──所在、不明──
そこは、鳴羽田でも、保須市でもない。
かといって、地図にも載らない。
郊外の森の奥。
そこに忘れ去られた廃墟の洋館がある。
周囲からは突如として現れる呪われた幽霊屋敷として忌避され、地図からも消されている、忘れられた場所。
そこに──、
「────。この紅茶の香りは良いものだ……。今度、麓の喫茶店にでも足を運ぶとしよう」
女がいた。
白い女だ。
存在しているはずなのに、ティーカップを鼻に近づけ、優雅に楽しむ白い女は色彩を抜かれたかのように白い。
白い女がいるのは、先ほども言った、廃墟となった古い洋館。
だが、その内装はあまりにも外見からはかけ離れた、清浄で、白と黒がはっきり分かれた空間が広がっていた。
床は白と黒のタイルが交互にびっしりと敷き詰められ、その様相はまるでチェス盤のように無機質。隙間には、雑草が背を高く細々と漏れ生えていて、重ねられた年月を物語る。
その床を、天井のドームとなる割れたガラスから降り注ぐ陽光が、まるで教会のような神聖さを感じさせた。
「──……、ふぅ……」
その中央に、白い女は紅茶で熱を持った吐息を落とし、鎮座するティーテーブルへと丁寧な所作で置いた。
そして、膝まで届きうる真っ白く長いツインテールを揺らすと、薄紅の瞳を横へ走らせる。
「君がここに足を運ぶのは珍しいじゃないか、『坊や』。今日はどうしたんだい?」
視線の先、白い女の懐古するような言葉が歩く先に、ゆっくりと一人の男が広間の正中を歩く。
端正なスーツに身を包み、顔を闇に隠す大柄な男。一歩ごとに靴音を響かせるたびに、部屋の空気が足元へとひれ伏すような、存在感があった。
「『坊や』なんて名前で『僕』を揶揄ってくれるのは、この世のどこを探しても君くらいだろう」
黒い男は、顔を覆い尽くすマスクの中で笑みを浮かべながら、おどけるように両手をひらつかせる。
「『僕』ももう、それなりの年寄りだ。君のような『時間から取り残された者』と比べれば、些細な物だろうがね」
「あぁ、私にとってはつい昨日の出来事のようだよ。君がオールマイトとの戦いに敗れ、マスクを被るようになったあの日も、ね? うん、いつ見ても似合っているよ」
「」
白い女はティーカップを指で摘み、一口飲む。そして、その小さい口に笑みを浮かばせる。
のびのびとした態度を目の前にする黒い男は小さく息をマスクの中に吹き込んだ。
「……少し冗談が過ぎるな。君のその毒のある言葉も、君の手にする紅茶の茶葉の一部とも思えば腹も立たないが」
あえて女と対面する位置にある席に腰を下ろす男は、マスクの奥で、声を低く響かせる。
すると、女は薄紅の瞳を瞬き小首を傾げた。
「おや、私の入れた紅茶に、腹を立てさせるような安物の茶葉が、ここにあったようには思えないのだが……まぁいい。着飾ったところで、所詮は飾りだ。仮面も、権威も、肩書きも──本質は何一つ変わらない」
「ほぅ……」
男は女の物言いに納得する、ように、嘆息すると、両肘をテーブルに置いて両手を組んだ。
「……君は昔から、物事の核心だけを残して余計なものを削ぎ落とす」
「あぁ」
白い女はくすりと笑い、カップをテーブルに戻す。
男はしばし沈黙し、それから口を開いた。
「──雑談をしに、はるばるここに来たわけじゃない」
「だろうね」
即答だった。
白い女はティーカップの縁を人差し指で緩やかになぞると、流れる目つきで男を見つめる。
「君がここへ来るときは、いつだって世界が面白くなる時で、面白いと思ってる時。私の紅茶のひと時を邪魔しに来るくらいの、土産話がある時さ」
「ふっ……相変わらず、察しがいい」
「察しではないよ。坊やが『坊や』だからさ。私が『私』であるように」
白い女の瞳に黒い男は映っている。だが、その薄紅の瞳には、彼女自身何が見えているのかはわからなかった。
だが、男は女の語る論を追うようなことはしない。もとより聞いたところで無駄であることを昔から知っていたのだから。
男は組んだ両手に顔を乗せ、来訪の理由についてゆるりと入り始める。
「君がかつて『最高傑作』と呼び、そして紛失した“あの子”についてだよ。君は確か、その最高傑作を手にしようと、わざわざヴィラン血団という野良同然に名を名乗らせ、任せ、そして失敗した」
男は実に楽しげに口を走らせて、顔をもたげながら片手をひらひらと見せびらかす。
