愛と言葉のゲルニカ   作:ドクター・ヴィオラ

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エンシェント・エイハブ

 

 

 

 

やれ!

 

 と叫んだのは誰なのか。誰も叫ばなくても周囲の漁師はそうしたはずだ。そして銛が雨のように海魔に投げつけられた。

 しかし海魔も無防備ではない。銛の雨を身に受けながらもやりかえすために腹下の子機を船のほうに泳がせてきた。まるで戦船が大砲のやりとりをしているような感じだった。

 そして子機がふたりの帆船にも向かってきた。

 

「こいつ……」

 

 とサンチャゴが予備の銛を構えた。しかし、その直後だった。

 

「任せてください!」

 

 ゲルニカはそれを止めた。彼女は絵筆を取りだすと、船体にそれを擦りつける。すると絵筆の先端が船体の色を引きだした。年季を感じさせるその色を。

 感じるぞ。とゲルニカは思った。

 色が感覚に伝わる。その歴史を肌で感じる。

 海から、嵐から。こんなふうに帆船はサンチャゴを守ってきたのだ。

 

古船木壁(エンシェント・ベール)!」

 

 ゲルニカが腕を振りまわす。絵筆の軌跡に色がしみだし、ふたりを守るための盾となる。

 宙にいびつな木片が実体化する。その材質は帆船と同じものである。そして木片は子機の突撃をはじきかえすと、宙へ溶けだすように消失していった。

 

「おもしろい。帆船の力が引きだされたのを感じたぞ」

「わたしたち……画工は再現術と呼んでいます」

 

 再現術。定義としては創造術の一形態である。かたちのありさまを認識することで、世界にそれを出力することができるのだ。しかし再現物のありさまの強さは元の物質に依存する。その力はゲルニカに由来するのではなく、本質的に帆船の強さに由来しているのだ。

 

「邪魔にならないと言うのは本当だな」

「当然です」

 

 とゲルニカは頷く。そして画材を周囲に展開した。

 

「好きにやってください、わたしも好きにやります」

「ふん」

 

 ゲルニカは絵筆を握り、サンチャゴは銛を構える。

 海魔が警告するように泡をぶくぶくと吐きだしていた。

 

 

 

 

 アルマは浜で海戦を見ていた。海魔が翼のような体躯を海面に打ちつけ、銛と子機を矢のように撃ちあっている。遠くからでもその迫力が如実に伝わってくる。彼女もゲルニカがするように画材を周囲に展開した。

 こんなことを考えるのは不謹慎なのかもしれない。とアルマは思った。

 しかし、その光景はどうしようもなく――霊感の源泉だった。じわじわと汗のようにそれが分泌されていた。

 

「フフ……フフフフ」

 

 アルマは笑っていた。考えるよりも先に手が動いた。動くように手が考えた。

 近くの鯨雲も子機を警戒しているはずの女衆も気にならなかった。

 おそらく絵はすばらしいものにならないだろう。アルマは即興で絵を完成させるほどの技術がないことを自覚していた。それでも今は――この情熱を全力で帆布に殴りつけてしまいたい。向こうでゲルニカもそうしているはずなのだから。

 そして、そんなふうに描きなぐっていると頭に声が反響した。

 

『あの画工の仲間か』

「何? ……誰?」

『そこにいる。おまえの目の横に』

 

 アルマは横を向く。そこには鯨雲が座礁していた。

 

「……鯨雲?」

『いかにも』

「生きてたの」

『あの画工は何も言わなかったのか』

 

 言っていたような、そうでないような。

 

『おまえたちはこんなときでも描くのだな』

「……」

 

 アルマはすでに鯨雲を見ていなかった。一心不乱に手を動かしていた。

 

「描くと言うのはすこしちがう」

 

 高名な彫刻家は言う。

 すべての石には彫像が内在している。彫刻家はそれを発見しているだけなのだ。

 

「わたしたちは描かずにはいられないんだ!」

 

 情熱が真人間を変身させてしまうことがある。

 その日は唐突に訪れる。

 描きたいと言うこと。書きたいと言うこと。奏でたいと言うこと。

 それは時限式の爆弾にも似て、容易に止められはしないのだ。

 今のアルマがそうであるように。ベッドの上の貧乏人が急に虫に変身するように――その情熱の発露は唐突なものだ。

 

 

 

 

「ちくしょう」

 

 とサンチャゴが呟いた。

 

「銛がたりない」

 

