主人公に出会うまで
私が思ってるより彼女はずっとずっと寂しかった
そんなお話
世界は、バーバラにとって残酷なほど「静か」だった。
記憶を喪失した彼女にとって目覚めたこの世界は、静謐とは言い難い冷た過ぎる静寂。
どんなに賑やかな祭りの中心を歩いても、彼女を取り囲むのはガラス一枚隔てたような冷徹な境界線。
色とりどりの旗がはためき、屋台からは香ばしい肉の焼ける匂いが漂う。
活気あふれる市場を通り抜ける時、彼女はあえて人混みの最も密集した場所を選んで歩いてみる。
けれど、誰とも肩がぶつからない。
まるですれ違う人々が、そこに障害物があることさえ察知せず、彼女の体を避ける「不自然な異物」のように、無意識のうちに軌道を逸らしていくのだ。
「ねえ、そこの美味しそうなリンゴ、一つちょうだい! お代はちゃんと払うから! ほら、ここよ!」
精一杯の声を張り上げ、店主の鼻先で手を振ってみる。
指をパチンと鳴らして火花を見せても、店主の瞳には火影すら映らない。
店主は、彼女の存在など最初からこの世の理に含まれていないかのように虚空を見つめ、バーバラのすぐ隣にいる客に愛想よく笑いかけた。
「はいよ、毎度あり! お客さん、運がいいね。これが最後の一つだよ」
差し出した彼女の指先は、誰にも触れられることなく、ただ虚しく空を切る。
彼女は、夢の世界の住人。
実体を持たない彼女の言葉は空気の震えにさえなれず、その姿は光の屈折に紛れて、誰の網膜にも像を結ぶことなく消えていく。
「……また、無視。失礼しちゃうなっ。私みたいな絶世の美少女を放っておくなんて、この街の人は節穴どころか、目が付いてないんじゃないのかな?」
いつものように強気な言葉を並べ立て、わざとらしいほど不敵な笑みを作ってみる。
けれど、その独り言は虚しく路地裏の湿った壁に吸い込まれ、霧散するだけ。
彼女は目覚めてからこれまで、いくつもの街を巡ってきた。
記憶も曖昧ながら、あてもなく彷徨う様に旅をしていた。
ある時は、酒場の喧騒のど真ん中でテーブルを叩いて叫び、またある時は、厳かな教会の祈りの最中に祭壇の前に立って踊ってみせた。
(私を見て! 私はここにいるの! 誰でもいいから、私を叱ってよ! 邪魔だって言ってよ!)
心の中で喉がちぎれるほど叫びながら、人々の視線を、温もりを、怒りでも拒絶でもいいから「自分に向けられた反応」を求めて彷徨い続けた。
けれど、返ってくるのは常に、凍りつくような沈黙だけだった。
誰も彼女を叱らない。
誰も彼女を咎めない。
それは自由などではなく、存在そのものの抹殺だった。
自分がこの世界の緻密な物語からこぼれ落ちた「書き損じの記録」であるかのような、底知れぬ恐怖。
世界から取り残されていると自覚すると、もう壊れてしまいそうになる。
「……ねえ、私は……私は、本当はいないの?」
ある夜、激しい雨の中で彼女は立ち尽くしていた。
もう随分の長い旅の中ついに心が、身体が、動かなくなった。
雨粒は彼女の体を通り抜け、地面を叩く。
彼女の服は濡れず、体温も奪われない。
「自分」という現象が、この世界のどこにも干渉できていない。
その事実に気づくたび、彼女の胸の中にあった「いつか誰かが見つけてくれる」という淡い期待は、波に削られる砂の城のように、一歩ずつ崩れ去っていった。
彼女の手のひらからは、時折、制御不能なほどの魔力が溢れ出す。
理由もわからず、ただ破壊的なまでの光が指先から放たれる。
その光で街の広場を真昼のように照らしたこともあった。
人々は「奇跡だ」と拝み、あるいは「天変地異だ」と恐れおののく。
けれど、その光の源泉である彼女自身には、誰も触れようとしない。
魔法だけが、彼女がこの世界に干渉できる唯一の手段。
けれど、その魔法が引き起こす結果さえ、彼女自身とは切り離された「現象」として処理されてしまう。
あまりに強大な力を持っているのに、リンゴ一つ買うことさえできない。その歪さが、彼女の孤独をより鋭く研ぎ澄ませていった。
期待するから、無視された時に心がひび割れるのだ。
笑顔を作ろうとするから、誰にも見てもらえない時に口角が震えるのだ。
次第に、彼女は人混みを避けるようになった。賑やかな通りを歩くのが怖くなった。
誰かに必死に話しかけて、その瞳の中に「無」を見せつけられるたびに、自分の輪郭が霧のように薄れて、そのまま永遠に虚無へと溶けてしまいそうになる恐怖に耐えられなくなったから。
「もう、いいよ。一人の方が気楽。私という特別な存在は、凡人には理解できないってことにしてあげる」
そう自分に言い聞かせ、彼女の居場所は、人のいない深い森や、時を止めた廃墟へと移っていった。
