愛と言葉のゲルニカ   作:ドクター・ヴィオラ

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大鱏海魔

 

 

 

 

 すこし鯨雲と距離を離してから、ゲルニカは画材を展開した。近くにいるとこの生きものは大きすぎて、全体像が把握できなかったのである。

 空中の帆布(キャンバス)に炭筆で素描を設計する。それは一人前の画工には当たりまえの技術である。なぜなら、どんな画工も半人前のころはこの技術で描くための出費を節約するからだ。すべての画材を空中に配置すれば、道具は場所を選ばなくなるし、遠出するときも背嚢は軽くなる。

 画工の成功者の中には、一人前であることを誇示するために、この技術を使わなくなるものがいる。しかし、ゲルニカはそう言うやつを非常に軽蔑していた。昔の苦労があるからこそ、今の成功があるのである。そんなふうに彼女は信じていた。

 

『器用なものだな』

 

 離れていても念話ができるのか、ときに鯨雲の声が飛んできた。

 

「これくらいは当然ですよ。ところで衰退を絵にされるのは、どんな気分なのでしょうか?」

『何も』

「ないものですかね……こう……感傷のような」

『わたしとおまえでは命の捉えかたがちがう。そもそも生命としての構造がちがうのだ。雲と地上の水分の循環は知っているか?』

「わたしは学者ではないので……」

 

 話をしているとゲルニカは急に描くための意欲がなくなるのを感じた。

 

『わたしの死は本当の終わりではなく、次の始まりの一歩とも言えるだろう。これまで得たことを海に返し、次の再生のために海底で眠る。そして海からの浮上の呼びかけをそこで待つのだ』

「そして、その呼びかけのあとに鯨雲は空へ浮きあがると?」

『そうだ』

「……」

 

 ゲルニカの手が止まった。

 

『感じるぞ。おまえは腹が立っている』

「どうも……そうらしいですね」

 

 沈黙が広がる。鯨雲と会えたときはあんなに期待していたのに、今では波の音さえもしらじらしいような感じがした。

 

「思うにあなたは生きることへの関心がないようだ」

『それはそうだ。これから死のうとしているのだから』

「そして死ぬことへの関心もない。あなたの死には老人がベッドで死ぬような絶望の退廃もない。わたしはあなたがどんなふうに循環するかは知らない。それでも、こうして対話をするうえで分かったことがある。あなたは生きることにも死ぬことにも執着がないのでしょう」

『そう言うのはきらいかね』

「……中途半端だと思います」

 

 とゲルニカは言ってのける。それは彼女に礼儀がないからではない。彼女は鯨雲がこんな侮蔑を受けてもなんの痛痒も感じないことを確信していたのである。

 あるいは鯨雲が死んでいさえすれば、香りたつような死の影像(イメージ)を捉えることができたかもしれない。その反対に死に抵抗するためにあがいているなら、逆の影像を捉えることもできたはずだ。

 しかし鯨雲の価値観はそんなところにない。そして、それはゲルニカのほうでも同じだった。思うに彼女の価値観では生命の意味とは、その場に全力で存在を表現することにあったのだ。

 

「ごめんなさい。わたしにあなたの価値観を否定するほどの関係性があるわけではないのに」

『かまわない』

 

 と鯨雲は平静に言った。その声はやはりと言うべきか――ゲルニカの謝罪に何も感じていないようだった。

 

『おまえのその意見もやがては、海へ一緒に持っていくのだから』

 

 あるいは自分が今よりも若くなければ、こんな悟ったような価値観に、共感することができるのだろうか? とゲルニカは思った。

 そして、その一刹那だった。突如として――海面が爆発した――とゲルニカには表現するしかなかった。その方角を見ると日の光を受けながら、人影が空中に跳びあがっているのが見えた。

 それから人影はすぐに浜に着地した。それは身の丈ほどの銛と魚を手にしている――筋骨隆々の男だった。

 

 

 

 

「土地の人間じゃないな」

 

 と男――サンチャゴはゲルニカを見ると言った。しかし彼女のほうは彼の声をまともに聞かず、失礼にもその肉体を凝視しているのだった。

 

「すばらしい」

「何?」

「しまった」

 

 考えが声に出てしまい、ゲルニカは口を押さえた。しかし、それが不可抗力と思えるほどにサンチャゴの肉体は見事だった。色黒の肌が金属のように日の光を照りかえしていた。上背はそんなになかったけれども、体の幅は左右に広く、その身に不屈の力を滾らせていた。それでいてしなやかさがないわけではない。筋肉が泳ぐために最適化されているのだろう。瞳は睨まずとも猛禽類のように鋭かった。