「君も珍しいじゃないか。計算高い、まるで未来を知っているような君が、何もない道で意味もなく転ぶような真似をするなんて……」
「坊や、一つ勘違いをしているよ」
白い女は、ソーサーに乗せたティーカップの縁をなぞる手を止め、足を組む。
「私は転んだわけではない。ただ、『扉を開けた』だけさ。それも、あの子自身の手で」
「ほう……? あの野良犬とも呼んでいい者たちが、ヒーローに蹴散らされ、最高傑作がヒーローの揺籠に渡ったことも、君の計算の内だと言うのかい? 随分と手の込んだ『失敗』だ」
彼の声音には、隠しきれない疑念と、微かな愉悦が混じっている。男は知っている。この女が、理屈を超えた執念でその“少女”を作り上げたことを。
「あの子……“ホワイト”は、光の中にあってこそ、その真価が実る。泥の中に埋もれていては、それはもう『器』でしかない。単なる『兵器』で終わってしまう」
白い女は足を組んだまま肘置きに腕を立てて、体を預けた。真っ白な髪が、光を吸い込んで発光しているかのように輝く。
「あの子が『人間』を学び、友を得、ありとあらゆるものを知る。……そして、唯一の核に気づいたとき、あの子は本当の意味で完成するのさ。それに、あれは手強い」
「それはそうだろうね。何せあの子は、君の娘とも言えるのだから」
「──娘、か」
男の言葉に、白い女は小さく笑った。
その笑みは慈愛に満ちているようでもあり、あるいは成功なガラス細工の瞳が反射しただけの、無機質な輝きのようにも見えた。
「そうか、そうかもしれないね。……期待しているよ、ホワイト。君がその瞳で何を捉え、何を選択するのか。けど、もしあの子がたどり着けないのなら、私はきっと消してしまう」
「子殺し、か。それは酷なことを言う。ついに君は、我が子同然の命をも選別できるほど置いてかれてしまったのかな?」
「選別? ふふ、人聞きの悪い。これは『剪定』だよ、坊や。けど、これはあくまで仮定。私は知っている。きっと──あの子がここにたどり着くことを」
白い女は、事もなげに言った。その声には一切の迷いも、あるいは憎しみすらも混じっていない。ただ、そうであるという、あまりに平坦で、それ故に寒気のするような響き。
そして、彼女はティーカップを空にし、視線を横へずらした。
そこには、
「……」「……」「……」「……」「……」「……」
鎖が壁を伝い、大きな歯車が静かに時を刻む、部屋の一角を占拠する像。
そこに、六人が各々の性格を表すように座し、会話を見下ろしていた。
「君の言っていた、失敗作か。今日は全員揃っていたようだね。…………。ドクターが見れば、さぞ喉から手が出るほどに欲しがるだろうに」
「そう悪く言わないでくれたまえ。長い期間いたからか、ここにも愛着がある。廃墟にはしたくない」
彼女が滑らかに首を振るが、その言葉には蔑称を口にされた六人への訂正の否定的な色は見られなかった。
その態度が気に食わなかったのか、巨像に腰を下ろして足をゆらゆら遊ばせていた一人の少女の歯噛みが響く。
一人は指に止まる蝶を眺める。
一人は瞳を閉じて、瞑目する。
一人はつまらなそうにあくびを漏らす。
一人はそのあくびを漏らす一人に笑みを浮かべる。
一人は自分に酔いしれる。
「……くく、相変わらず手厳しい。ドクターがこの場にいなくて正解だったよ。いればきっと、話し合いにもならなかったろうから」
男は、マスクに添えた人差し指の先を軽やかに踊らせた。その動作ひとつひとつが、静謐な広間に奇妙な圧迫感を波及させていく。
彼はそのまま、この会話を眺めることしかできない“六人”へと顔をわずかに向けた。
「しかしよくできているね。あれだけ濃密な“個”に変質していながら、精神性を保つとは」
その言葉に、歯噛みする少女の顔の強張りがなくなり、プイッとそっぽを剥かれてしまう。
その少女の反応に、肩透かしでもしたかのように男はひとつ笑みをこぼした。
「くく、嫌われてしまったかな?」
「もとより束縛は嫌いな、私の可愛い失敗作たちだ。君のような支配的な雰囲気には合わない」
「支配、か。……君は相変わらず、僕を正しく誤解してくれるね。僕はただ、みんなが欲しがるものを与え、不要なものを引き取ってあげているというのに」
