フランツ・ビースト
月の引力を信じる? ――が会ったことに意味があることを
――は以前と変わった。それでも変わらないことがある
わたしはきみを愛していた
おれはおまえを愛していた
アトリエよりもさらに南。小町の外――その丘の上に牧場がある。
牧場主はゲルニカのパトロンで、定期的に仕事を依頼してくる。そして牧場内の気になるところを選んで、彼女に水彩の風景画を頼むのだった。
今回は家畜の絵。指定は日中の霊馬。
霊馬は
丘の東側――果樹の下で霊馬がまどろんでいた。
尤も霊馬には首がないので本当にまどろんでいるのかも分からない。木の下で休んでいるのでそう言うふうに見えるだけだ。その全身には体毛がなく、絹のようになめらかだ。一見すると脆弱な生きものと思うかもしれない。しかし侮ってはならない。なめらかな体は印象に反して、鋼鉄のように頑丈なのである。盗賊が霊馬の荷物を奪おうとして、逆にぶちのめされたこともあると言う。
そんな不思議な生きものを描いているのだな。とゲルニカも絵筆を振りながらに妙な感じがした。
春風の穏やかな、日中のことだった。
「今回もごくろう」
とパトロン――ゴッゲは牧場の最奥にある、屋敷の一室で霊馬の絵を眺めた。
「ごくろうと言うほどのこともしていないけどね」
「手を抜いたのかね」
「もちろん……手は抜かないけど」
とゲルニカはもごもごと言った。
そんなふうになるのはゴッゲの依頼が簡単だからだ。指定の風景を見たとおりに描くと言うのは、ゲルニカにはあまりに初歩的な仕事だった。この程度のことでパトロンになってくれるのは破格である。しかも彼は払いが大変によかった。
「分かっている。からかったのだ……おまえが誠実なのは知っているとも」
とゴッゲは蠱惑的に微笑した。
蠱惑的。そんなふうに見えるのは種族的な問題なのだろうか?
ゴッゲは夜族の貴公子である。
夜族はその名称が示すとおり、夜に生きるものたちである。その死体のような肌は日の光に弱く、他種の血液を主食にしていると言う。ゴッゲが牧場を経営しているのも、その体質に由来しているのだろう。家畜からは肉のほかに血液も取れるからである。
なんでもゴッゲの家畜の血液は高品質で、夜族からは非常に人気があるのだとか――ゲルニカには考えたくもないことだ。
「このまえカスパーが戻ってきたんだよ」
「あのろくでなしが?」
「嫁さんが旅先で妊娠したからって」
「そうか……めでたいことだ」
「どんなかたちであれ……よかったよ。子供を欲しがっていたからね」
「わたしたちは子供ができづらいからな」
長命種とは極端な寿命の代償に、子孫を残すのが困難なものである。人間のような営みが栄えるように設計されていないのだ。そして、それは長命種の夫婦の典型的な家庭の問題でもあった。
「他人事のように言って」
「実際に他人事だ」
「ゴッゲは欲しいと思わないの? 子供とか……」
「……これまでの生涯で思わなかったとは言わないが」
とゴッゲは腕を組む。
「それも昔のことだ……時間を繋ぐことは子孫がいなくてもできる。おまえに絵を描いてもらうのもそれが理由のひとつだ」
「わたしの絵が? と言うと……」
「居場所を描いてもらうことで、時間の居場所を再認識するのだ。わたしたちの感覚は長年で麻痺して、時間が過ぎさるのは一瞬間のできごとだ。だから必要なのだ……おまえたちのように風景を残してくれるものが。生涯の目撃者を求めているのは短命種だけではないのだよ」
「……」
ゲルニカは黙りこんだ。
それは一人前の画工としても、最高の賛辞だと言えるだろう。
「照れたか?」
「うるさい」
「何はともあれ……カスパーのことはめでたいな」
「会いに行ったら? あいつも会いたいと思うよ」
「そう……だな」
「どうした」
「……」
今度はゴッゲが黙りこんだ。
「会いたくない?」
「そう言うわけではない」