 この目に捉えられてはどんな魚も逃げられないだろう。とゲルニカは思わされた。

 

「えっと……」

「……」

「おはようございます……?」

 

 サンチャゴが溜息を吐いた。今のやりとりだけでもこの余所者が無害であると判断するには充分だったのだ。

 

「おまえ……ニーケーが言っていたやつだな」

「ニーケー」

「おれの嫁さんだよ。宿で女将の名前は聞かなかったのか」

「そんな名前だったんですね……」

「良い。あいつもあれで適当だ」

「昨晩は会いませんでしたけど……海にいたんですか?」

「馬鹿を言うな。一晩も潜れるわけがないだろう……いや……」

 

 サンチャゴの最後の沈黙には“やれなくもないかもしれない”と言うような疑問が滲んでいた。

 

「おれは従業員でもないから、夜は部屋で酒を飲んでたよ。今日も朝が早かったから、宿で会わなかったんだろう」

「なるほど」

「あんたは何をしてるんだ。この場所には死にぞこないの鯨雲くらいしかいないが」

「死にぞこないって……」

 

 ゲルニカはサンチャゴの暴言に肝を潰した。しかし、それを否定できるはずもない。なぜなら彼女のほうでもまた、似たようなことを言っていたのだ。ふたりのちがいは言葉が強いかどうかでしかなかった。

 

「死にぞこないさ……あんなやつ。もちろん最初は期待したさ。最後に鯨雲が座礁したのはおれの親よりも前の世代だからな」

「……」

「しかし、どうだ。話をしてみたら……悟ったようなことばかりを言いやがる。おれたちには興味がないとでも言いたげだ。まったく、まったく……なんで前の世代があれをありがたがったのか、おれにはすこしも分からないな。それに、あれがおれたちの土地に座礁することの意味もな」

 

 ふたりのそんなやりとりにも、鯨雲は何も返してくれなかった。

 

 

 

 

 結局――ゲルニカは絵を描くのは切りあげて、サンチャゴと一緒に宿へ返ることにした。そして、そこにはおかんむりの弟子が待ちかまえていたのである。

 

「先生!」

 

 アルマは開口に叫んだ。

 

「なんで寝ているあいだに行っちゃったんですか!」

「起こすとわるいと思って。昨晩も遅くまで歩かせてしまったし……」

「そう言うことじゃない! そう言うことじゃないでしょうが!」

「何が……」

「わたしは先生と一緒に鯨雲が見たかったんです!」

「どこに行く!」

「海!」

 

 それだけ言ってしまうとアルマは嵐のように宿を走りさってしまうのだった。

 

「……」

「おれの嫁さんが迷惑な客にどなってるのを思いだすな」

 

 と隣のサンチャゴが笑った。

 

「からかわないでくださいよ」

「なんだ……おれは魚を捌いてくるからよ、食堂で茶でも飲んだらどうだ」

「そうしますかね……」

 

 食堂では女将が空便報を呼んでいた。都会の新聞屋が霊鳥で送ってくるそれは、昨今ではこんな田舎にまで空輸されているらしい。

 

「なんだい? じろじろと」

「最近の新聞屋はこんなところにも手を伸ばしているのだなと」

「数日前のやつだけどね。それでも都会のことを知れるのはありがたいものさ……茶でもどう?」

「サンチャゴさんに同じことを言われました」

「会ったのかい」

「はい」

「ぶっきらぼうな男だろ。なんで惚れてしまったのやら」

 

 ゲルニカは分かるような気がした。この女将はあまりに男前が過ぎるのだ。中途半端な男では対等な関係になるのも困難だろうし、その点で言うとサンチャゴは彼女よりも男前であるような気がした。

 隣に座ると女将が茶を淹れてくれた。昼前なのでほかに客もない。

 ふたりは静かに茶を飲んでいた。この場所は鯨雲の前よりも良い。絵のモチーフを求めるなら――意外とこの夫婦にするべきなのかもしれない。とゲルニカは思いはじめていた。

 

「むくれてたよ、あんたの娘さん」

「アルマは弟子ですよ」

「似たようなもんだろう。子供に責任を持つのは同じなんだから」

「責任ね……それも取れているのかどうか。あの子には世話になりっぱなしですよ。わたしはどうにも生活力と言うやつがないようなので」

「何日も食事をしないで仕事をしたりとか?」

「なんで分かるんです?」

「職人はそんなやつばかりだよ」

「それなら……サンチャゴさんも?」

「うちのは体を動かすから、飯はいくらでも食べるよ。それでも、そうだね……家のことに関心が薄いのはそうかもね」

「寂しくはないですか?」

「良いの。あいつは好きなことをやってるときが一番にあいつらしいのさ」

 

