朝のホームルームにしては、空気が妙だった。
いつもなら、須藤がだらしなく椅子に座っていたり、池が軽口を叩いたり、
軽井沢たちの小さな笑い声が教室のどこかに転がっている。
二年生になってなお、このクラスには完全な静寂より、
わずかな緩みの方が似合っていた。
だが、その日だけは違った。
茶柱先生が教室へ入ってきた瞬間から、
教室の温度が一段階下がったように感じられたからだ。
無言。
いつものように出席簿を抱えているのではない。
先生の両腕には、黒い表紙の薄いノートが一冊、
ひどく場違いなほど整然と置かれていた。艶のない黒。飾り気のない表紙。
遠目には、ただの大学ノートにしか見えない。
それなのに、なぜか教室の誰もが、
それを「ただのノート」として受け取れなかった。
異様に見えたのは、物そのものより、先生の持ち方だったのかもしれない。
まるで危険物でも扱うかのように、
余計な動きをいっさい交えず、慎重に教卓へ置いた。
「本日のホームルームは、学校側からの通達を伝える」
茶柱先生の声は、いつもより硬かった。
その短い一文だけで、教室のざわつきがゆっくりと吸い込まれていく。
机の上に置かれたノートに、全員の視線が集まっていた。
池でさえ、珍しく口を閉じている。
「これから各クラスに、一冊ずつ特別なノートが配布される」
そこで先生は一度言葉を切った。
まるで、生徒たちが自分の耳を疑う時間を、あえて与えるように。
「そのノートに、人の本名を書いた場合。書かれた人物は死ぬ」
一拍。
誰も何も言えなかった。
言葉の意味が理解できなかったのではない。
理解してしまったからこそ、反応が遅れた。
そんなものがあるはずがない。
冗談だ、悪趣味な試験説明だ、何かの比喩だ――
そう思考が逃げ道を探しているうちに、先生の表情が、
それらの可能性をひとつずつ潰していった。
「なお、本名とは学園に登録されている真名を指す。
現在、おまえたちが学園生活で使用している氏名は、
全て対外的、対内的に用意された通称だ。
戸籍上、あるいは出生時から使用している本来の名とは異なる」
教室が小さく揺れた。
「は?」
最初に声を漏らしたのは須藤だった。
「ちょ、待てよ先生。それ、どういう意味だよ。
俺たちの名前が偽名って、そんな馬鹿な――」
「そのままの意味だ」
切り捨てるような声音だった。
「おまえたちは入学時より、学園内において別名義で管理されている。
詳細な理由は学校機密だ。
ただし今回の試験においては、それが前提条件となる」
言っていることは滅茶苦茶だった。
だが、この学校が「滅茶苦茶」を本当に制度として運用してきたことを、
オレたちはもう知っている。無人島試験も、ペーパーシャッフルも、
満場一致特別試験も、この学校は常識で計れない。
だからこそ、誰も即座に笑い飛ばせなかった。
池が気味悪そうに肩をすくめた。
「いやいやいや、無理だろそんなの。名前書いたら死ぬって、漫画かよ……」
その軽さは、池らしい反応だった。
だがその声も、乾いていた。
完全に笑い話として処理できていない。
冗談として口にしながら、
自分でその音の薄さに気づいているような声だった。
「ノートの効力は実証済みだ」
その一言が、教室全体をさらに重くした。
誰かが息を呑む。
「実証、って……」
松下の呟きは、半ば震えていた。
「既に他学年、あるいは学外の協力下で検証は終わっている。
疑うなら疑えばいい。だが、学校側は
このノートを正式な試験ツールとして配布する」
茶柱先生は、そこで初めてノートに視線を落とした。
「今回の特別試験の要点は単純だ。各クラスに一冊。
管理権限は担任教師を経由してクラスへ移譲される。使用法は自由。
ただし、使用した痕跡、相談、保管方法、方針決定――
それら全てがクラスの責任に帰属する」
「ちょっと待ってください」
堀北が手を上げた。声は平静だったが、目だけが鋭かった。
「つまりこれは、クラス単位で殺人の選択権を渡されるということですか」
「端的に言えばそうなる」
あまりにもあっさりと肯定されたことで、かえって教室の空気が凍る。
言葉を選ばないなら、これはそういうことだった。
ただの試験ではない。
点数を争うのでも、脱落者を競うのでもない。
誰かの死が、そのまま戦略になりうる。
「ふざけるな!」
須藤が立ち上がった。
「そんなもん受け入れられるわけねえだろ!