「優しいと思わないかい?」と肩をわずかに揺らしながら男は後付ける。
白い女は、空になったティーカップを指先で弾いた。チィン、と高く澄んだ音が、凪いだように静寂の広間に波紋を広げる。
「それは……退屈しそうだ。私は『何を選び取るか』を見守りたい。その果てに、あの子が私と同じ地平にたどり着くのか、全く別の色に染まるのか」
女は考え深く口にして、テーブルに置かれる“空”となったティーカップに視線を落とす。
男は、その言葉を興味深げに咀嚼し、ゆっくりと椅子を引いて立ち上がった。
「まあいい。だが、君の剪定が、僕の計画の庭を荒らさないことを祈るよ。弔が、あるいはドクターが、あの子に興味を持ちすぎないうちに、ね」
「忠告、痛み入るよ。けれど、近いうちに君の計画に挟まる形になってしまうかもしれない。その時は、互いに邪魔しないように、互いに力を尽くそうじゃないか。じゃないと……」
息を落とし、白い女が立ち上がった男を頬杖で見上げると、その右眼が怪しく輝いて──、
「『食べて』しまうかもしれないからね」
瞬間、全員の視線が男へと交わり、的を射抜くように睨みつけた。
男は、小さく肩をすくめて笑うと、闇の中に溶け込むように姿を消した。
再び訪れる、静寂。
天井の割れたガラスからは、桜の花びらが一枚、ひらりと舞い込み、黒と白のタイルを汚す。
「……ホワイト。君は、いつ──」
女の声は、もはや誰にも届くことなく、
「──私を殺してくれるというんだい?」
森の奥の廃墟で、響いた。
* * *
── 四月 春 ──
空はどこまでも高く、薄紅色の桜の花びらが、新しい門出を祝うように宙を舞っている。
そこに、一人の少女が歩みを止めた。
「…………」
星野一条である。
時折吹く風によって巻き上がる桜の花びらが目にかかりかける。頬を掠めた風には、冬の終わりの尖った冷たさは、もうない。あるのは、そのまま誰かの手のひらがそっと顔を覆うような、不確かな熱を帯びた吐息に近かった。
一条は、雄英高校の巨大な校門を見上げた。
今、彼女の身に纏っているものは、あのタクティカル・ジャージではない。灰色のブレザーに、暗緑色のスカート。なんだかスースーして、居心地が悪い。
『……。これが、制服……ヒラヒラしてる』
『そうよ、いっちゃんっ! 最高に可愛いわッ!!』
これが、制服を着た時の一幕である。
ミッドナイトこと香山睡が、鼻血を出しそうになりながら着せてくれた、雄英指定の制服。鏡に映る自分の後ろで目を血走らせながら鼻息荒げていたのは、なぜだか身震いを覚えてしまった。できれば一条は、もう起こってほしくないと頷く一幕。
なぜか足を、近づかなくてもいい鏡に向かってミッドナイトから離れるように一歩進ませてしまったし。
──それより、今日からここが。
自分に、ヒーローとはなんたるかを教え、世界とはどういうところかを教えてくれる場所。
一条は小さく息を吐くと、吸い込まれるように校舎の中へと足を踏み入れた。
* * *
── 雄英高等学校 校舎内 ──
四方から見ても『H』を模した校舎に入り、上履きに履き替えた一条は廊下を歩いていた。
だが──、
──広い。
広かった。
どうやら、後々スマホで調べてわかったことが、毎年三百を超える倍率の所以は、ヒーロー科一般入試定員が三十八人だからということ。それは一条もここまで増えるものも増えるだろうと感じた。
しかしここにはヒーロー科しかないのかと言われると別にそうでもない。普通科経営科サポート科を合わせてしまえば、全校生徒の人数は三百なんて優に超える。
だからこそ、このガラス張りの校舎はこれだけ広いのだ。
──他の学校もこんな感じなのかな。
一条にとって、学校を歩くという行為自体これが初めてだ。初めては、なんだか足の一歩一歩が軽やかにしてくれて、目的地にまですぐ辿り着けそうな気さえする。
して、
「……ここ」
迷宮のような広い廊下。左右を破線で分けられた道を歩き、ついに辿り着いた。
「でかい」
この見上げないと全部が見えないドアに評さないで何と評するか。開口一番の一条の感想はそれだった。
一条が呆然と見上げる巨大なドアに、赤い縦字で『1−A』と刻まれている。
この先に、自分と同じように“ヒーロー”を目指す人たちがいる。中からはすでに、いくつかの話し声が扉越しに鼓膜を叩く。
「…………」
