それは生物的な死ではなく、人間的な死だ。
あれは、外に出るのが嫌になる程、陽が照りつけている夏の日だった。
俺は、友人に会うために東京の23区外の小さな街を歩いていた。
友人が住むアパートに着いたとき、嫌な予感がした。
そもそも、その日友人に会いに来たのは、中東から帰還してから、一度も連絡がつかなかったからだった。
インターホンを押しても反応がない。
作られたような静かさがあった。
「ユウキ、いるのか……? 」
セミがジリジリと泣きじゃくっている。
覚えのある甘い匂いがした、戦地で何度も嗅いだ、嫌な匂い。
「おい! 返事しろ! 」
俺はドアを叩く。
しかし、応答はない。
「クソ! 」
俺はドアを蹴り飛ばす、古い木製のドアなので簡単に蹴破れた。
「ああ、嘘だ! 嘘だ! 」
チカチカと電灯が点滅する部屋には、首を吊った友人の姿があった。
机の上には日本語とは思えないほど歪んだ文字で書かれた手紙が置かれたあった。
いきるのがくるしくなりました、ごめんなさい
「ああ!! 」
片手が天井に向かってありもしないものを掴もうとした瞬間、目が覚めた。
甘ったるい柔軟剤の匂いがした時、ここは自分の部屋だと気づいた。
シャツにじっとりと染みついた汗が不快な気分にさせる。
俺はベッドから起き上がると、机の上を掻きむしった。
飲む薬と書かれた紙袋を掴み、中から錠剤を取り出す。
フラフラと台所に向い、ガラスのコップに水を入れ、錠剤を流し込む。
薬は飲んですぐに効くことはない、時間がかかる。
効いたとしても、悪夢がガラス越しで見えるくらいにしか落ち着かない。
どちらにせよ、その時間が終わるまでは少なくとも最低な気分で過ごさねばならない。
脳が揺さぶられ、心臓と肺が呼吸する音が鼓膜に響く。
最悪だ。
シャワーを浴びれば、薬が効き始めるまでの時間が少し短くなる。
浴室に向い、ガスの電源をつけた後、設定温度を43度まで上げる。いつの間にか、シャワーの温度はずっとそれになっていた。
この温度までくると、熱いというより、痛いという言葉が適切な表現になる。
だが、その痛みは少しの間、最低な気分を誤魔化してくれるだろう。
服を脱ぎ、浴室に入った瞬間、鏡に映る自分の顔が見えた。
──人殺しの顔だった。
自分の罪がバレないよう、必死に偽り、暴かれることに怯える殺人犯の顔そのものだった。
呼吸が荒くなる、瞳孔が左右、上下を行き来した。
シャワーを持つ手が震えているのがわかる。
「……チクショウ」
お湯でびしょ濡れになった頭をむしるように掻く。
心臓の音がうるさい。
思わず鏡を殴ろうと、拳を振り上げたがそれを理性が止めた。
……ミオは俺がモノに当たる姿を嫌っていた。そして、いつ怯えていた。
怯えるミオの姿を見ると、自分が人間じゃない化け物のようになった気がして嫌だった。
もうミオはいないのだ。
だからって化け物になっていい訳じゃない。人間で居続けねばならない。
感情があるから人間なのではない、感情を押し殺せるから人間でいられるのだ。
怒りが風船のように萎むと、終わりのない漠然とした無だけが残った。
選択肢はいつだって連続する、そして、正解があるとは限らない。
正解は自分で作らねばならない。
限られた言葉で、できるだけな綺麗な正解を──。
シャワーを浴び終わった後、半裸のまま椅子に座って、壁を見つめていた。
テレビはつけっぱなしだ。
何かしら人の声を聞いていないと、自分が自分じゃなくなりそうで怖い。
『──ては、法治大学銃撃事件についてのニュースです』
テレビの中では、選ばれた事実と感動的な物語だけが報道される。
誰かにとって都合のいい世界。
