そのうち喫茶店の窓から、アトリエの灯しが見えた。
ゴッゲが光を入れたのだろう。とゲルニカは思った。
ゲルニカはそこで待つように、事前にゴッゲに言っていたのである。
「マスター」
「うん」
フランツもそれと分かったのだろう。茶器をかたすと一緒に喫茶店を出た。
空で三日月が笑っていた。それは祝福なのか、それとも嘲笑なのか。考えかたは受けとるものによるのだろう。
光は人生を照らすだけではない。それは隠したいことを白日に浮かびあがらせる。
あなたは月の引力を信じる? わたしたちが会ったことに意味があることを
アトリエのはいるとゴッゲが椅子に座っていた。そして棚に置かれている、弟子の海戦の絵を見ていた。
「マスター」
「良い」
とフランツは言葉を止め、ゴッゲの横へ歩きだして、彼の横の椅子に座りこんだ。そして一緒にアルマの絵を眺めた。
しばらく眺めたあと、ゴッゲが口をひらく。
「おまえはあの絵をどんなふうに思う」
「そうだな……」
とフランツは顎を撫でた。
「人生のようだと思う」
「人生?」
「思うに人生とは嵐だ。あの海のように。そして……おれたちはその衝突をのがれられない」
「……」
「それでも……いつも嵐なわけじゃない。荒波のあとには凪が訪れるものさ」
その一刹那! フランツは急にゴッゲの頬をぶんなぐった。彼は衝撃でぶっとばされて、アトリエの床に背を打ちつける。
「ハッハッハッハ」
とフランツが痛快な声で爆笑した。ゴッゲはすこしのあいだ――呆然とした。しかし痛みが彼を引きあげる。彼は上半身を起きあがらせると叫んでいた。
「何をする!」
「平手のほうがよかったか?」
そんなふうに言われると、ゴッゲの反論が喉で止まった。
「こうしてくれと顔に書いてあったよ」
「……きみも変わったな」
「そうだな」
「口調も……そんなふうに流暢な男言葉で話はできていなかった」
「嵐のあとは凪だ」
とフランツはゴッゲに手を差しのべる。
「わたしたちはやりなおせると思うか」
「昔のようには戻らない。それでも……今度は友達としてなら」
「フランシーヌ」
「フランツだ」
とフランツは明確に言った。
「おれは喫茶店のマスターのフランツだ」
それは拒絶であり、許しでもあった。
「急に殴らないでくださいよ、わたしのアトリエなんですから」
とゲルニカが咎めたのは三人で机を囲ったあとである。
「わるい! なんと言うか……はずみでな」
「済まないとは思うが、必要な儀式だったのだ」
「やれやれ」
とゲルニカは呆れた。
「それにしても何も変わってないな」
とフランツはゴッゲを眺めた。二年前に再開したときも思ったけれども――本当に何も変わっていない。血を抜いたような肌色の、繊細でキザな貴公子だ。
「変わったさ」
「たとえば?」
「牧場を経営している。八十年前くらいからだ」
「都会で教授をやっていると噂で聞いていたが」
「已めた」
「どうして?」
「時間の理術を軍隊に提供しろと言われたのだ……これも昔の話だが」
ゴッゲは時間の理術の権威だった。過去にフランシーヌを治療するために習得したもので、眷属化を時間的な作用で破棄しようとしたのである。尤もそれは失敗したけれども。
その分野では非常に有名で学術書にも名前が乗っている。歴史的には時間の理術で血中の感染症と寄生虫の無害化を確立させたことで有名である。つまりゴッゲは種族内の英雄でもあったのだ。
地位的なものだけで言うなら、簡単に殴れるような立場ではない。しかし交友のやりかたを立場だけで決めるのは健全ではないだろう。あのやりとりは双方の暗黙の合意があってこそなのだ。
「きみはどうなんだ」
「うん?」
「本当に過去を振りきったのか」
この質問にどれほどの恐怖があるのだろうか? とゲルニカは思った。
それが予想外のできごとだとしても、ゴッゲは恋人の生きかたを変えてしまったのだ。
「自暴自棄になっていたこともあるがね……それでも過去のことだ。今はこの体が好きだし、人生をたのしめている。寿命も長いしな」