──入ろう。
Aの隙間のガラスから目を通すよりも先に、一条の足はドアの取手へと向かった。いつもの扉とは違う、窪みに手をかけ、
ぐい、と前へ押した。
「──。…………ん」
だが、こちらの意図を汲まないように、扉はうんともすんとも言わなかった。喋ってきても開けようとするのが一条なのだが、当の本人は首を小さく傾けて握り直す。
考え直してみればそうだ。目の前の扉は巨大。相応の重さがあるのならば、それ相応の力で開けなければならないのもまた然り。
ならばこそ一条は、少しだけ、力を込めた。
ミシッ……
何やら、不穏な音が廊下に響いた。木製のフレームが、何やら一条へ言いたげに声を上げているかのよう。
「……重い」
意に返さず、一条は瞳を少しだけ細めると、さらに肩をいれた。
足元のタイルが、一条の踏み込みによって僅かに軋みを上げ、上靴の甲高い音と共に体が離れる。
「押すのはダメなら……」
引いてみる。
両足を肩幅に、片手をドア枠に抑えると、もう片方の手で窪みを掴み──引いた。
ミシッ……! メキメキッ……!! チガウソウジャナイッ‼︎
頑固な扉にも程がある。この扉が特別建て付けが悪いのだろうか。
いや、さすが雄英。これしきの扉が開けられなければ、ヒーローとしては不確定と言わしてる、敷居のような役割。
なればこそ、一条は『開ける』という行為に全霊を持って──
「ちょッ!? 待って待って待って!!?? 壊れる! ドア死んじゃうよお!!」
「────」
背後から、鼓膜を突き破らんとばかりの絶叫が飛んできた。
一条は動きを止め、顔を上げるとゆっくりと首を後ろへと回す。そこには、
「……出久」
顔を真っ青にして今にも止めようと両手を伸ばそうとする、緑色のもじゃもじゃ頭──緑谷出久がいた。
「って、星野さん!? いや再会早々何を!? なんでそんな扉に対して暴力を!?」
「…………? この扉が」
「この扉が……?」
淡々とした一条の言葉から一体何が紡がれようとするのか、出久は手をわきわきしながら待った。
そして一瞬の間がすぎた末、一条は口を淀みなく開いた。
「開いてくれない。だから開けようとした」
「」
出久は、言葉を失ったかのように目を白く、放心した。
仕方がない。一条は本当にそう考えて、扉とついさっきまで格闘していたのだ。もし出久の静止がなかったら、訪れる未来は弾け飛んだドア枠と、巨大な板をもつ一条の呆然とした姿である。
数秒のリブートタイムを挟みし後、出久が首をブンブンと左右に奮って意識を取り戻す。
「じゃなくて、これは……えーと引き戸っ、引き戸なんだよ星野さん!」
「引き戸……」
カタカタとした身動きで諭す出久からやっと紡がれた言葉に、一条は反芻して扉に向き直る。
そして、
ミシミシミシッ‼︎ メキッ‼︎ チガウツッテンダロウガッ⁉︎
「ギャアアア!? 違う星野さん! それ引いてる!! 引いちゃってるう!! なっちゃいけない音なってるから!! 鳴ってるから! 一旦、手を離そう……!!」
「──え? …………」
イノチビロイシタゼ……
出久のまたの静止に、一条が首を傾げるとノブから手を離して再び振り返る。
疲れることなど何一つしていないのに、肩を上下させて膝に手を置く出久。そしてそれをポツンと見下ろす一条。はっきり言ってカオスだ。
「ゼェ……ゼェ……」
「…………」
「全然、大丈夫だから……。引き戸はね? ……横に開くんだ」
肩で息しながら、辿々しく一条の横を通り過ぎた出久。一条が今にも粉砕しかけていたドアの取手に手を添えると、
「……横に。──!」
ガラガラ、と。出久が軽く力を入れるだけで、あんなに頑固だったドアが、嘘のように滑らかに横へ滑るではないか。
その抵抗のなさに、一条は青い瞳をわずかに見開く。
「……合理的」
「合理的かなぁ!? あ、でもおはよう星野さん。また会えて嬉しいよ!」
苦笑いしながらも、出久はパッと明るい笑顔を取り戻して見せた。一条もまた、出久の瞳の奥にある、あの時よりもわずかながら強くなった瞳を見つめる。
「…………。……おはよう、出久。今日も、へんな髪の毛」
「ひどい!? これ地毛だからね……っ!」
そんな開口一番騒がしいやり取りをしながら、一条と出久は開かれた『1-A』の教室へと足を踏み入れた。
そこには──、