 大量の子機の突撃は完璧に止められるものではない。すでにいくつかの船が破壊されはじめていた。

 厄介なのは銛が海魔に埋めこまれると、その肉があまりに頑強で、念力でも容易に引きぬけないことだった。

 

古船木銛(エンシェント・ランス)!」

 

 ゲルニカが絵筆を縦に振りかぶると、今度は木製の木銛が出力された。

 

「使って!」

「助かる!」

 

 サンチャゴが木銛をぶんなげた。

 この客を乗せたのは正解だった。とサンチャゴは思った。

 画工だと言うのに意外と骨がある。それどころか、その技術で助けられている。

 どこかで悲鳴がした。船が沈められたのか、子機に噛みつかれたのか。それを確認するほど余裕はない。

 サンチャゴの長年の勘が警告する。

 

負ける

 

 とサンチャゴは直感した。

 こんなふうにずるずると銛を投げるだけでは押しこまれる。しかし片田舎の港町にこんな怪物とやりあうような設備は存在していなかった。

 

「おい……あんたは大砲を再現したりはできないのか」

「無茶を言わないでくださいよ!」

 

 一手が必要だ。戦況を好転させるような一手。それはこの海戦の中には存在していない。逆に言えば――その一手は海戦の外側にあったのだ。

 事態とはときに内側の力だけではなく、外側に手を差しのべてもらうことで、容易に解決するものであるからだ。

 

 

 

 

 どうして。

 漁師も、画工も。どうしてそんなに必死なのだ。

 普通では考えられないほどの時間を生きた。しかし、その中で一度でも必死になったことがあるのだろうか?

 誰かと関わりを持つこともなく、流れるように空を生きてきた。

 

そして死ぬことへの関心もない。あなたの死には老人がベッドで死ぬような絶望の退廃もない。わたしはあなたがどんなふうに循環するかは知らない。それでも、こうして対話をするうえで分かったことがある。あなたは生きることにも死ぬことにも執着がないのでしょう

 

 とゲルニカは言っていた。

 それは正しかった。生きることも死ぬことも循環の一部に過ぎないからだ。だから感動も激情もない。

 

空を飛ぶ。地に落ちる。海に戻る。同じことの繰りかえし

 

 無感動に世界中を飛ぶと言うこと。それが鯨雲の生涯なのだ。

 それでも――この感覚はなんなのだろうか? 遠くの海戦を知覚すると、内部に込みあげるものがある。それを周囲の女衆にも感じる。画工の弟子にも感じる。

 鯨雲は言語化することができないでいた。誰かに守ってもらうなんて、産まれてはじめてのことなのだから。それでも感覚的には理解する。

 誰かに守ってもらうと言うことは、自分のために何かをしてもらうことは。価値のあるなんらかのことなのだ。そして、その状況で自分だけが何もしていない。何もできていない。

 

『仕方がない』

 

 やりたいと思ってしまったことをしよう。と鯨雲は考えた。

 

『画工の仲間……』

「弟子です! ……なんですか!」

 

 アルマは手を動かしながらも答えた。

 

『分かっているのだろう? あの海戦は海魔の勝利で終わってしまう』

 

 アルマの手が止まった。

 考えないようにしていたことだ。しかし遠目でも海戦が不利になっているのは理解していた。

 船は数を減らしていた。豪快に投げられていたはずの銛も勢いを弱めていた。

 

「だからって……どうしようもないじゃない!」

『落ちつけ』

 

 と鯨雲の声はやさしい。

 

『わたしが力を貸す』

「……あなたが?」

『いかにも。しかし、それには誰かの力が必要だ』

「どうするの」

『この身を一本の銛にして、あの海魔に突撃してやる。あの画工は創造の術が使えるのだな?』

 

 鯨雲の感覚はそれを遠目に観測していた。

 

『それなら……その弟子にも同じことができるはずだ』

「そんな無茶な……」

 

 とアルマは否定する。

 創造の術は全能の力ではない。そんなことはゲルニカにも無理だろう。

 

『術に必要な要素はわたしの力が引きうける。おまえはそれに指向性を持たせてほしい』

「指向性?」

『わたしを導け。風のように』

 

 鯨雲の体がわずかに動きはじめる。

 

『そして名前を呼んでくれ。わたしの名前は……』

 

 

 

 

「ゲルニカ!」

「なんです!?」

「鯨雲が……」

 

 サンチャゴに言われて、ゲルニカは浜を見た。

 鯨雲が起きあがっていた。それだけではない。その身が螺旋のように渦を巻いている。

 

