港の鯨雲
谷を抜けると風が木々の隙間を通り、東の潮の香りをはこんできた。岩場のほうへ向かってみると、風の方角に海が見えた――それに伴い。
「港町だ」
「ようやくですか」
とアルマ・サトルノスは溜息を吐いた。彼女の算段では昼を過ぎるころ、港町に辿りついているはずだったのだ。
「随分と遅れてしまったね」
「先生がスケッチのために何度も足を止めるからじゃないですか」
とアルマが指摘した。
「こればかりは性分なんだ、どうしようもないんだよ」
「その性分に弟子はつきあわされているわけですが?」
「わるかったよ……でもね」
その双眼が窘めるようにアルマの背嚢を見た。
「おまえもやるべきことなんだよ。一人前の画工の弟子なんだからね」
その手にはすでに
日が落ちるのになんのためらいがある。描きたいときはすぐにやる。それが画工の信念と言うものである
「後悔しても知りませんよ」
とアルマは諦めて、それから海を見た。そのうち日が海に飲みこまれるだろう。
すぐにではない。すぐにではないが余裕があるとも言いがたい。なんとも微妙な日の位置である。
この速写が名の示すように早々と終わってくれないだろうか。とアルマは祈った。
宿玄関の鈴が鳴るころには、周囲は月の光で照らされていた。
「いらっしゃい」
と受付の女将が煙草を吹かしながらに扉のほうを見た。
女がふたり。ひとりは高身長。もうひとりはその首くらいの高さ。いそいできたのか、肩で息をしている。
「やってますか……」
小さいほうが息も絶え々えに言う。じつのところ――受付はすでに終了していた。女将がそこに座っていたのは単に惰性だった。
やれやれ。と女将は思った。
こんな時間に観光客とは予想外である。遅すぎると叩きだしてもよかったけれども、こんな子供に野宿をさせるのも気分がわるい。高身長のほうだけなら、拒絶していたかもしれなかった。
女将が台帳を取りだすと言う。
「代表者の名前を書きな。部屋を用意させるから」
「……先生!」
「うん……よかった」
とふたりが笑った。顔をまじまじと見ると高身長のほうも意外に若い。
こんな田舎に女がなんの用なのだろうか? と女将は訝しんだ。
港町は規模が小さいし、別に観光地でもなかった。宿にいつも泊まるのは漁業に関連するものばかりだった。しかし、このふたりが漁業をしているとはどうにも信じられなかった。
女将が悩んでいるうちに高身長のほうが台帳にすらすらと名前を書いた。彼女は確認して、呟くように言う。
「ゲルニカ」
「はい」
「ゲルニカ・ラヴィング・パスワード」
「そうです」
「妙な名前だね」
「言われます」
とゲルニカはたのしそうに瞼を細めた。古葉のような深緑の瞳が印象的だった。
「部屋を用意するあいだ、飯でも食べてきなよ。うちは食堂も兼業してるから」
「助かります」
実際は食堂が先に建てられたのであって、兼業と呼ぶべきなのは宿のほうだったけれども、それは観光客に説明することでもないだろう。
女将は宿の設備を説明して、ふたりを食堂のほうへ向かわせた。煙草を吹かす。灰色が死にかけの雲のように夜へ溶けていった。
「大変な時期に来たもんだね」
と女将が呟いた。
「満腹!」
とゲルニカは叫んだ。彼女の横にはすでに何枚も皿が並んでいる。そして、皿に乗っていたはずのものはことごとくが胃に収められていた。アルマは呆れたように彼女を眺めた。この食欲にはとても張りあえそうにない。
「そんなにいそがなくても料理は逃げませんよ」
「それは分からないよ。見事な魚料理と言うのはまるで生きているように活き々きとしているものだからね。ところでそれ……食べないの?」
「食べますよ! 先生が早いだけですから!」
そんなやりとりをしているうちに、女将が食堂の中にはいってきた。
「たのしそうだね」
「おや……女将さん」
ゲルニカが口を拭いているあいだに、女将が彼女の横の椅子に座った。
「そんなに食べてくれて、金はあるんだろうね?」
「任せてください。これでも商売はできているほうですよ……それよりも地元の酒はありませんか?」