とフランツの反応は軽かった。それがどれほどの救いになることか! 尤も彼のほうではゴッゲが救われていることに自覚がなかったけれども。乗りこえたものは過去の痛みを苦にしない。それを深刻に考えようにも、今の人生をたのしみすぎていた。
「喫茶店のマスターをやっているのもそれか」
「前の仕事に飽きてね。こう言うときにこの体は便利だよ。どこでもやっていける」
「ポジティブなんだな……きみは」
「おまえは以前と同じで繊細だな。二百年前のことをくよくよと」
「忘れられるはずがない」
とゴッゲは目をとじた。
「深刻に考えすぎなんだよ……あれは合意だ。そうだろう?」
だからなんだ。とゴッゲは思った。
合意があろうとなかろうと、眷属化の主体性は夜族にある。他種を変態させて、その身を守らせる。結局のところ――眷属化の生物的な意図はそこにあった。ゴッゲはすでに自種の卑怯な能力を軽蔑していた。そして軽蔑の矛先が魂に向くのも不思議なことではないだろう。彼は二百年もこの種族の宿業を呪っていた。
「不思議だよ。あのころの……きみの顔も忘れてしまったのに、後悔だけが鮮明に焼きついている」
「……」
「不誠実だと思うか?」
「本当に繊細なやつだな」
もはやフランツは呆れた。
「おれも再会するまでは忘れていたよ……おまえの顔なんて」
それからゴッゲが目をひらいた。
「ゲルニカ」
「何?」
「まずは黙っていてくれたことに感謝する。そして依頼をしたい」
「……」
「フランシーヌを描いてくれ」
ゴッゲの目の中で決意の炎が揺らいでいた。
「それに意味はあるのか」
「わたしは数日前におまえに言った」
居場所を描いてもらうことで、時間の居場所を再認識するのだ
「必要なのだ。現在と過去を繋げることが。わたしはフランシーヌ……フランツよりも臆病だ。だから必要なのだ……再認識して……それを乗りこえるために」
「過去を耽溺するわけではないんだね?」
「決着をつけたい」
とゴッゲは立ちあがる。
「そして……記憶を鮮明にえがけるのは画工しかいない」
「いつ?」
「すぐにでも」
「……分かった」
とゲルニカはゴッゲの覚悟を受けとる。
「友達の頼みだ。一日中でもつきあうよ」
困難な作業になることが予想された。
フランシーヌの顔はゴッゲとフランツの記憶にしかないのだ。しかも、それは朧気で――当人さえも顔は鮮明ではなかった。二百年前の鏡の前の自分とは、すでに決別しているのだから。
あなたは月の引力を信じる? わたしたちが会ったことに意味があることを
わたしたちは以前と変わった。それでも変わらないことがある
フランツの素画をベースに作業をはじめた。そうすることで彼とフランシーヌのあいだに共通点をさぐる。現在に過去の面影を固着させるのだ。そして、ふたりの指摘のとおりに顔を修正する。
当然のことながら――ふたりの指摘は胡乱だった。
時はすでに過ぎさって、幻影のように曖昧だ。それでも二百年前の記憶を懸命に探していた。まるで砂漠に落としたものを発見しようとするような。
――やりなおす。
何度も。
幾度も。
……。
それで良い
やはりちがう
合っていた
済まない
ちがった
それだ
……。
過去の傷をほじくるような作業だった。時間が過ぎるほどにゴッゲの指摘は焦燥感に満ちていった。
「大丈夫か?」
そしてフランツがそれを言葉で支える。絵の指摘を交えながら――そうしないとゴッゲの精神力が持たないと思ったのだ。
ゲルニカのほうでもゴッゲの願いを遂行するのは大変な精神力が必要だった。曖昧な言葉に従っているうちに、彼女の中を徒労感が走りぬける。腹が立つ。いらいらとさせられる。ときには彼に叫びかえしてやりたくなる。しかし、それでも彼女は根気で言葉に向きあった。
作業をするあいだ――ゲルニカは一度も文句を言わなかった。
……。
戻してくれないか
それだ
ちがう!
