戦国転生 4歳から始める十種影法術   作:匿名希望

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第三十話 三者三様の、守るべきもの

◆禪院源蔵

 

朝霧が立ち込める禪院家の広大な廊下。

かつてなら、身分の低い下女たちが怯えながら雑巾がけをしていたこの場所に、今は静謐な「影」の蠢きがある。

 

源蔵は廊下の中心に立ち、静かに術式――影を操る術を使っていた。かつては呪霊を祓うために使われていたそれが、今は数枚の雑巾と一体化し、一分の隙もなく床を磨き上げていた。

 

「……まだまだ、枝分けすると拭き残しがあるな」

 

源蔵は独り言ち、自身の影の動きを微調整する。

今より十数年前。

教育係として付いていた影久が、あろうことか「下女たちに掃除を教わりたい」と言い出した時、源蔵は腰を抜かすかというほど驚いた。だが、影久は真剣だった。

 

結果は徐々に現れた。下働きのものたちがよく笑うようになったのだ。「家事」(家を回すをためのそれを影久がそう呼び定着した)の効率や質もどんどん上がっていった。

 

その後、時期当主が弟の景次に決まったとき、影久は「躯」という家事を専門とする術師、非術師の混成部隊を作り上げることとなる。

 

『源蔵。この家を清潔に保ち、みんなの腹を満たす仕組みを作れる奴がいなければ、術師も満足に働けないんだ。景次のため、そして俺のためにも……一緒にやってくれるか?』

 

あの日から、源蔵の戦いは変わった。一級術師の矜持を脱ぎ捨て、泥にまみれ、埃にまみれ、若者たちに混ざって雑巾の絞り方から学んだ。今では並の術師が束になっても敵わぬほどの家事能力を身につけたが、それでも、躯に元からいた本職の女性たちの無駄のない所作には、未だに一歩及ばないと感じている。

 

「源蔵様、おはようございます。本日の厨房の火入れ、滞りなく」

「源蔵様、西の離れの清掃、予定通り開始いたします」

 

通りかかる躯の隊員たちが、次々と源蔵に頭を下げる。

かつてはハズレと蔑まれ、光の当たらない場所で虐げられていた者たち。彼らの瞳には今、自分たちがこの禪院家を底から支えているという強い誇りが宿っている。

 

源蔵は、彼らの「源蔵様」という呼び声に小さく頷きながら、ふと、自身の影を見つめた。

この術式で、影久様を守ることはもうできないかもしれない。だが、あのお方が愛したこの「日常」を維持することなら、この老いた身でも十分に果たせる。

 

 

 

 

 

 

影久が魔虚羅の封印を口実に旅立ってから今日まで、この平穏が保たれているのは、決して偶然ではない。

 

数年前、影久が旅立った直後、家中の空気は一時期、張り詰めていた。「神童が力を失った」「檻が壊れれば一族もろとも全滅だ」という噂が飛び交い、影久の改革を苦々しく思っていた一部の術師たちが、ここぞとばかりに躯への嫌がらせを再開しようとした。

 

だが、源蔵は引かなかった。かつての一級術師としての凄みを利かせ、老害たちを黙らせた。

「……何か不服か? 影久様は、今この瞬間も影の底で伝説の式神を用い恐るべき特級呪霊を抑え込んでおられるのだ。あのお方の静養を、貴様らのくだらぬ横暴で乱すというのか」

 

影久の「嘘(ハッタリ)」を、源蔵は誰よりも早く「武器」として使いこなした。影久がいかなる思いであの嘘をついたか、長年の付き合いで痛いほど理解していたからだ。

 

そして、源蔵にとって心強かったのは、扇一郎のような若い術師たちの存在だった。

実力があり、頭の回転も速い彼らは、影久が作った「仕組み」の利便性をいち早く理解した。

 

「源蔵殿、そんな怖い顔しないでくださいよ。こいつらも飯が旨いのは分かってるんですから」

 

扇一郎はそう言って軽薄に笑いながら、嫌がらせをしようとしていた術師との間に、ひらりと割って入ってくれたものだ。

彼ら若い世代は、影久がもたらした「清潔な屋敷」と「美味い食事」を支持していた。今では扇一郎のみならず、彼に感化された若手たちが躯の側に立ち、時には一緒に影久の不在を守る壁となってくれている。