「地元の酒と言ったって……料理で分かると思うけど、この町の得意は魚くらいで、ほかに何もありはしないよ。漁師が飲むような安酒は置いてあるけど」
「良いですね、それにしよう。安酒だろうと地元の酒です」
女将が頼むと酒はすぐに届いた。ゲルニカはそれを飲む。濃度は薄くて、味は鼠色だった。
「ところで」
と女将が急に言う。
「こんな田舎になんの用?」
アルマは空気がぴりぴりとするのを肌で感じた。しかしゲルニカは気楽に返事をする。
「用とは」
「この港は女がふたりで遊びにくるような場所じゃないんだよ。悪党と疑うわけではないけど、理由は知っておきたいね。それにこのところ……うちの港はいそがしいから」
「豊漁なんですか」
「そんなところだね……それで? 質問をしているのはうちだよ」
ゲルニカは焦らない。その答えを返すのがあまりに簡単だったからである。彼女は机の下の背嚢から、いくつかの画材と速写帳を取りだした。
「わたしたちは画工なのです」
ゲルニカは速写帳をひらいた。うしろのほうのページに遠景の港町と周囲の山が炭筆で描かれている。随分といそいだのか、絵は荒々しかった。しかし、それが港町とすぐに認識できるくらいの技術は女将も感じさせられた。
「ふん。答えになっているようないないような……」
「と言うと?」
「うちが言いたいのはね。なんで辺鄙な田舎を描くために来たのかと言うことだよ」
「なんでと言われても描きたくなったからです」
「酔狂なものだね。画工と言うのは誰でもそうなのか」
「それに都合がよかったんですよ」
ゲルニカがアルマを見た。
「この子が久しぶりに海を見たいと言うものですから」
今度は女将がアルマを見た。彼女は小さな体を不満そうに捩らせ、燃えるような赤毛を指で弄んだ。
「先生はそれを口実に海を描きたかったんでしょう」
「良いじゃないか。おまえも見たいものが描けるわけだしね」
「それはそうですけど」
「この子は娘さん?」
と女将が口を挟んだ。
「アトリエの近くの学校の生徒なんですが。なんと言うのか……」
「弟子ですよ」
「そう言うわけです」
それは不充分な説明だったけれども、ふたりと女将の関係を加味すれば、別に事情の細部を説明することもないだろう。ゲルニカにも弟子との個人的な都合をひけらかさないくらいの分別はあった。
女将としてもふたりの目的を知れたからには、無理に聞きだすほどのことでもない。
「なるほど」
と女将は納得したように言った。
「わるかったね……いやな感じだろう」
「かまいませんよ。こちらも夜に押しかけたものですからね」
その原因がゲルニカの悪癖にあるとはアルマも口にしなかった。
「最近は港がぴりついていてね。うちもどうにも落ちつかないのさ」
「港がいそがしいと言っていましたが……そのことでしょうか」
「そうだね。正確にはいそがしくなるのはこれからなんだけど」
女将が立ちあがる。
「部屋は用意しておいたから、好きに使ってもかまわないよ」
「ありがとうございます」
「それとあんた」
女将はゲルニカと目を合わせる。それから、すこしの沈黙があった。本当にきれいな深緑の瞳だった。彼女も宿を経営するうちにいろいろな目の人種を見てきた。しかし、こんなにも目の色が深いものは見たことがない。いにしえの山の色を瞼の内に吸いこんでしまったような感じだった。それから彼女は急に言った。
「鯨雲に興味はある?」
漁港の朝は静かだった。潮の香りと刺すような紫外線のナイフ。
海鳥が頭上で鳴いている。風が騒ぎを呼んでいる。ゲルニカはそれを静かな漁港の慰めだと思った。
「女将さんの言ったとおりだね」
とゲルニカは独りで海に向かう。
「船が沖に出ていない」
今日の朝――食堂で朝食を食べているとき、それを女将が教えてくれた。どうしてそうなっているのかは言ってくれなかったけれども。
不思議な感じだった。漁港の船と言うのは早くに沖へ出るものだし、船が出たあとの漁港は労働者で賑わうものだ。なのに漁港の船は今に停泊しているし、周囲の人影も少ないと言うのだから、どうにもちぐはぐな印象を受けた。