『SNSでは、銃撃犯を制圧した自衛官を称賛する声が──』
耳を両手で塞いでいた。
そして、そのままうずくまる。
『──彼の英雄的行動は間違いなく、
何も聞こえないふりをした。
『次のニュースは、行方不明の記者についての情報です──』
その瞬間、インターホンがなった。
誰かが俺を刺しに来たのではないかと疑ってしまう。
俺は怯えながら、恐る恐る覗き穴に目をやると、マルレがいた。
「ダイキくーん。開ーけーてー」
安心すると同時に一抹の不安が襲いかかる。
彼女の立場上、俺のありとあらゆる情報を知っていてもおかしくない。それはいい。
問題はなぜ、ここまで来たか。
開けるべきか? だが、マルレの目的が俺を消すことだったら──。
「いないのかな? もういいや」
帰りそうな雰囲気を出す。
「開けちゃお」
鍵がガチャっと音を立てて、ドアノブが回される。
「なんだ、いるじゃん。開けてよ」
俺は唖然とした。セーフゾーンと思っていた部屋すら、ステージのひとつのようだった。
マルレは平然と靴を脱いで、部屋の中に入り込む。
「うわ、テレビの音でか」
部屋に入るなり、文句を言い始めた。
「音量は……40!? ダイキくんって耳悪いの? 」
机からリモコンだけを器用に取ると、テレビを切る。
「床は綺麗だけど、机の上がごちゃごちゃだね」
「……なんのために来たんだ……監視のためか? 」
その声は疲れ切っていた。
マルレはソファに寝そべりながら答える。
「君がそう思うならそうなんじゃない? お腹減った、何かない? 」
図々しさがうざったらしくなってきた。
「上司の命令は10秒以内に実行する。これ社会のき・ほ・ん、私、短気だから」
「……ゼリーとバーしかない」
「え? ええ……」
マルレは困惑する。
3年ほど前から、人間らしい食事は実家に帰った時しか食べていない。
「ダイキくんって人間? 」
答えずらい質問だ。
「…………」
黙ってしまう。
マルレは目を丸くする。
「それとも料理できないだけ? 」
料理することは得意ではないが嫌いじゃなかった。休みの日は、少し手のかかる料理をするくらいにはできていた記憶がある。
でも、急に全てが無意味に思えて、やめてしまった。
「はあ、何も答えないの? 」
マルレは少々不満げな顔をする。
その顔は少女らしく、幼かった。
それに不快感と恐怖が芽生える。
「ああ、クソ」
自分で自分の顔を一発殴る。パチンと音が鳴った。
頬がじんわりと痛くなったが、不快感は和らぐ。
視界にマルレの顔が入り込む、その表情は侮蔑と哀れみが同居していた。
「もしかしてだけど、私と誰かを重ねてる? 」
「っ! ちが──」
否定しようとしたが、のどに言葉が詰まる。
マルレはイタズラに笑みを浮かべ、俺の元へ近づく。
その笑みが一瞬、ミオの笑顔と重なった。
「ちがう! ちがう! 俺に……近寄るな! 」
そして、しゃがみ込む俺をそっと胸元に手繰り寄せた。
温かみが肌に伝わる、気持ち悪い。
「……やめろ」
マルレは俺の耳元で甘く囁く。
「お兄ちゃんって呼ばれたい? 」
違う、違う、違う!
心の中で必死に叫ぶ。
「どう可愛い女の子にギュッとされる気分は? 気持ちいい? 」
気持ち悪い、気持ち悪い、それなのに、涙が溢れ出す。
マルレは俺から離すとそっと、頭に手を置き、なでた。
「ダイキくんはさ、生きてていいよって言われたいんだよね」
俺は、顔を上げる。
マルレの顔は慈悲に満ちていた。それはいもしない神が地獄の淵を彷徨う人々を救い上げるかのような仕草だった。
「幸せになっていいんだよ、ダイキくん」
涙が、一粒また一粒と落ちる。
静かな、声にならない泣き声だった。