 

結果として、影久が考案した家事の仕組みは完成した。

暴力や恐怖ではなく、快適さという毒をもって、影久は家中を支配し、同時に守り抜いた。

 

源蔵は、廊下をゆっくりと歩きながら思う。

あのハッタリは、影久様自身の身を守るためだけではない。自分がいなくなった後に残される躯の者たちが、二度と泥水を啜らぬようにするための、影久様の、最後で最大の「結界」でもあったのだ。

 

ふと、源蔵は懐から一通の文を取り出した。

旅先から定期的に届くそれは、影久から源蔵に宛てられた簡素なものだ。

 

『今奥州にいるんだが飯が塩辛くてやってられん。禪院の飯が食いたい。源蔵、お前が躯を仕切ってると思うと、帰れる場所があると安心するぜ。』

 

その等身大の数行を読み返すたび、源蔵の目尻が自然と下がる。

教育係を命じられた当初、そのあまりに大人びた物言いに「可愛げのない生意気な子供だ」と苦々しく感じたりもしたが、それも今では懐かしく思っていた。

あの頃は、あの小さな掌がこれほどまでに重い平穏を背負うことになるとは、夢にも思っていなかったのだ。

 

「安心、か。……全く、この源蔵をこのような形で使うお方は、後にも先にも影久様、貴方だけですよ」

 

影久様。

禪院家において、某を呼び捨てにする者は、もはや当主様か、あのお方と景次様くらいのものだ。

躯の若者たちから敬われる日々の中で、影久様のその無遠慮な呼び声だけが、某を一人の男として、一人の戦友として盤上に立たせてくれる。

 

あのお方がいつ戻っても、「やっぱり家が一番だ」と肩の力を抜けるように。

某は、この躯という城を、主の帰還まで守り通さねばならない。

 

手紙を丁寧に畳み、再び懐へ仕舞い込む。

 

廊下の突き当たり、屋敷の最も高い場所にある物見台へ登り、源蔵は京の街並みを眺めた。

数年前、あのお方が旅立ったあの日と同じ、穏やかな夕焼けが空を焼いている。

 

あのお方がこの家を「帰れる場所」と呼んでくれたのだ。ならば、主が門を潜った瞬間に、その身に纏ったすべての毒と緊張が溶け落ちるような、そんな極上の安らぎを用意しておくのが、隊長である某の、そして教育係としての最後の仕事であろう。

 

「源蔵様、そろそろ夕餉の支度が整います」

 

階下から、若い隊員の弾んだ声が聞こえる。

源蔵は一つ、息を吐き出すと、かつて一級術師として戦場を支配したその影を、今は主の帰る道を照らす灯火のように穏やかに解いた。

 

「……よし。参るか」

 

老兵は、現役時代よりも軽やかな足取りで、愛すべき日常が待つ厨房へと降りていった。

 

土間に入ると、ひんやりとした冷気が源蔵の頬を撫でた。

その中心に鎮座しているのは、影久様が堺の市で手に入れ、持ち帰った異形の呪具。あのお方が「アイアンメイデン」と呼んだそれは、今は躯の者たちから『鉄の乙女』と呼ばれている。

 

「源蔵様、見てください。この今朝仕入れた魚、めちゃくちゃうまそうです、刺身でどうですかね?」

「さきほど温まった甘酒も入ってます、飲み頃ですよ。お一ついかがですか?」

 

若い隊員たちが誇らしげに報告してくる。

かつては、夏になれば食あたりや暑気あたりに怯えていたこの家が、今ではこの乙女一つでこれほどまでに潤っている。

 

某は、冷えた甘酒の椀を受け取りながら、ふっと口元を緩めた。

あのお方がもたらした「知恵」と「呪具」が、こうして確実に人々の暮らしを救い、笑顔を増やしている。

 

影久様。

貴方がいつお戻りになっても、この躯は貴方の誇れる家としてここに在り続けます。

そしてその時、某は、あの出会った頃と変わらぬ呼び声を聞けるのを、何よりも楽しみにしておるのですよ。

 

「……さて。今宵の献立は何であったかな」

 

 

 

 

 

 

 

 

◆禪院扇一郎

 

「おはよう、源蔵サン。相変わらず見事なこって」

 