学校が生徒を殺し合わせるってのかよ!」
「座れ、須藤」
「でもよ!」
「座れ」
二度目は静かだったが、逆らわせない圧があった。
須藤は舌打ちし、机を軽く蹴って座り直す。
教室の中に、不満と恐怖と理解不能が、ぐちゃぐちゃに混ざっていた。
その間、オレはずっと教卓のノートを見ていた。
黒い表紙。
それだけだ。
なのに、妙に存在感がある。
呪いの品のような禍々しさではない。もっと現実的で、事務的な不気味さだった。
人間が作った制度に、人間が作った悪意を載せたときの、不自然なまでの整然さ。
そこにオカルトじみた匂いはなく、むしろ学校らしい冷たさがあった。
「質問を続けます」
堀北が言う。
「本名を知る方法は?」
「それも試験の一部だ」
「教師は知っているんですか」
「答えられない」
「本名を書き間違えた場合は?」
「無効」
「部分的な記載、あるいは推測による誤記は?」
「無効」
「顔を知っている必要は?」
「ある」
堀北は短く息を吐いた。
「……随分と親切ですね」
「必要最低限の情報だ」
必要最低限。
確かにそうかもしれない。
だが逆に言えば、そのわずかな情報だけで、この試験は既に成立してしまっている。
本名が必要。
顔も必要。
間違えれば無効。
正しければ死ぬ。
単純極まりない。単純だからこそ、恐ろしい。
「なお」
茶柱先生が続ける。
「ノートの所持、閲覧、使用方針については、この後クラス内で話し合え。
学校は介入しない。ポイントの加減算、試験期間、
勝敗条件の詳細は後ほど学園端末へ配信される」
「介入しないって……」
軽井沢が小さく呟いた。
「もし誰かが使ったら、どうするの……」
その声には、教室の多くが抱いた本音が混ざっていた。
もし使ったら。
もし誰かの本名が分かったら。
もし書いたら。
そのもしが、もう教室の隅々まで行き渡っていた。
茶柱先生は、最後にひとつだけ言った。
「忠告しておく。今回最も危険なのは、ノートそのものではない」
教室が静まる。
「本名を知ろうとする行為、そのものだ」
それだけ言って、先生は沈黙した。
重い沈黙だった。
教卓の黒いノートは、置かれた瞬間よりもずっと大きく見えた。
まるであれがノートではなく、
この教室の中心に置かれた爆弾か何かであるかのように。
◯
ホームルーム後の教室は、逆に騒がしかった。
いや、騒がしいというより、
誰もが不安を打ち消すために喋っている、と言った方が正しい。
「絶対使うべきじゃないでしょ、こんなの」
「でも他クラスが使ったら終わりじゃん」
「いや本名分かんないんだから、使いようないって」
「そこが問題なんでしょ……」
断片的な会話が飛び交う。
賛成も反対も、まだ形を成していない。
ただ、自分の恐怖に言葉を与えようとしているだけだった。
堀北は早々に前へ出て、クラスの方針をまとめようとしていた。
まずはノートを封印するべきだ、少なくとも即時使用はありえない、
情報収集の方針は統制する必要がある――妥当な判断だ。
だが、妥当であることと、全員が従うことは別だ。
特にこういう局面では、恐怖は理性を簡単に追い抜く。
「なあ綾小路」
池が、いつもの調子を装ってオレの席の横に来た。
「これさ、マジでどう思う?さすがに学校の悪ノリだよな?」
「そう思いたいなら、そう思っておけばいい」
「いや、おまえ冷たっ」
笑ってみせる池だったが、目が笑っていない。
汗をかいているわけではない。手が震えているわけでもない。
ただ、落ち着きのない視線だけが、彼の動揺を正直に物語っていた。
「おまえ、気になんねえの?本名とか」
「ならないわけじゃない」
「だよなあ……」
池は椅子を引いて勝手に座り込んだ。
「つーか、嫌すぎるだろ。
自分の名前すら本物じゃありませんって。何それって感じだし」
「今さらだ」
「今さらって何だよ」
「この学校が、生徒をそのまま扱うと思うか?」