「机に足をかけるな! 雄英の先輩方や机の製作者の方々に申し訳ないと思わないか!?」
「思わねーよ!! てめーどこ中だよこの脇役が!」
教卓の前で、凄まじい剣幕で言い争う二人の姿があった。
一人は、あの試験会場で一条に『正装』とはなんたるかを解いたメガネの少年、飯田天哉。
そしてもう一人は、足を投げ出し、傲慢の塊魂のような笑みを浮かべる爆発ヘアー──爆豪勝己だ。
この二人が、一条の青い瞳に真っ先に飛び込む。そして、一条は教室の光景をスキャンするように動いた。
うん、
「賑やか……」
一条は至極真顔で小さく口にした。
隣に目を向ければ、なぜだか引き攣った笑顔で硬直する出久がいて、一条は特に触れないように顔を元の方へ回す。
すると、すでにそこには飯田がばっとこちらに振り向いたところだった。
「あ! 君はあの時の、星野一条くん! それに君は……名乗っていなかったな。俺は私立聡明中学の……」
「き、聞いてたよ! あ……っと僕は緑谷。よろしく飯田くん……!」
──聞いてなかった。
一条は出久と飯田のやりとりに聞こえない声を頭に響かせた。どうやら出久に気を取られていた時に音を右から左に受け流していたらしい。
出久と飯田。積もる話があるのか、何やら実技試験の話をしている。終始出久が冷や汗をかいているのが気がかりだったが、その話も澄んだようで、飯田が改めてこちらに顔を見合わせると、勢いよく腰を折ってきた。
「改めて、入学おめでとう! 星野くん、今日の君は実に素晴らしい『正装』だ! あのときの無礼、改めて謝罪を……!」
「いい。って言った。……おはよう、飯田」
一条の短い応じに、飯田は「寛大だな……!」と、何やら一人で感動していた。
その横を、一条はスルリとすり抜けると、
「…………」
「……あァ? テメェ、そのツラ……あのジャージのモブか」
教卓の奥で、足を組んだままこちらを睨みつける爆豪へと歩みを止めた。
爆豪の赤い瞳は、一条を上から下まで値踏みするように動く。ジャージの時とは違う、至極真っ当な制服姿の一条。左右非対称の黒髪が、朝の光を吸い込んで怪しく揺れている。
「……爆豪。足、下ろさないの?」
一条の迷いない問いかけに、談話を楽しむ出久や飯田以外の教室の空気が一瞬で凍りついた。
「んだと? ゴラァ。 テメェに指図される筋合いはねぇんだよ、殺すぞ」
ピキリ、と機嫌を見せびらかすように爆豪が手のひらで小さな爆発を弾けさせる。
だが、一条は特にぴくりとも表情筋を動かさないで、彼の足元を見つめて、一言。
「……ノート、汚くなるね」
「ならねぇわ!! テメェいい加減に……」
爆豪が椅子を蹴り飛ばさんばかりの勢いで立ち上がろうとした、
その時、
「お友達ごっこしたいなら他所へ行け」
「「「────」」」
廊下から響いてきた。あまりにもやる気のない、けれど逃れられない重圧を孕んだ声が、思いの外下の方から。
一条が声のした方へと振り返ると、そこにはいつの間にか出久と話していたであろう麗日と、黄色い寝袋に包まり、春虫の幼虫のように横たわる、
「……相澤」
が、いた。
一条の呟きに、クラス全員の視線がそこへと集中する。
総勢の注目の的になりながらも、寝袋のジッパーがゆっくりと下ろされ、中から現れたのは、やはり草臥れたという言葉が似合いすぎる男──相澤消太だった。
「ここはヒーロー科だぞ。……よし、静かになるまで五秒かかった。時間は有限、君たち合理性に欠くね」
よろよろと、相澤は立ち上がると、鋭い眼光で教室の辺りを見渡して、一条に止まる。
すると、わずかに彼の口角が動いた気がした。
「……星野。引き戸の枠が歪んだのは、お前か」
「……。…………横に開くって、知らなかった。ごめんなさい、相澤」
一条が何を思ってしたかを包み隠さず白状すると、教室のあちこちから戦慄の混じった白い視線が浴びせられた。不本意。
「これから生徒と先生の立場になる都合上、呼び捨ては厳禁だ」
「……相澤、………………………せんせー」
「……まあいい。俺は担任の相澤消太だ。よろしく」
相変わらず自分のペースを乱さない相澤は、教室にいる生徒たちが続々と壇上に登場してくる話題の数々で翻弄されるのを無視。
すると、目の前で相澤が先ほどまで入っていた寝袋に手を入れて、
「早速だが、
また一つ、相澤は生徒を置いてきぼりにした。