しばらくゲルニカは船着場を眺めていた。この光景を描いてもよいのかもしれない。逆に普段は見られないものを目撃していると好意的に捉えられなくもないからだ。この漁港の奇妙な異変はモチーフにするには打ってつけだ。しかし実際の彼女の頭は今―――別の考えごとで隅まで埋めつくされていたのである。
「鯨雲」
ゲルニカの頭を支配していたのはそれだけである。
鯨雲とは空の賢者。天を望むようにたゆたっている、鯨のかたちの生雲のことである。
ゲルニカは頭がよいほうではないので詳しいことは知らないけれども、生物学的には精霊類とされていることくらいは知っていた。世界中の空を飛んでいるそれはいくつもの目撃情報がありながら、遥かな上空で暮らしているためにいまだに交流が難航していると言う。
ゲルニカも姿くらいはこの目で確認したいと思っていた。そして、それが偶然にもこの港町で叶おうとしている。
この港町はほかの人間の土地では例のない、野生の鯨雲の座礁地だったのである。
そして、まさに数日前――ゲルニカが港町を訪れるまえに、鯨雲が港町の浜に座礁したのである。
ゲルニカの指が疼いた。一人前の画工としてもこの機会を不意にできるわけがない。
「よし」
と期待するように頷くとゲルニカは振りかえった。
そして鯨雲が座礁していると言う、港町の最奥の浜へ歩きだした。
浜にはいるまえでもそれは見えた。
遠くからでも分かるほどの巨体が浜の上に転がっていた。ゲルニカはひるまない。寄るほどに視界が白で埋めつくされたけれども、そんなことで彼女の好奇心は止まらなかった。
ざくざく。砂を踏む。
ざくざく。鯨雲の色はくすんでいるように見える。
ざくざく。まるで紙が腐りはじめたような色の表皮だった。
ざくざく。それが鯨雲が死に向かうと言うことなのだろう。
やがて鯨雲の目の前に至るころには、巨体は壁のようにゲルニカの視界を占領した。
「すごい」
とゲルニカは感嘆を漏らした。それは画工としては貧弱な語彙だった。しかし、ほかに何を感じろと言うのだろうか? その感嘆こそが偉大な生命への称賛。そして訪れるであろう、偉大な死への畏怖である。
『御仁』
鯨雲を眺めているさなかにそれは聞こえた。まるで頭の中に声が反響しているようだ。
「話ができるのか」
『それくらいのことはできるとも』
おそらく、それは
『高度なことではない。海の同胞が音波で物体の位置を特定するように、わたしはそれに近いことを精神にできると言うだけだ』
「なるほど……龍の中でも人間の土地と交流のあるものが、そんなふうに念話をすると聞いたことがある」
『あんな生きものと一緒にしないでもらいたい』
「龍がきらいなので」
『一部の龍がおまえたちと交流しているのは知っている。しかし、ほとんどの龍は野蛮で未熟だ。やつらは空にいるものを襲うことでしか、自分と言うものを表現することができない』
「なるほど」
『ところでなんの用かね。見てのとおりわたしはすでに死に向かっている。おまえのような乙女にしてやれることなどないように思うが』
「これは失礼……わたしは画工のゲルニカと申します」
『画工?』
「絵は分かりますか」
『知っている。地上でおまえたちがちまちまと描いているものだろう。おまえたちは頭上のわたしを発見すると、狂ったように手の中にこの身を描きのこそうとする』
「見えるのですか? 地上のわたしたちなんて、天井の星よりも小さいでしょう」
『見えているとも。おまえたちが信じているよりも、この身は下界を認識している。それが誰よりも頭上に存在すると言うことだ』
世界中の学者が鯨雲と交流したがるわけだ。とゲルニカは思った。
この鯨雲も生きるうえで常人が感じとれないようなさまざまなことを観測してきたのだろう。
その霊感は画工としてはなんとしても獲得したいものである。
「率直に言います。わたしはあなたを描きにきた」
『だろうな。それで?』
「あなたの許可が欲しいのです」
『……それは取らなければならないのか』
「知的な被写体が生きているからには、許可を取るのが画工の義務ですから」
『好きにしなさい』
と鯨雲はぶっきらぼうに返した。