アルマ・サトルノス
閉店後の喫茶店には灯しがついていた。
カウンターに酒の肴が並んでいる。どれもフランツが拵えたものだ。サラダに魚のフライ。ほかにはゴッゲの牧場の肉を調理したものだとか。調理は凝ったものではなかったけれども、小さな宴席にはこのくらいが適切だろう。
ゴッゲとフランツの転機。そしてゲルニカ・ラヴィング・パスワードの尽力。これは、それへの祝いなのである。
「なんに乾杯しようか?」
フランツがカウンターの向こうで木製のジョッキを持った。
「なんでも良いだろう」
とゴッゲは静かに返した。
それは冷淡なのではない。彼は自分のことを宴席の題目にされているのが照れくさいのだ。この夜族の貴公子にそう言うところがあるのは、ゲルニカもフランツもつきあいの長さで理解していた。
「それならゲルニカは?」
「ゴッゲとフランツに」
「おい」
とゴッゲは眉をひそめた。
この夜族をからかうのは本当におもしろい。とゲルニカは思った。
「ほら……ゲルニカも祝ってくれているわけだしな」
「……」
そしてゴッゲは諦めて、しぶしぶとジョッキを持った。
「この二百年に」
「そうこなくてはな……乾杯!」
とフランツは叫んだ。
大人は酒を。そしてゲルニカの隣のアルマ・サトルノスは果実水を。派手にカウンターの上でぶつけあう。
小さな宴席。そのはじまりの合図だった。
「そもそも……これはなんの席なんですか?」
とアルマは聞いた。彼女は理由も聞かされず、宴席に連れてこられたのだ。
手の中のジョッキを飲みほして、フランツがその疑問に言葉を返した。
「ゲルニカに特別な絵を描いてもらってね……店の奥を見てくれ」
とフランツはアルマの視線を誘導した。そこには穏やかで可憐な乙女の人物画が飾られていた。
「あれを描いてもらったんだ」
「マスターと似ていますね」
「だろう」
「もしかして……妹さんとか?」
「そんなところだな」
とフランツが笑った。
何がそんなにうれしいのか、アルマには分からなかった。
「それなら……この席はその返礼と言うわけですか」
「ゲルニカには世話になった。特にこいつがな」
とフランツはゴッゲに指を向ける。
「ふん」
とゴッゲは鼻を鳴らして、不愉快そうに酒を飲んだ。それから彼はアルマのほうを見る。
「きみがゲルニカの弟子か」
「はい」
「話は聞いている……それはきみも同じかもしれないが」
アルマのほうでもゴッゲがゲルニカのパトロンであることは知っていた。なんでも、そのパトロンは夜族の牧場主であるとか。
夜族――日の光をきらうものたち。こうして見るのはアルマもはじめてだ。
異種族との交流が深まったのは数百年前で、争いが起こることも随分と減ったと言う。しかし、どの種族も完全に和合を受けいれたわけではない。
価値観のちがい。生活の差異。寿命の断絶。それらのために種族間の交流は今でも偏見と風評の中にある。
だからこそフランツも人獣であることを隠していたのである。
「残念だが……きみにわたしとフランツの事情を語ることはできない。少なくとも今は」
「……」
アルマはゲルニカの弟子だ。しかし、それはそれである。
今回の宴席はゴッゲとフランツのプライバシーに密接な関係がある。ゲルニカが連れてきたからと言って、簡単に打ちあけることはできない。それほどの関係を構築していないからである。
「この子は受けいれてくれると思うけどね」
とゲルニカは口を挟む。
「やかましい……これはきもちの問題なのだ……ともかく!」
と言うとゴッゲはアルマのジョッキに果実酒を注ぎたした。
「それはそれとしてだ。わたしはきみにもこの席をたのしんでほしいと思っている。ほかならぬ……この画工の弟子なのだから」
「……はい!」
とアルマは元気な声でそれに返して、一気にジョッキの中身を干すのだった。
「それでね、それでね。そのときのアルマが本当にかわいらしくてね……」
「その話はしないでくださいよ!」
とアルマがゲルニカの肩を掴んだ。
数刻後――ゲルニカは完全に泥酔していた。
「こいつ……こんなに酒癖がわるかったのか」
「知らなかったのか」
「一緒に飲んだことがないからな」
とフランツはゴッゲに返した。
「意外だな……こいつはおもしろいが……なんと言うのか」
「真面目?」
「そうだな」
「プライベートのこいつはこんなものだ。こいつは客前ではこう言うところを見せない」
それはゲルニカが絵で生活をするために培ったものだった。