「それなら……ほかに事情が?」
「事情は……ある」
あるのかよ。とゲルニカは思った。
そしてゴッゲの表情で意外と事情が深刻なのも分かった。彼は表情が薄いけれども、眉がわずかにひそんでいた。彼は根本的に嫌味でキザなところがあり、弱点を誰かに見せるようなことはしなかった。この貴公子がそんな表情をするだけでも希少なことだ。
「わたしが最後にアトリエに行ったのはいつだ」
「二年前くらいかな」
「そうだな」
「そう言えば……手紙でやりとりをするようになったのもそのくらいだった」
以前のゴッゲは仕事を依頼するとき、ゲルニカのアトリエに赴いていたのである。
「どんなふうに思った」
「仕事が大変なのかなと。あのころは牧場を拡張していたし」
「大変ではあったが……暇がないわけではなかった。うちの従業員は有能だ」
「それなら、どうして」
それからゴッゲは溜息を吐いて、祈るように口元で手を組んだ。
目がすがりつくようにゲルニカを見ていた。
「あの喫茶店」
「うん?」
「二年前に喫茶店ができたはずだ」
「アトリエの前のこと?」
「そうだ……あの店は繁盛しているのか」
「そうだね。マスターの顔と腕が婦人客に人気だよ」
「婦人客だと!?」
とゴッゲが急に叫ぶのでゲルニカは肩をびくつかせた。
「女が何も知らないで!」
ゴッゲは両手を握り、牙をむきだしにした。しかし彼の憤慨もすぐにしぼんでいった。その憤りがあまりに自己矛盾に満ちていることを理解していたのだ。そして憤りは――そのうち絶望になった。彼の内で暗黒が明滅しているのがゲルニカにも表情で分かった。
「済まない……女性に言うことではなかった」
「かまなわない……事情は知りたいけどね」
「分かっている。今日はそのために呼んだのもあるのだ」
ゴッゲは決意したように言った。
「詳細はあとにして、結論を先に言う……あの喫茶店のマスターはわたしの二百年前の恋人なのだ」
そして以前のマスターは女性だった。とゴッゲは言った。
今日も繁盛したな。とマスターは思った。
それに婦人客ばかりだと。尤もマスターがそうなるように接客をしているのだけれども――彼は諸事情で女性の心理を把握するのが得意だった。それをずるいと思わないわけではない。昔の自分を利用しているような気がするからだ。しかし彼の人生はあまりに長く、その程度の葛藤はすでに済んでいた。少なくとも――二百年前よりは。
閉店前に掃除をしていると、喫茶店の扉がひらいた。そこにはゲルニカが佇んでいた。
「どうも」
「ゲルニカ? わるいな……今日は閉店だ」
「知っていますよ。わたしは常連ですから」
ゲルニカが店の中にはいってくる。
「おい」
「数日前に南の牧場で仕事をしてきたんです」
マスターの体が硬直した。
沈黙が場を支配した。そのうち日が暮れるだろう。しかし夜の闇がすべてを隠そうと、人生には隠しきれないことがある。月の光がそれを白日に浮かばせるからである。
それからマスターが苦笑した。
「あいつも覚悟を決めたのか」
「ゴッゲと会っていたんですね」
「二年前にね……それでも知らなかったんだ。あいつがこんなところで牧場を経営しているとは」
マスターは溜息を吐いた。
「これも運命と言うやつか」
「わたしはあなたのことを知っているつもりだった」
「常連だからな」
「あなたは茶を淹れるのがうまい。そして男前で婦人客に人気がある」
「……」
ふたりは目を合わせた。
「それでも知らなかった。あなたが……フランツが人獣であることは知らなかった」
「あいつはくるのか?」
「夜に」
「……閉店はできないらしい」
マスターの名前はフランツ。そして過去の名前をフランシーヌと言う。
「人獣性変異症と言うものがある」
と数日前にゴッゲは詳細を語りあかした。
「わたしたちは牙で呪いを打ちこむことで、他種を眷属に変態させることができる」