「ああ、おはよう、扇一郎、なかなか堂に入ってるだろう?」

 

俺――禪院扇一郎は、廊下の向こうからやってくる、影を操り、見事な雑巾がけをこなしている源蔵サンに声をかけた。

かつて一級術師として戦場を駆けていた男が、今や日本で一番影を掃除に使いこなす術師になっている。

 

それもこれも、すべてはあの人の仕業だ。

 

初めて影久サンに出会ったのは、当時まだ十歳そこらだったあの人の「守り役」として、俺は任務に同行した。正直、内心では「神童だか何だか知らないが、ガキの子守かよ」と毒づいていたものだ。

 

だが、任務開始から刻限を待たずして、俺はその考えをゴミ箱に捨てることになった。

当時の影久サンはすでに、幼とは裏腹に熟練した立ち回りを見せていた。情報収集から立ち回りに至るまで、まるですべてが予定調和であるかのように呪霊を追い詰める。

 

「索敵完了です、すぐ終わらせましょう」

「俺が脱兎で呼び込みます、え、ああ。5匹いますね。」

「そこに立って扇一郎さん、武器だけ準備しててください、もうすぐ目標が飛び出してくるので」

 

「扇一郎でいいっすよ、影久サン。あと敬語やめてくださいよ、あんたほどの術師がその態度だと逆に気味悪い」

 

「む、じゃあ扇一郎、よろしく頼む」

 

淡々としたあの声。あの日、俺は確信した。

この人はただ強いだけの術師じゃない。

近いうちにこの禪院の仕組みを自分に都合の良いように書き換えてしまうだろう。

 

 

 

初の共同任務はほぼ行き帰りの移動時間のみで終わることとなった。

 

 

俺はそれ以来、影久サンのやってることに注目し始めた。

そしたら、どうだ。

今やこの屋敷は、あの方が作った「家事」という仕組みで完璧に回り、躯の連中は誇りを持って働き、老害たちの不満さえも「快適さ」という毒で骨抜きにされている。

 

 

俺自身、以前のような不味い飯や汚い部屋にはもう耐えられない体になっちまった。……本当に、あの人は性格が悪い。

 

「……おや、これは景次様。精が出ますねぇ」

 

廊下の角で、一人の少年――いや、もう若き君主と呼ぶべき威厳を纏った景次様と行き当たった。俺は足を止め、いつものように飄々と、だが確かな敬意を持って頭を下げる。

 

「扇一郎君か。今日も暇そうですね」

 

景次様は足を止め、瞳を俺に向けた。

 

「いやはや手厳しい。……ところで景次様、影久サンからの文が届いたんですよね、あの人は今、どのあたりをほっつき歩いてるんですか」

 

俺の問いに、景次様は視線を少しだけ窓の外――北の空へと向けた。

 

「昨晩届きましたよ。……今は奥州を抜け、蝦夷に入る準備をしているようです」

 

「蝦夷、ですか。ってことは天元様の結界の外へ?そりゃまた随分と……」

 

無茶がすぎるな。いくら影久サンといえど……。

口に出さないが僅かに畏怖が漏れてしまったみたいだ。そんな俺を見て、景次様は手元に届いた文を思い返すように少し目を細めた。

 

「ええ。僕も心配でした。が、兄上は向こうの飯美味そうな予感がするだとか……そんなことばかり書いてありましたよ。全く」

 

「はは、相変わらずですねぇ。あの人のことだきっとなんとかなっちまうんでしょうね」

 

顔が引き攣るのを感じる。呆れからつい軽口から漏れる、景次様はふっと口元を緩めた。

 

「かもしれません。文の最後には、あり得ないくらい寒いから風呂が恋しい、とも書いてありました。……やれやれ、どこまで本気なのか」

 

そう言う景次様の声は、どこか楽しげだった。だが、ふと何か面倒なことを思い出したように、その眉間がわずかに不機嫌そうに寄る。

 

「……兄上が不在なのをいいことに、五条家がまたうるさく突っかかってきているのだけが、今の僕の頭痛の種ですよ」

 

「あー……またあいつらですか。今度は何言ってきてるんです?」

 