 と女将は笑った。その表情をこの二日間の中で最も女らしいとゲルニカは感じた。

 

 

 

 

 そのときだ。急に食堂の扉がどんどんと叩かれた。扉をぶちやぶりそうな調子だった。

 これにはゲルニカも肩をびくつかされた。しかし女将は冷静だった。彼女はそれが分かっていたように駆けだし、すぐに相手のために扉を開けてやるのだった。

 

「連絡?」

「おう」

 

 サンチャゴと同じような色黒の漁師だった。

 

「沖に海魔が出た。それに子機を港のほうに飛ばしたらしい」

「子機?」

「子供だよ。要は斥候だろうな」

「すぐに旦那を港にやって」

「先に言った。ほかのやつにも連絡してくる」

 

 それだけ言うと漁師は食堂を去っていった。

 嵐のようなできごとだった。ゲルニカは唖のように黙っているしかなかった。

 

「わるいね」

 

 と女将が振りかえった。

 

「昨晩に港がぴりついていると言ったね……これがそうさ」

「何が起こっているんです? 海魔……海獣のことですよね?」

 

 海獣。海の生物の中でも巨大なものが呼ばれている。

 海魔とは巨体で海を支配する、特に狂暴な海獣の蔑称である。しかし大抵の海魔はなわばりを動かず、特定の範囲で海の一部を占領しているはずだ。少なくともゲルニカの知識ではそうだった。だからこそ――別の大陸への海路も存在しているのである。

 

「説明はあとでね。うちも連絡に向かうけど……あんたは?」

「……アルマ」

「何?」

 

 アルマが去ったときのことを思いだしていた。

 

海!

 

 とアルマは叫んでいたはずだ。

 絶対ではない。港町はどこからでも海が見えるだろう。しかし万にひとつ――アルマが港で海を眺めているとしたら。そして事情は掴めないけれども、港には海魔の子機が迫っていると言う。

 

「おい!」

 

 と女将が叫んだ。扉の前の彼女を押しのけて、ゲルニカは駆けだしていた。

 

 

 

 

「広いな」

 

 とアルマは呟いた。すこしまえもそんなことを言ったような気がした。

 すごいだとか、でかいだとか。そんなことばかりだ。情緒的な語彙を紡ごうとしても、広大な海はそれを飲みこんでしまう。

 海を最後に見たのは小さいころだった。曖昧な追憶。おそらく家族と旅行をしたときの記憶だろう。あのころは家族との仲もよかったはずだ。

 そのときの自分がどんなふうに海を見たのだろう。今では思いだすのも困難だった。

 

第一印象と言うものは早くに描きのこしておきなさい

 

 それはゲルニカが最初に教えてくれたことだった。

 

それは一瞬間に消えてゆくものだ。一度でも薄れてしまうと、二度と戻ってはこない。おまえの人生でどんな感動を受けようとも、最初のように魂を揺さぶられることはないだろう

 

 尤も当時のアルマは小さかったし、画工になろうともしていなかったから、そんなことを考えても仕方がない。しかし、こんなふうに漠然と海を眺めているよりは昔の体験のほうが価値があるように感じていた。

 寂しいな。とアルマは思った。

 独りで海を眺めるのは寂しいことなのだ。そしてゲルニカはそんな感情も貪欲に、絵を描くための材料にしてしまうのだろう。

 

「そう言うことじゃない。そう言うことじゃないでしょうが」

 

 とアルマはぶつぶつと言った。

 それでも――あれは先生がわるいよ。とアルマは考えた。

 弟子を起こさずに一足に鯨雲を拝見してきて。勝手に満足してきて。先生と弟子が旅をするのって、そう言うことではないだろう。なんか……こう……感動を共有したりとか。

 思考の渦がアルマの頭を支配していた。だからだろうか? 近くの海面がごぽごぽと泡を吐きだしているのに気がつかなかったのは。

 そして突然――海魔の子機が何匹も港のほうに跳びだしてきた。

 

「えっ」

 

 思考が裂かれ、体が硬直した。

 子機はひらべったく、尾は蛇のように長い。はじめての地上でもがき、歯をかちかちと鳴らしている。そして動物的な本能が海魔の命令を遂行させようと体を動かした。

 命令。この地にいるものを攻撃すると言うこと。そして、その不運な標的は近くで呆然と立ちつくしている。子機は緩慢な動きでアルマのほうに這いずりはじめた。

 