……済まない
やりなおしてくれ
……………………
申しわけない
……。
ゲルニカは汗を拭く。
「謝らないで」
とゲルニカは言う。
「どこまでもつきあうよ」
きみは月の引力を信じるか? わたしたちが会ったことに意味があることを
わたしたちは以前と変わった。それでも変わらないことがある
フランツとフランシーヌ。彼と彼女。ふたつの性別。ひとつの理性。
空で三日月が笑っていた。それは祝福なのか、それとも嘲笑なのか。考えかたは受けとるものによるのだろう。
光は人生を照らすだけではない。それは隠したいことを白日に浮かばせる。
そして見たいと求めることさえも。
月の引力を信じる? ――が会ったことに意味があることを
――は以前と変わった。それでも変わらないことがある
わたしはきみを愛していた
おれはおまえを愛していた
絵が完成するころには、夜族の天敵が空にあった。
しかし、そんなことはゴッゲの頭になかった。彼の頭は時間の居場所を把握するために稼働していた。現在と過去――そして今。
ふたつがアトリエでひとつに結合したのか。ゲルニカには分からない。それはゴッゲとフランツの内部にあるもので、画工は単にパトロンの願いを叶えるだけだ。
しかし、それでも――この仕事はすばらしいものだ。とゲルニカは感じた。
ふたりの顔を見て、それが分かったのだ。それを肌で感じたのだ。
「つかれた」
とゲルニカは呟いた。そして満足感を堪能しながら―――彼女は床にぶったおれた。
「ありがとう」
意識がなくなるまえに、そんな声が聞こえていた。
気がつくとゴッゲも床にへたりこんでいた。
「すごいな」
とゴッゲはゲルニカを眺めた。
「すごいやつだ」
体に穴が開いたようだった。
時間がどんなに過ぎようとも、それでも変わらないことがある。時間とは断続的に結合しているものだからだ。理解していたはずなのに――こんなにも単純なことを知るために二百年も歳月が必要だった。
本当に繊細で臆病なやつだな。とゴッゲは内心で自嘲していた。
それでも、この自嘲を不思議とわるいと思わなかった。
「報酬をはずまないとな」
「おれも最高の茶をごちそうしてやるか」
「わたしも飲みたい。今日は夜までアトリエを出られないからな」
「こいつが起きたらな。それにしてもなんと言うのか……」
とフランツは顎を撫でた。
そして絵を眺めまわした。
そこには穏やかで可憐な乙女が絵の中で微笑していた。もちろんフランツとはちがっている。性別がちがうのだから、それも当然のことだろう。しかし、それでも絵を見たものは彼とこの人物に共通点を感じるはずだ。穏やかな目も可憐な微笑も、その黒髪もその黒目も、まるで血縁のような印象だ。あるいは、その人物を彼の妹だとでも思うかもしれない。
「やれやれ……こいつは」
まるで茶でも淹れるのが得意そうな美人じゃないか。とフランツは言った。
そこに今に繋がるものを感じていた。
「そうだな」
とゴッゲは同意した。
それから――。
「思ったよりも……おれは変わっていなかったんだな」
フランツは人物画を見て、そんなふうに納得した。
光は人生を照らすだけではない。それは隠したいことを白日に浮かばせる。
そして見たいと求めることさえも。
フランツ・ビースト 終わり
ゴッゲ
夜族。ゲルニカのパトロンの牧場主
時間の理術の権威であり、都会の学院の元教授
フランシーヌの元恋人。そしてフランツの友達
フランツ
人獣。喫茶店のマスター
人獣とは後天的に獣の要素を得たものであり、先天的に獣の要素を持つものは獣人と呼ばれる
ゲルニカとゴッゲの友達
フランシーヌ
人間。ゴッゲの元恋人