その能力は夜族が生きるために獲得したものだった。
夜族は日中に活動できず、肉体的な強度も高くない。それには血液が主食であることも関係しているのだろう。その種族の歴史とは感染症と寄生虫との戦争だった。
そして、だから夜族は他種の眷属化を獲得したのだと言われている。すなわち、その種族は外部に自己防衛の機能を求めたのである。
「二百年前……わたしは人間と恋に落ちた」
「……」
「そして当然……長命種と短命種の典型的な問題に向きあわされた」
「寿命」
「そうだ。フランシーヌは穏やかで可憐な女性だった」
分かるような気がした。特に穏やかと言うところはフランツの人物像と一致していた。それは二百年前と同じと言うことなのだろう。そして婦人客に人気な理由も分かった。彼は女性がどんなことでよろこぶのかを実体験で理解して――それを接客に活用しているのだろう。
「そして……わたしはフランシーヌを眷属にすることを選択した」
もちろん合意は取って。とゴッゲはつけたした。
当然だ。とゲルニカは思った。
そんなことを強要していたとしたら、ゲルニカはゴッゲを軽蔑しなければならない。それが原因で彼がパトロンでなくなるとしてもだ。
「人獣になることの恩恵はある。ひとつは寿命が伸びること、もうひとつは体が頑強に……筋肉質になると言うことだ。女性としてはうれしくないのかもしれないが、フランシーヌは後者も受けいれてくれた」
「男体化するのは想定外なのか?」
「そうだ。いや……症例はあった。しかし、それは夜族の歴史の中でも数例しかないもので……わたしたちは可能性を考慮してもいなかった」
そもそも眷属化とは夜族が身を守らせるために獲得したものだ。当然のことながら――貧弱な身を守らせるだけなら、女性よりも男性のほうがすぐれている。眷属の強度は元の強度に依存するからである。男体化は強度を確保するための突然変異なのだろう。
「それからのことは思いだしたくもない。フランシーヌは泣いて……わたしは謝ることしかできなかった。しかし謝ったところでどうにもない。わたしは財を投げうって、それを解決しようとした。自分で研究もした。やがて男体化が不可逆なものであると分かって……」
ゴッゲは目をとじた。
「そしてフランシーヌはどこかに去った」
閉店後の喫茶店で茶が香っている。
ゲルニカはカウンターの席に。フランツはその向こうで自分も茶を飲んでいる。
どんな深刻な話をするにしても、ほかの場所を選ぶのはありえない。ふたりはいつもこんなふうに会話をたのしんでいるのだ。
「そしてフランシーヌはどこかに去った」
「……」
「最後……そんなふうにゴッゲは語りました」
「相も変わらず」
とフランツは微笑した。
「キザなやつだな。そんなところは二百年前と同じらしい」
「そう言うふうに穏やかでいると言うことは、すでに自分の中で決着をつけていると?」
「当然だろう。二百年前のことでくよくよと悩んでも仕方がない」
強がりではないだろう。フランツの表情に不自然さはない。しかし、それでも人生にはかぞえきれないほどの困難があったはずだ。ゴッゲの傍を去っても事態が好転したわけでもないだろう。
フランツとフランシーヌ。彼と彼女。ふたつの性別。ひとつの理性。
その同一性の急変と乖離はすぐに受けとめられるものではない。この二百年をどんなふうに駆けぬけてきたのか、想像することも許されないような気がした。どんな言葉も無理解で下世話になりそうだった。
「それで? ゴッゲはおまえに仲介でも頼んだのか」
「そんなところです」
「呆れるほどに臆病だな!」
とフランツは笑った。
「そうなんだ。キザなのに繊細なやつで……」
フランツは窓の外を見た。すでに夜が訪れていた。
「そう言うところを愛していた」
しかし、それは過去のことだ。
天体の回転が不可逆であるように、その愛が戻ることはありえない。