池は口をつぐんだ。
言い返せない、というより、うっすら同意してしまった顔だった。
二年生にもなれば、この学校の異常性を否定しきれない。
「でもさ、普通、名前って自分で知ってるもんじゃん?」
「そこが妙だな」
「だろ?」
そこだった。
今回の試験で一番引っかかるのは、本名が秘匿されていること自体ではない。
そこまで徹底している学校なら、まあありえなくもない。
問題は、生徒本人も本名を使っていない可能性が高いことだ。
自分の名前を知らない人間など、本来ありえない。
だが、この学校なら、入学時に何らかの手続きを経て、
徹底した別名管理をしていても不思議ではない。
異常だが、不可能ではない。
「おまえ、自分の本名、知ってるか?」
軽く訊くと、池はむっとした。
「知らねえよ。……たぶん」
「たぶん?」
「いや、さすがに池寛治って名前は本物だけど……
学校で管理されてる別名義なんていま初めて知ったし」
池は普段、軽薄に見える。だが、こういうとき妙に勘が働く。
恐怖に対して鈍感なのではなく、むしろ敏感だからこそ、
ふざけた態度でごまかす癖がある。
その池が、今日は明らかに落ち着かない。
理由は単純だろう。
誰でも怖い。
しかも、自分では守りようのない本名が死のトリガーになっているのだから。
「おい、寛治」
須藤が後ろから声をかけてきた。
「おまえさっきからビビりすぎじゃね?」
「うるせえよ!普通ビビるだろ!」
「ま、そりゃそうだけどよ」
須藤も強がっているだけで、本心では不快さを隠せていない。
その様子を見て、
池は少しだけいつもの調子を取り戻したのか、わざとらしく胸を張った。
「つーか俺みたいな一般市民狙っても仕方ないしな。
こういうのは堀北とか龍園とか坂柳とか、ヤバい奴らが狙われるんじゃね?」
「その一般市民が最初に死ぬのが、こういう話だろ」
須藤が言うと、池は嫌そうな顔をした。
「やめろよ縁起でもないな!」
笑い声が少しだけ起きる。
だが、それも長くは続かなかった。
◯
最初の異変は、その日の午後に起きた。
授業と授業の合間、教室の空気はまだ不安定だった。
誰もが平静を装っているが、目に見えないところで神経をすり減らしている。
どのクラスもおそらく同じだろう。表面上は普段通りを維持しながら、
水面下ではノートの管理、方針、警戒、探り合いが始まっている。
そんな中で、池は比較的いつも通りに戻っていた。
あるいは、戻ろうとしていた。
「なあ、これ逆にさ、名前バレしなきゃ無敵ってことだよな」
「だからそう簡単に言うなって」
「いやでも事実だろ?だったら俺、今日からマジで何も喋らねえわ」
「池くんは元から中身のあることあんま喋ってないでしょ」
松下の冷静な返しに、池が「ひどっ」と抗議する。
そういう、他愛のないやり取りだった。
教室の中にまだ残っている日常の破片。
たぶん誰もが、そういうものにすがっていた。
平和だった空気の名残を、少しでもつなぎ止めようとしていた。
だから、その瞬間はあまりに唐突だった。
池が言葉を止めた。
一拍遅れて、顔色が変わる。
「……え?」
小さな声だった。
次の瞬間、池は自分の胸元を押さえた。
「お、おい?」
須藤が眉をひそめる。
池は何かを言おうとして、言葉にならなかった。
呼吸が急に浅くなり、視線が定まらなくなる。
ふざけている様子ではない。教室の空気が一瞬で張りつめた。
「池くん?」
近くにいた佐藤が立ち上がる。
池は椅子から半分立ち上がりかけ、そのまま机に手をついた。
乱暴にではなく、力が入らなくなって、支えるものを探したような動きだった。
「な、んだ……これ……」
かすれた声。
苦しそうだった。だが、派手な発作でも、暴れるような異常でもない。
ただ、生きている人間から、
急速に生気だけが抜けていくような不自然さがあった。
「先生呼んで!」
誰かが叫ぶ。
教室が一気に動いた。