「次代の若手の器を比べたいだの何だのと、くだらない挑発ですよ。向こうには『抱き合わせ』が生まれて余裕があるからでしょうね、こちらの様子を窺うようなちょっかいばかり。……それに釣られて、うちの長老衆がいちいちいきり立って『舐められて黙っているな』と騒ぎ立てるものだから、余計に面倒で」

 

小さくため息を吐く景次様に、俺は肩をすくめてみせる。

 

「まあまあ。影久サンが戻れば一睨みで終わる話ですけど、今は留守ですからねぇ。あいつらも禪院のジジイどもが釣れるのを楽しんでるんでしょう。景次様がまともに相手してやる必要なんてないっすよ」

 

「もちろん、適当に聞き流して書類は山積みにしていますがね」

 

少し黒い笑みを浮かべた景次様は、気を取り直したように俺を見た。

 

「そうだ、扇一郎君。そろそろあなたに次の任務が当てられるようですよ」

 

「おっとそれじゃ、しっかり活力補充しないといけませんね」

 

景次様が立ち去る背中を見送って、俺は土間へ足を向けた。

 

「おおっ寒っ」

 

震えながら温まった甘酒を取り出した、例の『鉄の乙女』から勝手に。

縁側に座り、夕暮れに染まる京の街を眺める。

 

「早く帰ってきてくれませんかね、影久サン。あんたのいないこの家は、少しばかり退屈なんですよ」

 

 

 

 

 

 

 

◆羂索

 

「たはー、まいっちゃうね」

 

一五八三年。銭ヶ岳の山嶺を渡る風を浴びながら、羂索は独りごちた。

 

彼はこの銭ヶ岳に居座る特級呪霊を、自身の将来の展望のために処理するつもりでいた。目的は、様々な術師たちと契約を交わし、数百年後の計画に向けた『呪物』へと変えることだ。中でも、鹿紫雲一という術師は、誘いに乗る可能性が最も高い「駒」だと踏んでいた。

 

五百年以上の時を生き、数多の術師を導いてきた羂索にとって、それは造作もない仕込みのはずだった。

 

羂索が現場に赴いた時、そこには既に呪霊の残滓すら残っていなかった。あろうことか、あの「禪院の神童」――禪院影久が、鹿紫雲と共にその特級を完膚なきまでに祓ってしまっていたのだ。

 

「鹿紫雲一と共闘して、特級を祓う、。……君は一体、何を考えているのかな、禪院影久」

 

羂索の唇に、薄ら寒い笑みが浮かぶ。

先日、堺へと続く街道ですれ違った際の少年を思い出す。

 

(術師は、もっと単純なものだ。血と呪いに縛られて、上へ上へと登ろうとしていく。……なのに、あれは違う。禪院影久は違う。彼は家督をあっさりと弟に預け、外へと飛び出した)

 

「十種最強の式神を手にしながら、家を飛び出し、あまつさえ死に場所を探していたはずの鹿紫雲を、気ままな放浪へと連れ出すとはね……。いやはや、私の計算なんてどこ吹く風だ」

 

羂索は、自分が数世紀かけて積み上げてきた術師を誘惑する論理の一つが、影久の前でわずかに揺らぐのを感じていた。

 

(鹿紫雲一のような「強さ」に飢えた術師を御するには、私の用意した『死後の再戦』のような道を、示すしかないと思っていた。あの少年がそういった類いを用意できるとは思えない)

 

「君が差し出したのは、一体なんだったのかな?」

 

羂索は、少年の内側から漏れ出していた異質な呪力の循環を反芻する。

 

「……あれは、何だろうね。強さを求めてないわけではない。狂ってるのかと言われるとそうでもない。でも術師としてまともでもない」

 

 

影久がもたらしているのは、単なる力の誇示ではない。術師を「闘争の道具」として定義する呪術界の理から外れた、異質な何かだった。

時代が違う。羂索がそれを理解するには、百年単位の時間が必要だった。

 

 

「でも、うーん……やっぱり彼は面白い。うん、いいよ。のんびりと見物させてもらうとしようかな」

 

(鹿紫雲一に接触する機会はいくらでもつくれるだろうし)

 

「ま、精々楽しんでおくれよ。君が京に帰る頃には、私も別の『仕込み』を終わらせておくからさ」

 

羂索の姿は、冷ややかな夜風に溶けるようにして、最初から存在しなかったかのように闇の中へと消えていった。

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