つまり礼儀と節度。そして人前では笑顔ではきはきと誠実にすることを。
ゲルニカも本心ではそんなことをしたいわけではない。金銭に頭を悩まされず、好きに絵を描けるなら、どんなにすばらしいだろう。しかし現実はそうはならない。画工は世間が信じているよりも、不安定で曖昧な仕事なのである。それがきらびやかに見えるのは成功者が客前で苦悩を見せないからだ。
「なるほど……それなら少なくともおれたちは友達だと思われているわけか」
それから、しばらくゲルニカは喚いていた。しかし、それも長くは続かない。何杯目かのジョッキを飲んで、そこで限界が来たのだろう。うつらうつらと頭が揺れ、カウンターに突っぷした。それから静かに寝息を立てはじめるのだった。
「寝た……やっと」
とアルマが溜息を吐いた。
「きみも慣れているようだな」
「ゴッゲさんも?」
「一度ではないな」
「そうですか……わたしもです」
ゴッゲは苦笑した。
「信頼されていると言うことだ」
「こんな信頼はうれしくないですけど……」
「フランツ」
「なんだ?」
「静かに飲もう……葡萄酒を持ってきたのだ」
「今でも好きなんだな」
「当然だ」
フランツはカウンターの下から、グラスを静かに取りだした。そして、それを自分とゴッゲの前――そしてアルマの前にも置くのだった。
「あの……」
「なんだ」
「未成年なんですけど」
「だから?」
最近の子供がどんなに真面目なのかと言うことをフランツは理解していなかった。
「……良いか」
それでアルマも諦めた。
「こんな田舎で都会の決まりに従うこともないだろう。きみも画工の弟子なら、破天荒にやるべきだ」
「まともな大人がいない……」
とアルマはゴッゲの言葉に嘆くしかなかった。
「それにしても……こいつが弟子とはな」
とゴッゲは呟いた。それはアルマが葡萄酒の効能で頬を赤くしはじめたころだった。
「なんですか」
とアルマがぶっきらぼうに言った。別に機嫌がわるいわけではない。単に酒で思考が曖昧なだけである。
「昔のこいつからは考えられないことだ」
とゴッゲはゲルニカを眺めた。彼女は気分がよさそうに眠っていた。彼はこの中で最も彼女とのつきあいが長い。だからこそ――昔の彼女がどんなふうだったのかを知っている。
「先生は……その……荒れてたんですか?」
「知っているのか」
「なんとなく……」
とアルマはごまかすように酒を飲んだ。葡萄の甘味が口に広がった。
「すさんでいたと言っても良い。昔のこいつは」
「すさんで?」
「わるいが……それはこいつに聞いてくれ。きみはこいつの弟子なのだろう?」
断片的には知っていた。しかしゲルニカは率先的に過去を語らない。
アルマがそれを知っているのは、ゲルニカとの会話の中に過去の面影を見るからだ。鯨雲のときがそうであるように、方々で派手にやっていたのは予想された。
すべては絵を描くためだけに。
しかし、それだけではない。アルマはゲルニカの弟子になるまえから――彼女の過去の断片を知っていたのである。
そして、だからこそアルマはゲルニカの弟子をやっているのだ。
「ゴッゲさん」
「なんだ」
「人間はどんなふうに芸術を求めるのだと思いますか?」
「ふむ」
とゴッゲはグラスを揺らした。
「思うに芸術とは衝動的なものだ。そして芸術の才能があることは、必ずしも幸福なことではない。それはいつも宿主にかくあれと強要するからだ。創造的な精神はときに病的な方向へ邁進する。非凡なよろこびを与えてくれるが、同時に破滅を呼ぶこむこともある。しかし……それでもやらねばならない。そう言うふうに感じたとき、きみたちは芸術を望むのだろう」
「……」
「ちがうか」
「わたし……知っていたんです」
とアルマは急に言う。
「わたしは先生に会うまえから……この人のことを知っていたんです」
「そうなのか……なぜ?」
ゴッゲが好奇心の目でアルマを見た。
「それは」
しかしアルマがそれを語ることはないだろう。
「秘密です」
それはゴッゲがしたのと同じことだ。アルマと彼のあいだには歴史がなく、関係性が構築されきってはいない。
おいそれと簡単に過去を語ることなどできはしない。しかしゴッゲの意見に同意することはできるだろう。彼の芸術観――それはまさにアルマの過去にも合致していたからである。
ゴッゲに――フランツに――そしてゲルニカに。いつか、それを誰かに語るときがくるのだろうか?
