戦国転生 4歳から始める十種影法術 作:匿名希望
▫️鹿紫雲一
阿蘇の外輪を下りて二日。
振り返れば見えていた巨大な稜線も、今はもう視界に微かに残るばかり。
あの盆地に澱んでいた呪力。
それは記憶の中にのみ残り、代わりにあるのは、戦火に焼かれた土地の乾いた風と、荒んだ土の匂いだった。
「……」
鹿紫雲一は足を止めない。
踏みしめる土は軽い。
草は短く刈り取られるか踏みにじられ、赤土が剥き出しになっている。
人の営みの痕跡はあるが、それは五穀を育むためのものではなかった。
折れた柵、踏み荒らされた畑。
略奪という暴力の爪痕だけが、そこにあった。
(……薄いな)
呪力の凝りも、人の息遣いも、ひどく希薄だ。
阿蘇の内側で感じた「濃さ」とは対極にある。
あそこには何かが溜まっていたが、ここは、すべてが流れきった後の残り滓のようだった。
「つまらん」
小さく吐き捨て、歩みを進める。
道中、いくつかの集落を過ぎた。
最初の一つは、完全に捨てられた「骸」だった。
戸は外され、屋内は暴かれ、生活の痕跡だけが虚しく残っている。
次に通った村には人はいたが、老人と子供ばかりだ。
鹿紫雲が通りかかると、戸口の老婆が怯えたように身を隠し、内側から閂を下ろした。
(……怯えている)
それを当然だ、と省みることもない。
弱者の恐怖など、彼には背景を流れる雑音に過ぎないからだ。
別の村では、数人の男が槍を手に道を塞いだ。
「止まれ。どこから来た」
問いかけは荒く、声に余裕がない。
鹿紫雲は歩みを緩めなかった。
「聞いているのか、貴様――」
言葉が結ばれるより早く、大気が裂けた。
ぱちり、と乾いた火花。
刹那、男の足元の土が激しく爆ぜる。
「……っ!?」
遅れて、雷の残滓が地面を焦がす。
狙えば膝から下を吹き飛ばせたが、そうはしない。
意味がないからだ。
男たちは凍りついた。
鹿紫雲はその間を、何事もなかったかのように通り過ぎる。
(弱い)
ただ、それだけだった。
思えば、一人で動くのは久方ぶりだった。
影久と行動を共にしてから、正確な日数など覚えていない。
だが、常に横には「異物」があった。
底の見えない影。
削れば削るほど、別の方向へと伸びていく歪み。
(あれは、面白い。……だが)
同時に理解もしている。
(全力を出すと、まだ戦いにならん)
手合わせを超えれば壊れる。それに今のままではいつまでかかるかわからない。
強制的な進化が必要、だから離れた。それだけのことだ。
地形が変わり始める。
湿り気が増し、草木の色が濃くなる。
土の色も、どこか黒みを帯びていた。
(……南か)
日差しと風の湿り気で、日向の地に入ったと察する。
村々の様子も変わってきた。
廃村は減り、代わりに「息を潜めている」場所が増える。
昼間だというのに人影はないが、壁の向こうから湿った視線が追ってくる。
鹿紫雲はそれらを無視して歩き続けた。
呪霊は寄ってこない。人も仕掛けてはこない。
「……退屈だな」
零した声に応じるものはいない。
だが、三日目の夕刻。空気が変わった。
最初に感じたのは、微かな緊張だ。
何もない空間に、目に見えぬ糸が張られているような感覚。
足を止め、周囲を検分する。
森の縁、荒れた茂みの奥。
そこに――“いる”。
(ようやくか)
口角がわずかに上がる。
これまでの連中とは違う。
逃げず、隠れず、こちらを「値踏み」している。
影久が影に力を「溜める」なら、自分はここで火花を散らす。
一歩、踏み出す。
乾いた土を蹴る音が、重く響いた。
「――出てこい」
返事はない。
だが、気わいが動いた。
森の奥から、ゆっくりと一人の男が現れる。
農民とも野伏ともつかない格好だが、その目だけが異様に鋭い。
「……あんた、どこから来た」
問いは低く、警戒を含んでいる。
鹿紫雲は答えない。ただ、男の内側の呪力を観た。
(違うな。こいつじゃない)
男は沈黙に耐えきれず、言葉を続けた。
「この先はやめとけ。碌なもんじゃねえ。……妙なのが居座ってる」
「何がいる」
「術を使う男だ。見えねえ糸のようなもんで人を縛る。触れてもいねえのに、首が落ちる」
鹿紫雲の目が、わずかに細まる。
「ほう」
「逆らった奴は皆死んだ。今じゃあの村はあいつの領地だ。通るにも銭を取られる。払えなきゃ……」
そこから先を、鹿紫雲は聞かない。
「どれほどだ」
「俺らじゃ話にならねえ。武家の連中でもまとめてやられた」
(ようやく、当たりか)
鹿紫雲はそのまま歩を進めた。
「おい! 止めとけって! あれは――」
「いい」
一言で遮る。
歩きながら、胸中で反芻する。
呪霊ではない。意思があり、技があり、殺すための工夫がある。
(立ち合える)
それだけで十分だった。
だが、ふと別の思考が浮かぶ。
(殺せば終わる。……それでいいのか?)