やばい、やばい、やばい、やばい

 

 とアルマは意味が分からないなりに考えていた。本能的にこの生きものが危険であると感じとったのだ。なのに足が動かない。まるで影を縫いつけられてしまったような感じだった。緊張感で完全に足が麻痺していた。

 そして一匹の子機が地上に慣れ、アルマに攻撃しようとしたときだ。

 

「さがれ!」

 

 どこかで大声がした。アルマは正気に戻り、すぐに体を後退させた。それから一本の銛が子機の体を貫いた。

 

「大丈夫か」

 

 と色黒の塊がアルマと子機のあいだに立ちふさがった。先に仲間に連絡を受けた、漁師のサンチャゴだった。彼は銛を引きぬき、子機を踏みつけにした。そして残りの子機を殺すために銛を振りかぶる。

 

「宿の客人に何をしやがる」

 

 サンチャゴが銛をぶんなげた。銛は蛇のように地面のすれすれを水平に飛び、すべての子機を一度に刺しつらぬいて、そしてサンチャゴの手元に戻ってきた。

 

「誘導術!」

「怪我はないか」

「あんな精度で道具を動かせるなんて」

「おい……聞けよ」

「はい」

 

 誘導術。画工が画材を浮かせるのと同じで基本的な念力のひとつである。生活を便利にするための術であり、普通は漁に使えるようなものではない。それでもサンチャゴは当然のようにやってのけた。おそらく、この土地の漁師が海で生きるために実戦的に培ったものなのだろう。

 それから遠くのほうで声がした。見るとゲルニカが全力でこちらのほうに走っていた。

 

「先生!」

 

 アルマの傍に辿りつくと、ゲルニカは彼女を抱きしめる。

 

「わっ」

「よかった……」

「痛い……痛いです」

 

 あまりにぎゅうぎゅうと抱きしめるものだから、アルマはゲルニカの腕の中でじたばたとした。

 

「大丈夫だね……怪我はないね」

「漁師さんが助けてくれました」

 

 ゲルニカはアルマを離して、サンチャゴのほうを見た。

 

「ありがとうございます。本当に……あなたがいないと、どうなっていたやら」

「どうかな。意外となんとかしたかもしれないぜ」

 

 サンチャゴが海を眺めた。なんてことはない、穏やかな海だった。それが今の状況とあまりに真逆で、彼はそれがうさんくさいと思った。いつだってそうだ。ずるがしこいやつは海底に隠れているものなのだ。

 

「あんたには事情を説明しないとな」

 

 サンチャゴが銛にこびりつく、子機の血液を振りはらった。

 

「この土地と鯨雲。そして海魔が現れることの意味を」

 

 

 

 

 その夜の食堂は漁師でごったがえしていた。尤も宴をするためではないのはゲルニカにも分かった。窓の外からでも中の緊張感は伝わってきた。

 

「おれは説明が下手でね。連中にはニーケーが説明してくれるだろう」

「海魔の様子はどうなんです」

「交代で港を監視してる。沖も特に動きはないらしい……今は」

 

 サンチャゴが煙草を吸う。肺活量があるのだろう。一息で女将の数倍の煙を吐きだしていた。

 

「あんたはどんなふうに考える」

「鯨雲と海魔に関連性があるのは分かります」

「それから?」

「順当に考えるなら……その目的は捕食でしょうね」

 

 それが当然の帰結だった。非知性的な生命の目的とはそれと繁殖だけにある。

 

「漁師と同じだな。怪物でも貴重な獲物は好きらしい」

「要するにです……鯨雲が座礁することで海魔は現れる。そして、この港町は何度もそれを撃退してきたわけですね」

「そう言うことだな」

「それでも分からない」

「ふん?」

「鯨雲をくれてやるほうが楽じゃないですか。もちろん海魔がこの土地に接近することは危険です。危険……逆に言うと危険なだけです。鯨雲を捕食してしまえば、海魔もこの土地を去るわけですから」

「そこにも七面倒な事情があるのさ」

 

 サンチャゴが煙草を落とし、足でぐりぐりと踏みつけた。

 

「鯨雲は生きるうえで大量の養分を蓄えている」

「そうでしょう。それを狙っているわけですから」

「その養分を海魔に喰らわれず、海に返したらどうなると思う」

「……」

「その海には……誰も見たことがないほどの豊漁が訪れる。少なくとも先人はそう言うふうに残している」

 