椅子が鳴り、机が揺れ、複数の足音が重なる。
軽井沢が悲鳴を呑み込み、須藤が池の肩を支えようとする。
そのとき、オレは池の顔を見ていた。
恐怖だった。
痛みより先に、理解できないものに触れた人間の顔だった。
自分の身に起きていることの意味が分からず、
それでも本能だけがこれはまずいと告げている、そんな顔だった。
「か、寛治……!」
須藤の声が震える。
池は何か言い残そうとしたらしい。
しかし、唇がわずかに動いただけで、音にはならなかった。
そして、そのまま。
糸が切れたように崩れた。
教室が凍りつく。
誰も、すぐには動けなかった。
目の前で人が倒れたのに、現実感が追いつかない。
数秒前まで喋っていた相手が、ありえないほどあっけなく沈黙した。
その落差が、脳の理解を拒ませる。
次に動いたのは堀北だった。
「離れて!空気を確保して!」
鋭い指示が飛ぶ。
「須藤くん、先生を!平田くん、保健室と職員室へ連絡!慌てないで!」
それでようやく教室が再起動する。
混乱はしているが、完全な崩壊まではいかない。
堀北の声が、薄氷の上の秩序を辛うじてつなぎ止めていた。
だが、そんなものは表面だけだ。
全員、頭の中では同じ言葉を思い浮かべていたはずだ。
――本名を書かれた。
その可能性が、嫌でも浮かぶ。
偶然の体調不良には見えなかった。あまりにも、タイミングが悪すぎる。
よりによって、デスノートが配られたその日の午後に。
しかも、何の前触れもなく。
数分後、教師たちが駆けつけ、池は運ばれていった。
しかし、その時点で、もう多くの生徒が悟っていた。
手遅れだと。
◯
放課後になっても、クラスは解散にならなかった。
誰も落ち着いて帰宅などできる空気ではない。
茶柱先生が戻ってきたとき、教室の全員がその一挙手一投足を見ていた。
そして先生は、感情を抑えた顔で告げた。
「池寛治は死亡した」
重かった。
あまりにも重い、たった一文だった。
教室のどこかで、小さく息を呑む音がした。
軽井沢が顔を伏せる。佐藤は唇を噛んでいる。
須藤は机を睨みつけ、拳を震わせていた。
池という人間は、突出して重要な存在ではなかったかもしれない。
だが、同じ教室で毎日顔を合わせ、軽口を叩き、
時に騒がしく、時に鬱陶しく、それでも確かにそこにいたクラスメイトだった。
その存在が、たった半日で消えた。
しかも原因が、あのノートかもしれない。
「死因は急性心不全として処理された」
先生の声が続く。
「現時点で学校側は、外部への公表において本試験との関連を認めていない」
「ふざけんなよ……!」
須藤が立ち上がった。
「もうそれ、認めてるようなもんだろ!
今日ノート配って、その日に寛治が死んで、関係ありませんで済むかよ!」
「感情論で叫ぶな、須藤」
「感情論じゃねえだろ!」
その怒声は、須藤だけのものではなかった。
教室全体が抱いた反発の代弁でもあった。
だが茶柱先生は揺るがない。
「私は事実のみを伝える。追加情報がある」
静まり返る教室で、先生は一枚の紙を机に置いた。
「学園の登録情報の一部が、何者かに不正閲覧された痕跡が見つかった」
空気が変わる。
「閲覧された項目は、池寛治に紐づく真名データ」
心臓の鼓動が、わずかに重くなる。
「登録されていた本名は――阿辺太樹」
教室の全員が、その名前を頭の中で反芻した。
阿辺太樹。
今まで一度も聞いたことのない名前。
なのに、それが池の本名なのだと告げられた瞬間、
不思議なほど現実味を帯びた。見慣れた「池寛治」という名前の外側に、
もうひとつの正体が最初から貼り付いていたかのように。
「つまり誰かが池くんの本名を知って、書いたってことですか……?」
平田が静かに訊く。
「可能性は高い」
「誰がですか」
「分からない」
「他クラス?」
「断定はできない」
教室に沈黙が落ちる。
誰もが考える。
どうやって?