「なんだ? どう言うんだ……」

「創造術!」

 

 とゲルニカは直感した。

 

「鯨雲。いや……アルマなのか?」

 

 力の奔流の元は鯨雲なのだろう。しかし、その中にアルマの力が入りまじっていることをゲルニカは感じていた。

 

「サンチャゴ」

「……おれには意味が分からない」

「大丈夫です。避難の準備をしましょう」

 

 とゲルニカは笑った。

 

「この海戦……わたしたちの勝ちだ」

 

 

 

 

 ねじれる、ねじれる。さらに鋭利に。あの海魔を刺すために。

 

『女衆は離れたか?』

「はい……あなたが急に動くから」

 

 そのうち、どこかで身の回転が止まった。完成したと言うことなのだろう。

 アルマは創造の術が鯨雲と共鳴しているのを感じた。すさまじいほどの全能感で体が満たされる。このエネルギーこそ――鯨雲が生涯で蓄えてきたものなのだ。

 

『あとは名前を呼ぶだけだ』

「……」

 

 今にそのエネルギーを解放しようとしている。

 それを発動するのは自分なのだ。とアルマは思った。

 緊張はない。それを言うと嘘になる。

 自分のような半端者には信じられないほどの大役だった。

 それでも。

 

いずれはできるようになりますよ

 

 とアルマはゲルニカに言った。

 

「先生」

 

 とアルマは呟く。そして叫んだ。

 

「いずれと言うのは……今!」

『やれ!』

 

 

 

 

 その迫力を、その速さを。アルマはいつまでも忘れないだろう。

 銛は伝説の船のように波を掻き、伝説の鳥のように風を切りわける。

 勢いはどんな嵐でも止まることはない。むしろ嵐を止めてもありあまるほどの衝撃で、どこまでも大空と大海を切りひらく。

 見るものはそのありさまに言葉を忘れて――そして感嘆するだろう。その感嘆こそが偉大な生命への称賛。そして訪れるであろう、偉大な死への畏怖である。

 

『ありがとう』

 

 鯨雲がそんなふうに言ったような気がした。

 アルマが絵筆を海に向ける。そして叫んだ。 

 

空海大銛鯨雲(エンシェント・エイハブ)!」

 

 衝撃――。

 

 

 

 

 海戦の数日後である。

 

「できました!」

 

 とゲルニカは食堂でふたつの絵を並べた。

 

「これは?」

 

 と女将が聞いた。

 

「女将さんとサンチャゴさんです」

「これが?」

 

 女将の絵の背景は食堂が舞台になっており、そこで男前な女性が煙草の煙を吐きだしていた。

 それはかまわない。しかし、その背中に巨大な翼があるのはどう言うことなのだろうか? それに純白のローブを身に着ていた。

 

「なんともチグハグだね」

 

 それは典型的な女神の絵である。

 

「わたしは写実主義者ではないので……わたしが女将さんの中に女神のような誠実を感じさせられたと言うだけのことです。その出力の結果なのです」

「なるほど……?」

 

 と女将は納得したようなしないような。彼女は自分が親切にしてやったとは思わない。普通に客を宿泊させているだけだ。この数日間でしたしくなったのは認めるけれども、そんなふうに見られるのは非常に照れくさかった。

 

「それなら旦那の絵はなんだ」

 

 と女将は話の矛先をサンチャゴの絵に向けた。

 それを認めるのは癪としても、女神の絵は分からなくもない。人間のかたちをしているからである。

 サンチャゴの絵はどうだ。こちらは人間のかたちをしていない。

 それは一本の銛を咥えた、黒毛の霊獣の絵だった。

 

「あんたからはうちの旦那はこんなふうに見えるの?」

「見えますよ。あのときのサンチャゴさんはすごかった。銛をぶんなげまくってね……女将さんにも見てほしかった……そうだ……タイトルはどうしよう……霊獣の夢とか……」

 

 そのうちゲルニカは自分の考えに没頭していった。

 

「芸術と言うのは分からないね」

 

 それから女将が笑ったとき、食堂の扉が豪快にひらいた。

 

「戻ったぞ!」

「おかえり」

 

 と女将がサンチャゴに言った。

 

「今日も大漁だ! 船に乗りきらん!」

 

 サンチャゴは愉快そうに言った。

 あの海戦のあと――海は先人が残したとおりになった。豊漁が訪れたのである。鯨雲の養分を食べるために魚が集まってきたのだ。これまで見たことがないような遠海の魚まで見るようになったらしい。

