の裏側――透魔王国へと落ちていく。