どうして池が?
なぜ最初に?
もっと警戒すべき人間はいくらでもいたはずだ。
堀北、平田、龍園、坂柳、一之瀬、あるいはオレ。
クラス戦略の中心にいるような者たちを差し置いて、なぜ池寛治だったのか。
そこに意味があるのか。
それとも、単に狙いやすかったのか。
「本名データの閲覧時刻は、昼休み直前。実行者はまだ不明だ」
茶柱先生が言う。
「学校側は調査を行う。だが、試験は継続される」
誰かが笑ったような気がした。
実際には笑いではなく、呆れと怒りが混ざった息だったかもしれない。
人が死んだのに、試験は続く。
この学校なら、そう言うだろうとは思っていた。
だが、実際に宣告されると、やはり胸の奥に冷たいものが沈む。
◯
解散後、堀北に呼び止められた。
「綾小路くん。少し話せる?」
人気のなくなった廊下は、妙に静かだった。
窓の外はすでに夕方に傾いている。
いつもと同じ校舎、同じ風景のはずなのに、
世界の見え方だけが変わってしまっていた。
「あなた、何か考えているでしょう」
堀北は単刀直入だった。
「池くんのこと」
「みんな考えている」
「あなたはみんなではないわ」
相変わらずだ。
「池くんが最初に狙われたことに、違和感がある」
「あるな」
「やはりそう」
堀北は壁に軽く背を預けた。
「単なる無差別ではない気がするの。
もちろん、実行者がたまたま最初に辿り着けたのが池くんだった、
という可能性もある。でも……あまりに出来すぎている」
「どういう意味だ」
「池くんは、警戒心が強いタイプではない。情報管理も甘い。軽口も多い。
つまり、何かの糸口を掴むには都合がよかった可能性がある」
「本名を知る手掛かりが、池にはあった?」
「そう考えた方が自然よ」
同意だった。
ただ無作為に学園データへ不正アクセスできるなら、
もっと優先順位の高い標的を狙うはずだ。なのに池が最初だった。
なら、実行者は最初から池を狙っていたか、
池に辿り着きやすい材料を持っていたか、そのどちらかだ。
「心当たりは?」
堀北の問いに、オレは少し考えた。
「本人の不用意な発言。過去の個人情報。
持ち物。あるいは学園システムに近づける何か」
「広いわね」
「絞るには材料が足りない」
堀北は頷いた。
「でも、動くつもりでしょう」
「たぶんな」
「私も調べるわ。ただし独断で危険なことはしないで」
「お互い様だ」
堀北は一瞬だけ目を細めた。
池の死を悲しんでいないわけではない。
だが、感情より先に構造を見ている。問題の本質を掴もうとしている。
その冷静さは、この学校では強みだ。
同時に、危うさでもある。
「綾小路くん」
「なんだ」
「これはもう、ただの試験じゃない」
「ああ」
「本名を探る者と、本名を隠す者。その両方が、これから敵になる」
正しい見方だった。
もうクラス対抗という枠だけでは済まない。
本名を知ろうとする者。
本名を守ろうとする者。
誰かの死を利用しようとする者。
恐怖から先に動く者。
混乱を利用して利益を得ようとする者。
敵はひとつではない。
◯
夜、部屋に戻ってから、オレはひとりで今日の流れを整理していた。
ノート配布。
教師説明。
昼前後に池の本名データが不正閲覧。
午後、池が死亡。
本名は阿辺太樹。
順序だけ見れば単純だ。
だが、肝心なのは「どうやって池に辿り着いたか」だ。
ノートを得たからといって、すぐ使えるものではない。
本名が必要だからだ。
そして本名は、学園側が秘匿している。
なら、実行者は本名を知るために何をした?