それは弟子になるよりも、小町の学校に入学するよりも、さらに数年前のことである。
情熱が人間を変身させてしまうことがある。
その日は唐突に訪れる。
描きたいと言うこと。書きたいと言うこと。奏でたいと言うこと。
それは時限式の爆弾にも似て、容易に止められはしないのだ。
あんなことがなかったら。とアルマは考えるときがある。
自分はどんな人生をあゆんだのだろうか? おそらく一般的な良家の人間らしく、都会の中の学院に入学して――卒業したあとは家族が望むところへ嫁に行ったのかも知れない。もちろん、それがわるいとは思わない。一般的な家庭の幸福を否定するほど、拗らせているつもりはなかった。
しかし、そうはならなかった。そして、これからもそうはならないだろう。
あのときの鮮烈な体験が、内部を変質させたのだから。
それは遠方の小国へ家族と旅行に行ったときのことだった。
街並の赤煉瓦が今でも印象に残っている。祖国の煉瓦は淡黄色をしているから、その風景は妙に刺激的な感じがした。自分が小さなころに隣国と戦争をしていて、その傷痕は完治したわけではないらしいけれども、観光地が復活するくらいの活気を取りもどしていた。
アルマは小国の都市部で家族と博物館に寄った。戦争の戒めをテーマにしていて、本当にいろいろなものがあった。戦時中の資料の一部。一般兵の日記。当時の武器と防具。ほかにも多種多様な戦品が集められていた。
しかし小国の努力に反して――アルマは館内を無感動に眺めていた。それに思うところがないとは言わない。それでも祖国は彼女が産まれてから、一度も隣国と戦争をしたことがなく、戦争と言うのは歴史上のものでしかない。それに、それを物質の印象で理解しようにも彼女は幼かった。肉体的にも――そして精神的にも。
そして館内をつまらなそうに歩いているとき、アルマは視界の隅にそれを発見したのである。
博物館の奥にそれはあった。
『戦争』
それが絵画の名前である。
絵の中では手足のもげた、悲惨な独りの傭兵が、荒布の上で倒れていた。荒布は血にまみれており、表情は死の恐怖で歪んでいた。そのためだろうか――屈強な体格がいやに矮小に見えた。
傭兵はもがいて、くるしんでいた。目と口がおぞましいほどにひらかれ、冥界をのがれたいと主張していた。しかし、その願いは叶わない。彼の全身を戒めている、いくつもの矢と裂傷が、それを許さないからだ。冥界の門は戦争の痛みを加味しない。
そして、この傭兵は名誉もなく――どこかで死んでしまったのだろう。
気味がわるい
それが最初の印象だった。家族もそれは同じようで、すぐに絵画の前を去った。
しかし通りすぎたあとも、あの絵画が頭をよぎるのだ。それどころか――その
「先に行って」
だからアルマは家族に言って、館内を引きかえしたのだ。この感覚の正体を知るために。
十歩。最初は歩いた。
二十歩。いそぐように歩いた。
三十歩。気がつくとアルマは駆けだしていた。
周囲の迷惑も気にならなかった。
そして二度目――絵画の前に立ったとき、痺れるような死の影像が、アルマの臓腑を引きさいた。
一度目よりも鮮明に傭兵が死んだときの影像が伝わってきた。
どうして? それは説明しがたい。なぜなら、その感覚は理性よりも生来の情緒に由来するからだ。この作品が好きだと見るものは言うだけだ。そして――そのたぐいの直感よりも正確なことはないのだ。
そしてアルマは幼かった。子供の想像力がその直感を意識すれば、たちまち目の前のことが意味を持つようになる。つまり彼女は歴史上の資料ではなく、絵画が
悲劇と恐怖、破壊と虚無。
これが世界の半分の姿。
一方に創造の力があり。
一方に終末の力がある。
そして愛と正反対に位置するもの。
戦争とはそのありさまなのだ。
「すごい」
気がつくとアルマは呟いていた。
この作品が好きだと見るものは言うだけだ。そして――そのたぐいの直感よりも正確なことはないのだ
情熱が人間を変身させてしまうことがある。
その日は唐突に訪れる。
アルマは作者の名前を見た。
『ゲルニカ・ラヴィング・パスワード』
とそこには記されていた。
描きたいと言うこと。書きたいと言うこと。奏でたいと言うこと。
それは時限式の爆弾にも似て、容易に止められはしないのだ。
「やらないと」
何を? その焦燥感は発動機にも似て、彼女の人生を別の方角へ走らせる。そして博物館の外に出て、青空を見たときに思ったのだ。自分は都会の学院に入学するよりも、どこかに嫁に行くよりも、何かを創造するために産まれたのだと。
それからアルマが何をしたのか――はじめて家族に反抗して、田舎の学校に入学したのだ。ゲルニカのアトリエに押しかけるために。
「眠ったか」
そのうちアルマも酒の効能でカウンターに突っぷした。
「酒に強くないのもゲルニカと同じだな」
とフランツが笑った。
「しかし酒癖はわるくない。そのぶんゲルニカよりは弁えている」
「ちがいない」
「それにしても……女性にこんなふうに無防備に眠られると困るのだが」
「信頼されているわけだ」
「やれやれ……ゲルニカはそう言うところも弟子に教えるべきだろう」
「芸術家と言うやつは」
とフランツは穏やかな目で言う。
「どんな夢を見るんだろう」
夢とは想像力の源泉である。それは芸術家に無限の霊感を与えてくれるのだ。
しかし夢はいつもこのましいものではない。酒に酔い――眠りが浅くなってしまえば、夢は怪物になることもあるだろう。
そして過去はいつも夢の中に現れる。
悲劇と恐怖、破壊と虚無。
これが世界の半分の姿。
一方に創造の力があり。
一方に終末の力がある。
そして愛と正反対に位置するもの。
戦争とはそのありさまなのだ。
ゲルニカは戦争の夢を見ていた。