鏡にさえ映らない自分という名の「幽霊」を連れて、彼女はたった一人の静寂へと沈んでいく。
その果てに、彼女は「月鏡の塔」を見上げた。
放浪の旅の途中いつかの酒場で、荒らくれ達の会話で小耳に挟んだ事があった。
月鏡の塔という場所の事。真実映し出す秘宝ラーの鏡の存在。
「……ここの、鏡になら私の姿が映るかしら」
自嘲気味な独り言をこぼしながら、螺旋階段を登り続けていた。
厳重に施錠された扉もバーバラには全く意味をなさなかった。
外の世界はもういい。誰にも見られず、誰にも触れられないのなら、いっそこの世で最も孤独な場所で、自分という存在を静かに閉じてしまおう。
塔の壁に刻まれた古い紋章も、歴史を感じさせる石造りの手すりも、彼女が触れても何の反応も示さない。
まるで、死後の世界を歩いているかのような心地だった。
最上階の扉を開けると、そこには冷たい月明かりが床を青白く照らす、鏡のように磨かれた広間があった。
バーバラは力なく、窓枠に腰を下ろす。
「ふん……。やっぱり、この塔の鏡にさえ私は映らないみたいね」
磨かれた床を見つめても、そこにあるのは天井の模様と月だけで、自分の赤い服も、勝ち気な瞳も、何一つとして反射してはくれない。
「私」はこの世界にとって、映し出す価値さえない「無」なのだ。
そう悟った瞬間、彼女の目から熱いものがこぼれ落ちそうになった。
その時だった。
塔の階下から、静寂を切り裂くような騒がしい足音が響いてきた。
剣の触れ合う金属音、焦燥に駆られた荒い息遣い。
そして、仲間を鼓舞する若い声。
(……また、通りすがりの『現実』の人たちね。勝手に土足で入り込んで、勝手に去っていく。私を通り過ぎて、私の横で休憩して、私の存在に指一本触れずに……)
彼女は、零れそうになる涙をグッと堪え、いつもの「完璧なバーバラ」の仮面を被り直した。
どうせ気づかれない。なら、せめて最後くらい、最高に生意気な態度で、この「透明な自分」を演じきってやろう。
彼女はわざとらしく鼻を鳴らし、月光を背負って優雅に足を組んだ。
扉が勢いよく開き、数人の若者たちがなだれ込んできた。
先頭に立つのは、泥に汚れながらも、真っ直ぐな瞳をした少年——レイ。
バーバラは冷ややかな、けれど鈴の音のように透き通った声を投げかけた。
「……あら。随分と騒がしいネズミたちが紛れ込んだものね。ここは今、私の私だけのプライベート空間なんだから。お引き取り願えるかしら?」
いつもの、空気に溶けるはずの言葉。
いつもの、誰にも届かないはずの虚勢。
彼女は、彼らが自分を無視して部屋の奥へ進むのを待っていた。通り過ぎる際の、あの「何もいない場所を避ける空気の動き」を感じる準備をしていた。
だが。
「……えっ?」
「……へっ?」
レイが弾かれたように足を止め、バーバラは気の抜けた声が漏れた。
彼は肩で激しく息をしながら、信じられないものを見るかのように、真っ直ぐに、バーバラの瞳を射抜いた。
「あ……。えっ、そこに誰かいる…のか……?」
時間が、止まった。
レイの瞳の中に、月明かりに照らされた自分の姿が、鮮明に、等身大で映り込んでいる。
彼だけじゃない。
後ろに続く仲間たちも、確かに彼女の存在を捉え、その美しさに息を呑み、あるいは正体不明の魔術師に警戒の眼差しを向けている。
生まれて初めて、自分の存在が他人の網膜に焼き付き、自分の声が誰かの心に届いた。
何百、何千という無視を通り抜けて、ついに一人の少年が、バーバラという名の「夢」を「現実」へと引きずり出した瞬間だった。
モノクロだった彼女の世界に、一気に極彩色の絵の具がぶちまけられたような衝撃。
「……見える、の? ……私が」
バーバラの声が、初めて震えた。
強大な魔法の理由も、失われた記憶の正体も、今はまだ闇の中。
けれど、この少年が自分を「見つけた」その瞬間、彼女を縛り付けていた透明な鎖は、音を立てて砕け散った。
彼女は「幽霊」であることをやめ、今この瞬間、確かに「バーバラ」になった。
彼女は込み上げる震えを隠すように、フッと不敵な笑みを浮かべて見せた。
頬を伝った一筋の涙を、月光がダイヤモンドのように輝かせる。それは悲しみの終わりを告げる、祝福の滴だった。
「私の名前は……私の名前はね、バーバラっていうの。あの……君の名前は?」
(本当に……見つけてくれてありがとう…)
こっそりとバーバラは本心を小声で付け加えた。
それは、世界で一番孤独だった少女が、初めて手に入れた「仲間」への、初めてのの挨拶。
月鏡の塔に、彼女の明るい声が響き渡る。
バーバラの、本当の物語が今、ここから始まったのだ。