学園データへ不正アクセスした。
それは結果であって、始点ではない。
いきなり全生徒分の真名データに到達できるなら、
池を最初に選ぶ理由が薄い。
ということは、最初から池に紐づく何かを掴んでいた可能性が高い。
池に関する特徴。
軽率。
情報が漏れやすい。
人付き合いが雑。
だが、それだけで本名に繋がるとは思えない。
もっと具体的な糸口が必要だ。
記憶を辿る。
ホームルーム前後、昼休み、授業間、池の言動。
誰と話していた。
何を見せていた。
何を落とした。
どこへ行った。
そこで、ひとつ引っかかるものがあった。
昼休み直前。
池は携帯――いや、学園端末を見ながら、
誰かに文句を言っていたはずだ。
内容までは聞いていない。
だが、たしか「昔のデータがどうの」とか、
「何でこれ残ってんだよ」とか、そんな類の言葉だった気がする。
曖昧だ。曖昧だが、今の段階で無視はできない。
さらに思い出す。
池は普段、物を雑に扱う。
プリントも、端末も、私物も。
そのせいで情報を覗かれやすい人間だ。
もし過去の写真、メッセージ、
あるいは家族絡みの断片が端末に残っていたなら。
そこから本名の候補を掴み、
学園データへのピンポイントアクセスを試みることは不可能ではない。
もうひとつ。
池が最初の犠牲者として都合がよかった理由は、
単に狙いやすさだけではないかもしれない。
池の死は、クラスに強い衝撃を与える。
だが、堀北や平田ほど統率に直結する人物でもない。
つまり、組織を即死させるほどではなく、しかし恐怖を全体に広げるには十分。
試し撃ち。
見せしめ。
あるいは、性能確認。
そんな嫌な言葉が浮かぶ。
もしそうなら、実行者はかなり冷静だ。
感情的にノートを使ったのではなく、
盤面を動かすために最初の一人を選んでいる。
オレは立ち上がり、窓の外を見た。
夜の校舎は静かだった。
どこかの部屋で、他のクラスも同じように話し合っているのかもしれない。
坂柳が微笑みながら情報を整理しているかもしれないし、
龍園が苛立ち混じりに部下へ命令を飛ばしているかもしれない。
一之瀬は、誰もノートに触れさせまいとしているだろうか。
それぞれのクラスに一冊ずつ。
その時点で、この試験は単純な犯人探しでは終わらない。
複数のノート。
複数の思惑。
複数の最初の一手。
池の死は、その開幕にすぎない。
そしてオレがまず確かめるべきことは、感情でも正義でもない。
阿辺太樹という名前に、誰がどうやって辿り着いたのか。
そこだ。
そこに、この試験の最初の答えがある。
翌日から、オレは池の周辺を洗うことにした。
彼が最後に見ていた端末。
昼休み前に接触した人物。
最近口にしていた昔話。
誰に何を見せたか。
どこで不用意に情報を落としたか。
池寛治は死んだ。
だが、阿辺太樹という本名が露見した経路までは、まだ死んでいない。
そこを辿れば、実行者に届くかもしれない。
あるいはもっと厄介なもの――
この学校が仕組んだ、本名暴きの導線そのものに。
静かな夜だった。
だがもう、この学園の日常は完全に形を変えた。
昨日までなら、名前はただ呼び合うためのものだった。
今日からは違う。
名前は武器になる。
名前は弱点になる。
名前を知ることは、相手の生死に手をかけることになる。
そして最初にその代償を払ったのが、池だった。
池寛治。
いや――阿辺太樹。
その死を境に、教室の空気はもう二度と元には戻らない。
誰もが誰かの名を疑い、誰もが自分の名を恐れる。
その中で、オレは考える。
最初に本名へ辿り着いたのは誰か。
それは本当に、生徒なのか。
池は偶然選ばれたのか。
それとも、最初から選ばれるべき一人だったのか。
答えはまだ見えない。
だが、見えないままで終わらせるつもりもなかった。
この試験は、もう始まっている。
そして池の死は、単なる犠牲ではない。
盤上に落ちた、最初の一石だ。
ならば、その石をどこから打ち込んだのか。
それを見抜くところから始めるしかない。
綾小路清隆としてではなく、
名前という見えない急所を持たされた、一人の駒として。
誰かが本名を暴き、
誰かがそれを書き、
誰かが死んだ。
次は、誰だ。
その問いだけが、夜の静けさの中で、いつまでも消えずに残っていた。
モチベ維持のために感想・評価をもらえると助かります。