 

「鯨雲の御蔭ですね」

「ふん……御蔭だと?」

 

 とサンチャゴは鼻を鳴らした。

 

「おれたちは養分のためにあれを守った。あれも自分のために海魔を倒した……それだけのことだ」

「感動しましたよね?」

「……」

「鯨雲が海魔に激突したとき、あなたは感動していたはずです」

 

 とゲルニカは微笑した。

 ふたりは真正面で見ていたのだ。鯨雲の銛で海魔の全身がひしゃげるのを。そして役目を終えたあと、銛は海に溶けだしたのだ。

 それをサンチャゴがいつまでも眺めていたのを、ゲルニカは記憶に残していたのである。

 

「あれは簡単にできることではないと思います。少なくとも……自分のためだけには」

 

 見るものはそのありさまに言葉を忘れて――そして感嘆するだろう。その感嘆こそが偉大な生命への称賛。そして訪れるであろう、偉大な死への畏怖である。

 

「ふん……ところでその絵はなんだ」

「黒毛の霊獣はなんだと思います」

「霊獣なのか? たわしかと思った」

「たわし!?」

 

 ゲルニカは驚愕した。

 

「言うにことかいて……わたしの絵をたわし!?」

「アッハッハッハ!」

 

 と女将は爆笑した。

 しばらくゲルニカとサンチャゴはぎゃあぎゃあと叫びあっていた。

 そんなことをしていると、それからアルマも食堂に来た。

 

「おはようございます」

「絵は描けた?」

「……魂が抜けたような感じです」

 

 無理もない。今回――ことの成りゆきとは言え、アルマは埒外の大役を完遂したのだ。彼女はそれをいまだに咀嚼しきっていなかった。体験の満足感がすさまじすぎたのである。

 

「着実にやりなさい。アトリエに戻るころには、描きたいことの実体も見えてくる」

「そうですかね……」

 

 そこでサンチャゴが口を挟む。

 

「この子も浜で描いたんじゃないのか?」

「あれは第一印象と霊感を残すためにやるのであって、作品を完成させるためではありませんよ。わたしも船上でやりましたが、あれでは作品になりません」

「それでも絵なわけだろう」

「それはそうですけど」

「見せてくれ」

「霊獣がたわしに見えるのに?」

「うるさい」

 

 サンチャゴが催促するのでアルマは絵を持ってきた。

 絵は滅茶苦茶だった。色を殴りつけるように描いたそれは、ぎりぎりで抽象画と言えなくもない。しかし本当に思ったように描いたもので、アルマもそれを作品とは認めたくはなかったのだ。

 

「おもしろくないでしょう。こんなのは……」

「すごいな」

 

 そんなアルマを遮って、サンチャゴは顎を撫でた。

 

「嵐のようだ」

 

 青を基準に多種多様な色が帆布を走っている。

 青は海。ほかの色は船と海魔の影像だろう。

 それはサンチャゴに海の不規則な本当の嵐を連想させた。彼の信じている、海の影像のような。

 

「よし……これを買う」

「本当!?」

「おれは嘘は言わない」

「やった!」

 

 とアルマがはしゃいだ。今にも歓喜で爆発してしまいそうな調子だった。

 

「大層だな」

「そうでもないですよ」

 

 とゲルニカは言う。

 

「漁師だって……最初に魚を得たときのことは忘れていないでしょう?」

「最初? ……なるほど」

「あなたはアルマの最初の客になった」

「海を見てきます!」

 

 とアルマは急に食堂を駆けだしていった。

 

「おい! 金額は……」

「あとで決めましょう」

「やれやれ」

「あなたがたには世話になった」

 

 とゲルニカは自分の絵を回収した。

 

「どうです? 今度はぜひともアトリエを見に……西の小町に来てくださいよ」

「気が向いたらな」

 

 サンチャゴが笑った。ゲルニカもそれに笑顔で返した。

 

「そのときまでには……海戦の絵も完成させてやりますよ」

 

 

 

 

港の鯨雲 終わり




ゲルニカ・ラヴィング・パスワード

職業は画工。やさしげで不安定な激情家。西の小町にアトリエを構えている
多くの芸術家がそうであるように、創造の術に造詣が深く、物質界に干渉することができる
創造の術とは言葉の力、あるいは世界への呼びかけであり、学問としては文学に近い




アルマ・サトルノス

ゲルニカの弟子。アトリエの近くの学生
ほとんど押しかけるようなかたちでゲルニカの弟子をしている
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