脳裏をよぎったのは、播磨からここまでに相見えた術師たちのことだ。
あの時、鹿紫雲は自らの意思で獲物を逃したわけではない。横にいた影久に「殺すな」と差し止められ、不承不承ながら拳を引いたに過ぎない。
(あの時は、単に邪魔が入ったと思っていたが)
だが結果として、彼らは死なずに済んだ。
鹿紫雲の手によって完全に断たれなかったという事実が、今になってわずかに引っかかる。
(残す、か)
まだ定まってはいない。
ただ、殺して終いにするだけでは、何も手元に残らないという乾いた感触だけが、ぼんやりと形を持ち始めていた。
それと、もう一つ。
「銭を取っている」という点。
(価値を分かっている。人の理で動いているならば、使い道があるかもしれんな)
倒す。それは決まっている。
だが、その後の処遇は状況を見て選べばいい。
道が下り、集落が見え始めた。
柵で囲まれた小さな村。
空気が違う。
押し殺したような、停滞した息遣い。
その中心に、他とは違う「芯」のある呪力が座していた。
「……当たりだな」
鹿紫雲は足を止めない。
その選択がどこへ行き着くか。
確かめるには、ちょうどいい相手だった。
鹿紫雲一は歩みを緩めない。
村の入口、柵の前に立つ二人の見張り。やつれた顔、細い腕。握る槍の先が、隠しようもなく震えている。
それでも退かぬのは、退けば背後の「主」に何をされるか知っているからだ。
「止まれ……ここを通るなら」
声が裏返っている。
鹿紫雲は答えない。無造作に間合いへ潜り込む。
「聞いて――」
一人が恐怖に耐えかね、槍を突き出した。
遅い。
半歩で穂先をかわし、そのまま懐を奪う。
振り抜かれた拳が、正確に鳩尾を捉えた。
――ドッ。
鈍い音が響き、男が糸の切れた人形のように崩れ落ちる。
「……っ!?」
もう一人が息を呑み、後ずさる。
倒れた男に意識はないが、殺してはいない。ただ呼吸を止めただけだ。
(脆い)
鹿紫雲は視線すら向けず、短く断じる。
「どけ」
それだけで十分だった。残った一人は槍を投げ出すようにして道を開けた。
村の中は、墓所のように静まり返っていた。
閉ざされた戸の隙間から、怯えきった視線が刺さる。支配という名の停滞。
だが、その中央に、明確な「芯」があった。
(あるな)
空間に張り巡らされた、目に見えぬ呪力の糸。
風もないのに肌をなぞる、微かな違和感。
鹿紫雲は足を止め、指先に雷を乗せて空間を弾いた。
――ぴん。
弾力のある手応え。意図して配置された「罠」だ。
「面白い」
呟いた瞬間、空気が裂けた。
――ギィン。
首元をかすめる衝撃。わずかに首を傾け、死線を外す。
断たれた髪が一筋、宙に舞った。
視線を上げた先。朽ちた屋敷の縁側に、一人の男が座していた。
農民の如き痩せた体。だが、その指先だけは生き物のように蠢いている。
「よく避けたな」
男が低く笑う。
「ここは俺の領分だ。通りたくば、命に足るだけの銭を置いていけ」
鹿紫雲は答えない。ただ一歩、間合いを詰める。
「払わぬなら――死ね」
空間が歪んだ。
四方から収束する見えざる糸。首、腕、脚。関節を断つ軌道。
(速い)
だが、鹿紫雲がさらに一歩踏み込むと、既にそこは糸の交差点ではない。
死線が地面を空しく切り裂く。
男が立ち上がり、指を激しく振る。
糸は重なり、逃げ場を奪う網へと変じる。
(斬れぬなら、潜るだけだ)
肩に浅い裂け目が走る。血が滲む。
だが、加速は止まらない。距離が消失する。
「――っ!」
男が顔を歪めた時には、既に鹿紫雲の拳が眼前にあった。
――ドン。
激しい衝撃と共に男の体が吹き飛び、屋敷の柱に叩きつけられる。
「が……っ」
悶絶しながらも、男の執念が指を動かした。
崩れ落ちながら放たれた最後の一筋が、鹿紫雲の首を狙う。
(悪くない。対人に特化した工夫だ)
歩み寄る鹿紫雲。あと一撃で全てが終わる。
その拳を振り上げる瞬間、不意に思考がよぎった。
(……残すか)
この執念、この技術。
ここで終わらせるには惜しい素材だ。
生かしておけば、いずれ「続き」があるかもしれない。
だが――。
迷いは、火花が散るほどの一瞬で消えた。
鹿紫雲の拳が、容赦なく振り下ろされる。
――ドン。