 なるほど。とゲルニカは得心した。

 だから鯨雲はこの土地を終生に選ぶのだ。

 鯨雲は海に戻りたい。しかし単独では海魔に喰らわれてしまう。だから港町に座礁するのだ。

 養分を港町に与えることで、その身を守らせるために。

 

「考えたものですね」

「なんにせよ……黙っているわけにはいかない。養分があろうとなかろうと、おれたちは漁師なんだ。海の生きものが襲ってくると言うのなら、それと争わないと言うことはありえない」

 

 とサンチャゴは言う。

 

「別に気にはしないさ。おれたちがいつも魚にやっていることを、今度は魚にやられると言うだけだ」

 

 

 

 

 そして警笛が翌日の昼に港町で盛大に鳴った。

 ゲルニカとアルマ。そして女将とサンチャゴが談笑しているときだった。

 

「来た!」

 

 とサンチャゴが叫んだ。

 

「ニーケー!」

「分かってる。女衆と鯨雲の近くを守る」

 

 先に女将が食堂を出た。それからサンチャゴがゲルニカに言う。

 

「あんた……本当に乗るのか?」

「当然です。誰も見たことのないものを描くのが画工ですから」

「条件は言ったな」

 

 それは昨晩にふたりが約束したことだ。

 

「おれたちの邪魔はしない。そして身は自分で守る」

「そうだ」

「任せてください。これでも絵を描くために戦争中の土地に行ったこともあります」

「酔狂なやつだ」

「アルマ」

 

 とゲルニカはアルマを見る。

 

「はい」

「分かっているね。おまえはこの条件を満たせない」

「はい」

「悔しいか」

「いずれ」

 

 とアルマは手を握りしめる。

 

「いずれはできるようになりますよ」

「さすがだ」

「行くぞ」

 

 とサンチャゴがゲルニカに言う。ふたりが食堂を去るとアルマだけが残された。

 ふがいない。未熟さがいやになる。こんなときにゲルニカと一緒にいることができない。彼女と同じものを見ることができない。

 しかし、そんなことを考えるべきときではない。後悔はいくらでもできる。肝心なのはゲルニカがそうするように手足を動かすことなのだ。

 背嚢を背にアルマも食堂を出た。そして浜に向かった。鯨雲のいるその場所へ。

 

 

 

 

 すでに沢山の船が出動していた。港からそんなに遠くないところで船が集まっている。

 

「乗れ」

 

 とサンチャゴは催促した。

 木造の中型帆船はサンチャゴの皮膚のように黒かった。この船も彼と同じように日の光と荒波に揉まれてきたのだろう。

 

「年季を感じますね」

「本当の道具は傷がはいっているものさ」

 

 サンチャゴには同意見だった。ぴかぴかの道具を使っているような職人はたよりないものである。 

 船に乗りこむとサンチャゴは帆を広げ、船の集まりのほうへ漕ぎだした。

 集まりのところへすぐに辿りついた。どの漁師の表情も緊張感で満たされている。

 

「どうだ!」

 

 とサンチャゴが大声で言う。それだけで空気がびりびりと痺れるような迫力があった。

 

下にいる!

 

 と近くの漁師が簡潔に言った。ゲルニカは海の中を覗いた。なんの変調もなかったし、波におかしな様子はない。

 

「いる」

「分かるんですか」

「おれの仲間が集まってるんだ」

 

 サンチャゴは港町の仲間を信頼している。単独では判断をまちがえることもあるだろう。海はいつも漁師を混乱させようと波を難解にうねらせる。だからこそ――集団で漁をするのが大切なのだ。

 

「爆弾!」

 

 とサンチャゴが叫ぶとすぐに周囲の漁師が海に何かを投げこんだ。

 

「なんです?」

「耳を塞げ」

 

 ゲルニカは言うとおりにした。そして、すぐにそれが正解であることが分かった。

 突如として――水中が大爆発を起こした。ゲルニカの腹に引きさかれるような衝撃が貫通した。帆船が波でぐらぐらと揺れた。

 

「何!?」

「音の爆弾だ」

 

 サンチャゴは耳も塞がずに不動で言った。その声はゲルニカに届いていなかったけれども。

 しかし音の爆弾のほうは水中の何かに届いたらしい。

 一瞬間のあとにそれは海面に現れた。あの子機を巨大にしたような――翼のような平面の体躯。蛇状の毒尾。いらだつように尾を痙攣させているそれは、 まさに大鱏海魔(ダイエイカイマ)と呼ぶにふさわしいだろう。

 

 

 

 

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