鈍い音が響き、男の体が床に沈んだ。
張り詰めていた糸が、霧散するように消える。
「……終わりか」
見下ろす。反応はない。呼吸も、呪力の脈動も、今しがた途絶えた。
確かに、終わった。
(……軽いな)
勝った。それだけだ。
手応えはあったはずなのに、胸の奥には何も残らない。
先ほどの一瞬の躊躇が、遅れて澱のように引っかかる。
(残せば……どうなっていた)
その答えを確かめる術は、もうない。
鹿紫雲はしばらくその場に佇んでいたが、やがて興味を失ったように背を向けた。
村の空気が揺れる。
押し殺されていた息遣いが、少しずつ解放へと向かう。
「……助かったのか」
微かな声。鹿紫雲は振り返らず、村の出口へと進む。
「ま, 待ってくれ……!」
背後から駆けてくる足音。一人の老人が息を切らして追いつき、汚れた袋を差し出した。
「礼を……せめて、これを受け取ってくだされ」
中で銭の鳴る音がする。
鹿紫雲は無言で受け取り、重さを確かめた。
(路銀にはなったが)
「……あの男は」
「終わった」
短く答え、鹿紫雲は歩き出す。
村の入口では、見張りの一人が倒れた仲間を抱きかかえ、呆然と座り込んでいた。
空は既に、濃藍に染まり始めている。
(殺せば終わる)
歩きながら、自問を繰り返す。
(……それだけだ)
勝敗はつき、命は消える。だが、その先がない。
影久の隣で感じていた、あの歪で先の見えない高揚とは違う。
(残せば……どうだった)
先ほどの答えの出ない問いを、何度も繰り返す。
鹿紫雲の口元が、自嘲気味にわずかに歪んだ。
「……つまらんな」
吐き捨てた言葉は、夜気に溶けて消える。
歩みは止まらない。
だが、胸の底に沈殿した違和感だけは、消えずに重く居座っていた。
(面白くなかった、わけではない)
思い返すのは、先ほどの男の指先だ。
間合いを外し、肉を削り、隙を縫って命を獲りに来る。
力任せではない、人を殺めるために練り上げられた技。
(あれは、確かに立ち合いだった)
一瞬ではあったが、踏み込む価値はあった。
拳を振るう意味もあった。
だが。
(……続かん)
その先が、ない。
あの場で全てが断絶した。
積み上げた技も、染み付いた癖も、焼きつくような執念も――あそこで途切れた。
(強くなることもない)
次にまみえることもない。再び削り合うこともない。ただ、終わった。
「……それだけだ」
小さく呟く。
再び、播磨での光景が鮮明に浮かび上がる。
影久の言葉に従い、不本意ながらも命を獲らずに置いた、あの術師たちの姿。
(あれは、終わらせなかったのだ)
鹿紫雲が断つことを禁じられ、強制的に生かされた者たち。
彼らが今もどこかで息をついているならば、そこには確実な“続き”が脈動している。
次に会えば、どうなる。
あの時よりも研がれているか、あるいは牙を折られているか。
どちらにせよ、再戦の火花を散らす余地が、未来に投げ出されている。
(削り合える可能性を、残したということか)
道を進めながら、視線を細める。
(今のは違う)
強かった。面白かった。
だが、己の手で終わらせた。その先を、自ら断ち切った。
(……あれは、育たん)
ぽつりと、言葉が落ちる。
どれほどの才があろうと、どれほど技を磨こうと。
あそこで終わらせてしまえば、それ以上にはなり得ない。
(ならば)
思考が、はっきりとした形を取り始める。
殺す。それで終わりだ。
だが、あえて断たずに置けばどうなる。
次がある。変わる余地がある。
(……削れる)
今よりも深く。今よりも長く。
魂を削り合う領域まで、相手を、そして己を追い込めるかもしれない。
影久が何を思って「殺すな」と言ったかはわからない。
だが、結果としてあいつは、俺の前に続きという贅沢を並べてみせたのだ。
鹿紫雲の口元が、わずかに吊り上がる。
「……なるほどな」
独りごちる。
まだ確信ではない。だが、進むべき方向は見えた。
(殺すだけでは、足りん)
それだけが、はっきりと胸に残る。
夜の道を、鹿紫雲は歩き続ける。
次に立ち合う相手を、今度はどう扱うか。
あいつが教えた「残す」という感触を、今度は自らの意志で試すために。
「だれだお前」
「やぁ鹿紫雲一やっと会えたよ」